それぞれの ほんの一部の人生に触れる…
毎年、そんなお盆が続いている。
毎年、この時期になると組まれるNHKの戦争に関連した特集番組。
Eテレの方では、2017年度放送された特集番組の再放送を通じ、
『インドネシアでオランダ人又はオランダとインドネシア人のハーフ女性と日本兵の間に生まれた子供達の戦後』の人生の、ほんの一部を知った。戦後、母と共にオランダへ渡り、そこで過ごして来た姉妹が 日本人の父を探すドキュメンタリー。帰還命令が出て日本へ戻った父と生き別れたまま70年以上が経過。どうしても実の父が知りたい、探し出したいと願う妹に対し、同じ父から生まれた姉妹ながら、見た目が日本人そっくりなため、親族、特に祖母からはハグもしてもらえなかったという姉。一度も会ったことがない ”日本人の父”に対する想いは、姉妹でありながら、かなり隔たりがあった。「あなたは見た目も西洋人だから…」「実の父を一緒に探そう」と言う妹に、最初は拒絶する姉。親族やオランダ社会で受けた差別や虐めを涙ながらに告白する。その姉にも娘がいる。母の話を隣で聴きながら母に寄り添う娘との対話…次第に感情の変化が現れ、遂には日本の家族と再会する。父はすでに他界しているものの、「日本の親族に受け入れられる筈がない」と信じ込んでいた姉の心は、ようやく平穏に…。
日本国内にも、多くの戦争孤児たちがいた。大阪、東京といった首都圏にある駅で暮らしていた。
「戦後、上野駅で寝泊まりしていた頃のことは主人にも言えなかった。そんな女だったのか、と知られるのが怖かった」
昭和から平成の終わりも近付いて、ようやく ぼつり、ぽつり、と語り始めた人もいる。
「きのこ雲の下には、人の人生があった。」と記したSusan Southardさん。大学で学生たちと原爆投下や被爆者について議論するSouthardさんを追ったドキュメンタリーも印象的だった。彼女の講義を聴講する前に学生たちがあらかじめ読んだ著書はこちら↓
Nagasaki: Life After Nuclear War Susan Southard
昨夜は 73年という時を経て、家族の元へ届いた兵士たちの手紙に涙した。それらの多くは、ガダルカナル、ルソン島で戦死した日本兵から米兵が戦利品として母国へ持ち帰ったものだった。大量の手紙が今も遺族に届かぬままになっている。米国で大切に保管されていたことにも驚いたが、それらの手紙の内、ほんの一部が遺族に届けられた様子をTVで見ていた。38歳で戦地へと赴き、その間、妻から6番目となる我が子の誕生を手紙で知らされた男性。30通を超える手紙を一人の兵士が片時も離さず持参したままであったため、まとめて保管されていたらしい。それらの手紙が、父の顔を知らずに73歳になった男性の元へ届けられた。自分の成長を伝える母の手紙を戦地で最後まで大切に持っていた父のことを知り、「自分のことを父は知らないのではないかと思っていたが、こうして知っていてくれた…」と、涙していた。
聴力に障がいがある妹を心配していた兄の手紙も73年後、妹の元へ届けられた。
「兄のお蔭で仕事をし、(将来、自立できるようにと施設入所手続きをしたのは兄だった)
結婚、出産…と幸せな人生を送ることができた」
オランダと日本人の父を持つ姉妹は、自分たちの両親が出会ったインドネシアも訪問。Family Historiesを知ることで得られた心の平穏。73年ぶりに届いた手紙を通じて知った父の愛情。或は再確認した兄の愛。余りにも壮絶な人生に言葉も失う。それでも最後は…特に姉妹の姉の涙が憎しみ、哀しみから喜びの涙に変化したことで、こちらも救われた気がした。「大丈夫、自分を責めないで」母の傍で、そう言い続けた娘さんが素晴らしい。
大丈夫、〇〇を責めないで
何かを責め続けると魂は救われない。自分であれ、他人であれ、世間であれ、時代であれ…
And I'll close here for now, but I'll keep reading stories of other people's life.
この問題に触れたくない気がします。
我が子供達も此の話題は触れたくないようです。
父が出征したのは私が小学2年生。
北支、今の中国北の方。
母は実母は5歳で病死、後添え(28歳)が嫁いできて半年、その時に父が戦地に。
父は兎に角私を頼むと母に懇願。
ところがその2か月後私小学3年生になったばかりの4月16日に集団学童疎開で富山県に。
家族が中国、東京、富山県に分散。
東京は火の海になると予測されて、どうするかと問われ一人でも生き延びたいと答え集団疎開に
、6年生から3年生まで30人が富山県の寺に。
先生3人寮母さん二人でした
その後の生活は・・・やめておきましょう。
自分の父も「米兵にチョコレートやリンゴを貰った」こと、以外のことを話し始めたのは、つい最近になってからのことです。
現在の北朝鮮から引きあげてきた終戦時、まだ5歳だったので、単純に覚えていないのかと母と話していましたが、どうやら思い出したくない出来事だったようでした。
母方の祖母も乳児だった母も運が強く生まれていたのか…
生き延びてくれたおかげで、孫にひ孫まで。
私達が今、こうして生きているのだな…と。
富山県へ疎開され、みのこさんの娘さん達やお孫さんへ…命が繋がったのですね。
もう、本当に、ありがとうございます、という気持ちです。