本日、衆院が解散され本格的な選挙戦が始まる。
各党は、それぞれに公約を掲げ、もはや政党とは呼べない社民党やれいわ新選組までも選挙公約を発表している。
毎度のことながら、各党の公約の目玉は「バラマキの多寡」を競うもので、政治家は有権者=拝金者とでも考えているのだろうかと悲しくなる。自分は「人後に落ちぬ貧乏人で底辺の住民」と胸を張れるが、それでも消費税・所得税の減免や、定額給付金の多寡によって政党・候補者を選ぼうとは思わない。
さらに、現在各党が掲げているのは選挙公約であり、集票のため有権者に一時の夢を抱かせるものでしかなく、政権ではすべてが「絵に描いた餅」に終わる危険性は、かって民主党が掲げてドラスティックな政策転換の期待を抱かせた「コンクリートから人へ」が、何も生み出さなかったことでも示されている。
小泉総理は「米百票」の故事を引用したが、今こそ、国家百年とまではいわなくても、10年20年後の近未来での日本が如何にあるべきで、そのために今を生きる我々が何をして、何を我慢すべきかを真剣に考える秋(とき)であるように思う。
今、幾ばくかの給付金や税の減免を手にしてデフォルトに瀕した経済を次代に残すことで良いのか、外圧に武器を以ての抵抗を封じる憲法9条で次代の選択肢を狭めることで良いのか、国費を以て低素質大卒者を量産する必要があるのか、・・・。
自分のような富人よりも富国に重きを置く主張は、「右翼」として一様に白眼視される世相である。
杜甫は「春望」で「国破れて山河有り・・・」と詠った。大東亜戦争の敗戦で将に山河しか残らなかった日本が復興し得たのは、日本人としての矜持に支えられた父祖の臥薪嘗胆のたまものであるが、それでも精神的支柱を始めとして大和民族が失ったものは多い。
現在の行き過ぎた個人主義、拝金志向を見ると、第三次世界大戦や中国の侵攻後には、残された山河に「餓狼のみが蠢く」日本が遺されるだけに思えてならない。