前週に続き、柴崎春通先生のyoutube動画「水彩画の基本~湖と紅葉を描くコツ」からです。
樹木の配置などの画面構成は左右逆にしています。
それぞれの秋の樹を、左はwet in wet で、中は渇筆気味に描きました。
右はスパッタリング(筆の付け根を指先でたたく)と
振り飛ばし(手首を使って振って、止めて、飛ばす)で描くのですが、
これがむずかしく、方向と大きさが定まらず・・・です。
【補記1】
米国大統領選挙は、トランプの圧勝でした。
私は4年前の同選挙での米民主党(とそのバック)サイドの、
同選挙史上最大規模といわれる不正のオンパレードを
拙ブログに10回弱にわたりアップしていました。
(2020.11.2「マリリン・モンローを墨絵で」~2021.1.25「ワインボトルにグラス」)
今回のトランプの勝因は、勿論、インフレや格差拡大など色々あげられるでしょうが、
その根底にあるのは、アメリカ国民が、
4年前の選挙での不正を含み、民主党の異常さに
気づいたからだと思います。
これから案じるのは暗殺です。
なにせ選挙期間中に2度も狙われたのですから・・・。
それにつけても日本のメデイア(TV・新聞)、
選挙前、各社挙っての異様な「ハリス 上げ」「トランプ 下げ」。
その酷さ、情けなさ!
公正・公平さの、そしてジャーナリストとしての誇りのかけらもありません。
4年前もそうでした。
日本における言論の自由さえ奪ってしまうのが、米民主党とそのバック勢力です。
【補記2】
第1章 古代イスラエルの誕生 を続けます。
第2節 ユダヤ教の主な特徴
諸々の視点があると思いますが、基本中の基本と言われているところを、
自分なりに整理したものをあげてみたいと思います。
[「シェマア イスラエルの朗読」にみる唯一神]
(本項は主に、勝又悦子氏・勝又直也氏、市川裕氏)
“ユダヤ教は唯一神で、モーセの十戒にも出ていたな”くらいしか知りませんでした。
今回「シェマア イスラエル(聞け イスラエル)」から始まる朗読なるものがあり、
これこそが唯一神をはじめとするユダヤ教の神髄を示すものだとする数冊の解説書から教えられました。
モーセ五書の一つ申命記の中の言葉からだそうです。
現在でもこの部分は一日二度の礼拝の中だけでなく、
朝起きたとき、夜寝る前など何度も口に出される言葉だと。
しからば、どういう言葉なのか。
「聞け イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、
家に座っているときも、道を歩くときも、寝ているときも、起きているときも、
これを語り聞かせなさい。
さらにこれをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、
あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」
「聞け」という言葉から始まっています。
朗読する際には多くの場合、目を閉じて、片手の掌で目を覆い視界を遮り集中して耳から聞く、
とされるようです。
ユダヤ教の神は目には見えない神であり、言葉を語る神であることを示しており、
一日に何度も口にされるのを耳にすることにより、
ユダヤ教の神は耳から入る神であることを刷り込まれる、と。
「我らの神、主は唯一の主である」と断言されています。
イスラエルの神は主であり、人間はそのしもべとして神の意志に従いなさい、と。
なおこの「シェマア イスラエルの朗読」は、古代・聖書時代の神殿儀礼において、
生贄の聖性の最高段階である「全燔祭(ぜんはんさい)」で、
祭司たちは生贄を捧げる前に、別室でこの朗読を行ってから捧げた、という(市川裕氏)。
このように歴史的にも極めて重要な祈りであったとのことである。
[「モーセの十戒」の唯一神]も見ておきましょう(本項は主に、市川裕氏)。
「モーセの十戒」は
第一戒 私は主である 第二戒 他神があってはならない
第三戒 名を挙げてはならない 第四戒 安息日を聖別せよ
第五戒 父母を敬え 第六戒 人を殺すなかれ
第七戒 盗むなかれ 第八戒 姦淫するなかれ
第九戒 偽証することなかれ 第十戒 隣家を貪るなかれ
となっています。
第一戒に「私は主である」と神を名乗り、
加えて第二戒に「他の神々があってはならない」とダメ押しし、
第三戒ではみだりに神の名を唱えてはならない、とまで戒めています。
先の「シェマア イスラエルの朗読」や「十戒」にみるように、
唯一絶対神のヤハウェのみを信じ、他の神の存在を認めないとし、
ユダヤ教においては個人崇拝はない。モーセとて神の言葉を引用したことだけが記されている。
ダビデ王やソロモン王も、ロスチャイルドもこの律法の下にあり、
これに反すれば批判や排除の対象になる、とのこと。(W・トケイヤー氏)
ダビデ王やソロモン王も、ロスチャイルドもこの律法の下にあり、
これに反すれば批判や排除の対象になる、とのこと。(W・トケイヤー氏)
[ユダヤ人のためだけの選民思想]
(本項は主に、勝又悦子氏、勝又直也氏)
この選民思想、聖書での記述は主に「申命記」とされ、特に出エジプトでの記述は
イスラエルが神に選ばれたことの端的な証左とされる。
「あなたの神、主は地の面にいる全ての民の中からあなたを選び、ご自身の宝とされた。
主が心引かれたあなたたちを選ばれたのは、あなたちちが他のどの民より数が多かったからではない。
あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。
ただあなたに対する主の愛ゆえに・・・エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。
あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを
・・・あなたは今日、わたしが「行え」と命じた戒めと掟と法を守らなければならない。」
イスラエルが選ばれたのは、貧弱だったからであり優越していたからではない。
そして、あなたの神、主が神であることを知らねばならないとし、
選ばれた民として、戒めと掟と法を守ることが並列して書かれているところが重要である、と。
さらに民数記には、
「そして、ほむべきかな聖なるお方は、全ての中からイスラエルだけを選んだ。
・・・なぜ、イスラエルだけを選んだのか。それは、諸国は全てトーラーを拒んだからである。
しかしイスラエルは喜んで聖なる方を選び・・・。」
とあるとのことで、
ここでは「選民」とは、単に神から「選ばれた民」というだけでなく、
同時にイスラエルの民自らが「選んだ民」であるとするものであり、ここも重要なポイントだと。
結局この選民思想、自分たちは神によって選ばれた、いや自らが選んだ特別な民であるとするもので、
これにより2,000年弱もの間、国を失い世界に四散したユダヤ民の結束を支えてきた、
これにより2,000年弱もの間、国を失い世界に四散したユダヤ民の結束を支えてきた、
その大きな大きな拠り所だったのでしょう。
一方で、この選民思想のために、自己中心主義となり、
ユダヤが歴史を動かす、ユダヤが世界で一番、との傾向までを生んでいる。
政治、外交、歴史等々の議論の場でも、議論の正しさではなく、
議論に勝つことだけが絶対であり、そこには知的良心など全く関係ない、
との論者の声も聞かれる。
一方で、この選民思想のために、自己中心主義となり、
ユダヤが歴史を動かす、ユダヤが世界で一番、との傾向までを生んでいる。
政治、外交、歴史等々の議論の場でも、議論の正しさではなく、
議論に勝つことだけが絶対であり、そこには知的良心など全く関係ない、
との論者の声も聞かれる。
[成文と口伝 二つのトーラーによる実践](本項は主に、市川裕氏)
「ユダヤ教は『宗教』ではない。人々の精神と生活、そして人生を根本から支える神の教えに従った生き方だ。」
・・・市川裕氏著「ユダヤ人とユダヤ教」の表紙カバーの裏側に書かれている言葉です。
これを端的に示すのは、AD200年頃、編纂された「ミシュナ」という規範である、と。
モーセに啓示された教えのうち、
モーセ五書が成文トーラーと呼ばれるのに対し、
ミシュナは口頭で伝えられた口伝トーラーとも呼ばれると。
このミシュナは全6巻全63扁からなり、
第1巻:種子 祈りと農作物の奉納 第2巻:祭日 神との出会いの場
第3巻:女性 婚姻法・家族法 第4巻:損害 刑事法・市民法
第5巻:聖物 神殿供犠 第6巻:清浄 穢れの諸原因と清め方
とあり、
狭い意味での「宗教」(第1巻、第2巻、第5巻、第6巻)と、
家族法(第3巻)、
通常は、国家が律するテーマ(第4巻)の構成である。
このように所謂宗教以外のことも含んでいるところがみてとれる。
ユダヤの人たちは、成文と口伝の二重のトーラーに則り、何より実践することが重要とされる。
具体的に何を為すべきかに関しては、そこは、ラビたちの教えに従うよう義務付けられている、と。
ラビたちがユダヤ社会で権威を承認された最大の理由は、
彼らの知識と行動に対する民からの信頼にあり、
神の根本原理を正当に継承していると認められたからでもある、と。
[ユダヤの人たちにとって「時間」は特別なものである]
△「神の時間秩序」と呼ばれるものには次のものがある。(市川裕氏)
☆安息日:単に休む日ではなく、神との特別な契約関係があることを学び記憶していく日である。
仕事は禁じるが、家族団らんで十分な食事をとり、シナゴーグでのトーラー朗読など、
すべて生きる喜びを増すための工夫とされる。
☆1年のサイクルもユダヤ暦:太陰太陽暦(1年12ヵ月 9、10月~8、9月)で、
トーラーでの出来事、特に出エジプトからの荒野の40年の再体験を含み、
新年祭、贖罪日、仮庵祭、過ぎ越し祭など。
☆一生のサイクルも神の教えを学ぶことと直結:
ミシュナの格言には、
「5歳で聖書、10歳でミシュナ、15歳でタルムード、18歳で結婚、
・・・90歳で腰曲がり、100歳であたかも死んでこの世を去り消え失せるかの如し」とあると。
△人間の存在価値は、その人が生きている時間の質による(M・トケイヤー氏)
ユダヤの人たちにとっての人間の存在価値は、
その人がもっている“物(もの)”ではなく、
その人が生きている“時間の質”にあるとする。
したがってユダヤの人たちにとっての究極目的は、
現にある時間において「聖なる瞬間」に直面しながら生きることである、とする。
△上記にしたがって、ユダヤの人たちは来世のことは考えない。(M・トケイヤー氏)
ユダヤの人たちには、キリスト教の天国や仏教の輪廻はなく、ただただ、生きている今を最大限頑張る。
墓地も本当に今生きていることの意味を理解する場所。
筆者思うに、人間のコントロールが出来ないことはすべて神の領域とし、
ある面、楽観主義ではあるが、生存中の必死な行動を生むのではないか。
[ユダヤ教の戒律、特に十戒は、ほとんどが“~なかれ”との否定的な表現が多い]
(本項は主に、M・トケイヤー氏)
“~せよ” “~である”との積極的な表現と“~なかれ”との否定的な表現の比率は、
タルムード全体では40%対60%とされるが、
十戒でも後者(否定的表現)が多い。
“~せよ” などの積極的な表現では、それに従った行動さえすればよい、とし、
人間は考えなくなるし、好奇心が働く余地もなくなるからとされる。
一方、“~なかれ”の否定的表現は、禁じられたこと以外、自分の頭を使って、
“何でもやってみなさい”、“何をやってもよい”ということで、
これが、ユダヤの人たちが持つ戒律のもつ意味である、と。
中国でいう、何でもありの、所謂“超限戦”になってしまうのも困りものだが、
日本の安保・防衛関連法律は「~出来る」規定が多い(しかない)のが現状で、
大いに参考にしたいところではある。
[相異なる事象を、どちらも神の思し召しと両義的に捉える強さ](本項は主に、市川裕氏)
ユダヤ教には自分たちが体験した一見相異なる事象も、
ともに神の思し召しと両義的に(どちらも意義があることと)捉える強さがある。
たとえば“捕囚”と“離散(ディアスポラ)”について、
捕囚という否定的かつ消極的言葉に込められた祖国への郷愁や失望感に対し、
離散については、のちにアメリカに移住したユダヤ人の活躍にみるように、
肯定的かつ積極的な言葉とし、これに込められた解放感と自由として捉えるのも、
土地の結びつきを喪失してもなお共に生き続けられるユダヤ独特の文化を創造した、と。
のちに触れる、ショア―(いわゆるホロコースト)と新生イスラエル国家の再建国も、
全てが“受難”と“救済”という神の御業(みわざ)であった、とする見方(ポール・ジョンソン氏)も
軌は同じであろう。
[特にキリスト教との対比でみれば]
△キリスト教では三位一体説(父(神)、子(イエス)、聖霊は一体とする)を採り、
神はイエスという歴史的人間によって現れたとするが、
ユダヤ教では神は不可視の存在であるとする。
△キリスト教では人類の原罪の救済はメシア(救世主=キリスト)の犠牲なしには不可能とするが、
ユダヤ教では個人が直接神と向き合い、それぞれの努力で救済できるとする。
△キリスト教・カトリックはローマ教皇を頂点とした階層組織(ヒエラルヒー)が存在し、
プロテスタントも一般に教会、牧師が存在する。
また、カトリック、プロテスタントを問わず、多くの宗派に分かれ、神学論争も盛んである。
他方ユダヤ教においては、確かにラビたちは神の教えの解釈について猛烈な論議もしたし、
特に現代ではいくつかの宗派も存在するようである。
ただ、キリスト教にみるような秩序だった階層的な教会組織も神学論争もなく、
信仰上の問題はラビが判断し、信者はそれに従う、とされる。
以下[参考]
△聖書・申命記にはユダヤ人たちの日本渡来を思わせる記述がある。
(本項は主に、田中英道氏・茂木誠氏)
申命記はモーセの時代(BC10~11世紀)より後(BC670年頃)に成立したとされ、
モーセの預言ではなく、実際に起こったことをモーセの言葉として記録したものとされる。その中に
「主は、地の果てから果てまでの全ての国々の民の中に、あなたを散らす。」
「その所であなたもあなたの先祖達も知らなかった木や石で造った他の神々に仕えるであろう」とあり、
この“木や石で造った神々”というのは日本の自然神道を思わせる。」
また「主はあなたを舟に乗せ、かって私があなたに告げて『あなたは再びこれを見ることはない』
といった道によってあなたをエジプトへ連れ戻されるであろう。
そこで男女の奴隷として敵に売られるが、誰も買うものはないであろう」とも。
奴隷として連れ戻された者も居たかもしれないが、
いずれにせよ、渡来ユダヤ人たちの一部がイスラエルに帰ったということであり、
このことは“渡来”ということが実際に起こったことを意味し、
これらがモーセの言葉になったものと思われる、と。
△近代以降においては、二つのメシア論がある。(市川裕氏)
新生イスラエル国家を再建したユダヤの人たちは、二つの相対するメシア論に希望を見出した、と。
一つは普遍主義的メシア論で、ユダヤ人に同等の人間としての付与した流れ、
いわゆる「世界市民主義」に理想を見出す思想であり、
他の一つは、個別主義的メシア論で、ユダヤ人国家イスラエル国家の建設をもたらした
「民族主義」的な流れをくむ思想である。
前者・普遍主義的メシア論からすれば、ユダヤ人が祖国をもたずに世界中に離散している状態は、
決して悲観的・否定的に見られるべきではなく、
ユダヤ人は、自身の利己的な利害に固執することなく、
世界市民として、人類全体の進歩と繁栄に貢献するよう使命が与えられているとし、
これこそ、聖書の預言者の説く理念であり、
ユダヤ人は正義と慈愛で人々を導く模範でなければならない、とする。
決して悲観的・否定的に見られるべきではなく、
ユダヤ人は、自身の利己的な利害に固執することなく、
世界市民として、人類全体の進歩と繁栄に貢献するよう使命が与えられているとし、
これこそ、聖書の預言者の説く理念であり、
ユダヤ人は正義と慈愛で人々を導く模範でなければならない、とする。
これに対し後者・個別主義的メシア論は、
19世紀末から、ユダヤ人を民族集団とみなしたシオニズムとして台頭し、
1948年、イスラエル国家として現実のものとなった。
自分たちの民族国家を造ることは、どの民族にも与えられた自然権である。
そうだとすれば、個別主義的メシア論も、ユダヤ人のみの個別的な救済ではなく、
普遍的な救済を目指さなければならず、そこで「共存」という価値が重要な要素として浮上してきた、と。
19世紀末から、ユダヤ人を民族集団とみなしたシオニズムとして台頭し、
1948年、イスラエル国家として現実のものとなった。
自分たちの民族国家を造ることは、どの民族にも与えられた自然権である。
そうだとすれば、個別主義的メシア論も、ユダヤ人のみの個別的な救済ではなく、
普遍的な救済を目指さなければならず、そこで「共存」という価値が重要な要素として浮上してきた、と。
筆者としては初めてグローバリズムとメシアを結びつけた所論を読んだ。
彼らグローバリスト達が求めるものが、本当に“正義と慈愛”ならいいのですが・・・。
彼らグローバリスト達が求めるものが、本当に“正義と慈愛”ならいいのですが・・・。
またイスラエルについても普遍的な救済は“共存”しかないと強く感じます。
第1章の主な参考文献など
『生きるユダヤ教 カタチにならないものの強さ』(勝又悦子・勝又直也著)教文館
『日本人が知らない 世界史の原理』(宇山卓栄・茂木誠著)ビジネス社
『日本と世界の古代史&世界史』(田中英道・茂木誠著)ワニブックス
『ユダヤ・アラブ3,000年の闘い』(吉村作治 原案・監修)TBSブリタニカ
『ユダヤ 知恵の宝石箱』(ラビ・マーヴィン・トケイヤー著 箱崎総一訳)産能大
『ユダヤ人の歴史 上巻』(ポール・ジョンソン著 阿川尚之ほか訳)徳間書店
『ユダヤ人とユダヤ教』(市川裕著)岩波書店
(ネット関連)
駐日イスラエル大使館hp
『世界史の窓』(Y-History 教材工房)
大統領選、正に日本のマスコミだけを見ていると、「えっ」と思いますよね。どうも日本のマスコミと契約している米国の大手のマスコミが反共和党系が多くそこから得ている情報だからその様になっているという説もあるようですね。何れにしてもしっかり反省をして改善をして欲しいと思います。
キリスト教とユダヤ教の違いが何となく分かったように思います。
それにしても感心するのが、色々な本を参考にしてこんなに深く読み解き、分かり易く整理する力、エネルギーに敬意を表します。
米国大統領選挙、再びの不正疑惑が問題にならなかった、分断はあるにしても民主主義の基本、選挙がまともにできたことに安堵でしょうか。
日本政府がトランプ氏にパスされ世界の孤児にならないことを祈る思いです。
ユダヤ教とユダヤ人の根源的な問題、深い歴史を少しづつ理解していこうと思います。
しかしながら、直感的にユダヤの民は、人様のことを考えない、上から目線で自分本位の我儘な民族だと感じます。
浄土真宗が説く「阿弥陀様をを信じ、南無阿弥陀仏と唱え浄土に・・・」の方が、ひと様に迷惑かけず平和ではないかと思ってしまいます。
これからの解説を期待しつつ、日本の良さを再認識したいです。