昭和35年ごろのお話です
区域違いの中学校に
迷いもなく入学したのは
一中の校門の前には。公立の図書館があった事!
和歌山県の疎開地から6年生になって転校して
祖父や父の生まれ故郷の東京にヤッテ来たものの、
父母のおかげで、勉強だけはクラスでトップになれたものの
ど田舎っぺの私に、、、先生も生徒もいきなりクラス委員を任命。
地元の歴代の級長は、面白いわけがないですよね。
何やかやと、、、知識を試す、、、。
毎朝、毎朝、学校に行こうとやってくる。
父上が医者だったとか、、、、
戦争で、亡くなられたそうで、
お母様は、女で一つで、
お婆ちゃんと娘を養っているとか。
凛としたプライドがあり、
自分の家に招いてくれた。
お母様がたまたま、、、自宅にいられた日曜日だった。
凛としたお母様で、親子は下町には似合わなかった、
お姉さんというのは、フェへリス女子大、、、
田舎っぺの私は初耳の女子大であった。
下町の、初めての開業で、
市ヶ谷のお屋敷で育ったはずの父は
私の田舎っぺとは、真逆の意味で
交際にはへとへとになっていた。
幸い父が標準語だったおかげで
一部のアクセントを除外しては
「ヒ」と「シ」の混乱する学友を
笑うのは私の方であった。
一年後、中学に進学の時、
正門前に公立の図書館があるのを知った。
母も私も「本」が好きだった。
一切の常識は却下!
第一中学校に進学した。
知人は一人もいない。
転校生を2度体験したような気分だった。
とりあえず、勉強をしっかりやっていれば
いじめられっ子にはならない。
陸上競技のクラブに所属すれば、
体力満点の体育の先生が後ろ盾同様になる!
そして、図書館では、
友人を作るより手間暇居要らずの本音の吐露本がずらり!
3年間で、読破するのは常識文学の文学シリーズ。
一日おきに、外国の名作と言われている常識文学。
3日目には、世界地図や、世界の大都市
4日に目には童話、
5日に目には音楽と詩
3年間あるのです!
母も一時に5冊も借りて
3日間には全部返済という、、、スピード読者だった。
母はすごいスピードで読むのに
読書感想の短文をこまめに書いたノートを重ねていった。
中学3年間は、、、本ばかりにかじりつきながら
何も考えないで過ごした3年間だったように思える。
つづく
母の言葉を借りると
「お父さんは、、、視たことが無いような、、、
出逢ったことが無いような、、、お人よしだそうです。
終戦後の復活の時期でもあり
親戚一族皆、やっと生きている状態の
日本庶民全員貧乏時代だった。
我が家はそれでも、東京の国鉄徒歩圏12分という
旧いお寺の跡地の600坪ほどの敷地に
半分以上が、、、古池だった。
病院の敷地としては少し狭いが
業者さんに頼んで、
今となっては古池の引き取り手も居ないので
埋め立てて、駐車場にする予定だったとか???
埋め立てたとたん、買ったはずの土地が
不動産屋さんは、お金を戻すから池の埋め立て地を
売らなかったことにしてほしい、、、と、
お金を戻してきたのだそうです。
いろいろの計画は、240坪の敷地では割愛という事で
15人ほどの入院のできるクリニックとして
出発した。
復員してきた叔父さん家族も6人、、、
開院早々から、同居、
古寺を見つけてくれた、学徒出陣から帰還して
早稲田に通いながら、此処で生活していたという
父の10歳若い弟にあたる叔父さん夫婦。
叔母さんは美人で小学校の先生をしていた。
叔父さんは早稲田の理工学部を卒業して
東京都の古寺から30分ほどの中学校の先生をしていた。
父も、母も、叔父さんが居るという古寺に
子供たちと、一足早く、進学の為に引っ越してきていた。
母子の東京入りは心細かろうと、、、
親戚や知人の息子の大学生やらが
どんどん、、、まだ、、、患者さんの来ない
空き部屋に住み着いて行った。
人間関係が、
極めて、微妙に、不思議にうまくいっていたように
幼かった私には見えました。
持ちつ持たれつの戦後の復興期だけに
廊下ですれ違っても、笑顔で声を掛け合った。
叔母さんは、自分の家族の食事ばかりではなくて
同居している大学生の食事まで気を使っていた。
15人以上、、、いつも食事時にはいたようでした。
母が幼馴染の宮大工の所で仕事をしたと、自慢していた知り合いを
長期にわたって、離れに住んでもらい、
医療施設の特殊な施工を、住み込みで
かかりきりで建築してもらっていた。
戦後の下町は、本当にびっくりするような
ボロボロの家並みが続いていた。
駅の向こう側には
パレス、、、と、
子供たちが言っていた木造の2階立ての団地が並んでいた。
6年の時に、兄弟、親子、、、、、心中事件があり
新聞記事にもなり、、、胸が締め付けられる苦しさを味わった。
戦後の復興期には
我が家も、医療費を支払ってくれる患者さんは
7割ぐらいだったそうである。
手術で入院して、2週間も入院していながら
ある日突然、入院室から姿が消えていたりもした。
人生の前半が、市ヶ谷の旧家で
高校大学と私立に通った坊ちゃん暮らしの父は
富国強兵で、良いんだか悪いんだかわからない時代に
戦争に翻弄されたばかりではなく、
まだ子供だった叔父さん(父の弟で末っ子)を背負って
関東大震災で火の海になっていた地獄の中を
妹たちと二人、弟二人を誘って、
火のないところに避難するという
ありえない、、、災害にも遭遇している。
「お父さんの肩には歯形が残っています。」
関東大震災で幼い弟を負んぶして避難したとき
叔父さんは今こそ早大卒業して先生をしていますが
関東大震災の時は幼かったので
兄である私の父の肩に噛みついていたそうです、
市ヶ谷のお屋敷の坊ちゃまだったなんて、、、
私には想像がつかないほど、
父は苦境の中を、一族抱えて走り切ったと、
感謝しかありません。
慈恵会医科大学で、
泌尿器の研究をしていて
、論文が完成して
大学に残るつもりだったそうです。
所が、外科の医局に居たそうで、
戦争が、起きるわけですから
外科医師は、戦場に行くのは仕方がありませんよね。
産婦人科に入局していたら
戦地に行かずに済んだのでしょうか?
、、、たぶん、、、医師は皆、
国にご奉公という時代だったのではないでしょうか?
医師だからといって
メスだけ持てばよいというわけではなかったそうです。
銃砲を背負って、地面を這う訓練にも
参加したと言っていました。
兵役に戦地の外科医として、
選ばれたのは、戦地には地元の医師しかいなくて
外科のメスを持てる医師は居なかった為だと聞いています。
銃創を手当てできるイギリス医学を学んでいたがゆえに
激戦地の至近距離の
総合病院の院長に任命されていた。
戦地の国には
大学病院らしき施設もあったそうですが
漢方医なのでしょう、、、か?
外科の医局は無かったそうです。
外国の医師は漢方医だったこともあり、
手術は全くできなくて、
指導に明け暮れた兵役だったそうですが
戦争も、終戦近くなると、
野戦病院で、敵味方無く
寝る暇もない砲弾の音の中で
空しく死んでゆく兵士に
「先生、、、大丈夫ですか?」と問いかけられたとき
「大丈夫だよ、、、ひと眠りしなさい、、、」
「ありがとうございます、、、」
兵士はしっかりと父の手を握って
安らかに眠りはじめ、、、
とうとう、、、起きては来なかったそうです。
敗戦色が濃くなった昭和19年8月
軍医は最後の連絡船に乗って帰国してよいという
日本からの命令で、
祖父が、戦地まで、娘夫婦を迎えに行ったと
御爺ちゃんは、言っていました。
危機一発!助かって、
本土爆撃の激しい中を、
紀州の山奥に、川をさかのぼって
疎開したのでした。
こんな経験を重ねてきた父は、
村人の、引き留めに、一年、、、又、一年と。
13年間も疎開地に居たことになります、
村では父は戦地同様、
全科に渡る患者さんを受け入れ、
京都大学の教えを受けながら
「医師をすること」の激務を
誰しもが感じるほど、、、
診療行為を続けていました。
家族より2年ほど遅れて
疎開地の診療所を引き払って
東京に向かう日には、
あたりの道は
七か村の無医村状態の疎開先だけに
かって診察したり治療した
患者さんの家族で埋め尽くされていました。
村人が道路にペタンと座り込んで
泣くのを
父も、眼を潤ませて、
疎開地を後にしました。
私たち子供の戦後の教育を受けさせるために、
東京に開業という、、、
戦後の立ち直りの為の激務が始まったのでした、
開業してからも、
全力で治療しても踏み倒してゆく患者さんを
追いかけて、請求することはしませんでした。
「いつの日か、、、お金が出来たら、、、払いに来るだろう、、、」
居候は8人と、大学生が2人、従業員は看護師さんと
レントゲン技師、准看さん、台所係のおばさんが3人、、、
居候の3人姉妹は母と仲良しで
私が話があるからと、母に近づくと、
3人で母を取り囲んで、母も、上機嫌で
楽しい時間には、完敗の母でした。
娘以上に姪っ子たちを可愛がって、
母は幸せだったのだと思います。
実の娘の私には、
義務というノルマを感じても
姪っ子たちの3姉妹は
母の最高の元気をもらえる時間だったのでしょうね。
大勢の同居人と暮らした戦後も
カレーを食べなさいと言う首相が現れてからは
日本はぐいぐいと景気が良くなり
居候の皆さんは
家を買って出てゆきました。
ホッとしたとたん、、、父は過労死、、、54歳。
戦後を、一人で背負っていてくれたのは
父だったのですね!
皆で寄ってたかって、復員してきた父の奮闘を
知ってか知らないでか゚?
気が付かないほど、
皆、、、心が貧乏で、、、
我が身の都合しか考えられないという、、、
心に、「ありがとうの一言の言える隙間」すらない、、、
ある所から、、、とるだけの時代だったのですね。
戦後の貧乏、、、物の話では解決できない、、、
貧乏な心って、、、本当に怖いと思いました。
誰が悪いんでもない、、、
心が貧乏で、
一家心中させないためにも
来る人は拒めなかった。
去る人に、、、
お金を払っていきなさいとは、、、
言えない時代だった。
健康保険制度が始まり、
月末の請求事務を手伝いながら、、、
50を過ぎた父には、請求事務は気の毒で、
家族が皆で手伝った。
税制が優遇の時代だったから、乗り切れたものの
現代の開業であったら、、、
一家心中は、
我が身に起きていたかもしれないと
ひやりとする。
開業とか、医師とか、自営とか、
見た目が個人を羨ましがらせる時代であった。
親戚も、祭りも、町内の寄付も、
親しい人の請け判も、
最終的には、
お人よしと母があきれるだけあって
全部受けて立っていた父は
まるで、
明日にも目覚めるような
若い、、、54歳の医師生命を、、、
疲れて眠りながら、、、起きてこなかった。
54歳から、円熟した社会奉仕の医師のピークが続くのに、、、
医師という、
皆に貢献できる腕を持ちながら、
戦後の、親戚の家庭まで背負って、
患者さんには、請求しないで、、、
気持ちもがっくりだったと思います。
商魂も、欲も 見栄も無い父でした。
しかし、
戦後のアメリカやヨーロッパの進んだ教育が
東京にはすでに上陸して居ることを知っていた父は
これからの日本人は
アメリカやヨーロッパの教育を受ける東京に帰るべきだと思っていた、「
でも、、、疎開地に居れば
父は80歳まで健康だったかもしれません。
54歳で過労死することはなかったのではよ
40歳過ぎての、東京の下町での開業と、
進学の為に、一族の学生を
全部引き受けて、、、生活も、学資も
一手に引き受けて、、、思い起こせば、、、
廻りは、
父から受け取ることが
当たり前になっていた。
これ以上の、、、貧乏な心って、、、在るだろうか?
欲しい人、与える人、、、
ギブ,、、AND テイク
今の日本は、心が貧乏でなくなりました。
皆、、、ありがとう、、、を言えるようになったから。
お父さん、、、ありがとう。
貴方は、、、私の中ではいつでも、生きてくれています。
一生、、、勉強の手は、、、止めるんじゃないよ、、、、
貴方の言葉は、私の呆けるのを、食い止めてくれています。
行ってきます!!!
これから、です。