たとえばデパートのショウウインドウには
いまどきの女性が目を引くファッションがアレンジされて
アートのルンルンを感じさせます。
北海道の北洋銀行は、昭和10年代の私たちには
想像が出来ないような銀行空間です。
地価街からエスカレータで一回のフロアーに登ると
都会の真ん中とは思えない広い空間が
シンプルな美をかもし出しています。
緊急事態の時は、シャッターを下ろさないで、
家に帰れなっかった3,11の東京に、
もしもこんな空間が提供されていたら
少なくとも、1000人以上はごろ寝が出来そうです。
どうして、、、こんな素敵な建物を楽しんでいるとき、
こんなことを考えてしまうのでしょうね。
これからの、日本は
「絆」だけでは解決できない問題を抱え、
それでも、元気に立ち直ってゆく「若い力」と、
年寄りの「知恵」と、
敗戦から、ここまで日本を育て上げた
「団塊の世代?」のエリートな、粘り強い、しかも、、、
忍耐が半端な強さではない世代の人々を、
定年だからと、
年寄り扱いしては
あまりにも、もったいないと思うのですよね。
夫は、現役で働いています。
夏タイヤに変えている私が、
ちょっと車から離れてる間に、
冬タイヤのホイルのついた4本を、
難なく車から降ろしました。
私は、コルセットを2枚装着し、
サポーターをはめて、
冬の手袋で、タイヤを転がし、
物置まで運びます。
この主人たちより、
一回り若い団塊の世代の定年が
始まりました。
私の弟もそろそろ、、、その年代ですが、
姉のひいき目ではなく、
人生は、弟のような戦争を知らない世代が居てくれたから
楽しかったと、思うのですよね、
大陸で総合病院の院長だった父が
軍医として戦場に行った事も
病院も自宅も無くなり
敗戦の兆しの中で
ショウイダンの落ちる東京に帰国し
空爆を避けて熊野の山奥に疎開したとき生まれた弟。
生粋の東京っ子の父から、紀州の山奥で生まれた弟。
成長するにつれて、神のように頼られ
尊敬され、敬愛される父に抱かれて
校庭で影ふみをした日々を覚えているだろうか?
戦後13年、
慕われて必要とされた無医村の診療所の父。
その背中に弟は導かれて、東京に帰ってきた。
父と同じ外科医の医局に入ったものの
末期の患者さんの手術にメスを光らせど
命を見送るたびに、
手術になる前に、もしくは、
手術をすれば助けられる段階の病気を発見できたら、、!!!と。
思い切って、放射線かに委ね「国立がんセンター」に
無給で飛び込んだ。
市川先生のもとで、
当時は普及していなかったCTの画像診断に
人生の夢をかけていたようだった。
そこからは、、、我が弟ながら、
手の届かない次元に行ってしまった。
会うときは、姉と弟の家族として会うから
あっても。楽しい四方山話で過ごす。
世界を飛び回っていた弟も
定年が近い年齢のはず、、、。
性格といい
気骨といい
人間性といい
団塊の世代の
弟たちの世代は素晴らしい「夢を追って燃えた人生」
敗戦の廃墟の日本を
今日に復興させたパワーを
みなぎらせた世代の人たち!
若者よ!この世代の人たちに
どうか、その貢献にふさわしい
名誉の老後を
送っていただくためにも、
大切な師匠、リーダーとして
輝く魂に気がついてほしい。
歳をとらないこの年代の人たちの
頭脳だけは
年齢で切り捨ててはいけない!
世代交代して
若ければよいというジャンルと
この年代を年寄りの仲間として切り捨ててはいけない。
日本を救った世代なのだから!
因みに、戦前派の夫の場合
70歳過ぎても働かないと、、、、、、。
40歳前後で
「本採用になる外科の大学院卒の医師」は、
医局に長く居た医師である。
臨床が大好きで、
突然国立循環器センターなどに
国内留学して、
自宅には帰ってこない日々。
不規則に、深夜帰り。
外科だけに、
歯医者さんのように予約が出来ない。
日曜日でも、正月でも怪我人は出る。
、 休みも祝日も連休も、、、
事故で運ばれてくる。
家に帰ったと思うと、U-ターンして
深夜の手術場。
私は、本来なら薬剤師に復帰して
子育てと両立しているはずである。
しかし、、、
むちゃくちゃな不規則な外科医の家内は
舞台裏の便利屋にならざるを得ない。
それでも、二人の息子の大学進学の頃は
私も授業料に追っかけられて5年間働いた。
おかげで、
家の中はめちゃくちゃになり、
私も
「ストレスボールと自分では信じている
『15センチの腫瘍』が出来て手術。」
1ヵ月後に再就職!
スッタモンダノ家計のやりくりで
二人の息子を社会に返せた。
ぐちゃぐちゃになった家庭を立て直すのは
被災地復興のパワーには遠く及ばないが、
人生の試練だった。
夫婦が2人とも忙しかったせいもあり、
現実は「夫婦生活をしていなかった。」
その二人が「歳をとりはじめたから大変です!」
夫が今こそ検査値が正常に戻りましたが、
異常な検査値であったことも、気がつかなかった。
私自身も、検査に行く暇が作れない。
税理士さんは言う。
「お宅の場合、、、開業医さんと違って、
税金でオト去るものがありませんね!、、、
高いと思われる医学書は日進月歩の医学界のおかげで
数年でゴミとなるものが多い。
「学会費、、、30万円も、40万円も払っていますが。
この領収書は紙くず同然ですね、、、」
学会出張の一部は勤務先で見ているって言っても、
桁違いに、、、頭脳の維持費がかかるんですね!」
後半は急性期の病院に勤め、
仲間と一緒に外科の研修や、診療をして過ごすのが
生きがいの「仕事人間」だけに、
人生後半は、冠婚葬祭、仕事達成のコンパや慰労会に
「絆」を感じながら、
「医師」という孤独な人生の登山を続けている。
近所のご夫婦は、海外旅行や、
豪華客船に乗ってきたと、お土産を下さるたびに、、、思う。
主人とは二人っきりで、ドイツに行きました。
森鴎外のはるか昔に足跡を残しているドイツ!。
2人で40万円とちょっとかかりました。
世間からは無駄使い?
喧嘩しながらの帰国でした。
帰国後は、再び、、、
病院の医師に逆戻りです。
年金ではとても食べていけない金額です。
仕事が生きがいだったことも手伝って、
今も、患者さんから、お手紙がきます。
「先生に治していただいた心臓のバイパス手術が
天皇陛下さまと、おんなじ施術だと、
今では、皆に威張っています、、、」
共済年金は年額36万円ぐらいですが、
給料が出ているということで、
現在は年額6万円です。
でも、、、こんなお話が耳に入るとき、
給料の少ない大学勤務時代、
函館単身赴任時代、
お仲間のおかげで
良い仕事をさせてもらっていたのだと思いました。
先日、、、ある内科の先生がお手紙で、
「先生が博士論文として出されていた
バイパス手術の論文を、然るべき組織が
保存していることがわかりました。
もし、、、原文の抄録があるようでしたら
一部、わけていただけませんか?」
私は、論文をデジカメで撮影し、スライドショウにして
デスクにして、赤いリボンをつけて、
送りました。」
夫に「送ったから」と言うと。
「英文論文にしておけば、良かったな
40年も前の論文だから、
引用されて、どんどん進んだ論文が出てるから、、、
送るほどの事は、、、ためらうね。」
「せっかく先方が、陛下の手術の成功に感動して
周辺の論文を検索してるんだから、
お役に立つと思ったから、、、」
雑事の引受人の私はあまり深く考えないで、
いつものように発送した。
二週間ほどたって、お手紙が来た。
「貴方が某病院の院長になられた素地がわかりました。
40年前に、実に、素晴らしい論文です。
陛下のお役に立つ論文を書いていらっしゃったという
天与の運命を持った「強さ」だったのですね。」
夫は手紙を読みながら、、、
「陛下のお役に立てたのは順天堂の神の手の医師」であって、
40年前に
「その動脈が、動脈硬化になりにくい、しっかりした血管」だと
気がついたから、論文にしただけだよ。
夫の仕上げた博士論文を、
女子医大の「榊原先生」が
「心臓」という赤い本で紹介してくださり
林久恵教授が評価してくれて、
当時は若かったから天にも昇るうれしさだったよ。」
その後、いっぱい良い論文が世に出て、
学者や、臨床医が玉体において、
手術を承ることの出来る
「神の手の技術の外科医」が順天堂に現れて、
東大病院で
「日本の国旗の重さの手術が成功したのですね!」
順天堂医科大学の「外科の歴史」に
すごい外科医の一ページが又加わったね。
酒井シズ先生の参加されているTVドラマに
手塚治虫作の「陽だまりの樹」が始まったけど
元来医師の魂は
「医師以外の人間が想像しても、わかりっこない何かがあるよね。」
孤独な職業の医師。
陛下のご回復は「医学の歴史の一ページである」と
私的には、、、感動する出来事でありました。
ご自身のご病気にもかかわらず
被災地にお出ましになり、
国民とともにあられた陛下に
日本の復興の祈りが世界の絆となりますことを
信じています。