花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

皮膚科の先生は 魔法使い?

2017-08-19 09:25:59 | Weblog

 

庭仕事の後、

ふくらはぎに 直径1,5センチ、高さ5ミリの透明な月のような水泡が現れました。

ドキ!ドキ!、、、パソコンで「水泡」の画像を検索!

怖い病気が満載である。

お盆休みに入る前、一週間前、枝葉のゴミ収集に合わせて

門の所の五葉松の枝葉を、

下にもぐって、2本、、そのまた枝葉を2本残すやり方で

剪定していった。帽子をかぶり、首にタオルを巻く

息子が学生時代にはいていたジーンズを身に着け

長袖を着て、近所の僕にもらった、

アルバイトの時使ったという工事現場の交通整理の時来ていたという上着。

かれこれ2時間。90リットルのごみ袋に、

30センチ大に細かく処理した松の枝が2袋できた。

それから、なんとなく、、、かゆい。

あっちこっち、、、連鎖した数珠つなぎのように

米粒大の水泡が出来始めた。

右のへそ下あたりの側面から膝上まで銀河が走った。

13日、皮膚科に駆け込んだ。。。お盆休みで16日まで、、、休診。

以前、草むしりの時、腕が水泡だらけになったときもらった薬!

「セレスタミン」!!!之しか手元にはない。

とりあえず朝晩、あの時のように服用。

ドラッグストアーに駆け込み「市販品のオィラックス軟膏と、

レスタミン軟膏と、

ずーと前に、火傷虫に食われたときに使った、クロマイ軟膏を

アイスクリームのへらで混ぜ合わせ。患部に塗り、

亜鉛化軟膏で、効果の持続を図り

キッチンタオルの間にラップを入れて、

洗いざらしの包帯を巻いて、

上から綿性のシャツの袖をカットして作ったサポーターを当てて固定。

身体の側面の銀河も、ふくらはぎの、水泡も、

水曜日の」16日にはキッチンタオルが水泡の中身を吸い取って

亜鉛化軟膏の上はクリーム色の液が残っていた。

30度ぐらいのシャワーで根気よく洗い流し、

同じように、、、素人療法を繰り返し。

「とびひ」のように、液があちこちに新しい水泡を造らないように、

キッチンタオルを立に切って折りたたんだ眼帯大のを

銀河の一等星らしき水泡にこまめに貼って、

4時間おきに張り替えた。

窮すれば通ず!

以前、皮膚科でしてくれたのを思い出して、

盆休みの危機は回避した。

16日に、やっと皮膚科に診療を受けることが出来た。

3秒間!

怖い病気ではありませんか?、、、、、、と

、、、、、聞くと、?????

大丈夫、一週間のお薬と、

ゲンタマイシンの入った、副腎皮質ホルモンの軟膏を

処方してくださった。

3秒間で、

全てを見抜く、皮膚科って!凄い!

いつも、結果は良い。

今回も、ばっちり治癒に向かっている。

活火山が休火山の、瘡蓋が出てきた発疹たち。

いつも、思う、、、

私は、、、

最悪の事を考えて、しまう。

しかし、

先生は3秒で、判断する。

皮膚科の先生は、、、魔法使いだと思うほど、

大丈夫!、、、という言葉と、軟膏と、薬だけで治ってしまう。

自分では、、、

帯状疱疹と、、、火傷虫が一緒に来たと思っていた。

松の剪定には、

ズボンの裾もゲートルで巻くか、

ロング靴下に裾をねじ込まないと、

虫は裾から入ってくることが、

今回、身に浸みてわかった事である。

悩み悩んで、お盆休みが過ぎるころは、

あっけなく平常心に戻った。

73歳になって、

屋根まで届く松によじ登って

のこぎりを使うのも、

そろそろ、、、やめようかと思いながらも、

家族のような、

ひざ下から育った五葉松を、

自分で、対話しながら、

「ママ、この下向いている枝をはらってくれればいいよ!」、、と

木の方から言ってくれる気がして、

お利口だね!

、、、下の花たちにもお日様分けてあげようね、、、!

今年も、リスクを背負いながら、剪定をしたのでした。

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若かりし日に、7~8時間、同じ姿勢で

コー引きという、インターンが手術場に入れる助手が許されたとき

いよいよ外科医になれる臨床の現場を許されて

当時は時代が時代だけに、無給医だった主人は

大学院に籍を置きながら、博士論文の研究と

3か月に一度

札幌から200キロ前後離れた

北大の外科の医師が担当している手術場を訪ねて

外科医としての、現場の教えを受けながら

16万円という月給をいただけた、

唯一の、安定した収入が、3か月に一度の収入だった。

家賃17000円、風呂も無い、6畳、8畳のきちんAPで

息子は悠々と、自然を相手に、

北海道の子として育ち始めていた。

昭和40年代の事である。

なかなか、手術をさせてもらえず、

手術の患部を、執刀医が良く見えるように

器具で挟んで開口しておくという、、、学び始めでした。

大きな医局に入局を許されたときは

夢ではち切れそうなことばかり

私に話しては、

夜中に、実験用の白衣のまま

APに帰って来ては、食事だけ食べて、病院に戻るという

おかしな、、、おかしな結婚生活であった。

「頼むから、、、白衣で帰ってくるのは辞めてほしいのよ!」

「時間がもったいなくてさ、、、ちょっと外出の延長でサ、、、」

白衣って、「きたない、目に見えないばい菌が居るって考えてよ!」

私は、90センチ四角の玄関の三和土に、

白衣を脱衣してもらって、夜食を出していた。

食事を済ますと、そのまま、、、又、、、

夜の実験の続きのデーターをとりに、

大学に帰って行った。

可愛い、、、人間の友、、、保健所に来てしまった、、、

殺傷処分の犬が、、、

現在は、

どこの大病院でも

治療を受けられる、「バイバス手術」の

臨床実験を、無駄に死んでゆく犬たちの

最後の御奉公として、

涙を呑んで、医局で引き取り、主人は餌を与えていた。

50年前の話である。

あれから、裕次郎さんが慶応大学に入院した時、

主人は、興奮したように、、、

「大丈夫だ!こうした疾患を救えるようになるために

皆、日夜を問わず、犬を使って、血管のバイパスや

大動脈の実験を、臨床に応用しながら、

基礎の学者と、免疫や、生化学や薬理と

がっちり、、学会で学術交換をしてきたのだから、、、

「裕次郎は、、、助かるよ!きっと!、、、」

当時としては、劇的な回復であったと思う。

私が、、イカス!!!という言葉を知ったのも

裕次郎さんの存在がなかたら???

イカの酢の食べ物だと、思っていたかもしれない。

ともかく

時代を変えて、

戦後をイケイケの

元気にしてくれた俳優が

慶応大学で劇的に回復した時には、

日本の循環器の医療の勝利だと思えた。

家庭的には「ゼロ点」を付けたいと思うほど、

大きな医局に振り回されて

それでも、生きがいと、見果てぬ希望に、

自分しかなかった主人。

4歳になっても、

ママと、「ァ,、、ウン」の風神雷神のテレバシイで

言葉の必要としない、、、3か月単位の

一か月は、赴任先の町立の、90年物の建物で過ごした。

留萌の寿町の断崖絶壁の上に立つ寮には

インターンでロウティションする新卒や、

地方からの短期の手術スタッフや、週一のアルバイト医師が

数人泊まれるワンルームがあった。

お風呂は、医師達は病院の手術場のを使うらしく、

煙突は外れていた。

トイレは真冬のマイナス20度以上の冷風が吹き上げてくる

シベリアトイレで、

さすがに、町の買い物を兼ねて出かけた時

ショッピングを兼ねて、済ませてきていた。

買い物に行くときは天気が良くても

1時間後には吹雪で、1メートル先が見えないのが、

寿町の思い出となっている。

スコップを外出するとき、2本、寮の入り口と、

道路への途中に突きさして、買い物に出て、

還ってくると、雪を搔きながら、

開かない入口に、スコップを差し込んで

テコの応用で、木製のガラスの入った玄関の戸を

こじ開けて、入った時もあった。

夏なら、徒歩、10分の所

冬場には、主人は、

病院に当直当番としての延長で

帰らない日が続いていた。

息子とは、言葉のいらない母子であったことが、

4歳になって、札幌に固定出来た頃には

話をしない息子に、、、気が付いた。

あわてて、保育園に、入れてもらうことにした。

幼児同士のコミュニケーションが

4歳になって、初めてとらせることのできる環境になった。

それでも、空気と感が働く、言葉より先に行動が出る幼児期には

しばしば、親として、

こどもの、こどもらしい時代のコミュニケを

犠牲にしてしまう事が余儀なく決行されていたことに

気が付いた時には、小学校入学マジカになっていた。

主人は「臨床の経験と実験で博士号を書き上げるという」

臨床医としては、地元に実家っがあり、

嫁さんの家も

北海道を知り尽くした、季節を凌駕した家でも

この、カリキュラムは、、、きついだろうという

北海道を知らない、、、疎開中に13年も南紀で生まれ、

小学校から、大卒まで、東京の御茶ノ水界隈で

人工都市に守られた私には、

八甲田山の行軍並の、

新婚から、長男の4歳までの7年間であった。

結婚の条件は、

54歳の時、前日の手術執刀を最後に、過労死した父の

「掲げられた『外科』の看板を守りたかった。

 

外科内科の東京の実家の看板を守ってくれる医師という

約束があったはずであった。

 

二男に生まれて、義母は、我が家のエースの息子を

あなたに差し上げます、、、と、

我が家に入る「サザエさんの、、、マスオさん医師になる事を

義母も、私が薬剤師であることを知ると、

地域医療の同志を求めていた実家の計画に異議は唱えなかった。

私の母は、再び、「内科外科」の新規出発に希望を持ったのか

未亡人の暗さはなかった。

実家が、開業医である以上、

一人の医師が博士号を取得するまでのサポートは

私の義務であると思って、前向きに、

厳寒の北国と闘いモードで頑張っていた若き日の事が

昨日のように、、、思い出される。

厳寒の留萌で、初めの男の子を流産した。

医師になる事、

世間に役立つ外科手術の

技術を取得する事しか見えない無給医!

付き合いをしないままで、

一人前の外科医を目指す主人にとっても

一心不乱の周囲が見えない時期でも有ったのだろう。

東京の実家は、

父の出身大学の同窓生も、若き内科医のサポートを買って出て下さっていた。

父が地元の東京の慈恵会医科大学の卒業生であったことは

見えない人脈を残して天国に行ったのだった。

父の姿はないが、同級生の親友が医師としては円熟の年齢であった。

頼りになる地区であった。

父の生前は

外科は父の専門。

内科は長男の専門の開業であった。

兄の同級生と従兄弟の義姉が結婚して

耳鼻科を日にちを決めて合流してくれていた。

戦争に従軍し、ボロボロの健康状態で帰還できた父には

13年という疎開が、復活の、第二の人生となった。

疎開が終わってから

無医村を去るとき、七か村の民家は空になる巳送りとなった。

地べたに、ペタンと座った老女が、

こどものように泣きじゃくり

先生、、、いかないで~~~と、

泣きじゃくっている姿を見て

弟は、小学校3年の、、、弟が、、

「お姉ちゃん!僕は医者になるぞ!!!、、、医者って、、凄いね!」

もらい泣きで、私も泣けてきた。

その後、、弟は千葉大の医学部を出て、

医学の道をまっしぐらに進み

痛みのない医療をめざし

がんの早期発見に貢献できるCTヤ、へりかるCTの開発に

日本のトレードマークのような東芝技術陣や、

後の東北大学にPf、として迎えられた技術者らと

円卓を囲み、知恵を出し合う、新しい医学への挑戦を試み

TVや単行本や、新聞に報道された記事で

姉の私は、、、、傍観者として、、、驚きの50年だった。

人は、、出会いであると思った、

弟が、市川平三郎先生に出逢わなかったら、

これほどまでに、次代のニーズに答えた医療が出来たかどうか、、、

自分も、がんセンターで、MRIや、CT検査を受け

健康管理には、大きな支えをもらいました。

医療関係者の中で育った私は医療界の知識に偏っていますが、

弟は実に、、、考えが新しい、

全てのジャンルが頭脳と技術と経済等々を出し合って

円卓を囲んで発展してきたがんセンターの

市川先生の指導を、折に触れては、感謝と感動で

姉の私に、電話してきた若き日の事を、今も振り返っています。

これは、疎開地の莫大な大いなる遺産が

父の、戦争体験と、復活と、一丸となって支え合う

村全体が、、、サザエさんの一家のように

助け合って、戦後を乗り切った努力を

背中で教えてくれた父の手は、

スタッフの居ない医療施設で、レントゲンの撮影、解読、読影、、

焼き付け、、、知識人は父しかいない疎開地の激務。

父の手は、未開発のレントゲンから漏れたX線被ばくで

潰瘍でサメ肌になっていた。

弟はCTの開発に従事しながら、、、

外科医がオペをしても、手遅れになるのは

レントゲンや、検診のすべてが、未開発だからだ。

千葉大の外科の医局を出て、市川先生の夢に

自分の人生の夢を重ね、艱難辛苦の貧乏に耐え

無給で、研究スタッフに飛び込んだとき、

医学を習得しても、未来の夢に捧げる開発部隊は

これほど、、、貧乏に耐えて、頑張るしかないのかと、、、

当時、弟の借家の唐紙に子供が大きな穴をあけて行き来する姿に

実家の兄が、父の遺産を弟に分ける余裕が有ったら、

日本の研究員は、もっと人間らしい生活をしながら

社旗貢献できたのでは?と思っている。

国立がんセンターに人生の夢を託して

無給で研究に飛びこんだものの、、

生活費に困り、出世払いという事で

私も、なけなしの生活費を工面したことがあった。

半年後に、正規スタッフとして、研究実績が評価され

弟から、返済金が届き、

私も、遠い北海道で、うれし涙が出て、一人でボロボロ泣いていた。

人の人生は一回しかない!、、

夢に行き夢を追う弟のまっすぐな性格が

実績となって、世間様に、貢献できて行くプロセスが

読売新聞や、TV番組や、柳田作家の単行本に出るたびに

私は、買ってきて読んでは、元気をもらっていた。

実家に医師を連れてゆくはずの結婚が

ミイラとりがミイラになって

主人の夢追う若者の応援団のような性格に振り回されて

とうとう、、、実家は閉院して売却して、主は老人福祉施設に夫婦で

終の棲家として、ルーツは途絶えたかに見えた。

しかし、、、弟は、教科書も書いた。

我が息子は大学で、弟の教科書を見ながら医師になっていった。

疎開地の同級生や同窓生からは

弟の事を、TVで観るたびに電話をくれる。

弟は日本中にお父さんの診療所を建てたぐらい

多くのがんの初期患者さんの診断で貢献できている。

実家が閉院しても、形のない形で

医療に生きたルーツは引き継がれて言っている。

開業の時代は終わったが、

我が家の父からの努力の綜合が

団塊の世代を育て、敗戦から立ち直り、世界の医療に尽くせる分野に

弟は、人生の夢の灯りを燈し、距離を飛び越えて

我が家らしく、世間様に貢献できたことを感じるのです。

先日も、大学時代の友人が、

「弟さんのおかげで、肝臓を切除して、復活して復職しました!」

梨の贈り物に、、、私は何もしていないのに、、、

姉だというだけで。、、、いいの?梨食べちゃうよ!!

弟に電話したら、、、お姉ちゃんの友達だって言っていたよ。と

治ってよかった!気力だね、自分で戦い勝ったんだよ!と、

弟はつぶやいていた。

 

もしも父が、疎開地にとどまっていたら

村の名士にはなっていたでしょう。

でも、勇気を奮って

捨て身で、東京に帰り、

弟を小学校から東京の教育を通して

亜米利加の教育レベルに達したから

個人財産は消えたけれど、

日本のCTやへりかるCTの開発や、検診制度の早期発見の

がんセンター研究検診検査センターの果たした創世記を

担当できた夢の実現は

実に、54歳の父が、東京に、、鮭が故郷に帰ってくるように

帰還した勇気が発端だったと、私は今も父に感謝している。

父の最後の頑張りで東京の学校に転校できた弟は

亜米利加の見えない指導が始まった東京に帰って来れたのであると

私的には思っている。

亜米利加の著名な医師が

弟の事を、肝胆膵における私の先生であると

英文雑誌に書かれた医療記事を読んだとき

弟が、ハーバード大学に居ることを知った、

兄は、ハーバード大学の参加している学会での発表に参加して

医師と医師という、アメリカ学会での出会いと

ダイナミックな夢を追い続けた弟を

手放しでそんけいしている。

しかし、、医師会や、仲間の医師の私的な会合では

「自分が世話した、、、」と盛んに、、、出れないストレスをアピールするのが、、」

弟が、兄を凌駕するのも、好い反面

兄を、言いたがり屋にするという、、気持ちが、、、痛いほどわかる。

私も、同じ母の胎内から生まれたとは思えないほど、、、

主人の「便利屋」「息子の○○ちゃんのオッかちゃん」

何処にでも居そうな「一人の薬剤師」

何もしないで過ぎた70年間でした。

父の苦労は、一部のもっとも医者らしい人に寄り添う医師が

孤高の人生の中で、患者さんに取り巻かれて、

にぎやかに見えて、いただけだったかもしれません。