枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

星は語る・・・

2011年05月21日 | Weblog

 Aさんちからの帰路、夜空の瞬きが観えた。我が家に着いて見上げると、北斗七星が北の宇宙に輝いていた。久々に観る星空であった。明日は晴れる。昨夜はとても寝苦しく、中々寝付けなかった。朝起きると雨が降っていた。一日中、湿気の多い日であった。

 勤務を終えて、Aさんちに行く。ちょうど買い物から帰って、夕食の準備に忙しい時間であった。裏の枇杷葉が気になっていたので、寄ってみた。枇杷葉の葉は青々と茂り、そこに大きな青い実が見える。ざっと見渡しただけでも、悠に100はある。

 Aさんにも確かめてもらい、後日袋かけに行くことにする。枇杷葉の植わっている場所の、条件も良いのだが、大人の親指を一回り越えた大きさだ。土質もいいが、光合成の状態がすこぶるいい。安心して帰ろうとしたら、お嫁さんが乳腺炎らしいと言う。

 安全運転で、急遽家まで帰り、きらん草を取って来る。直ぐに取って返し、薬缶に1パック入れ煎じる。赤ん坊はお腹が空いてむずかる。乳を含ませながら、熱のある乳房に触る。熱の固まっているのが視える。当てているだけなのに、電気が吸い込まれる。

 赤ん坊が急に乳房を離した。と、母乳が堰をきったようにほとばしった。まるで呪縛が解けたように、白い乳が噴出す。赤ん坊を抱き取って、熱のある母乳を搾ってもらう。みるみる茶碗に溜まっていく。搾った母乳は、南天の木の根元に、預かっていてください。と頼んでうつす。

 きらん草は苦いのだが、それさえ我慢すれば、解熱効果があるため、乳腺炎にはとてもよく効く。子どものちょっとした熱冷ましにもいい。枇杷葉の葉を、頭に載せるのもいいのだが、母乳で与えるのが手っ取り早く無難である。初期の段階であったのも、功を奏した。

 サンタさんの枇杷の木です。家の軒の高さになったので、これ以上は高くならないようにしなくっちゃ。品種は、淡路田中です。今年は花がつくかしら?

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小さな親切・・・

2011年05月20日 | Weblog

 旧暦を知っていれば、四季の行事が滞りなくできる。或いは、雨の心配をしないで楽しめる。ところがそういった事象を知らないで、人間の都合勝手で決めると、事故に繋がったり、病気になったりする。私は、資格自体は持ってはいないが、不思議と当たるのも、潮の大きさや、満干潮、また暦に書いてあることを第六感でわかってしまうからだ。

 先日もAさんに話したことだが、地球は自転し、公転をする。惑星の軌道も周っている。月との関係もある。重力や遠心力があり、潮の巻き方と大きさ、加わる引力にもよろう。科学的な物証は知らない。けれどもある種の予感がするのだ。危険信号が点滅する。不味いことに一瞬だが視える。言わないで事故になるよりも、大事を少時にできれば。と・・・

 まあ、そういった事例を、誰もが信じる訳ではない。でも、きちんと向き合っていると、何故か視える。その専門の人らが言ったことと重なるらしい。自分でもなぜわかるのか?不思議に思う。頭のここんところに、直接響くのだ。誰かが乗り移ってきたように、しゃべってしまう。理由も根拠も、物証もない。唯、わかってしまう。相手の心を読むからだろうか?

 今日のテレビで、隅田川の花火を8月の下旬に。という。昨年までは7月末であったらしい。旧暦で言えば秋の真っ只中。七夕が例年、23日前後であるから、夜空の星は満天で、花火も見事に違いない。学校もできれば、四季折々の行事を、年間計画の中で、旧暦でしてもらいたい。まあ、文部科学省には、若い輩ばかりで、旧暦の知識のある人物はいないらしいが。

 枇杷の袋かけを終え、やれやれである。リエさん、熟れてきたら送るね。サンタさんも待っていて。りささん、小さいけれど美味しいでしょう?チャボじゃなくて、鶉の卵かな?あはは・・できるだけ大きいのを送りますね。待っていてくださりませ。丹精込めるとは、このことですね。朝に夕に一頻り眺め、話しかけています。そうそう、我が家の種は、甘くて香りもよく、枇杷酒に持って来いなんですよ。

 朧月夜。源氏物語です。月は神秘的ですね。また今宵も、厭きもせず眺めています。

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とおりゃんせ・・・

2011年05月19日 | Weblog

 進む路が二つ。一方はアスファルトの舗装道で、片一方は土ぼこりの道。前者には行けどもいけども道しかない。後者には鍬やスコップやらの道具がある。さあ、どちらを選ぶかな?若いときなら迷わないが、今は自分に都合よく考えてしまう。私はどちらへも行かない。そこに留まって、その道具で土を耕す。

 そこに居て、そこを通る人たちに必要な物を分けよう。或いは、いらなくなった物をもらおう。人間の人生は、もともと退屈なものであるのかもしれない。何も考えず、何も思わず、唯独りであるのかもしれない。見えているのは幻かもしれない。架空の出来事かもしれない。単に疑うことをしないでいるだけかもしれない。

 宮部みゆき氏の『模倣犯』上下をやっと読む。なんつうか空恐ろしい話だ。実際に、この事件は、とても多くのことを教えてくれた。加害者にも、被害者にも、何時如何なる場合にも、なれるんだ。これほどに酷いことはしていなくても、誰かしら何かをしていることも、私にも犯した罪があるだろう。今一瞬でも、そのための罰を受けている。

 実際には、人を殺してはいないけれども。殺してやりたい。と、思ったことはある。言葉を口に出して言えれば、それに越したことはないが、誰かを殺せば罪に問われるのは当然のこと。加えてその罪は自分だけでは治まらない。だからこそ我慢もし、忍耐強く待っているのだ。神が下してくれるであろうことを。

 午前中、枇杷の実の袋かけをする。先日、残っていた袋かけなので、10ばかりで済む。一面のオレンジ色に、ちょっと驚く。民家の庭に、枇杷の木があって、然も袋までかかってあるとすれば、近所周りの噂の種。年寄り連中が賑やかに通る。うふふ・・・たくさん生ってくれた。とてもうれしい。

 我が家の春の庭です。狭い庭に、枇杷苗が所狭しとあり、鉢と地植とで、20本ばかしあります。実が生るのは、その内の1本だけ。今年は白枇杷にも実が。東側のは寒さで花芽が落下した。

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事件が起きるのは・・・

2011年05月18日 | Weblog

 旧暦で言えば、卯月である。遵って朝夕の肌寒さは当然のこと、気温の変化も当たり前である。衣類の調整も微妙なところだ。眼に青葉 山時鳥 初鰹 どうにもピントが合わないのだ。新暦の月日と、旧暦での季節感が著しく違うのだ。

 こういう勘違いと言うか、錯覚に依る物かははっきりしないが、新暦と旧暦の違いは、人間の心の中にも微妙に影を落とす。私は、専門家でもないし、その道の解説者でもないので、然とはわからないが、漠然とした思いに心が揺さぶられる。

 あれが動き出したのではないか?闇の中で、じっと息を潜ませて、時を稼いでいたようにも思える。来る日も来る日も、己の出番を何時にしようかと考えて、待っていたように思うのだ。或いは能力の隔たりかもしれない。喝采を浴びて登場する場面が必要だと。

 スポットライトを。眩いばかりの光の渦の中で、その微笑を誰に送るのだろうか?それが禍々しい物であることに、一体何人の人が気づくのだろう?騙されないと思う自分が、きっと一番に信じてしまいそうだ。我に返って、殺されなかっただけよかった。そう思う。

 それは単なる解釈の仕方である。声を聴くのも、姿を見るのも煩わしい。諸般の事情は無論だが、こいつと拘った自分を責めるばかりで。犯罪者の中には、真実が何か判断できなくなって、自分はやっていないと叫ぶ。では、真犯人は何処だ?

 何が真実で、どれが事実かわからない。意識の欠片が消し飛んで、捉えようもない光に包まれた時、待ち構えた闇に気づくだろう。自分の愚かしさに、心が凍りつくだろう。だが尚、迷う想いがあれば、すっぽりと包み込まれていても、自分だけは違う。と考えているだろう。

 今年、10ばかりの花が咲いた。シャーベットピンクの、やさしい色が似合います。

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気候のぶれ・・・

2011年05月17日 | Weblog

 可笑しな天気だ。暖かくなったかと思えば、途端に早春のような気候になる。かと思えば初夏の天気に一気に飛ぶ。体がついていかないのは勿論だが、花にも木にも異変が現れている。例年は、然程目立たない山藤が、色も匂いも、辺りを圧倒するように、咲き競っていた。夜の闇に隠れていても、今年ばかりは際立っていた。

 加えて、我が家の庭の。庭と言っても、猫の額程度の物だが、なんやかやと植え込んでいる中に、薔薇がある。挿し木をして芽が出たのが数本ある。その赤い薔薇が、なんとも鮮やかな赤い色をしているのだ。原因はわからない。だが、根元に枇杷茶の飲んだ後を入れたり、糠を寒肥で入れたり、枇杷エキスもかけてみたりもした。

 結論は、何が功を奏したのか、見事な花になった。ついでに言えば、枇杷の実も鈴生りである。これは寒さ除けの寒冷紗のお蔭だが、うれしくて顔が綻ぶ。このまま何事もなく、熟れてくれるといい。自然に祈る気持ちになる。孫を始めとして、我が家の枇杷を喜んで待っていてくれるであろう人に、想いが重なる。

 旧暦を知って、その昔からの知恵を借り、それらを行かせる工夫ができたこともうれしい。白枇杷に花が咲いて、結実したことも。待っているときの悲壮感や、なす術が見つからなくて神に祈ったことが、ひどく懐かしく思える。わが子を育てるよりも難儀であった。物言わぬ相手に向き合うことも辛抱であった。

 人間の感覚とは違うことも、躊躇してしまうことだった。諦めかけ、挫けそうになり、うじうじと迷うばかりであった。自然に対して信じて待つことが、とても大きなエネルギーに繋がっていくことにも気づいた。いや、気づかせてもらったのかもしれない。今でも、ああいった体験をするのが、人間の極限状態のような気もしないではない。

 夏に種を蒔き、発芽させて植え替えたパンジーです。今年もやってみよう!                

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闇黒の憂鬱

2011年05月16日 | Weblog

 宇宙に星が観えない。昨日は、北極星がちらっと観えたが、暑い雲に覆われてしまい、じっと眼を凝らせど、行く手を遮られる。どうもね、星が観えないと不安になるんだ。雨が降るかと思えば、翌朝は天気だし、首を傾げてしまうよ。何か、つかみどころがなくて、心が波立つ。

 挙句に、思えるのは最悪のことばかりで、ついため息が出てしまう。自分で考えておきながら、なんとなく居心地が悪い。得体の知れない物が、好物に紛れて口に入った。と言うか、妙な気分である。未来への警告かな?そういった針の穴のような不安が広がっていく。

 生協で買った枇杷の実は、どうしてこう美味しくないんだ?皮も果肉も硬い。果汁は少ない。甘味が足らない。4個入って¥500たあっ、高いでしょ!我が家の枇杷を食べてみて。こんな紛い物じゃないよ!それでもデパートのは流石に美味しかった。

 一体に、何処の農家が契約しているのか?全国の生協ではないが、地方にいけば悪質と言うのは許せない。以前にも、商品とも言えないような物を、注文したら届けてきた。これで信用しようなど以ての外だ。生産地の表記は勿論だが、生産者がわかるようにしてもらいたい。

 枇杷には化学肥料は要らないし、農薬もかけない。そうしないと実が硬くなり、甘味が少なくなる。確かに見た目はきれいかもしれない。商品価値が劣るのかもしれない。だが、よくよく考えてみれば、枇杷本来の味を知らないで、枇杷の価値が下がれば、元も子もない気がする。

 4月の三日月。本屋の上空に浮かんでいた。淡く輝くさまに、ついシャッターを押した。こういう時の携帯は便利ですね。

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パワーを贈る・・・

2011年05月15日 | Weblog

 日中は爽やかで、暑過ぎず寒すぎずの、まさに風薫る季節です。深緑の繁る緑に隠されるように、ひどく不安定な空気が視える。なんという不気味さだろうか。心の底を覗き込んだら、歪んだものが見えたとか。知りたくない真実であったとか。だがそれは、決して幻でなく、これから起き得る事実でもあるんだ。

 今日は、遅出で勤務先を出たのは、PM7:40分であった。本来は、このまま帰宅するのであるが、Aさんとの約束で、てあてに行くことになっている。取敢えずは連絡を入れると、待っているとのことに、駐車場から向かう。直ぐにてあてを始めようとしたら、お腹が空いているだろうから、まずは食べて。と薦められる。

 おむすびと、あり合わせの物だけど。と馳走を並べられる。枇杷茶と、西瓜もよばれて、自分が何をしに寄ったのか?と、思わず考えるしだい。足の痛みと体の疲労感に、とても疲れているのがわかる。2時間ばかり患部に電気を送り込む。蓄積した疲れは、簡単には取れないが、それでも多少の軽減はみられた。

 帰宅したら、PM11時過ぎであった。ほっとする間もなく、洗濯をしておく。何だか用事もあるなぁ。と片付けもする。明日も遅出なのだが、枇杷の袋かけもしておかなくちゃ。もうちょっと残っているんだ。今年はこのまま熟れるといいなあ。確定はできないけれども、寒冷紗のお蔭かな?たくさんの実がついている。

 春浅き日に。ヒヤシンスの花が咲く。蝶を呼ぶためか、とても芳香が強い。白・薄桃色・青・オレンジ・濃い赤とある。

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枇杷葉の実が・・・

2011年05月14日 | Weblog

 枇杷葉の寒冷紗を外して、青い実が生っているのに、1枝づつ袋をかけていく。だいたいが大人の小指大の大きさである。中には、親指大のもある。今年は、花芽を欠いたり、糠と潮の寒肥を入れたり、寒さに対する防護をしたり、多少の冒険を試みた。それが適したのか、サイクルにあたったのか豊作です。

 昨日に引き続きの袋かけです。仕事を終えてだったので、小1時間で辺りは暗くなってしまいました。できないこともないのですが、折角の実が落ちてもと止める。1枝に1粒のもあれば10粒のもある。或いは5粒くらいで育っているのもある。おおよその見当でも200はある。これが熟れるのを待つのも愉しみ。

 今年は、白枇杷にも念願の花芽がつき、寒冷紗を外したら、3粒ついていた。思わずうれしさに顔が綻ぶ。10年の月日の長かったことか。待つという作業には、歓びも大きいけれど、その間の途方に暮れた日々は、あの手この手の試行錯誤が甦る。全くの素人に加え、旧暦の活用を知らなかったものだから、随分と手間取った。

 だが自然に任せること、じっくりと取り組むことで、自分なりに考えることもできた。或いは、祖母のしていたことを、また旧暦での農事歳時記を取り入れて、何年も語りかけて接してみたのも確かなこと。同時に祈りにも似た、祖母や母への想いもあった。故郷への哀しいほどの思いでもあった。きっと祖母と母とが、私に教えてくれたのだろう。

 ここまでの過程で、何度挫折し、諦めかけたことだろうか。資料はたくさんあろうが、故福島正信さんの自然農法で取り組んだ。木村秋則さんの著作を読み、DVDを観ながら聴き、地球にとってはなにがいいかを考えてみた。決して無理強いはしないように。自然は裏切らない。誠心誠意でする者にはその理を諭してくれたように思う。

 昨年の枇杷苗。これは白茂木のような気がする。ちょっとねぇ・・・寒さには弱いのです。

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旧暦に倣う・・・

2011年05月13日 | Weblog

 今日は、友引だが一粒万粒日。祖母のしていたことを思い出して、鉈豆の種を植えた。枇杷葉の寒冷紗を外し、袋をかけていった。今年は、ありがたいことにたくさんの実がついている。途中で袋が足りなくなる。枇杷葉エキスが効いているのか、薔薇の花つきがいい。芍薬にもかすみ草や、スイトピーにもスプレーする。梅の粒もきれい。

 東側の枇杷葉は、南に比べて寒さが違うので、やはり1粒しか育っていない。唯、白枇杷が3粒大きくなっている。ナメクジがいた。寒冷紗を外したが、熟れてくれるか。北風に耐えうることには感激するが、板囲いをして、寒冷紗をかけるかな。年末には剪定しよう。こちらは生葉を採るだけにした方がいいか?悩むのである。

 今年は、枇杷苗の5年物が3本あり、花芽に期待している。次々に苗が育っており、生葉を採るのは充分ある。枇杷の実は、6月の末の収穫です。我が家のは、甘くて瑞々しい。とても美味しいです。リエさん、サンタさん。りささん。楽しみにお待ちください。と言っても、たくさんではありませんが、他にできることもないものですから。

 ハウス物は、店頭に並んでいるでしょう。種が必要な方は、この時期にしっかり買ってください。きれいに洗って、焼酎に漬けます。2ℓの焼酎に対して、枇杷の種は30粒くらいです。香りがすごくいいです。種にはアミグダリンという、猛毒が含まれていますが、これが癌細胞を食べて、細胞の働きを変えます。自然治癒能力を信じましょう。

 枇杷葉茶の効果も、即効性がないので、殆どの人が続けられません。でも、必ず治ります。同時に、体を包み込んでくれ、四季を通じての変化に強くなります。柳に風でしょうか?でもある意味では、普通ということに抵抗を覚えます。自分での普通と、他人が決める普通に、落差を感じてしまいます。時には罪悪感さえ持ってしまう。

 人格の否定に、とても敏感になります。自分を認めてくれないと、非常に違和感があり、時には拒絶し、或いは疑心暗鬼になって、独りでいることを切望する。または、羹に懲りて膾を吹くの如し、人間が信じられない状況になる。心の襞に厚いベールをかけ、何人であろうと拒絶する。信じて騙されるより、近づかないことを選択する。

 Aさんの手当てに出かける。お孫さんの誕生で、お疲れの体。膝が軋んでいるのか。まあ、それでも初孫なので、細やかな面倒みである。今月末までの滞在らしい。そろそろ1ヶ月なので、とても愛らしい顔になっている。欠伸、伸び伸び、笑う、泣く。手を、指を動かす。足を踏ん張る。その小さな仕草に、命の尊さを想う。

 台所で、行儀よくお座りの銀河。ご飯をもらうまで、ちゃんと待っている。皿に入れてやると、ちらっと見上げて食べる。いただきます。えらい、えらい。なんだけど、やっぱり少し残す。

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大雨雷雨警報

2011年05月11日 | Weblog

 一昨日の夕方から、天気は捗々しくなく、今日は終に大雨警報が出た。勤務を終えて帰宅する頃には、稲妻が天を走る。徒歩に傘を差しているのは、どう考えても危険。車に辿り着くまでは冷や冷やした。雷は好かないが、この電圧を使えないものか?もったいないなぁ。

 今日の新聞に、総理大臣が原発を白紙にする。とあった。自然エネルギーに力を注ぐ。ともあった。確かに先の見えない案かもしれない。然しながら、大切なことは地球を守ることなのだ。繊細事項は、これからじっくり決めればいい。原発の不安に脅えるよりはいいのです。

 誰しも病気になるのは厭ですが、生活の上での健康管理は、自分自身に直接降りかかってきますから、とても気になります。病気になりたくてなるのでもなく、体の異変を感じて気づくこともあります。或いは、ある程度の我慢をし、生きる方法を見つけるのも然りです。

 私は、自分の体にきちんと向き合うことで、何をすべきか考えてきました。確かに、医者に行けば、病名をつけられ、薬の処方をされ、死ぬまで続けなければなりません。一進一退の日々や、疑心暗鬼の心に苛まれるのなら、自然のエネルギーを分けてもらう方がいい。

 生命力の不思議なところは、自分の持っている、自然治癒能力を信じることに尽きます。私には、それに枇杷葉が加わっただけです。自然のエネルギーを、僅かであっても受け入れることで、生命の源に注げたからです。誰にでもできるのです。神を信じることで。神とは宇宙。

 そういった眼に見えないことを、理解しようとしない人たちに話しても、疑われるか、拒絶されるだけです。どんな言葉を以ってしても説明できない。根本が違うのです。頭に直接響くのですから。敢えて言えば、感じることでしょうか?特別なことではないにしても難しいらしい。

 暖かくなった春先の枇杷葉。花芽が小さな青い実になっている。4年毎に収穫のサイクルが変わるのか、今年は寒冷紗をかけたからか、たくさんの実が育っている。

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