昭和49年、3歳になった長男の安全成長を祈って
羊が丘 水源地に囲まれた「たけのこ山」に
いつか、、、自宅をと祈りを込めて
ささやかな、
造成されたばかりの小さな区画を買いました。
あたりは、見渡す限りなだらかな丘。
たけのこ山!
振り返れば西側に
藻岩山の「スキーのゲレンデのライトアップ」。
郵便局が10分も歩くと、
家のようなドアで迎えてくれる。
赤いポストは、
唯一の知り合いのように立っている。
東京を離れて
いきなり「留萌」での生活が始まった。
札幌に澄み続けることが出来たら、、、!
故郷は遠くても
長男の教育には向いている環境であると思った。
日本は敗戦した。
敗戦の結果は
私たちが
修復する世代であると考えていた。
いつの日か、、、わからない。
ここに、、、自宅を建てよう、、、!
何も無いことは
何でも有る事かも知れない。
次男で
奨学金で進学した夫には
義務があった。
戦争成金や
戦後のどさくさを泳ぎきった一握りの者
金持ちと、
貧乏人に大きな段差があった。
戦後、皆が被災者であった。
皆、お金も、家も、戦火に消えていた。
住友、三井、三菱、、、国家の意思であるかのように
焼け野原の東京を買い続けていた時代であった。
北海道は希望の新天地であった。
東京よ!、、、焼け野原の、、、被災地よ!
私は、北海道に希望をつなげた。
8人兄弟のうち、3人が戦地の外国で死んだ。
私は長女の位になった。
軍医でぼろぼろになって
日本に、最後の連絡線で帰還した父。
外科医なんて、血潮の中が職場でしょう!
何で、、、
外科なんて、、、専攻できるんでしょうか?
今は「無給医」の夫は
てんこ盛りの、学問と、
当時は国家的な発令に近かった「博士」。
大学院生として、
日夜、動物の血管を実験学習しながら
人間への応用を考えていた。
捨てられた血統書のある犬たち。
お手も、伏せも、お座りも出来る犬たちが
現在の「バイパス手術」の
実験動物として
哀しい貢献をして、
医療発展戦争の中で死んでいった時代である。
自宅に帰るのは深夜であった。
借金経済をとりながら、
実験動物を買う医学研究者の先生方。
無給医の哀しさを
今も、ふるえがくる思いで、
振り返る。
とんでもない時代であった。
今は研修医にも月給が出るので
衣食足りて礼節を知る時代となった。
被災地に馳せ参じ
自腹を切って
精魂果てるまで
ローリング調査をした先生方の行動に
驚愕しながらも
祈るような気持ちで
戦後は終わった!と感じたものでした。
根っこの部分で
医師は、意思をつら抜ける
時代なのだと思えた。