今年は平成時代の過ぎて行く新年ですから、
皇居に民衆が集まって、感謝の心と、
皇室の皆様が両陛下のお出ましを真ん中に、新年のご挨拶のお出ましを拝することで
国民と一体になれる皇居前広場には、多くの人々の感激と感謝の顔がTVに大きく
映し出されたとき、そこには行けなかった茶の間の割烹着の主婦たちも
しばし、手を止めて、両陛下のお出ましをお待ちして、
平成の時代を感謝で振り返りました。
美智子妃殿下のお若くて美しいご聡明なお姿には、60年前の思い出が
昨日のように甦りました。
戦乱の中をご苦労にご苦労を重ね、
日本の文化の世界への合流の時代を
切り開き、島国の、300年も続いた鎖国の文化が
今や世界中に受け入れられて、
閉鎖的だった島国からは、
世界中に日本人の住む街もできました。
国民には永遠の謎ですが、
日本にべート―ベンの運命の楽譜とともに
クラシック音楽を、普及させてくれたのも
皇室のゆかりの方でした。
日本が戦争で、大きな世界の、想像できない既存のシステムの中で
鎖国という状態を無理やり開国へと誘導されて、
島国だった日本人の国際性に乏しい無知な部分を
国内に明治維新でグンユウカッキョノ勢力が
何千年もの歴史を国民とともにあり続けた心の居場所だった
やんごとなき方に、、、
政治の力がおぶさってしまったのではないのでしょうか?
大学の教養学部の政治学の授業で
天皇機関説???という難解な授業があり
私は落第点すれすれの、、、いまだによくわかっていない部分です。
昭和天皇は、人間として、忍耐のできる限界以上のご苦労をされて
玉音放送に、透き通る天の声で終戦を放送されました。
私の父も、母も、祖父も、知人は皆、地面にひれ伏して
終戦を受け止めました。
あれから74年、、、ほどになりますか?
平和な時代とは言っても
皇太子殿下の恋は、、、平和な時代の嚆矢でした。
美しい清楚で、聡明で、上品で、、、
この世に二人と居ない素晴らしい女性が
あの、、、戦後のドサクサだった日本の中で
黄金の稲穂が育っていたかの如く
日本のどこかで、育たれていたのだと、、、
びっくりもしましたが、
殿下が恋をなさり長電話をかけられた事実が報道されたときは
青春時代真っただ中だった私たちには、
皇室と国民との橋になられる皇太子妃に
あたらしい国、、、
日本の長きにわたる歴史とともにあり続けた皇室の扉が
国民に向けて開かれたような眩しさがありました。
二重橋をお渡りになって
国民の中から皇室のお妃さまが選ばれた驚きは
昭和の時代の恋の花が、国民の中にも咲きました。
戦争は、、、終わったのだと、、、実感した出来事でした。
戦争で荒れ地となった東京も、どんどん復活して
国際都市として、ますます華やかな発展を遂げました。
戦後の希望の花が咲いて、
皇室の王子様の誕生が
美智子様のお手で、お車の窓を開けられて
国民の王子様であることも感じさせてくださいました。
次にお生まれになった次男坊殿下の
天真爛漫な,お健やかなお姿には
報道されるTVを観ながら、思わず微笑みが出てしまいました。
天皇陛下の御幼少の頃は
御教育係に付き添われた、子供同士の天真爛漫なお姿は
報道はされませんでした、
大人たちに付き添われているお姿ばかりでした。
それが、次男坊殿下の御幼少の頃のお姿には
微笑みがあふれてきて
国民は「あ~~や」と愛称で呼んでいました。
美智子妃殿下の、国際的なご公務の大変な中でも
お子様たちに、テープでお声を残され
親の愛情の深さは、国民もお手本にしました。
日本の母親は、、、ややもすると
子供は母親の私物と取り違えるような風習も残っていました。
美智子様の御歌には
「あずかれる命にも似て、、」というようなお歌がありました。
その歌の力は、
私の「心の子育ての樹の根っこ」まで届きました。
子供たちは、次代を担う国の宝なのだから
華美な物事を控えて、
ありったけの努力で
国の宝になれるように、
社会に役立つ教育をせねばならないと
そして、
やがては、社会に受け取っていただけるように
心も育てねば、、と、、啓蒙されました。
親の元から飛び立って、
次の時代に適合できる育て方をせねば
社会にお返しすることが、躊躇われるようでは
親としては 子供を空に向かって飛び立つのを、、、見送れない。
自分たちの新しい時代に飛び立つ矢のごとく
親は見送るしかないのだから。
育児の卒業なのだからと、、、
目の覚める思いをしました。
私の母の時代は、
封建思想がまだまだ残っていましたので、
親は「子供は親の私物?のような教育が普通でした。」
天から預かった子供と言うよりは
男の子には、
「偉くなれ、、金持ちになれ。。総理大臣に成れ???みたいな、、、。」
親自身の価値観の中で、理解できる範囲で
自分自身の為になることしか、、、思いつかないような
島国根性が残っていた時代でした。
ご結婚前にも外国にいらっしゃったり
世界を旅されるスケールの大きなお心が
御歌にも感じられました。
美智子様の
国民にも開かれた育児のお言葉は
皇室の母となられても、
そのお考えは、
温かな思いやりと
凛とした母の愛のあふれる
雲上ではありますが、、、お手本でした。
陛下とともに、国民とともに
日本の平和が世界中に地球丸ごと尊重されて
動物のみならず、小さな生き物や
岩の壁にも負けずに咲いていた「浜菊」にまで
お心を示されて、
平成の時代には
戦争が起きなかったことは、
ご公務とは申せ、
誰も代わることのできない激務であったことは
国民の皆が、祈るような気持ちで
ご健康を心配していたと思いました。
「国民の母ともなられてゆく奉仕のお姿」を感じたのは
我が子なのに、、、
「あずかれる、、、」と読まれた語句に
私は若き時代に、感動したのでした。
あずかれる、、、
この語句には
なみなみならない美智子妃殿下の御決心と
決意と、
皇室と国民に、そして世界の平和にと
地球丸ごとの恵みの感謝を
稲穂の実りや、御手植えの樹木に表現されて
私は、森羅万象、、、その光を心で感じました。
やんごとなき、神代の時代から受け継がれた歴史とともに
日本の国にあり続けた、、、心の伝承が
世界の平和、
島国だった日本の、世界への共存共栄の時代へと
決してスムースには行かないアジアの国々の
イデオロギーの難解な問題も
核戦争だけは、
科学の力を
地球の破壊に使っていることだけは確かだから
日本が唯一の被爆国として
天に選ばれてしまった、、、世界の国の平和のための奉仕。
奉仕の人生の始まりの
長い長い、、、世界平和への旅、
天与の光が宿るお歌だと思いました。
皇室の世界各国との交流は
きっと、、、世界の平和への嚆矢となると信じています。
また、差別をされていた民族の血を
アメリカ人との混血の子として
人種差別を乗り越えた
大統領が、
日本とアメリカの被爆者の為に
広島に来られて、平和の鐘を共に祈ったのも
平成に時代の大きな平和への祈りであったと思います。
平成時代に、、、
子育てを出来ましたことを
感謝しています。
スーツのお姿の美智子様
お帽子の素敵な、
シンプルな香しいお姿は
、、、素敵、、、と思ったことは
忘れられない感動でした。
見せるファションではなくて、、、
魅せられてしまう
美智子様の美しさを、、、邪魔しないといえばよいのでしょうか?
その品の良さは
内面の輝きを
国民は、、、きっと、、、眩しく感じたと
私は,
見とれておりましたから。
美智子様が、もともと持っていらっしゃる
内面の美しさを輝かせるお洋服でした、
美智子様という天性の お姿を
邪魔しないデザインと言えばいいのでしょうか?
エレガントなスーツのお洋服は
美智子様の
理知的な
聡明な女性らしさを
少しも邪魔しない優しい、
しなやかなスーツのシルエットで
お帽子は、英知を柔らかく包み
優しさと強さとしなやかさのお母様のお姿でもありました。
日本の素敵が、
美智子様のファッションを観ているだけで、満たされました。
美智子様のお召しになられていたスーツと
お帽子が忘れられない、、、という
青春の思い出があります。
美智子様の若い日の美しいお姿が
皇太子殿下のお心を、どんどん、、、と開かれて
国民とともに、最も大変な
全国慰霊の旅に出られ、
国民の心の傷を癒され、
世界平和に向けての日本の在り方を
国民に感じさせてくださったのだと思うと、、、
「平成が、過ぎてゆく、、、」という思いは
わけがわからないのですが、、、
TVを観ていても、、、こみ上げてくる、、、何かがあって
私自身が、どういう感情なのか、、、
自分で、自分がわからないまま、、、
平成が過ぎてゆくという現実に万感の思いがあります。
国民とともに
いつも生きてくださった
両陛下の輝きは
その美しさは
日本独自の
ありのままの、
天与の白い透明な光のような
隅々まで照らしてくださった、、、何かなのだと、、、
平成の正月が開けてゆくのに 、
しんみりしては居られません。
孫子の代まで、
平和な日本を見守らなくては、、、
ダルビッシュや、大阪なおみさんや、
多くの日本人と外国人の二世が
世界と、日本の橋になって、
その優れた優秀な運動能力の遺伝を示し
鎖国は遠い昔の歴史となりました。
平成が過ぎてゆく新年を、
日本人としての心の在り場所のような
陛下とともに過ごした平和な時代を、
これからも引き継いでゆきたいと
心から願う新年でした。
皇居に民衆が集まって、感謝の心と、
皇室の皆様が両陛下のお出ましを真ん中に、新年のご挨拶のお出ましを拝することで
国民と一体になれる皇居前広場には、多くの人々の感激と感謝の顔がTVに大きく
映し出されたとき、そこには行けなかった茶の間の割烹着の主婦たちも
しばし、手を止めて、両陛下のお出ましをお待ちして、
平成の時代を感謝で振り返りました。
美智子妃殿下のお若くて美しいご聡明なお姿には、60年前の思い出が
昨日のように甦りました。
戦乱の中をご苦労にご苦労を重ね、
日本の文化の世界への合流の時代を
切り開き、島国の、300年も続いた鎖国の文化が
今や世界中に受け入れられて、
閉鎖的だった島国からは、
世界中に日本人の住む街もできました。
国民には永遠の謎ですが、
日本にべート―ベンの運命の楽譜とともに
クラシック音楽を、普及させてくれたのも
皇室のゆかりの方でした。
日本が戦争で、大きな世界の、想像できない既存のシステムの中で
鎖国という状態を無理やり開国へと誘導されて、
島国だった日本人の国際性に乏しい無知な部分を
国内に明治維新でグンユウカッキョノ勢力が
何千年もの歴史を国民とともにあり続けた心の居場所だった
やんごとなき方に、、、
政治の力がおぶさってしまったのではないのでしょうか?
大学の教養学部の政治学の授業で
天皇機関説???という難解な授業があり
私は落第点すれすれの、、、いまだによくわかっていない部分です。
昭和天皇は、人間として、忍耐のできる限界以上のご苦労をされて
玉音放送に、透き通る天の声で終戦を放送されました。
私の父も、母も、祖父も、知人は皆、地面にひれ伏して
終戦を受け止めました。
あれから74年、、、ほどになりますか?
平和な時代とは言っても
皇太子殿下の恋は、、、平和な時代の嚆矢でした。
美しい清楚で、聡明で、上品で、、、
この世に二人と居ない素晴らしい女性が
あの、、、戦後のドサクサだった日本の中で
黄金の稲穂が育っていたかの如く
日本のどこかで、育たれていたのだと、、、
びっくりもしましたが、
殿下が恋をなさり長電話をかけられた事実が報道されたときは
青春時代真っただ中だった私たちには、
皇室と国民との橋になられる皇太子妃に
あたらしい国、、、
日本の長きにわたる歴史とともにあり続けた皇室の扉が
国民に向けて開かれたような眩しさがありました。
二重橋をお渡りになって
国民の中から皇室のお妃さまが選ばれた驚きは
昭和の時代の恋の花が、国民の中にも咲きました。
戦争は、、、終わったのだと、、、実感した出来事でした。
戦争で荒れ地となった東京も、どんどん復活して
国際都市として、ますます華やかな発展を遂げました。
戦後の希望の花が咲いて、
皇室の王子様の誕生が
美智子様のお手で、お車の窓を開けられて
国民の王子様であることも感じさせてくださいました。
次にお生まれになった次男坊殿下の
天真爛漫な,お健やかなお姿には
報道されるTVを観ながら、思わず微笑みが出てしまいました。
天皇陛下の御幼少の頃は
御教育係に付き添われた、子供同士の天真爛漫なお姿は
報道はされませんでした、
大人たちに付き添われているお姿ばかりでした。
それが、次男坊殿下の御幼少の頃のお姿には
微笑みがあふれてきて
国民は「あ~~や」と愛称で呼んでいました。
美智子妃殿下の、国際的なご公務の大変な中でも
お子様たちに、テープでお声を残され
親の愛情の深さは、国民もお手本にしました。
日本の母親は、、、ややもすると
子供は母親の私物と取り違えるような風習も残っていました。
美智子様の御歌には
「あずかれる命にも似て、、」というようなお歌がありました。
その歌の力は、
私の「心の子育ての樹の根っこ」まで届きました。
子供たちは、次代を担う国の宝なのだから
華美な物事を控えて、
ありったけの努力で
国の宝になれるように、
社会に役立つ教育をせねばならないと
そして、
やがては、社会に受け取っていただけるように
心も育てねば、、と、、啓蒙されました。
親の元から飛び立って、
次の時代に適合できる育て方をせねば
社会にお返しすることが、躊躇われるようでは
親としては 子供を空に向かって飛び立つのを、、、見送れない。
自分たちの新しい時代に飛び立つ矢のごとく
親は見送るしかないのだから。
育児の卒業なのだからと、、、
目の覚める思いをしました。
私の母の時代は、
封建思想がまだまだ残っていましたので、
親は「子供は親の私物?のような教育が普通でした。」
天から預かった子供と言うよりは
男の子には、
「偉くなれ、、金持ちになれ。。総理大臣に成れ???みたいな、、、。」
親自身の価値観の中で、理解できる範囲で
自分自身の為になることしか、、、思いつかないような
島国根性が残っていた時代でした。
ご結婚前にも外国にいらっしゃったり
世界を旅されるスケールの大きなお心が
御歌にも感じられました。
美智子様の
国民にも開かれた育児のお言葉は
皇室の母となられても、
そのお考えは、
温かな思いやりと
凛とした母の愛のあふれる
雲上ではありますが、、、お手本でした。
陛下とともに、国民とともに
日本の平和が世界中に地球丸ごと尊重されて
動物のみならず、小さな生き物や
岩の壁にも負けずに咲いていた「浜菊」にまで
お心を示されて、
平成の時代には
戦争が起きなかったことは、
ご公務とは申せ、
誰も代わることのできない激務であったことは
国民の皆が、祈るような気持ちで
ご健康を心配していたと思いました。
「国民の母ともなられてゆく奉仕のお姿」を感じたのは
我が子なのに、、、
「あずかれる、、、」と読まれた語句に
私は若き時代に、感動したのでした。
あずかれる、、、
この語句には
なみなみならない美智子妃殿下の御決心と
決意と、
皇室と国民に、そして世界の平和にと
地球丸ごとの恵みの感謝を
稲穂の実りや、御手植えの樹木に表現されて
私は、森羅万象、、、その光を心で感じました。
やんごとなき、神代の時代から受け継がれた歴史とともに
日本の国にあり続けた、、、心の伝承が
世界の平和、
島国だった日本の、世界への共存共栄の時代へと
決してスムースには行かないアジアの国々の
イデオロギーの難解な問題も
核戦争だけは、
科学の力を
地球の破壊に使っていることだけは確かだから
日本が唯一の被爆国として
天に選ばれてしまった、、、世界の国の平和のための奉仕。
奉仕の人生の始まりの
長い長い、、、世界平和への旅、
天与の光が宿るお歌だと思いました。
皇室の世界各国との交流は
きっと、、、世界の平和への嚆矢となると信じています。
また、差別をされていた民族の血を
アメリカ人との混血の子として
人種差別を乗り越えた
大統領が、
日本とアメリカの被爆者の為に
広島に来られて、平和の鐘を共に祈ったのも
平成に時代の大きな平和への祈りであったと思います。
平成時代に、、、
子育てを出来ましたことを
感謝しています。
スーツのお姿の美智子様
お帽子の素敵な、
シンプルな香しいお姿は
、、、素敵、、、と思ったことは
忘れられない感動でした。
見せるファションではなくて、、、
魅せられてしまう
美智子様の美しさを、、、邪魔しないといえばよいのでしょうか?
その品の良さは
内面の輝きを
国民は、、、きっと、、、眩しく感じたと
私は,
見とれておりましたから。
美智子様が、もともと持っていらっしゃる
内面の美しさを輝かせるお洋服でした、
美智子様という天性の お姿を
邪魔しないデザインと言えばいいのでしょうか?
エレガントなスーツのお洋服は
美智子様の
理知的な
聡明な女性らしさを
少しも邪魔しない優しい、
しなやかなスーツのシルエットで
お帽子は、英知を柔らかく包み
優しさと強さとしなやかさのお母様のお姿でもありました。
日本の素敵が、
美智子様のファッションを観ているだけで、満たされました。
美智子様のお召しになられていたスーツと
お帽子が忘れられない、、、という
青春の思い出があります。
美智子様の若い日の美しいお姿が
皇太子殿下のお心を、どんどん、、、と開かれて
国民とともに、最も大変な
全国慰霊の旅に出られ、
国民の心の傷を癒され、
世界平和に向けての日本の在り方を
国民に感じさせてくださったのだと思うと、、、
「平成が、過ぎてゆく、、、」という思いは
わけがわからないのですが、、、
TVを観ていても、、、こみ上げてくる、、、何かがあって
私自身が、どういう感情なのか、、、
自分で、自分がわからないまま、、、
平成が過ぎてゆくという現実に万感の思いがあります。
国民とともに
いつも生きてくださった
両陛下の輝きは
その美しさは
日本独自の
ありのままの、
天与の白い透明な光のような
隅々まで照らしてくださった、、、何かなのだと、、、
平成の正月が開けてゆくのに 、
しんみりしては居られません。
孫子の代まで、
平和な日本を見守らなくては、、、
ダルビッシュや、大阪なおみさんや、
多くの日本人と外国人の二世が
世界と、日本の橋になって、
その優れた優秀な運動能力の遺伝を示し
鎖国は遠い昔の歴史となりました。
平成が過ぎてゆく新年を、
日本人としての心の在り場所のような
陛下とともに過ごした平和な時代を、
これからも引き継いでゆきたいと
心から願う新年でした。