花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

今年最後の買いだめでス。

2021-12-27 21:51:33 | Weblog

正月元旦は我が家で、免疫強化のお雑煮を用意するかな?

  いつものマーケットに

2時ごろ車で出かけた。

  あれこれ迷っているうちに、

   買い物客が増えてきた。

急いで買い物しないと、、、

 

  いつも、牛乳は2本買う。

 北海道の酪農家の苦労してつくった牛乳が

   コロナのおかげで、、、休みの多い小中学校の給食に

     牛乳の販路が途切れたりしているため

  栄養満点の、上等の免疫もつくだろう牛乳が

   目の前にいっぱい並んでいる。

 

 5時を過ぎるころには、、、売れてしまうのだろうと思うが

   2時ごろの買い物は、

        正月料理の材料の所に人が多い。

 

  今日は、、、牛乳を買おう!

私も、当分牛乳を飲むことにしました。

 

主人の、、十勝牛乳や、、

   本人がいつも買ってくる町村牛乳

 

そして今日は、

        私自身の膝が良くなるようにと

           十勝よつ葉牛乳を買った。

 

 

昭和10年代の戦前や、戦中に生れた我ら夫婦は

   牛乳のありがたさを

     身にしみて知っている。

 

何処の母たちも

   茶粥に サツマイモが入った食事とか

      五穀豊穣米とか、、、

        ヒエとか 粟のことやんけ、、、

          オコシ菓子にしてくれたっけ、、、

 

        戦後の荒廃した日本では

  牛乳が飲めるなんて、、、おだいじんだ~~~ね。。

              

      疎開先の山奥でも、

    我が家の私より8歳年上ですが

       疎開中の時はまだ、、、

 

        10歳になっていない長男が

     10頭の山羊を飼って

             

       疎開地の村の診療所の 炊事場のお姉ちゃんたちも

     山羊の乳しぼりを手伝っては

 

     戦中に生れた妹の私や、、、年子の兄の

       母乳に変わるものとして

          山羊の乳を搾って飲ませてくれたそうです。

     このことは、私が成人式を終わってからも

       兄貴本人から、、、何回も言われて

         結構、、兄は、、ヤギ10頭を買うのが辛かったのだろうね、、、

     晩年、、、内科医になる様な兄が、

                

            得手勝手の全く違う方向の

         山羊を飼っていたなんて、、、

            苦手な仕事だったのだろうと、、、推測出来た。

 

     戦争で乙と2人 妹1人 失っている兄は

         10歳という少年にも関わらず

           戦場の大将のように

                弟妹や、母や 村の診療所の食品や

                  牛乳には、管理の心が 大人をも動かしていた。

 

     3歳になるかならない私の牛乳を

          墓場を通ってお百姓さんの所に

            貰いに行ってくれたと、、、

              大人になってから、母から聞いた。

 

     「お兄ちゃんはね、、、お墓のいっぱいある竹藪の中を通って

        ≪勝ってくるぞと ̄~勇ましく~~!!≫

        大声で歌いながらね

         みんなが飲む牛乳を取りに入ってくれたんだよ。」

 

      晩年になって、、、母が、、、ふと言っていたことを思い出します。

 

       戦後の、、、生活の中では

         新しい時代の子として

           戦争を知らない弟が

               疎開地で生まれたことが

                 日本復活!!

                   もう一度、、戦争のない日本を復活!!

 

      疎開地の大人たちは、皆、未来に向けて、生きると力!!を

         新生した、男の子から、女の子から、、、受け取った時代でした、、、ね、。 

 

 

       戦後の団塊の世代に、疎開先で生まれた弟は

       牛乳が届く時代になっていた。

       昭和23~~4~5年になると

         進駐軍の姿はもう、、、山の中までは遣ってきても

         バターやチーズやチョコレートの配給とか、   

        子供たちは、ジープを追いかけるほど

          アメリカは、兄貴分の国として

           子供たちは戦後の価値観を手探りし始めていた。

  祖父が、、

     アメリカから引き揚げて来て、

      たのまれ村長を引き受けたり、

        校長先生を引き受けたり

         東京から「医師」を無医村に連れてきたことで

           村落の協力を得て

          村長時代には

         戦後のアメリカに追いつき追い越せの勢いで

        都会から疎開してきた人たちが先頭に立って

       村落に、文化の導入が盛んになり始めていました。

     写真に写っている「吊り橋」は、、、

       祖父が村長をしているときに、

        架けられたもののようですが

          

 

         現在は取り壊されて、、、別の鉄橋がかかっていました。

       祖父が自ら戦場まで行って

         帰国のチャンスを逃さないで、、、本国に帰れた娘夫婦。

       父は、七カ村、、あたり一帯が無医村という

         ちいさな村立の診療所に

             医師として、

         此処に、、13年間も住んだのでした。

           

 

東京から来た名医さんだという事で

   診療所の周りには

        急速に,,,

 

人口が増えたからスゴイ、、、スゴイ

 

     

 

診療所には、アメリカから、バターや、チーズが届くことを

 

     私は幼かったから、

        ずーと後になって

          祖父から聴いた。

       

父は診療以外には、家族と話す機会が少なくて

      ほとんどの事は、

       診療所にはたらきに来ていた

        「おばさん」から聴いたのでした。

 

  「先生の奥さんの代わりにの

     私が、母乳を飲ましたんよ。。。」

 

そのうち、

   牛乳が、配達されるようになったけれど

  奥さんが、

    必ず沸かして、、、

      白い幕が出来た牛乳だけ飲ませてというので

         夏になると、幕が張らなくなった牛乳は

      畑にまいて、もったいないからねって、、、」

 

日本人はチーズの作り方を知らなかったので

   冷蔵庫が、氷を入れる式のモノだっただけに

     せっかくの牛乳も

   肥料になってしまう事もあった。

 

牛乳の腐敗したものは、、、当時の社会には

   赤痢菌やネズミがばいかいするペストなどの警戒から

  必要以上に「沸かして飲む」ため、、、

     肝心の栄養がダメになってしまったり

貴重品の牛乳は、、もったいない結果になっていた。

 

長男で在歳年上の兄は

     小学生の時に

  10頭の山羊を

   まいあさ河原に連れて行って

     草を食べさせてから

       学校に行っていたそうです。

 

私が3歳ぐらいになったとき

   山羊に子供が生まれて、、、

         私にくれたそうです。

 

   ある日、家族が村を離れて

        新宮だったか?田辺だったか?

          親類の家に冠婚葬祭で

            父母とも出かけたことがありました。

 

産まれたばかりの山羊を

  七川、、、とかいった村の

         診療所によく来ていた叔父さんの家に預けて

           おおきい大人の山羊は

      診療所の職員さんが

        刈り取った草をやってくれることを頼んで

     皆で泊りがけの、、、イベントに行ったことがありました。

 

3日ほどたって帰宅して

  可愛い山羊さん迎えに行くから、、、と

     三輪バタコに乗せてもらって

       七川まで行ったのでした。

 

しかし、、子供の山羊は、、、、、、、居ませんでした。

 

  父も母も、、、

   自分達に思慮がかけていた事を、、、私に話してくれました。

「この、、、食料難儀の時代に、、、

       生れたばかりの子山羊を

     家族の多い家に、、、

        大家族なので、、、誰かが子山羊の世話をしてくれて

           迷子の山羊にならないようにと

          見てくれる条件だと思って

         預けたのは、、、

           我が家の様な,、医師の家族で

            仕事上、、、食べ物には貧困になっても

          村の組織が配給米を持って来てくれたり

           魚屋さんや、肉屋さんが

           患者さんとして、診療を受けた代金は

         商品のマグロやカツオ、、、牛肉や豚肉、時には鶏肉と

       勝ってた鶏を、、追いかけまわして

          肉にして持って来ては、、、診療代金の時代でした。

        我が家は、、、それなりに、、、食べ物に困らない日々が続いていた。

 

         怒るんじゃない,、、よ、

              

   せっかくもらった子山羊の姿が居なくなった記憶は

     70年以上過ぎた今も

   思い出すのです、。。。

 

   牛乳を捨てたり、、、無駄にするなんて、、、

     平和ボケも、、、はなはだしい、、、と思ってしまう

        昭和生まれなのです。

 

  

     

    北海道の知事さんの作戦に、、、心から温まるものを感じました。

 

私は、、今日は牛乳と、乳製品を買いに行ってきましたよ。

   正月は、、、チーズもそろえることにしました。

 

後は、、、明治のブルガリア

  メグミルクのヨーグルト3連を3本

  森永の飲むヨーグルト ドリンクと

   ついでに、、、森永のコラーゲンドリンクをとってみた。

 

     膝の痛いの治るかな??

      70過ぎた老女の膝には

       コラーゲン刃がたたないかな??

     つづけてみるかな??

 

         

正月は、、飲んではTV、、、飲んではTV

     ヨーグルトをtべてはTV,,

       ギュウニュウ漬けの正月になりそうでス。

       

雪掻きと、、、牛乳の

  平成22年に向けて

    真っ白な毎日になりそうです。

                     

                

北海道の知事さんも、酪農家の皆の努力が

   休校などで、、、牛乳が余ってしまわないように

    ギュウニュウの交換券などを配られたようですね。

 

  券が廻って来なくても

    来年に向かって

      主人の牛乳生活に

        私の牛乳生活も

          本日から追加することにしました。

            北海道の牧場で

              乳牛が居る景色は

                  愛にあふれていて

        北海道から、無くしてはいけない風景だと思います。

          

 料理にも使って、、この栄養のある牛乳は、

    無駄にしたくないですよね!

 

       シチュウも、

          ギュウニュウたっぷり入れて、、、

            暖かい正月にすることにしましょう。

 

   私が子供の頃は、、、牛乳は瓶に入れられて

      何処の家も、配達されてきた牛乳を

        瓶で飲んだものですが

           紙パックになってKラは、、軽いのでいいですね。

北海道の牛乳は本当に、、、美味しいです。

 

       今日も雪かきで早朝3時に除雪車が来てくれました。

          眠い ̄~~。。おやすみなさい。。。

  

   コロナストップの、、、体力作りになるといいですね。