第一次世界大戦~第二次世界大戦を生きた上記の女性、ハーブカと、その母の人生をオーストリア生まれの作家、ヨーゼフが約一年をかけて彼女が暮らす農家に住み込み、書き留めたドキュメンタリー。
ハーブカはウクライナ生れだが、ソ連、ナチスドイツに翻弄され、母国も母国語も失ってしまった。小学生の頃、「最後の授業」という短編を通じて、「突然、今日から母国語を話してはいけない状況になる」そんなことを強いられる人々がいたんだ…と初めて知った、あの時の感情が蘇ってきた。
ハーブカはウクライナと思われる場所もソ連も、「ロシア」或は、「向こう側のロシア」という風に語る。故郷はウクライナでロシア語を母国語としていたようだが、学校へは思うように通えず、ポーランド人やロシア人と共に1943年、姉と共に母親から強制的に引き裂かれ、ナチスドイツの支配下にあったケルンテンへ強制労働のため移送された。二人が母を見るのは、この時が最後となった。彼女たちにとって唯一の救いは、ハーブカが送られた農園は、姉が送られた農園と30分ほどしか離れていなかったため、姉妹は週末に会うことが出来たこと。当初は全く理解出来なかったドイツ語も徐々に喋れるようになり、次第に姉と話をするときは、ロシア語とドイツ語の単語が半々になり、姉に指摘されて気付くほどになったという。少女だったハーブカがドイツ語が分からない当初、可笑しな単語をドイツ人から教わりながらも馬鹿にされ…そんな日常を淡々と語っている。作者は それを ほぼそのまま書き留めていったのではなかろうか、と思われるくらい、最初のページから最後まで話が展開されていく。苦労といえば、この世に誕生した瞬間から何度、生死を彷徨うのか、春になれば木の実があるが、酷寒のロシアは飢えとの闘い… 母の努力と運の強さと働きで裕福になれば、周囲に妬まれる、家を追われ、蓄えていた穀物も、着る物ですら、すべてをはぎ取られるハーブカたち。もし、彼女たちに手を差し伸べようとすれば、その家族も同じ目に合わされる。 親戚すら援助の手を差し伸べられない、そんな人間関係の中でも、「それでも そっと夜中にベリーを置いておいてくれる人がいた」 人は絶望の淵を彷徨っていても、諦めなければ生き延びられることもある、、、のかもしれない、、、少なくとも彼女たちは そうだった。
母国語を失ったハーブカはロシア語もドイツ語も書くことが出来なかったが、そこへ現れたのが著者だったわけだ。自分の人生を書き残したいという思いが何処かにあったようで、ハーブカはJosef Winkler ヨーゼフ・ヴィンクラーとの出会いによって、その願いを叶えたのだった。 彼女がどのように 第二次世界大戦を生き延び、農場を営むまでになったのか…ついては、本を読んで下さい。
実際には、ナチスドイツ以前の幼少時代が更に過酷で、読みながら何度か吐きそうになった。歴史の授業では、さらっと一行習うだけ、だったソ連によるコルホーズ。ウクライナでは700~800万人もの人が飢えで亡くなり、ハーブカの母の話では、「あちこちの村で少年少女がごっそり捕らえられ、殺されて、カツレツにしたり生で売っていたのは、肉屋と飲食店の主人たちでした。彼らはそれを馬肉だと言ったのです」「(149ページ)
コルホーズの独裁者たちが村のすべての農民から財産を没収。自分たちで畑を耕すことが出来なくなると、皆、コルホーズで働くよう勧められたという。「党の指導者たちは、人為的に飢餓を作りだし、連中は何トンもの穀物をド二ェブル川に廃棄したのです」(149ページ10行目抜粋)
ドイツナチスはハーブカ一家のようなウクライナ人にとっては、「解放軍」であった、と語られている。ロシアが撤退したあと、ハーブカと姉は、コルホーズによって奪われた自宅に3日間戻っている。この時期が最も幸せだった、というのは幼少から少女時代の彼女たちにとっては、そうだっただろうな、と思う。
現代の日本を生きている自分にとっては、ハーブカの1ページ分の人生だけでも自分の一生分くらいインパクトがあり、過酷だというのに、なんて淡々と語れるのだろう。陸続きのヨーロッパで、どこが母国かも、味方かも分からない世界情勢の中で、母国語もアイデンティティーも曖昧にされてしまった少女たち。そして今、プーチン政権下のロシアとウクライナの関係に眼を向けた時、ウクライナの人々がロシアに対して抱く感情が少しは分かった気がする。理解はしていない、あまりに酷くて…でも想像することは少なからず出来るかもしれない。ハーブカの語りに耳を傾けながら、最後まで、その思いでいっぱいだった。
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