日々のあれこれ

現在は仕事に関わること以外の日々の「あれこれ」を綴っております♪
ここ数年は 主に楽器演奏🎹🎻🎸と読書📚

~甦った記憶:another stories ~後編

2010-06-01 18:20:10 | 読書

 翌日には機嫌を直したホセインも、「お土産には何を持っていったらいいか?」一緒に悩んでくれた。 当時はホワイトチョコの中に乾燥イチゴが入ったものが流行していた。
オーストラリアのお土産とは直接関係ないような気もするが、旅行客にも人気の商品だった。
 「これにする! いや、やっぱり気を遣わせてしまうから、後日、私の家に食事に招待した方がいいかも」
 「とにかく今日は少し早目にお店を出てもいいよ」
 「じゃ、お言葉に甘えて…」
甘えてとはいえ、勤務時間きっかりまでお店には出ていた。
約束の時間に10分程度、遅れて到着するのがオージー式マナーなのだが、今回の訪問先は日本人のまゆさんのお宅。
お互い日本人同士、遅刻するよりは、時間通りに到着することにしたのだ。
とはいえ、6時に店を出れば、着くのは6時5分だったが。
初めて尋ねる場所だったが、ストリート名と番地が分かっていれば容易に見つけ出すことができる。
迷子にならずに済む便利な街だった。
インターホンから、まゆさんの声がして、すぐにドアが開いた。
 「お邪魔します」
日本ではまず、考えられないかもしれない。
店内で店員とお客様として出逢う。
挨拶程度の会話を数回かわしただけ。
ある日、たまたまボスと私の口論の場に居合わせた彼女。

「あなたに興味がある!」

ここから始まった交流。
あの日、何の迷いもなく彼女のお誘いに乗り、玄関前に立ち、キャンドルがともる幻想的な世界へ招かれた日を不思議に思う自分が居る。

日本では、まず、考えられないことよね。うん、きっと。

一歩、足を踏み入れると、そこには不思議空間が広がっていた。
室内は日が長いオーストラリアにしては薄暗い。
明かりも付けず、その代わりに部屋の中央には、いくつものキャンドルが立ち、そこから何ともいえない香りが漂っていた。
最近では「アロマ」だとか、「癒し」だとか、日本でも良くいわれるようになったが、これは今から10年程前の話だ。
停電でもないのに、電気の代わりにロウソクの火をともす、という発想自体、日本には無かった時代のこと。
シドニーにすら、一般家庭では無かったように思う。
ホストファミリー宅でも一度だけロウソクの火を使ったが、あれは停電だった。
イギリス系オーストラリア人で鼻が高いホストマザーのジーアがロウソクに火を灯す所を見て、トオルが
「魔女だよ、魔女!!!」
と日本語で叫び、日本人の下宿人だけがン爆笑したことがあった。
後にも先にもロウソクはあの、停電の日のみ。
まゆさんのアパートの部屋にふわっと浮かび上がるキャンドルの灯は、生活感がまるでなかった。
異次元へようこそ、といった、今から何かが始まる序章のように私をどきまぎさせた。
躊躇しながらも勧められるままに部屋の中へ。
ソファに腰掛けたが、周囲の家具がどれも不思議なものだった。

 アジアンテイスト、という言葉がぴったりの空間だ。
ここではすべてがインテリアの一部だ。
アメ色になった家具も、まゆさんの手により、古さとは違った骨董品に生まれ変わっている、そんな感じがした。

「捨てられたものを拾ってきてね。再利用しているのよ」


私の心を見透かされたかのような、まゆさんの台詞が聴こえ顔を上げると、奥の壁に見えたのは、壁一枚分といっていい、大きなパネル写真だった。
そこには二人の女性が写っていた。
一人はヘアメイクアーティスト、だと思う。
もう一人の女性の唇に全神経を集中させ、紅をひく…。
私とはまるで縁が無さそうな、そんな光景が広がっていた。
等身大以上、いや、3倍はありそうな、その写真に圧倒され、しばらく黙っていると、私が口を開くまで、まゆさんは何も言わずに待っていてくれた。

 「スゴイですね、この写真。まゆさんが撮影されたのですか?」
 「私はフォトグラファーなの」
つまりは写真家。 でも、本職はジャーナリストだと聞いたと思う。英語日本語の通訳もする。要するに、いくつもの専門職を持ちながら、あらゆる分野で活躍されているようだった。
知れば知るほど、驚きっぱなしで、凄い人のご自宅に招かれているんだわー。こんな方に 「あなたに興味がある」って声をかけて頂けること自体、夢なんじゃないかしら?
元気の良さは陰をひそめ、段々と大人しい日本人に戻ってしまったような気がする。
それでも好奇心旺盛だった私は色々な質問をした。

 いつの間にか、最初に室内に足を踏み入れた時の緊張感は薄れ、フィッシュマーケットで買ってきたという白身のお魚の鍋を二人でつつきながら、お喋りに夢中になっていた。

 「これまでの人生で一番、魚が美味しいと感じた場所は、何処だと思う? 当てて見て! とっても意外な場所だと思うけど、日本の何処か。 何処だと思う?」

 意外な場所、と聞いて、直感的にひらめいた。多分、私は その土地を実際に知っている。海と山と温泉と。あったかい人々と。すべてが揃った熊本の土地。お魚が新鮮で美味しいのに、企業の垂れ流しで海が一度は死んだ…。

 「分かった! 水俣じゃないですか?」
まゆさんは、とても驚いた顔をした。
 「よく分かったわねぇ。これまで誰一人 当てることが出来なかったのに」
水俣は私の生まれ故郷だと告げると、さらに驚いた顔になった。
豊かな自然が、特に海が、水銀を含んだ工業用水の垂れ流しによって汚染され、多くの人達が発症し人生を狂わされた。
今現在も胎児性水俣病で苦しむ人達が数多くいる。
 
 「私が日本で大学3生のとき、初の国際環境会議が水俣市で開かれたんです。カナダや米国教授が参加するパネルディスカッション形式の会議だったので、どうしても参加したくて。大学は講義がある時期に許可は出来ないとか言って、学割を簡単に発行してくれなかったんですけど、最後はこれも生きた勉強だから、と結局は発行してくれて、行ってきました。あの時は、カナダと米国の大学教授に話しかけて、冗談言って笑っていたら、英語が話せないおじいちゃんが隣の席の日本人に「大学教授ですか?」って嬉しい勘違いされて。自宅へ戻って皆で笑ったんでした。当時、熊本大の助教授をしていた原田先生が、水俣出身の社会学者が出てきてほしい」と市民に訴えて、その時、思ったんです。私も社会学を勉強してみたいって。勿論、母国より途上国に目がいっていたけれど、学生時代から周囲に色々刺激されて、シドニーで希望通り、社会学を学べて良かったです」

 新鮮な魚から、水俣病。 水俣病から国際環境会議。 熊本大学(当時)の原田先生と社会学。 話ってどんどん広がって思いもつかない場所へ最後は辿り着くものだ。
こうして辿り着いた場所は、これからお話する 「あの事件」だった。


 「ところで、メルボルン事件って、知ってる?」


メルボルン事件のことは、在日本人向けの現地の新聞、日豪プレスで何度か特集記事があり、知ってはいた。
旅行会社を通じてマレーシア経由でメルボルン入りをした日本人観光客、男性3名、女性1名が知らない間に麻薬の運び屋にされてしまいヘロイン保持で現行犯逮捕され、その後、何年も獄中の人となった事件のことだ。
まゆさんは当時、あの事件の取材をしながら通訳者及び支援者としてシドニーメルボルン間を行き来していた。

逮捕された日本人観光客は、暴力団でもない。普通の一般の人達だった。ただ、オーストラリアを旅したい。それだけが目的で渡豪したのだ。
それが、一体、どうして逮捕、という事態になったのか?

 
 「大丈夫。俺たちは無実なんだから。何かの間違いで逮捕されただけなんだから。何も悪いことをしていなければ、何も恐れることはない。すぐに釈放される!」

きっと日本大使館、或いは領事館の職員が助けてくれるだろう。すぐに釈放されるだろう。訳がわからないまま逮捕さえつつも数日間は、そんな気持ちで過ぎていったと聞いた。

実は私もワーキングホリディで行こうとしたのは、マレーシア経由だった。だが、「空港まで迎えに行くよ」といっていたJICAの友人からその後、連絡が来なかったこと。フィリピンに帰国したアートやラミールといった友人が、「マレーシア経由はマニラ経由と同じくらい危ないから止めた方がいい。直行便が安心だよ」とアドバイスしてくれたことで中止した経緯がある。
無知な日本人が知らない間に現地のマフィアと接触し、麻薬の運び屋にされてしまう危険性を指摘してくれた友達が居たことが、この事件をよりリアルに私の胸に刻んでいた。
「経由便で途上国をついで旅行し、何度も日本海外を行き来している私としても、この事件はとても人ごととは思えなかった」ということだ。

そもそも、どうしてヘロイン所持という事態になったのか。
5人は、マレーシア人の添乗員と共にマレーシア経由で、まずはマレーシアの国際空港に降り立った。
そこで、スーツケースを盗難にあい、失くしてしまう。
そのことを知ったマレーシア人の添乗員は、代わりのスーツケースを用意してくれたという。
親切にも。そう、とても親切だと思ったらしい。
ところがー。
そのスーツケースは二重底になっており、底の部分にはヘロインが隠されていたのだ!
彼らは知らない間に麻薬の運び屋にされていたのだ。
すべては最初から、「仕組まれて」いたのだ。

何も悪いことをしていないのだから、きっとすぐに釈放される。
そんな期待は裏切られ、全員 無罪を主張する中、最初の頃は通訳もまともにつかないまま全員有罪、懲役15年という判決が下り、その後、獄中で7~8年もの歳月を送ることになったのだ。
日本の外務省は? 大使館は? 事件当時、何をしていたのか? と疑問に思う。
日本国内では当時、殆どニュースで取り上げられてはいないようで、豪州へ行って、初めて「この事件」のことを知ったという人も多かった。
私のように。
だから、まゆさんも、「メルボルン事件って、知ってる?」という、知らないことが普通のような質問の仕方になったのだと思う。

1990年代始め頃から海外旅行は気軽に行ける時代になった。
同時に日本人の平和ボケも話題に上ることが多く、いつでも事件に巻き込まれる危険性を身を持って体験しなければ「分からない」
それでも、この事件は 人の人生を狂わすには重い。重すぎる冤罪。。。
だと思う。
その後、順に仮釈放され、2007年までには全員、日本へ帰国出来たと聞いたが、未だに「無罪」判決が出ている訳ではないらしい。

実際にメルボルン事件を取材し、獄中の人となっていた無実を訴える日本人観光客に何度も会って来たまゆさんと出逢ったことで、より現実的な事件として脳裏に刻まれることになった。

『一通の手紙』は、冤罪事件に直面した本人は勿論のこと、代々に渡る家族の苦しみを見事に描き出している。
きっと、世の中には、数え切れないほどの第二、第三の 「メルボルン事件」が存在しているのかもしれない。
帰国後、8年という時間が流れ、メルボルン事件も、まゆさんとの出逢いも、いつしか遠い過去となっていた私に再び、あの記憶を甦らせた「一通の手紙」

物語には、いくつものanother stories がある。
小説の中では、あえて詳しくは語られない物語の奥にある 「その他のストーリー」を一つでも多く感じとれる心を持ち続けたい、そう思う。
すべての冤罪事件が早期解決に向かいます様に。

おわり


すず

Comments (12)
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『一通の手紙』を読んで~甦った記憶:another stories~前篇

2010-06-01 14:13:52 | 読書

 先日、Goodbook出版社から刊行された話題の新刊、酒野佐香奈著「一通の手紙」。出版社の紹介文は、『冤罪というものがあります。無実なのに間違った司法の判事により長い時間苦しめられる結果になってしまいます。それは、本人だけではなく家族も同じなのです。』
 早速、ネットで注文すると、いつものように本と郵便局の振り替え用紙が届きました。(本のお支払いは今からです。御免なさい) 夜勤明けにもかかわらず、届いたその日の内に、一気読みしました。 しばらく「余韻」に浸ってしまう、そんな作品でした。 もっと読みたい! そう思いました。 この出版社から刊行される本に共通することですが、 「続きがあるのでは? もっと長かったのでは?」  良い本は、きっと読者のそれぞれの人生とダブらせてくれる本だと思います。 読後感の良さと、そこから始まる読者のanother stories...

 冤罪。。。

 冤罪で失われた十年、十数年、二十年、いや、無実の罪を背負わされた人、一人の人生、そのもの。

これから数回に分けてお話することは、期待を胸に遠く、オーストラリアまで旅行に行き、訳も分からないままに国際空港で逮捕され、その後、何十年も苦しんでいる私達と同じ日本人旅行者の身に実際に起こった出来事です。


 ここは、シドニーの中心地、Town Hall駅から2つ目の駅を降りた場所にあるAussie Mate Supermarket。 目の前はホテル。周囲はテレビでお馴染のニュースキャスター、天気予報士、俳優、裁判官、ジャーナリストやフォトグラファーと、あらゆる職業の人達が暮らしている。たまたまレジに入っていた私に、地元っ子の男の子が、
「ほらっ! 今、通りを歩いていくあの人、ドリンクのCMで観たことない? ドラマにも出演している有名人だよっ!」
と、こっそり教えてくれた。
「へぇ~。そうなの? あまりテレビを観ないから分からないけど、そうなんだぁ」
天気予報のおじさんが来店すると、決まって「明日の天気は?」と尋ねていた。
「いつも仕事をしている訳じゃないからねぇ。明日はオフだから想像にお任せするよ」
と苦笑いされたりね。
日本からやってくる観光客の接客が主に期待されてボス、ホセインに雇われた私だったけれど、結構 地元の人達との交流も楽しんでいた。
 
 そんな ある日のことだった。
一体、何が原因でホセインと言いあいになったのか、覚えていない。
間違いなく仕事に関することで、『絶対に自分が正しい』と私にしては珍しく? 譲らなかった。
相手がボスでも先輩スタッフでも、意見を言い合うのは当たり前のオーストラリア。
それでも最初の頃は私もまだまだ日本人で、かなり遠慮していたっけ。
私が働き始めた当初、東アジアから来た人が仕切っていて、そのままここでの仕事が長続きするとは、正直とても思えなかった。
彼女には口では誰でも負ける! そう言われた彼女がオーストラリア人と結婚して職場を去った。歌舞伎役者のように立派だった化粧も控え、物腰も少し柔らかくなって笑顔で来店するようになった平和な日のことだっただけに、ホセインとしては、久々のスタッフの抵抗にカーッと頭に血が上ったに違いない。
お客さんがいるにもかかわらず、大声で怒鳴っていた。
「そうじゃないでしょ?」
みたいに言う私に、レジに並んでいた女性客が話しかけてきた。
「あなた、もしかして日本人?」
最初は英語だった。
何度か来店しているお客様だ。
英語でしかそれまで会話したことがない。
「Yes, I am Japanese」
というと、そこから会話は日本語になった。

「私、あなたに興味がある! 一度、うちへ遊びにこない? ここから歩いて5分のアパートに住んでいるから」
そういうと、彼女は私に名刺を手渡してくれた。
「まゆさん…? 私と同じ名前だ!」

私とホセインの口論は中断したまま、私は「まゆさんのご自宅へ遊びに行く」という突然持ち上がったプランに向けてお喋りに花が咲いていた。
そんなこんなで今となっては、何が原因でホセインと感情的になっていたのか定かではない。
きっと、賞味期限が近くなったコーヒーを値引きしてレジ前に置く、ということにホセインがケチをつけたからだったと思うんだけど。
大量破棄と、どっちがいいのよっ! みたいなこと。
発注を上げたのがホセインだったから、意見が合わず、ごちゃごちゃしていたのだ。
そう、思いだした(苦笑)

あの時、ホセインと 「お客さんの目の前で言い争いをするなんて、みっともないこと」をしなければ、その後、まゆさんの目に「興味がある人」として私が映ることは無かったに違いない。
だからこそ、あれは貴重な口論だったのだ、と思う。内容はどうであれ。

人との出逢いって不思議だ。
振り返ってみても、いつも思う。
ちょっとしたきっかけで、知る筈も無かった人と知り合い、会話をする。
そして恐らくは詳しく知ることもなかったかもしれない「事件」に耳を傾けることになる…。
実際に深く「あの事件」に関わっているジャーナリストのまゆさんから。
直接に。

その日、仕事を終えた私は早速パソコンを開き、まゆさんのホームページを観てみた。、
凄い人だと思った。
そしてそのまま、お礼のメールを送る…。

すぐに返信が来た。

「仕事が夕方6時に終わったあと、遊びにいらっしゃい。お鍋を準備しておくから、一緒に食べましょう」


続く

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