花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

 卵巣腫瘍手術後検査から、5年目の再検査を前に控えて、

2011-01-16 14:40:46 | Weblog
系統樹を観ていると
人は昔から人類ではナカッタンダナ~~~!

獣だった?
魚だった?
鳥だった?

それらだって、小さな昆虫だった?

細胞からいろいろな命の臓器が出来てくるという発想も
系統樹を観ていると
ごくごく、、、当たり前の発想に思えてくるから
科学とは
時間を一瞬に飛び越す技に思えてくる。

メビウスの輪の裏表の出入り口は
時間なのかも知れない。

人は、、、いったん風化して、
元素に戻り

時間を自由自在に飛び越して
地球野生命体の何かに形を変えて、
元素の集合体は

再び「命を謳歌」する。

だから、この「石」も
この岩も山も森も空も

大昔には「母」だったような懐かしさがある。

その中で、奇跡に近い偶然から
「人間に生まれてきた」。

多くの感動!
奇跡の出会いの「子供たち」
子供が生かされてゆく「出会い」

再び奇跡の感動!
「孫の誕生」!

孫たちは
いつしか「小学校生になった!」

若いころは未来しかない
     未来しか見えない!

     明日に生きる準備に追われ
     今日を忘れたほどだった。

70歳もそう遠くない日々にいることの不思議。

高峰秀子も「二十四の瞳」も、、、過去になるのか?
アノ俳優さんも。コノ俳優さんも飛翔して元素に戻る日々。

「宮元武蔵」の八千草薫さんが
永遠の恋人として時間を止めてくれているのがうれしい!

昭和の戦乱の時代を生き抜いた
軍医として大陸の戦場を経験したという
「外科医」の父も
疎開先の「世界遺産の和歌山で復活!」
多くの村の唯一の外科医として
戦後の村人の心の支えになれたのは
保険制度も無かった医療界の時代、
産婦人科や耳鼻科、まで相談されていた。
耳が痛いという少年の耳に
懐中電灯を当てて、出てきた虫に大笑いしたこともある
野戦病院の経験が焼くに立ったりしていた、
激務の僻地医療に従事した父。

尊敬される父の威光を妬まれて
しばしばとばっちりを受けるほど、
当時の僻地では「老若男女を問わず」
父はみんなの憧れの青年医師だったと記憶している。

現在の「患者様」の時代が納得できない
医師の経験が、多くの命を支えていた。

お金を払える人たちは少なかった。
傷痍軍人に手造りの義足を贈り、
心立ち直り「自立することを日々、祈りながら、、、」

戦争さえなければ、多くの仲間と病院を支えあい
医師としての「ヴィジョン」に生きたであろう父。

鮎や野菜の診療報酬で、
滅私奉公の戦後の時代を過ぎて、

アメリカの占領の時代を、
高度成長期の時代の歯車となって
疲労困憊の人生を突然ストップした54歳の2月。
粗悪な町営診療所の設備の中で激務に耐えた日々は、
レントゲンの光線のために潰瘍だらけになっていた両手が
痛々しく、スタッフの居ない疎開地の
七か村、たった一人の医師が医療に従事した
医療エポックの時代が
疎開地銀座の診療の日々が、
私には、
忘れることが出来ないのです。

今も、父の後半の人生を手探りしながら
どこかにいるはずの「父」を
探し回る夢で飛び起きることがある。

父の元気な時代
「ビジョンに生きる病院が築地に誕生するんだ!」
その名をはじめて聞いたのは父からだった。

まだ、小さな建物だった築地の
「国立がんセンター」を
見学に行った。
医師になりたての兄も
医局を辞めて、指導を受けに研修の日々であった。

戦後の日本の医療の世界に通じる出船のような
医療には素人の私でさえ
「第六感」で
「緊張感を持って、未来を感じた。」
世界に向かう戦艦のようなパワーを感じたものだった。
あれから何十年経ったのか?

兄が神様のように尊敬していた先生方もいなくなった。
がんセンターでいただいた
内視鏡の指導医の資格にはそのころの先生のお名前が光っている。


名物の先生だった「市川平三郎先生」
「崎田先生」「黒、、、先生」ら

世代交代で、
いらっしゃらなくなったけれど、
手厳しい指導の下に育った次代の先生らの築地には
見上げるような、
全館
がんと戦う為の巨大なビルが建ったのには驚いた。

私はいつしか
60歳になっていた。

5年前、自覚の無かったウエスト肥満で検診を受けた。

直径15~6センチの
「ダチョウの卵」のような
立派な?
「卵巣腫瘍」が見つかり、

説明を受けながら
「手術場送りの手続き」を受け、
翌日には
「4キロ体重減」の
スリムなウエストになった。
腹の中の水に浮かんでいた腫瘍は
そのまま「手」ですくえたと
手術に立ち会っていた
外科医の夫が
写真に記録していた。

女房が生きるか死ぬかの手術中
写真に記録する余裕が在るなんて
「愛」が足りないと思ったが、、、

医学には「愛」を先行する「EBM]の
科学者魂があるという。


振り返ると 
「築地のがんセンターの初代の四角い建物」は
医療の戦艦のような
緩みの無い緊張感が伝わってきた。

日本のがんへの挑戦はここから始まったことが
柳田邦男の
「がん回廊の朝」
「明日への挑戦」という
小説で知った。

とりあえず、、、私は、、、助かりました。

巨大腫瘍でも
「自覚の無い恐ろしさ」を思うと「ゾー」とする。

その翌年は「医師の進め」もあって
全身検査に臨み「
何も無いという元気の出る診断」を
ニコニコ顔でいただいてきた。

いつしか北海道から「検査」を受けに行くようになった。

私の腫瘍はムチン質で
がんのような悪性ではなかった事が
病理検査で判明した。
大きさはともかく
特殊にはあたらないかも知れないが、
ほうっておくと
腫瘍の仕切りのあぜ道のような部分から
「実質層」が「癌」に変身」するかもしれないし、
破れる前に検査で判って
手術に直送されたおかげで
今も、屋根に上って 
雪掻きが出来るような
筋肉モリモリの
丈夫な5年間を過ごせたと思っている。

即手術してからは、
元気そのものの5年間が過ぎた。

私のデーターは
「未来の患者さんたちの医療に役立てていただきたく
心から
そのときは!!!!!!
興奮して思いました。」
全身の
「総合検診女性PETあり大腸内視鏡」の検査です。

「何もありません!」
神様の祝福を受けたような
安心感と
微笑が沸いてきました。
、、、、、あの時は!、、、、

その後知人も
早期「大腸がん」が見つかり、
検査中にポリープを切除したと落ち込んでいたが、
5年経った今もピンピンしているから、

見つかると、
落ち込むのは仕方が無いが、
早期に見つかると
第二の「命」をいただけるので、
検査を受ける勇気は必要だと思っている。

「がんはどこまで治せるのか」という
検査を受けたがんセンターの医師の著書の22ページは
早期発見、早期治療が求められている文字が
イメージの中で太く、大きく見えますが。

したたかな確立で
腫瘍を発見する検査を怖いのも真実である。

検査を受ける前向きな心と、
逃げ出してしまう心は

決して!!!
金銭的な小さなこだわりではありません、
早期発見は「命が替えるのですから!」

判っていながら怖いのです。

私の5年目の指定された検査の日は、夏である。
四捨五入すると70歳に近い老境に入っているだけに、

何か、、、見つかったらどうしよう!!!!!

検査が、、、受験のように怖い。

孫が遊びに来た。
栗きんとんを作り、
裏ごししたレンジでちーんした
甘みの強い
金時芋を絡ませながら、

コノ笑顔を来年も、
再来年も見たいと思った。

勇気を出して、
検査を受けよう!
やっと決心がついた。

東京に行ったら、
「50年以上前」
築地に「国立がんセンターが、、、出来るんだ!」
医師たちの「ビジョン」が結集する病院が出来るんだ!

顔をほころばせ
唇を震わせて言っていた父のお墓参りにも行こうと思っている。

第六感では、、、
まだキット、、、
何も見つからないはずだと、、、
汗と戦いながら筋肉隆々の私は、、、信じている。

「第六感」と
「EBM最先端の検診検査」の取り組みは
どちらに軍パイがあがっても

早期であれば「命ナガラエル」と思えばこそ、
武者震いしながらも、申し込まねばと、、、
冷や汗で迎えている
「老いの時代の検査」の申し込みである。


明日こそ、、、予約をして来ようと、、、
峡も思いながら、、、。