Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#178 圧縮バット疑惑 

2011年07月27日 | 1981 年 

   


いわゆる圧縮バットとは「木製バットの木質部及び導管部の細胞内にフェノール樹脂、エポキシ樹脂、
不飽和ポリエステル樹脂等の合成樹脂を強制的に注入して硬化し前記の合成樹脂注入後、金型等で
圧縮し加熱硬化させ反発力を増したバット
」である。嘗てサミー・ソーサ選手が使用したコルクバットは
違反バットでしたが、むしろ圧縮バットの方を問題視すべきだったと思いますけどね、個人的には。

球場の規格と共に「飛ぶ」ボールとバットにもメスを入れたのも下田武三コミッショナーでした。ボールに関しては以前から機構側が認定したモノを使用していましたが、この年からバットにも認定が必要となりコミッショナーの刻印が無いバットの使用は禁止となりました。この決定は事前の根回しをしていたとは思えず王選手の突然の引退が関係しているのでは、と勘ぐってしまいます。各バットメーカーは認定の申請をする必要がありましたが、開幕までに間に合わないメーカーもありバタバタ感が拭えませんでした。


…谷沢のバットは圧縮じゃないのか?…それは軽い冗談から起きた。4月26日・大洋-中日戦の試合開始前、メンバー表交換に
一塁側ベンチを訪れた丸山球審に山根投手コーチが「谷沢のアレなぁどうなんだろうか、去年のヤツと似てやせんか?」と疑いを
込めながらやんわりと一声かけた。続いて中日ベンチへ向かった丸山球審は、さりげなく谷沢のバットを見た所、コミッショナーの
刻印があるのを確認した為、この話はこれで終わりの筈でした。しかし大洋は試合で使われた谷沢の折れたバットを球場関係者
から入手し美津濃社に調査を依頼したというのだ。谷沢のバットは巨人・王助監督が使っていた石井社製、圧縮バットでなくても
よく飛ぶと評判のバットだ。「普通のバットは爪を立てると跡が残るが石井社製のは固くて残らない」「谷沢選手個人を疑っている
のではなく、一度あの会社のバットを調べて貰おうと思ってね」と疑いの為ではなく性能の良さの確認が目的であるとしている。



石井社製のバットが疑われたのはコミッショナー認定の申請が遅れた為でした。他社の多くがキャンプ中に申請したのに対し石井社の申請期日は3月20日。認定されたのは16社目の4月13日でした。「何か細工をしていて遅れているのでは?」などの噂話が飛び交いました。前年まで石井社製の圧縮バットを使っていた大杉(ヤクルト)は同社の白木バットの認定が遅れて試合で使えない為、ルイスビル製のバット10ダースを急遽購入して使ったものの、今ひとつシックリせず打撃不振に陥っていました。

石井社製バットが認定されるとすぐに大杉の他にも衣笠・田淵・河埜・ホワイトなどが使い出し、谷沢や
山本浩などは打率や本塁打レースでトップに踊り出ました。しかし大杉やマニエルなどバットを変えても
相変わらず不振から脱せずにいる選手も勿論いました。各打者総じての印象は「他社より格段に表面が
硬い。グリップのしなりも充分で圧縮バットの感触と変わらない」と絶賛。そんな時に起きたのが今回の
大洋・山根コーチの「谷沢のバットは…」発言でした。

結論から言うと石井社製の白木バットは潔白で、そもそも大洋球団は谷沢の折れたバットの調査依頼は行わなかった。勿論、連盟への提訴もしていない。山根コーチの雑談にマスコミが飛びつき騒ぎが大きくなった「大山鳴動し・・」でした。 石井社によると飛距離を伸ばすポイントはバットの「しなり」で、しなりを良くする為に乾燥過程の熱風・湿度・温度などの特許技術を石井社は持っていて、圧縮バットと遜色ない白木バットが出来たというのが真相のようでした。




   



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#177 新守護神・角 三男

2011年07月20日 | 1981 年 
   


江夏が確立したのがクローザーです。投手は完投してこそ一人前とされていた時代から徐々に分業制がとられるようになり、各球団もクローザーを配置し始めました。角は入団後もしばらくは先発要員の一人で投球フォームも上手投げの本格派でしたが制球難の為に一軍に定着する事が出来ず伸び悩んでいました飛躍のキッカケは投球フォームをサイドハンドにして短いイニングを任されるようになってからです。藤田新監督になると試合の終盤に投げる事が多くなりましたが、現在のクローザーの様に1イニング限定ではなく終盤のロングリリーフ役でした。当時は2イニングを投げる事も珍しくはなく、江夏でも延長戦になった時に3イニングを投げた事がありました。


「おかしいよ、それは絶対おかしい」ベテランの吉田が唇を尖らせた。4月28日のヤクルト戦、今シーズン初先発で初白星をあげた堀内の球速が「148㌔」と出た。ところがリリーフした角の最高スピードが「140㌔」だったからだ。「角の球を受けていると、時々怖くなるんだ。低目にグ~ンと浮き上がってミットが手から外れそうになる。あの球が140㌔でしかもホリより遅いなんて絶対ない。プロのメシを17年も喰ってきた俺の目に狂いはない」 2年前に日本の野球界に登場して一大旋風を巻き起こしたスピードガンに真っ向疑問を投げかけた。「アレはね高目の球はちゃんと計れるけど低目の球には反応しにくいだって」と角本人はとくに気にはしてない。

今の様なリリーフのエキスパートを目指したのは一昨年の伊東キャンプから。「ノーコンだったオーバースローから、今のサイドに改造したのと同時に長嶋監督、杉下・高橋コーチたち総出で説得されたんです。お前はリリーフ向きだって」リリーフ転向1年目の昨年は1勝5敗 11Sと結果は今ひとつでした。「昨年はまだリリーフの調整方法が分からなかった。いつお呼びが掛かるのかも定まってなくて、3回くらいから準備する事もあったし。でも今年はだいたい終盤の2回くらいが出番と決まっているので、6回の頭くらいに準備を始めればいいと分かったから調整が楽になりました。この差は肉体的・精神的にも大きいですよ」と角は言う。


4月の防御率は「0.00」 8試合・15回を投げて30奪三振の驚異的数字である。「とてつもなく速く感じる(大洋・ピータース)」「背中に向かって物凄いスピードで来る。逃げようとするとサッと外角に決まる、思い切って外に踏み込むと胸元をエグられる。それに角にはノーコンのイメージがあって、それが邪魔しているな」と打撃好調のヤクルト・杉浦でさえお手上げ状態なのだ。

    

確かに4月の成績を見ると凄いです。8試合で15イニングを投げて被安打は僅か2本。広島戦では3試合で打者15人と対戦して11奪三振。ヤクルト戦は3回をパーフェクト、打者9人から7奪三振・・・さすがにこの調子が持続される筈もなく、夏場に入ると救援に失敗する事が度々ありました。自分のミスで先発投手の勝ち星を消してしまう事を恐れ常に極限状態に追い込まれている角に藤田監督の丸1日完全休養日を与えてリフレッシュさせるなどのサポートもあり、この年の最優秀救援投手賞を獲得しました。
    


    



  オーバーハンド時代の角投手。視線が捕手の遥か上空ではコントロールが良いわけがない。
   
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#176 2年目のジンクス 

2011年07月13日 | 1981 年 
   

昨年の新人王はパ・リーグは榊原(日ハム)、セ・リーグは長野(巨人)でしたが、2年目は今のところ
長野は打率3割をキープしていますが、榊原の勝ち星は1勝と2年目のジンクスに嵌まりつつあります。
「2年目」はプロ入り2年目に限った事ではなくブレークした翌年の場合も含まれ、今年で言えば広島の
前田健も該当しそうです。古くは首位打者に輝いた吉岡悟(クラウンライター)やサイドスロー転向後の
永本裕章(阪急)・工藤幹夫(日ハム)を思い出します。2人の様に2年目のジンクスは投手の方が多い
印象があります。「正直ホッとしています。気にしないと言ってたけど、やっぱり意識していました」と告白するのは、16勝で新人王受賞の翌年は9勝に終わり、3年目を迎える松沼兄でした。



藤沢公也(中日)…昭和44年の高校卒業時を最初に4度のドラフト指名を拒否し、9年後の昭和53年オフにプロ入りしました。本格派投手との触れ込みでしたが春季キャンプでプロの投球を目の当たりにして、プロの世界で生き残る為の術をキャンプ中にマスターしたパームボールに求めた。当時の球界ではパームボールを駆使する投手は殆んどおらず、面白いように打者を翻弄し勝ち星を重ねた。1年目は13勝5敗 防2.82 で新人王を受賞した。しかし翌年は「2年目のジンクス」に陥り、1勝15敗 防5.27 で「ボールの投げ方が分からなくなった…」と自信喪失しプロ入りを後悔したという。そして今季は、ここまで5試合に登板して早くも負け無しの3勝だ。「なぜ勝てるのか分からない。去年と何も変わってないけど」 と本人も今の姿に半信半疑らしい。「1年目の藤沢は変化球を駆使して成功した。しかし2年目のジンクスを意識する余り、本来の投球スタイルを忘れて直球の威力を増そうと間違った道を行ってしまった。今の藤沢が本来の彼なのさ」が近藤監督の藤沢評だ。去年の地獄を見て投手として、人間として、一回り大きくなった藤沢が帰って来た。

記事では今季の藤沢は「2年目」の呪縛から解放されて1年目の投球を取り戻せるはずとしていますが
この記事以降に再び負のスパイラルに陥り、3連勝後は1勝4敗でシーズン終了。そして1984年に引退
するまで、再び1年目の輝きを取り戻す事は出来ませんでした。  
【通算成績 27勝35敗1S 防4.23】


   





木田勇(日ハム)…最多勝・MVP・新人王・etc...ルーキーイヤーに11冠に輝き、2年目のジンクスを危惧されていた木田の
今シーズンの開幕は4月6日の南海戦。去年の22勝中9勝を稼いだお得意さん相手だけに、1回にクルーズの適時打が出た
時点でベンチには楽勝感が漂ったのも束の間、2回に逆転2ランを被弾、その後も14点の味方の援護を受けながら久保寺の
満塁本塁打などで終わってみれば9失点の傷だらけの今シーズン初勝利だったが同情すべき点もある。初登板は雨天中止で
スライド登板を余儀なくされ、当日も雨でしばしば中断するなど集中力を維持するのが難しかった。真価を問われるのは次の
登板以降となるだろう。


この勝利を含め実は4連勝します。しかし、投球内容はヨレヨレで防御率は4点台と前年とは比較に
ならない程の投球でした。投球フォームも崩し無駄な力が左ヒジに掛かるようになり疲労の回復力も
落ちて「中6日」のローテ-ションで登板していました。当時は「中4日」が当たり前の時代でしたから
チームの低迷もあり日ハム首脳陣は「甘やかし過ぎ」との批判を浴びました。その後も二軍には落と
さずにミニキャンプをしたり登板間隔を空けたりと色々とやっても調子は上がりませんでした。夏場に
なると短いイニングでKOされる事が多くなり8月10日の阪急戦では7打者に5安打・1四球・6失点
わずか1/3回と1イニングもたずに降板しました。この後は先発から外され敗戦処理に配置転換され
10勝10敗でシーズンを終えました。チームは球団初の日本シリーズに進出し、木田は第4戦に先発
しましたが途中降板し勝敗には無関係でした。もしも木田が前年の状態だったら日ハムは球団初の
日本一になっていたかもしれません・・・              
【通算成績 60勝71敗6S 防4.23】





一方の新人王・岡田(阪神)の2年目以降は順調でした
   
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#175 不適格球場

2011年07月06日 | 1981 年 
   

讀賣のナベツネを知っていても現コミッショナーの名前を知らない野球ファンも少なくないと思います。
オーナー達の言いなりで役立たずの歴代コミッショナーの中で、改革を試みた数少ない人のひとりが
下田武三氏でした。
『本塁打が乱舞する極狭球場』 でも触れましたがプロ野球界はルールの根幹で
あるはずの野球規則を都合のいい様に解釈をしてきました。そこに楔を打ち込んだのが下田氏です。
各球場のフェンスまでの距離を実測した結果を受けて後楽園球場では両翼の90m表示がひっそりと
消されました。



野球規則【1.04】「プレイの妨げになる施設までの距離は250 ft(76.199 m)以上を必要とする」を根拠に日本プロ野球機構は
現在の各球場を適格としているが、附則の「両翼は320 ft(97.534m)以上・中堅は400 ft(121.918m)以上あることを理想と
する」には見て見ぬふりである。さらに【1.05】には次のような附則がある。 ⒜ 1958年6月1日以降、プロフェッショナル野球の
クラブが建造する競技場は本塁より左右両翼の最短距離は325 ft(99.058m)、中堅は400 ft(121.918m)以上を必要とする。
⒝ 1958年6月1日以降、現在の競技場を改造するにあたっては、本塁からの距離は前記の最短距離以下には出来ない。


これだけハッキリと明記されていても1962年に完成した東京スタジアムは両翼90㍍、1978年竣工の
横浜スタジアムの両翼は94㍍、翌年の西武球場は95㍍でした。また、改造にあたるラッキーゾーンの
拡張で西宮球場はさらに狭くなった。だが機構側によれば、いずれも野球規則には抵触していないと
言うのだ。何故なら各球場はプロフェッショナル野球クラブが「自らが建造」したものではないから、が
理由だ。また西宮球場の場合は、拡張されたのは左右中間で両翼までの距離は変えていないからと
苦しい言い訳。確かに各球場は球団とは別会社が経営・維持しているが、詭弁としか言いようがない。



日本のラッキーゾーン第1号は甲子園球場である。大正13年 竣工時の両翼は360 ft(109.7m)、中堅は390 ft(118.9m)、
左右中間は一番深く420 ft(128.0m)と広い球場だった為、本塁打はランニングホームランばかりだった。そこで昭和11年の
外野席拡張工事に伴い両翼を300 ft(91.4m)、左右中間を390 ft(118.9m)に狭めたが、それでも他球場よりも広かった為
本塁打が出にくい球場である事に変わりはなかった。当時両翼が256 ft(78.0m)しかなかった後楽園球場の82試合で84本に
対して甲子園球場は42試合で3本と少なかった。戦後復活したプロ野球は「青バットの大下・赤バットの川上」の出現によって
ホームラン打者待望論時代が到来したが、いかんせん甲子園球場では本塁打が出ず華やかさに欠けると言われ続けていた。
昭和22年のシーズンも5月23日までの36試合が経過しても本塁打はゼロ。遂に5月26日の阪急-巨人戦からラッキーゾーンが
登場し、効果は直ぐに現れた。同試合で第1号が飛び出し結局、設置後77試合で60本が放たれたのである。


ボールやバットが改良され飛距離が格段に伸びるようになっても西宮球場は1991年、甲子園球場は
1992年まで存続させた。飛ばないボールの採用や圧縮バットの禁止など敢然とプロ野球界に挑んだ
下田氏はオーナー達の受けは悪く煙たがられましたが、ファンからの支持もあり当時としては異例の
6年間のコミッショナー在任でした。下田氏以後で球界改革に意欲的なコミッショナーは残念なことに
現れていない。尚、現在でも【1.05】に抵触しているのが横浜スタジアムと意外にも甲子園球場である。
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