「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

死者からのプレゼント …… 「生死命(いのち)の処方箋」 (44)

2010年11月14日 19時27分24秒 | 「生死命(いのち)の処方箋」
 
(前の記事からの続き)

○ 東央大病院・ 外景
  

○ 同・ 透析室

  透析中の多佳子。

  淳一が付いている。

多佳子 「…… また、 透析に戻っちゃった …

 …」

淳一 「苦しい思いをしたのに ……」

多佳子 「ううん …… 短い間だったけど、 移植

 してもらってよかった ……。 生きてるのが

 楽しかった ……」

淳一 「…… (頷いている)」

多佳子 「…… また …… 植えてほしい ……」

淳一 「え?  あんな、 死にたいなんて言って

 たのに ……」

多佳子 「でも、 もう膵臓 とっちゃったんだか

 ら、 あとは生きること 考えるっきゃない …

 …」

淳一 「た、 逞しいなあ ……」

多佳子 「ねえ、 ジュンくんも 一緒に受けよ

 う」

淳一 「え ……」

多佳子 「ジュンくん、 あたしに死なないでって 

 言ったじゃない?  あたしだって ジュン

 くんに死んでほしくない」

淳一 「 ……… 」

多佳子 「人のもの もらうのがいけないの?

 ジュンくんだって 輸血してるじゃない?

 移植もおんなじでしょ。 大切なプレゼント

 よ」

淳一 「ただし、 “死者” からのね ……」

多佳子 「じゃあ、 例えばさァ、 形見をもらう

 っていけないこと ?」

淳一 「誰かが死ぬのを 待ってるなんて……」

多佳子 「人が死ぬのなんか 待ってないよ、 

 臓器を待ってるんだよ」

淳一 「同じことじゃないか」

多佳子 「全然違う !」

淳一 「オレは人の代わりに 自分が生きたいと

 は思わない」

多佳子 「あたし、 ジュンくんがそんなふうに

 言うの、 かっこいいって思わない !  ボロ

 ボロになっても 生きようとするほうが 偉い

 と思う!」

淳一 「 ……… 」

多佳子 「ジュンくん、 逃げてるだけなんだ !

 恐いんだよ。 体の中に 人のものが入ってく

 るのが 嫌なんでしょ !?  ジュンくんなんて

 臆病なんだ!」

淳一 「タカちゃん ……」

  多佳子、 透析の針が付いていない方の手

  で 淳一の首にしがみつく。

多佳子 「お願いだからァ !  一緒に生きよう

 …… !!」

淳一 「!! ……」

多佳子 「(涙を滲ませる) ジュンくん …… 

 !」

淳一 「 ……… 」

(次の記事に続く)
 
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「生死命(いのち)の処方箋」  これまでのあらすじ

2010年11月13日 21時51分51秒 | 「生死命(いのち)の処方箋」
 
(http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/61213313.html  からの続き)

 佐伯美和子 (28才・ 東央大学病院 消化器内科医)は、

 弟の淳一 (18才・ クリグラー=ナジャール症候群) を 救うために医者になった。

 淳一は現在、 光線療法や血液交換の 治療を受けているが、

 いつ 意識障害を起こして亡くなるか 分からない状況である。

 助かるには 脳死者からの肝臓移植が必要だが、 淳一は死を受容している。

 美和子の恋人・ 世良康彦 (33才・ ジャーナリスト) は、

 脳死移植を啓発するため 美和子に付いて 取材を始める。


 東央大病院に運び込まれた患者が 脳死に陥ったが、 淳一は臓器提供を望まない。

 望みを捨てない美和子だが、 患者の肝機能が落ちてきて、 移植はできなくなる。

 一方、 糖尿病性腎症の患者・ 平島多佳子 (17才) に、

 膵腎同時移植が行なわれることになる。

 消化器外科医・ 緒方の 見事な執刀で、 多佳子の手術は成功する。

 手術をきっかけに、 淳一と多佳子は 互いに好意を抱いていく。

 移植によって症状が改善し 喜ぶ多佳子だが、

 その陰には、 臓器を提供した 患者遺族の悲劇があった。


 淳一がついに 意識障害を起こし、 緊急処置が施される。

 多佳子も 拒絶反応を起こして、 膵臓を取り出さなければならなくなってしまう。

 せっかくもらった膵臓を 大切に抱えたまま死にたい という多佳子。

 淳一は 多佳子に生きてほしいと 涙で訴え、 摘出手術は行なわれる。

 決して一筋縄ではいかない 脳死・移植の難しさ、 世良はそれが分かってくる。

 美和子は移植推進のために、 マイナス面は あまり報道しないでほしいと 世良に依願するが、

 世良はジャーナリストとして 真実の裏も表も伝えるのが 使命だと考える。

 二人の間に 溝が生じ始める。

(次の記事に続く)
 
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ひきこもりの家族支援

2010年11月12日 20時05分27秒 | ボーダーに関して
 
 先日の「BPD家族の会」では、

 「心理臨床としての家族援助」 下坂幸三 (金剛出版) の中の

 「ひきこもりの家族支援」 も紹介されました。

 -------------------------------------

 ひきこもり治療の 道のりは長い。

 それゆえ、 本人を 「信じつつ待つ」 という 基本姿勢が重要になる。

 治療において  「待つ」 ことは 能動的かつ積極的な行為であり、

 それは 慎重に練られた戦略と 強靱な意志を必要とする。

 多くの親は  「待つ」 ことを 「放任」 と取り違える。

 放置しておいても  「自然治癒」 は期待できない。

 まず  「干渉せずに見守る」、

 次に 本人にとって ストレスの少ない環境を 作ることである。

 プレッシャーを高めていく  「北風」 のような対応は、

 本人をかたくなにし、 引きこもりの殻を厚くする。

 むしろ 「太陽」 のように、 共感によって 本人と周囲の温度差を小さくし、

 殻を溶かしてしまうことだ。

 このとき しばしば 「愛情」 が障害になる。

 愛情ゆえに抱え込み、 叱咤激励するが、 愛情は共感を妨げる。

 心がけるべきは、 当たり前の 「親切」 である。

 素朴な親切は、 愛ほど押しつけがましくなく、 見返りを期待せず、

 愛よりも穏やかで 副作用が少なく、 所有欲につながりにくい。

 親切は、 害をなさないこと、 孤立させないこと、 相手に執着しすぎないこと、

 相手の出方によっては いつでもやめられることである。

 要するに、 一定の 「距離感」 が必要なのだ。

 本人への共感に基づいた、 親切な対応を基本とすべきだ。

 即効性を期待すべきでない。

 何ヶ月、 何年か後に 実を実らせる覚悟で、

 今は丁寧に  「種まき」 に徹する姿勢。

 しつこさは禁物だが、 まめさ、 粘り強さは欠かせない。

〔 「心理臨床としての家族援助」 下坂幸三 (金剛出版) より 〕
 
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「生まれ」 と 「育ち」 の相互関係

2010年11月11日 20時02分08秒 | ボーダーに関して

 精神療法は伝統的に

 「生まれ」 よりも 「育ち」 の問題を 重視する傾向があった。

 境界性パーソナリティ障害も、

 早期の母子関係の 分離不安や共感不全に 関したことが、

 原因として重視されていた 時期があった。

 しかし 現在は、 患者の生得的な脆弱性と、

 早期の対人関係 (両親との関わり方) にも 共感不全などの問題があり、

 それらが組み合わさって 病像を形成していると 考えられている。

 「生まれ」 と 「育ち」 を 完全に切り離して 議論することはしない。

 これらは相互に関係している。

 「生まれ」 によって方向づけられた 一定の性格傾向や行動パターンは、

 「育ち」 による経験の中で 刺激を受けて初めて現れる。

 同様に、 その人がどのように  「育ち」 の経験をしていくかは、

 「生まれ」 による 遺伝的な気質や行動パターンに 影響されるものでもある。

 例えば うつ病では、

 ストレスを受けたときに 心が折れやすいという 脆弱性だけでなく、

 そもそも ストレス的な経験をしやすい 行動パターンを 性格的に生まれ持っている。

 遺伝的要因で方向づけられる 行動パターンによって、

 本人が身を置く環境が 方向づけられるために、 環境要因に影響を与えてくる。

 もし 生まれつき折れやすい心を 持っていたとしても、

 嫌な体験をする 環境要因がなければ、

 遺伝的な脆弱性は 発現することは少ないのだから、

 環境要因は遺伝的要因に 影響を与えているとも言える。

 このような意味で、 遺伝的要因と環境要因は 切り離せないものである。

 境界性パーソナリティ障害においても、 同様のことが言えると 類推できる。

 境界性パーソナリティ障害になりやすい人は、

 早期親子関係でも、 その後の対人関係の環境でも、

 遺伝的に方向づけられた 情緒の反応性や 行動パターンによって、

 両親から不適切な養育行動を 引き起こしがちだったり、

 不都合なできごとに 出会いやすかったりするのである。

〔 「境界性パーソナリティ障害」 みすず書房 (小羽俊士) より 〕

関連記事: http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/57801589.html
 
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境界性パーソナリティ障害の 生物学的側面 (2)

2010年11月10日 18時27分10秒 | ボーダーに関して
 
(前の記事からの続き)

 普段は冷静に 現実検討もしっかりした 思考ができるのに、

 情緒的に負荷がかかると 一気に現実検討が低下し、

 「妄想的」 とも呼べる 混乱しやすい状態になってしまう。

 扁桃核など 辺縁系の活動が 過剰な状態になり、

 前頭前野が圧倒されて 機能低下を起こしてしまう 傾向がある。

 まさに  「感情が理性を 圧倒してしまう状態」 に 陥りやすいのだ。

 境界性パーソナリティ障害の患者は、

 自傷行為に伴う 不安や痛みなどの 不快反応を感じにくいことが 知られている。

 脳機能のレベルでも、 痛みに対する 体性感覚野の反応が 低いことに加えて、

 扁桃格の反応が 抑制されることが示されている。

 自傷行為をすると  「痛み」 に不快反応を起こすが、

 扁桃核の反応は抑制され、 そのため 自傷行為による 「痛み」 だけでなく、

 慢性的な心の 「痛み」 も 一時的に抑制されることになるのだろう。

 患者が自傷行為を  「安定剤代わり」 にするというのは、

 こうしたメカニズムによる。
 

 境界性パーソナリティ障害においては、

 「自分自身や相手の気持ちに しっかり気付き、 しっかり表現する能力」 である

 「内省機能」 が、 前頭前野の機能と相関している。

 そのような 生得的な脳の問題が、 治療によって改善するのだろうか? 

 世間一般には、 

 「生まれの問題」 = 「生物学的なもの」 = 「精神療法で治らない」

 = 「薬物療法」、

 「育ちの問題」 = 「心理的なもの」 = 「精神療法」 という、

 やや単純化された 図式があるようだ。

 しかし事実は そんな簡単なものではない。

 「内省機能」 は 精神療法によって 改善することが実証されている。

 生物学的に決定されている 脳の問題も、 治療で変えることができるのである。

〔 「境界性パーソナリティ障害」 みすず書房 (小羽俊士) より 〕
 
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境界性パーソナリティ障害の 生物学的側面 (1)

2010年11月09日 21時48分18秒 | ボーダーに関して
 
 先日の 「BPD家族の会」 で、

 みすず書房 「境界性パーソナリティ障害 ― 疾患の全体像と精神療法の基礎知識」

(小羽俊士) の、 「境界性パーソナリティ障害の生物学的側面」 という

 一節が紹介されました。

 従来、 境界性パーソナリティ障害は 親の育て方の問題と 言われてきましたが、

 先天的な脳の問題が 先にあるということが、 次第にはっきりしてきています。

 その一節から 要約, 抜粋をしてみます。

--------------------------------------

 近年、 いくつもの神経心理学的研究や 脳機能画像研究などによって、

 境界性パーソナリティ障害では、

 大脳皮質の 前頭前野の機能が 低い傾向にあることが示されている。

 大脳は、 より 「動物的な衝動や欲望」 をつかさどる  「辺縁系」と、

 より 「人間らしい、 思慮深さ」 によって コントロールしている

 「大脳皮質」 に分けられる。

 不安や、 それに伴う怒り, 攻撃性, 回避反応など、

 動物として生き残るのに 必要な機能は  「辺縁系」 の働きが中心となる。

 たとえば、 不安などの情動は 辺縁系の中の  「扁桃核」 の働きである。

 これに対して 大脳皮質、 特に、 大脳全体を統合する前頭前野は、

 「人間らしい、 思慮深さ」 によって、 扁桃核の反応をコントロールしている。

 この前頭前野の 機能が低いと、

 不安や攻撃性などの 情動のコントロールが悪くなるだけでなく、

 対人関係の中で 的確に、 計画的に、

 柔軟性と共感性を持って 行動していくことも困難になってしまう。

 「共感性」 は、

 自分の気持ちや 相手の気持ちを 的確にとらえることと 関連しているので、

 それが低ければ、 対人関係の中で 非常に強い孤独感や 見捨てられ感を感じる。

(次の記事に続く)
 
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おいしいのに 何故食べなかったのか? (追悼記事)

2010年11月06日 20時33分53秒 | 介護帳
 
(前の記事からの続き)

 最近、 食が進まないことがある 利用者のCさん (認知症がある)。

 それに、 箸で取った食べ物を 一度 左手の平に乗せてから、

 口に運ぶことがあり、 何故なのだろうと思っていました。

 先日も 煮込みうどんを左手に乗せ、

 「おいしい」 と言いながらも、 すぐに箸を置いてしまいます。

 「おいしいの 沢山食べてください」 と 箸を持つよう促すと、

 一口は食べるのですが、 すぐ止まってしまいます。

 「お腹一杯」 と言ったり、 スタッフに食べるように勧めたり、

 そんなことを繰り返していました。

 Cさんの 椅子の座り方が浅く、 腰が 前の方にずれていたので、

 別のスタッフが 深く座り直させてくれました。

 すると、 何とその途端に、 Cさんは急に モリモリと食べ始めたのです。

 果たして、 座り直したことと 関係してるのかと考えると、

 浅く座っていたときは、 上体が椅子の背に もたれかかっていたため、

 顔とテーブルの距離、 つまり 口と食器の距離が 遠かったのです。

 それが座り直して、 上体が真っ直ぐになったことによって、

 口が食器の近くになり、 食べやすくなったのでしょう。

 Cさんは 食欲旺盛に食べ続けています。

 これには ちょっと驚きました。

 ただ姿勢を直したけで、 こんなにも 見違えるように変わるなんて。

 結局Cさんは お腹一杯になるまで平らげました。

 口と食器が 離れていたときは、

 箸で取っても 落としそうになるということを 無意識に感じて、

 左手に乗せて食べたり、 それ以上 箸が進まなかったりしたのですね。

 でもCさんは それが何故なのかを自覚できないし、 言葉にすることもできません。

 食べられない訳を、 お腹一杯だと言ったり、 人に勧めたりして 取り繕うのですね。

 その理由を見つけるのが 介護職の役割ですが、

 今回はとても びっくりした発見でした。
 

 …… ところが、 その次の時は、

 姿勢をしっかり良くしたのに、 また箸が進みませんでした。

 介護とは 一筋縄ではいかない、 難しいものなのですね。
 
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利用者さんの初めての逝去

2010年11月05日 21時27分50秒 | 介護帳
 
 今日は施設で ショックな知らせがありました。

 利用者さんのCさんが 亡くなったというのです……。

 Cさんは事情によって 短期間、

 別の施設で ショートステイ (数日間の泊まり) をしていました。

 そこで 一人で外に出て、 庭で倒れていたのを 発見されたというのです。

 雨の日だったといいます。

 詳しいことは まだ何も分かりません。

 でも 僕が介護の仕事に 就いて以来、 初めての利用者さんの死でした……。

 うちの施設が開所して 最初の頃からの利用者さんで、

 僕はとても 愛着があったのです。

 認知症が重い方でしたが、 楽しくて、 実に面白いことを口にし、

 とても人気者でした。

 健康状態も悪くなかったのに、 あまりにも 突然の知らせでした。

 そこの施設では、 出口の鍵が 利用者さんの手の届く所にあり、

 一人で外に出させてしまった、 それだけでも重大な責任問題です。

 しかも、 もし倒れるまで 何時間も放置していたのだとすれば、

 保護責任者遺棄致死の 刑事罰になりかねません。

 推測で これ以上のことは言えませんが、 本当にいたたまれないことです。

 そのうち もう少し詳しい事情が 分かるかもしれません。

 それにしても、 あまりにも残念なことです……。

 ご家族は うちの施設には 感謝してくれていたそうです。

 ご家族が落ち着いたら、 お線香をあげさせていただきたいと思っています。

( Cさんについて書いた記事で、 書き込み損ねていたものがあります。

 明日、 それをアップしたいと思います。 )
 
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意図的な誤診

2010年11月03日 21時27分15秒 | Weblog
 
(http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/61264675.html の続き)

 実は約20年前にも、 結石が出たことがあります。 σ (^^;)

 排尿のあとに 強い残尿感があり、 それが次第に 痛みにまでなっていきました。

 その頻度が だんだん高くなってきて、

 終いには 激痛のように強烈な 倦怠感に苛まれ、

 文字通り 居ても立ってもいられない 苦しみになったのです。

 這うようにして 近くの診療所へ行き、 そこで少し 休ませてもらいました。

 年かさの町医者は、 多分結石だと思うが、

 ここではこれ以上 検査ができないということで、 紹介状を書いてくれました。

 家に帰って  「家庭の医学」 を見てみると、

 確かに結石の症状と 合っていました。

 そして 総合病院へ行き、 年配の医師に 紹介状を渡して、

 「やはり 結石だと思うんですけど」 と 切り出したところ、

 これが医者の 癇に触ったようです。

 当時はまだ、 医者は偉いのだ、 患者は余計なことを考えず

 言われたことだけしていればいいのだ、 という医者がいました。

 この医者は、 素人の患者が 自己診断したことが 気に入らなかったのです。

 何かと理屈をつけて、「膀胱炎」 という診断をしました。

 しかし どうも腑に落ちず、 「家庭の医学」 を見ても、 全く症状が合いません。

 最初の診療所へ 報告に行きましたが、 その医者は 怪訝そうな様子を見せながらも、

 大病院でそう言うなら そうなのだろうという感じでした。

 ところが その日、 何と トイレで ポロッと石が出たのです!

 そして、 「物的証拠」 を 携えて、 また 病院へ向かいました。

 ところが その日は、 残念ながら 前日とは別の 若い医師でした。

 あの医者に 現物を見せつけたら どんな顔をするか、 ぜひ見てみたかったのですが。

 また 最初の診療所へ行って 経緯を話すと、

 「ほれ見ろ、 俺の言った通りだ」 と。  (^^;)

 医者がまだ 威張っていたころのエピソードでした。
 
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市民が直接 裁判に向き合う意義

2010年11月02日 11時35分45秒 | 死刑制度と癒し
 
(前の記事からの続き)

 テレビを見ていると、 今回の死刑判決回避を批判し、

 被告を死刑にすべきだと 声高に言うコメンテーターなどもいます。

 でも こういう人たちは、 死刑というものをまだ 具体的に、

 実感として考えていないのではないだろうか という気もします。

 今回の裁判員経験者は、

 「殺人事件に死刑があることは 当たり前と思っていたが、

 そんなに簡単に 死刑を科すことができるだろうか」、

 「遺族の思いと向き合ったが、 感情だけでは 死刑という判断はできない」

 と思うようになったといいます。

 市民が直接 裁判に参加する 意義が現れています。

 実際に 公判を傍聴した人の中にも、 元々死刑を肯定していたが、

 法廷での 被告の姿を見ていて 考えが変わったという人がいます。

 被害者遺族でさえ 感情に変化があり、

 被告が 「可哀相だ」 という、 “変な気持ち” になってきてしまったそうです。

 ともあれ、 一般市民である 裁判員の人たちは、

 事件を様々な面から 総合的に、 冷静な判断が できたことを示しているでしょう。

 死刑存廃の論議にも 国民が直に 関心を持つようになり、

 裁判員制度の意義は とても大きいと思います。

 さらに 今後は、 死刑か無期懲役かというだけでなく、

 有罪か無罪かから 決めなければいけないケースも出てきます。

(折しも 今日から公判が始まる、

 鹿児島の高齢夫婦強盗殺人事件が それに当たります。)

 現実に 法廷に身を置いて、 生身の被告や被害者遺族に 接する裁判員たちは、

 本当に 真実や量刑の見極めに 苦しむでしょう。

 死刑判決に加わったという 重荷を生涯背負ったり、

 死刑が執行されたときにも 相当心が揺らぐかもしれません。

 裁判員経験者には、 24時間心のケアに当たる 相談窓口がありますが、

 9月までの利用は 6件だそうです。

 裁判所のほうから積極的に ケアを行なうべき、 という意見もあります。

 また、 経験者は守秘義務があるため 周りに相談することもできないので、

 経験者同士が判決後に 話し合う機会を設けてはどうか、 という提案もありました。
 
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やはり死刑回避、 よんどころなし

2010年11月01日 22時49分26秒 | 死刑制度と癒し
 
 初の死刑求刑となった 裁判員裁判の判決が出ました。

 やはりというか、 死刑は回避されました。

 判決理由では、 僕が 先日の記事に書いた、
(http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/61248667.html)

 極刑しかないとは言えない 要素が考慮されました。

 裁判員にとって、 死刑の選択は 非常に重圧だったでしょう。

 法廷では 主文の言い渡しがあったとき、 遺族の嗚咽も聞こえたといいますが、

 それは 如何とも止むを得ないことです。

 遺族の感情は 判断基準のひとつであって、 報復感情だけで判断するのは、

 江戸時代の仇討ちと 変わらないからです。

 被害者遺族が 犯人を殺したいほど 憎むのは当然ですが、

 国家が正義の制度として、 権力によって 被告を殺すこととは 別次元の問題です。

 従って、 死刑犯対論者が、 自分自身が被害者遺族になった時、

 犯人を殺したいと思っても それはそれで構わないのです。

 でもだからこそ、 被害者遺族の心のケアや 社会的な保障を、

 最大限に充実させることが 何よりも重要だと、 僕は初めから訴えています。

 裁判員の 精神的な負担に関しても、

 今後 アフターケアを充分に やっていくべきだと思います。

 アメリカで 死刑判決を下した 陪審員 〔*注〕 の中には、

 PTSD様症状に悩まされる人も 少なくないそうです。

 拘置されている死刑囚に 復讐されるのではないかと、 恐れる人もいるといいます。

 死刑を宣告した 責任に苛まれたり、

 逆に 検察などに責任転嫁する 人もいるということです。

 まだまだ課題が多い 裁判員制度です。

〔*注: 陪審員制度は 有罪か無罪かを決めるだけで、

 量刑までは決めないのが 基本ですが、 州によっては、

 死刑に関してのみ 全員一致を絶対条件として 科する所があります。

(次の日記に続く)
 
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