→その①の続き
■先日、ゆり丸の小笠原航路 最終運航がありました。
父島と母島を結ぶ定期船、ははじま丸。
そのははじま丸の念に1度の定期検査(ドック)中に、代船として来てくれるゆり丸。
そのゆり丸が2021年で耐用年数を迎えて、引退という話を聞き、
それを見送りながら、ゆり丸との色んな思い出が蘇って来ます。
ゆり丸も我が家にとっては幾つかのアナザーストリーがあるのです。
今回はそんなストーリーを幾つか紹介したいと思います。
■この写真は2010年の畑での写真です。(娘たちがちっちゃい!!)
このヤギの名前が「ゆり」でした。
名前の由来は文字通り「ゆり丸」で母島にやって来たからです。
長女が命名しました。
2010年11月の事です。
ゆり丸のコンテナデッキの上に木箱が固定されていて、
そこにゆりは入っていました。
中身を覗くと「べぇ~~~」とヤギらしくない鳴き声で鳴くヤギでした(笑)。
畑に行って、箱から出しても長時間箱の中で動けなかったようで、
しばらく立ち上がる事が出来ませんでした。
ようやく立ち上がって、当時は「なつ」と「こなつ」の2匹のヤギがいたので、
更に賑やかになっていきました。
そんなゆり丸にご縁のあった「ゆり」ですが、
実は去年の夏に亡くなっていました。
高齢の14歳でした。(ヤギは15歳まで生きればいい方だそうです)
日に日に毛並みが悪くなり、
食欲もある日もあればない日もあり、
最後は立てない数週間がありました。
もうお別れの日が近いことを、家族の伝えていました。
最後は僕の目の前で「べぇ~~~」と弱くひと鳴きして、
天へと昇って行きました。
長野の佐久から母島にやって来た時から、ずっとゆりは人恋しいヤギでした。
いつもそばに人がいて欲しい寂しがり屋さん。
今頃、天国で「なつ」や「こなつ」と一緒に過ごしていると思います。
とても寂しいですが、現在はヤギがおらず、少し寂しい畑になっています。
ヤギの糞の堆肥はとても僕にとっては重要なので、
いずれまた、ヤギは飼うつもりでいます。
そんなゆり丸とのご縁でした。
■もう一つのストーリーはズバリ、母島と次女です。
次女はお腹の中にいるときに、長女に「りりみ」と名付けられ、
生まれたら百合にちなんだ名前を授かりました。
その際に僕の頭にあったのは母島のとある場所のユリでした。
母島のテッポウユリが咲き乱れる場所があり、
そこを「百合ヶ丘」と勝手に命名している場所があります。
その場所が僕は大好きで、結婚の時に本籍地にしてしまったほどです(笑)。
後から思えば、次女を授かった頃から百合:ユリ:Lilyにご縁が沢山繋がって来ます。
まあ、こじつけみたいな気もしますが(笑)。
■そんな次女が2020年青ヶ島に1ヶ月留学しに向かう時もゆり丸でした。
しかも極上の大時化。
しかし、その日はどうしても運行しなければならない日でした。
1月のその出港後は3週間一切の内地からの定期船がないドック入りのタイミングでした。
これがその時のゆり丸です。
海は大時化。
夕日ヶ丘から見送ると、
ゆり丸は船首が海に刺さるような状態でした。
父島には40分遅れの3時間で着いたそうです。
その後、妻と次女は大時化のおが丸は27時間(3時間遅れ)で竹芝に着いたそうです。
さらに2人はその日の夜と翌日の夜も橘丸で八丈に向かい、
2回とも港に接岸は叶わず、竹芝に戻るという、怒涛の3日間の夜間航海を乗り越えて、
青ヶ島に辿り着くのですが、その時の始まりもゆり丸だったのです。
■そんな当時小学4年生の青ヶ島短期留学。
3日間も揺れに揺られて、ようやく八丈から青ヶ島に船で渡れたとき、
ここでまたご縁があったのです。
それは船員さんでした。
なんと「あおがしま丸」は「ははじま丸」、「ゆり丸」と同じ伊豆諸島開発なのです。
なんて僻地ばかりを支えてくれる素敵な会社なんだ♪
船員さんは数か月交代でその3隻をローテーションしているので、
顔見知りなのです♪
「あれ~?クジラでも見に来たの!?」
妻がクジラ観察が大好きなのを知っていましたが、
まさか母島の人があおがしま丸に乗っているとは思わなかったようで、
3日間船に揺られっぱなしの妻子は、それでホッとしたようです。
そんな八丈~青ヶ島航路もゆり丸は、代船として活躍する航路なのです。
■2/5はゆり丸と貨物船、共勝丸が母島の沖港に並ぶ最後の日でした。
運航会社としては別の船ですが、
同じ青い船体で、なんだか姉妹のようです。
しかも、普段やっている仕事は伊豆諸島の産業廃棄物や貨物の運搬なので、
共勝丸とゆり丸はどちらも似た様な、
島の生活を底支えしているような有難い存在なのです♪
母島沖港における、貨物船・共勝丸との最後の並んだ景色を写してみました。
共勝丸をこよなく愛する妻としては、
写真を撮らないわけがありません。
昔から、定期船よりも貨物船を選んで乗ってきている人です。
家族で一番、ゆり丸に思い入れがあると断言できます(笑)。
母島 今年引退のゆり丸と共勝丸の最後の並んだ光景 2021.2.7
■そんなこんなで、今回も長くなりましたが(笑)、
最後にゆり丸の船内を軽くだけ紹介します。
ゆり丸は高さのあるタラップを登って船内に入ると、
基本的に横になれる和室が並んでいます。
普段は貨物が主軸なので、広くないのが困る場合があるのですが、
高い位置にある為か、窓も大きくて多くて明るいです。
外に出るデッキにはイス席がありますが、大時化の時は閉鎖されます。
母島の子供達が大いに遊んだ前浜のアートとゆり丸のショット。
小笠原航路最終運航をサンセットシアターでも見送りました。
丁度、眼鏡岩を通過するところでした。
海況は悪く、波を割りながら、最後のゆり丸が突き進んでいきます。
こうして、沢山のご縁と共に過ごしてきました。
ゆり丸という、母島で暮らしていれば年に1か月も接することはないのですが、
この船の存在のお陰で、ははじま丸のドック中も安心して暮らすことはできるし、
日々の当たり前に埋もれがちな、お互いの有難みに気づく機会にもなります。
ゆり丸、沢山の思い出をありがとう!!
次の人生はどこで過ごすのでしょうね?
お元気で!!
最後に、素敵な動画を紹介したいと思います。
fujikochan27さんの動画です。
素晴らしい空撮のゆり丸をご覧になりながら、お別れです☆
ゆり丸 母島へ最後の航路、The last route to Yurimaru Hahajima
※ブログへの動画掲載の許可を頂いています。
■先日、ゆり丸の小笠原航路 最終運航がありました。
父島と母島を結ぶ定期船、ははじま丸。
そのははじま丸の念に1度の定期検査(ドック)中に、代船として来てくれるゆり丸。
そのゆり丸が2021年で耐用年数を迎えて、引退という話を聞き、
それを見送りながら、ゆり丸との色んな思い出が蘇って来ます。
ゆり丸も我が家にとっては幾つかのアナザーストリーがあるのです。
今回はそんなストーリーを幾つか紹介したいと思います。
■この写真は2010年の畑での写真です。(娘たちがちっちゃい!!)
このヤギの名前が「ゆり」でした。
名前の由来は文字通り「ゆり丸」で母島にやって来たからです。
長女が命名しました。
2010年11月の事です。
ゆり丸のコンテナデッキの上に木箱が固定されていて、
そこにゆりは入っていました。
中身を覗くと「べぇ~~~」とヤギらしくない鳴き声で鳴くヤギでした(笑)。
畑に行って、箱から出しても長時間箱の中で動けなかったようで、
しばらく立ち上がる事が出来ませんでした。
ようやく立ち上がって、当時は「なつ」と「こなつ」の2匹のヤギがいたので、
更に賑やかになっていきました。
そんなゆり丸にご縁のあった「ゆり」ですが、
実は去年の夏に亡くなっていました。
高齢の14歳でした。(ヤギは15歳まで生きればいい方だそうです)
日に日に毛並みが悪くなり、
食欲もある日もあればない日もあり、
最後は立てない数週間がありました。
もうお別れの日が近いことを、家族の伝えていました。
最後は僕の目の前で「べぇ~~~」と弱くひと鳴きして、
天へと昇って行きました。
長野の佐久から母島にやって来た時から、ずっとゆりは人恋しいヤギでした。
いつもそばに人がいて欲しい寂しがり屋さん。
今頃、天国で「なつ」や「こなつ」と一緒に過ごしていると思います。
とても寂しいですが、現在はヤギがおらず、少し寂しい畑になっています。
ヤギの糞の堆肥はとても僕にとっては重要なので、
いずれまた、ヤギは飼うつもりでいます。
そんなゆり丸とのご縁でした。
■もう一つのストーリーはズバリ、母島と次女です。
次女はお腹の中にいるときに、長女に「りりみ」と名付けられ、
生まれたら百合にちなんだ名前を授かりました。
その際に僕の頭にあったのは母島のとある場所のユリでした。
母島のテッポウユリが咲き乱れる場所があり、
そこを「百合ヶ丘」と勝手に命名している場所があります。
その場所が僕は大好きで、結婚の時に本籍地にしてしまったほどです(笑)。
後から思えば、次女を授かった頃から百合:ユリ:Lilyにご縁が沢山繋がって来ます。
まあ、こじつけみたいな気もしますが(笑)。
■そんな次女が2020年青ヶ島に1ヶ月留学しに向かう時もゆり丸でした。
しかも極上の大時化。
しかし、その日はどうしても運行しなければならない日でした。
1月のその出港後は3週間一切の内地からの定期船がないドック入りのタイミングでした。
これがその時のゆり丸です。
海は大時化。
夕日ヶ丘から見送ると、
ゆり丸は船首が海に刺さるような状態でした。
父島には40分遅れの3時間で着いたそうです。
その後、妻と次女は大時化のおが丸は27時間(3時間遅れ)で竹芝に着いたそうです。
さらに2人はその日の夜と翌日の夜も橘丸で八丈に向かい、
2回とも港に接岸は叶わず、竹芝に戻るという、怒涛の3日間の夜間航海を乗り越えて、
青ヶ島に辿り着くのですが、その時の始まりもゆり丸だったのです。
■そんな当時小学4年生の青ヶ島短期留学。
3日間も揺れに揺られて、ようやく八丈から青ヶ島に船で渡れたとき、
ここでまたご縁があったのです。
それは船員さんでした。
なんと「あおがしま丸」は「ははじま丸」、「ゆり丸」と同じ伊豆諸島開発なのです。
なんて僻地ばかりを支えてくれる素敵な会社なんだ♪
船員さんは数か月交代でその3隻をローテーションしているので、
顔見知りなのです♪
「あれ~?クジラでも見に来たの!?」
妻がクジラ観察が大好きなのを知っていましたが、
まさか母島の人があおがしま丸に乗っているとは思わなかったようで、
3日間船に揺られっぱなしの妻子は、それでホッとしたようです。
そんな八丈~青ヶ島航路もゆり丸は、代船として活躍する航路なのです。
■2/5はゆり丸と貨物船、共勝丸が母島の沖港に並ぶ最後の日でした。
運航会社としては別の船ですが、
同じ青い船体で、なんだか姉妹のようです。
しかも、普段やっている仕事は伊豆諸島の産業廃棄物や貨物の運搬なので、
共勝丸とゆり丸はどちらも似た様な、
島の生活を底支えしているような有難い存在なのです♪
母島沖港における、貨物船・共勝丸との最後の並んだ景色を写してみました。
共勝丸をこよなく愛する妻としては、
写真を撮らないわけがありません。
昔から、定期船よりも貨物船を選んで乗ってきている人です。
家族で一番、ゆり丸に思い入れがあると断言できます(笑)。
母島 今年引退のゆり丸と共勝丸の最後の並んだ光景 2021.2.7
■そんなこんなで、今回も長くなりましたが(笑)、
最後にゆり丸の船内を軽くだけ紹介します。
ゆり丸は高さのあるタラップを登って船内に入ると、
基本的に横になれる和室が並んでいます。
普段は貨物が主軸なので、広くないのが困る場合があるのですが、
高い位置にある為か、窓も大きくて多くて明るいです。
外に出るデッキにはイス席がありますが、大時化の時は閉鎖されます。
母島の子供達が大いに遊んだ前浜のアートとゆり丸のショット。
小笠原航路最終運航をサンセットシアターでも見送りました。
丁度、眼鏡岩を通過するところでした。
海況は悪く、波を割りながら、最後のゆり丸が突き進んでいきます。
こうして、沢山のご縁と共に過ごしてきました。
ゆり丸という、母島で暮らしていれば年に1か月も接することはないのですが、
この船の存在のお陰で、ははじま丸のドック中も安心して暮らすことはできるし、
日々の当たり前に埋もれがちな、お互いの有難みに気づく機会にもなります。
ゆり丸、沢山の思い出をありがとう!!
次の人生はどこで過ごすのでしょうね?
お元気で!!
最後に、素敵な動画を紹介したいと思います。
fujikochan27さんの動画です。
素晴らしい空撮のゆり丸をご覧になりながら、お別れです☆
ゆり丸 母島へ最後の航路、The last route to Yurimaru Hahajima
※ブログへの動画掲載の許可を頂いています。