枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

立春・原爆イネ

2013年02月04日 | Weblog

 現代農業の記事に、モノトーンの写真があり、釘付けになった。“昭和二十年八月九日、長崎で被爆したイネは六十七年たった今も不稔になる” 透きとおったモミは不稔 の注釈もある。命という物には、自ずとは云わないでも、歴史を証言することができる。

 ひっそりとではあるが、そういった取り組みをされ、受け継がれて来た人々が居る。だが、存在すら知らなかったことが恥ずかしい。福島の惨状もさる殊ながら、広島と長崎に落ちた原爆の威力は、今尚、逃れられない苦しみを人類に課している。

 そのことに気づかせてもらえたことは、何よりもありがたい。自然の恩恵を受けて、この地球に棲むことの意味を、改めて考える。神の諭すところは誰も知らない。一瞬にして命を奪われた人等は、何等落ち度の無い人々である。化学の力は容赦ない。

 人間が、人間のために開発していく分野には、人類の命を延ばしたり、永遠のものへと近づける医療関係もあろう。難病という病には、高額な医療費がかかる。けれどもわが子の命を助けたい一念の、親のこころもわかる。戦後腹を括る考えが少なくなった。

 お金があれば何でもでき、金儲けのためなら、相手を騙してでも儲ける。例え捕まったとしても、堀の中では安泰に暮らせる。人を殺しても時効まで逃げればいい。運悪く捕まっても、弁護人から知恵をつけられ、真実を語らない。無実を訴える。

 こういった人間の姿をした生き物は、ほんの僅かではあるだろうが居る。窮鼠猫を噛む。ということもある。誰しも、追い詰められた状況になったらわからない。冷静に且つ、的確な判断ができる人間がいる方が怪しい。周章狼狽するのが一般庶民ではないか。

 お金がないことはありがたいのか、働ける体があることを贅沢に思うのか。はたまた、他人とは言え、お互いを案じれられる幸せを、神に感謝する。遠く離れていても、心が通じ合えることにも祈れる。それにつけても、生きることの難しさである。上の孫の誕生日。

 先月の上京時に、新幹線の車内から見えた富士山。同じ車両の何人かが、感嘆の声を上げシャッターを押していた。

コメント
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