納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています
エガワくん、やっぱり君は速球派だった!? 巨人低迷の " A級戦犯 " 江川が7月24日、ナゴヤ球場で行なわれたオールスターゲーム第3戦で見事な快投を演じた。4回表から全セの二番手としてマウンドに上がった江川は公式戦では見られなかった140㌔台の快速球と切れ味鋭いカーブで全パの強力打線から何と8連続三振を奪い3回をパーフェクトに抑え見事に最高殊勲選手賞に選ばれた。昭和46年、江夏(阪神)が演じた不滅の " 9連続奪三振 " の再現か、とファンも両軍ベンチも息を潜めて見守ったが9人目の大石(近鉄)にカーブを引っ掛けられ二ゴロ。夢は露と消えた。しかし、この日の江川はまさに「怪物」で日頃は厳しい野次を浴びせる名古屋のファンもこの日ばかりは江川コールを大合唱し江夏の時と同様に球場全体がマウンド上の江川に注目した。
「久しぶりに本物の速球を見せてもらいました。高目で伸びる速球は珍しくないが今日の江川君は低目の球がホップして伸びる。更にカーブのキレが凄く、あれじゃ打てなくて当然です」と球審を務めた五十嵐審判員。打つどころかオールスター戦に選ばれた各球団の一流打者がまともにバットに当てられず「誰だ、江川は終わったと言っていた奴は。とんでもないデマだ(阪急・福本)」「なにしろ速かった。久しぶりに本当に速い球を見た(阪急・ブーマー)」と口あんぐり状態。三冠王の落合(ロッテ)も「速い。ベース手前で球が跳ねた」と脱帽。共にカーブで三振を喫した栗橋(近鉄)、石毛・伊東(西武)は「カーブというより昔のドロップみたい。キレキレでした」とお手上げのポーズ。
先頭の福本をカウント1-3から三振させたのを皮切りに3人目のブーマーから8人目のクルーズ(日ハム)までスリーストライクは全て空振りだった。興奮したのは打者だけではない。先発して3回を2安打に抑え優秀選手賞を獲得した山内和(南海)は自分の事より「いつもなら降板後は直ぐにロッカーに行って試合は見ないんですけど思わず見入ってしまいました。ベンチから見ていても球の軌道が他の投手とは別次元でしたね。いや~、凄い物を見せてもらいました」と。また同い歳で普段からライバル意識を露わにする遠藤(大洋)ですら「ウォーミングアップ中だったんですけど途中で止めちゃいました。だって歴史の生き証人になるかもしれない場面でしたから。自分の事じゃないのにあんなに緊張したのは初めて」と興奮を隠せない。
【8連続三振の内容 ○:ストライク ◎:空振り ●:ボール △:ファール】
福 本 ●●△●○○
蓑 田 ○○△△○
ブーマー ●●△◎◎
栗 橋 ●○○◎
落 合 ●●○◎◎
石 毛 ●△○◎
伊 東 ●●△◎◎
クルーズ ◎◎◎
そして9人目。大石(近鉄)は打席に向かう前にわざわざ三塁側ベンチに歩み寄り西武・広岡監督に「代打を出さず僕でいいんですか?」と尋ねた。「いいんだお前で」と広岡監督に言われた大石は大きく深呼吸をして打席へ。打席に入ると捕手の中尾(中日)に「おい、三振してやれよ」と声を掛けられた。大石は「とんでもない。死にもの狂いでバットに当てますよ」と応えたがその声は緊張で擦れていた。しかし初球、2球目と目の醒めるような直球に手が出ずたちまち追い込まれた。江川の球筋を見定めた訳ではなかった。「ダメだ…球が見えない」と三振を覚悟した3球目、江川が投じたのはカーブだった。 " カツン "と乾いた音がして打球は一・二塁間へ。球場内は溜め息に包まれた。
台湾の速球王・郭泰源投手(22歳)を巡る巨人と西武の争奪戦が、いよいよ最終段階に入った。一時は巨人入り濃厚と噂されたが西武・坂井代表が五輪の舞台となったロサンゼルスで激しい巻き返しを見せて事態は混沌としてきた。ペナントレースより面白い " G・L戦争 " はどんな決着を見せるのだろうか?
7月26日、ロスからの共同電が衝撃的なニュースを伝えた。渡米中の西武・坂井代表が25日、ロス入りした郭投手の実兄・義煌氏を空港に出迎えた際に西武入りの内諾を得ているかのような会話を交わしたという。記事内の「郭投手一家とは大変親しくさせて頂いています。義煌氏を出迎えたのも今後とも宜しく、という意味だ」の坂井代表のコメントからは " 西武入り " を読み取れないが共同電であるという事が重要なのだ。共同通信の場合、「見込み」や「当て推量」で記事を発信する事はない。通信社という性質上、「事実」のみを報じる事が使命なのだ。その共同通信が西武と郭サイドの証拠固めをした上で " 西武入り " を打った以上、ほぼ事実と考えてよいだろう。
更に記事では前ヤクルト監督の武上四郎氏の談話も載せている。武上氏は現在ヤクルトの駐米スカウト兼、大リーグ・パドレスの客員コーチとして米国に滞在中だが「僕の感触では巨人と中日は無さそうだ。ヤクルト入りを薦めたが本人は西武入りを望んでいるようだ」とコメントしている。『巨人入り濃厚から一転、西武入りへ』という訳だが実は元へ戻っただけの話だ。巷間、郭争奪戦に先行していたのは中日だと言われていたが実際は西武の方が早かった。郭は社会人の合作金庫時代に頭角を現し注目を浴びたが西武は郭が長栄高校3年生の時に坂井代表が渡台し自分の目でその好素材ぶりを確認していた。
郭獲得の為に西武が取った方法は表立って行動せず外堀を埋める工作から始めた。先ず目をつけたのが根本管理部長と親交が深い「あけぼの通商(福岡市)」池田社長。池田氏は台湾で顔が広く郭家との繋がりも強く「日本のお父さん(郭)」という程の関係。また堤オーナーが懇意にしている岸信介・福田赳夫の両元首相に台湾政府筋への働きかけを依頼したとも言われている。西武のこうした攻勢に「西武はかなり以前から郭家に経済的援助をしている」という噂が囁かれている。更に引退後の身分保障として「いずれ台湾に建設するプリンスホテルか西武デパートの然るべき地位を約束する」との付帯条件を出すのではと言われている。
嘗てタツノ投手(ハワイ大)を複数の大リーグ球団と獲り合った時にもこの手法でプリンスホテルに入社させた実績があるだけに、いよいよ西武が身分保障という最後の切り札を出したのではと推測される。西武が用意している条件は契約金1億円プラス付帯条件。これ以上ないという物量作戦で巨人とのマッチレースを制しようと形振り構わぬ姿勢を見せている。郭投手がロス入りしてからは米国在住のプリンス系列のホテルマンを専従させている。こんな西武の独走状態に対する巨人サイドは意外と余裕を見せている。7月25日、東京・稲城市のよみうりランドで室内練習場の上棟式が行われ、出席した正力オーナーは記者団に対し「郭投手を全力をあげて獲得する。見通しは明るい」と述べ、7月30日にロスに出発する際に成田空港で沢田スカウト部長も「西武さんがかなり食い込んでいるのは分かっている。でも勝算は有りますよ、無ければわざわざ無駄足を運びません」と語った。普段は肝心な点になると慎重なコメントに終始する同氏だけに記者団も色めき立った。
西武と巨人が血眼になって獲得しようとしている郭投手とは一体どんな投手なのか?郭投手の存在が日本に初めて伝わったのは今から5年前で当時、郭投手は高校を中退し合作金庫に入ったばかりだったがたちまちエースの座に就いた。その後、兵役で陸軍へ。そして陸軍の大黒柱として連戦連勝の快進撃を見せ「江川より速い」と一気に注目の的となった。昭和56年に郭源治投手が中日入りした際に「僕より速い球を投げる投手がいる」と言っているのを聞いて中日の大越総務は渡台し獲得を目指したが兵役中だった為に一時中断していた。その間に郭投手は様々な国際試合で快投を見せて競合相手は増す一方となった。
郭源治以上の逸材を放っておけない、と中日に続いて大洋・西武・ヤクルトも争奪戦に参入したが巨人は何故か静観していた。巨人は台湾を独立国と認めない中国政府に配慮する親会社の讀賣新聞の立場を考慮し交渉出来ずにいた。しかし正力オーナー以下、幹部が訪中し交渉した結果、中国政府から「今回に限り」という条件で自由に台湾での活動が出来るようになった。全身をムチのように使って繰り出す速球は最高154㌔、平均でも150㌔。しかもカーブ・スライダー・シュート・フォークなど変化球も多彩で制球も抜群ときては「僕より勝てる(昨季9勝の郭源治)」という発言は大げさではない。
今年の2月に実際に郭投手の投球を見た前中日投手コーチ・権藤博氏によれば「好調時の江川に匹敵する。手元で球がグーンと伸びる」という。評論家の青田昇・高田繁両氏も少年野球教室で台湾を訪問した時に目の当たりにした感想を問われると「中日の郭源治より上。間違いなく15勝する力を持っている」と絶賛している。劣勢が伝えられる巨人の奥の手が王監督の出馬である。西武の球団フロント幹部は「シーズン中に王監督が台湾入りして交渉するとは思えないけど、もし仮に郭投手を日本に招いて王監督が会ったりしたら形勢は一気に逆転してしまう。それくらい王監督の存在は大きい」と警戒している。郭投手はロス五輪後にある10月の世界選手権には出場しない事が決まっており「9月中に結論を出す」と公言している。
作家の村松友視氏がとあるコラムに『今夜こんな所に来てる連中はよっぽど家庭に事情を抱えているんだぜ』という野次を川崎球場のロッテ対南海戦で聞いた、と書いていた。村松氏が観戦に行ったのはまだ肌寒い晩に行われたナイターであったのだろう。つい最近のデータによれば川崎球場でのロッテ戦の1試合平均の観客数は7千人。これだけ入れば御の字と思われるかもしれないがこれは対西武など人気チームとの対戦を含めた平均値。コラムに書かれた4月10日からの南海3連戦では3試合合計で5千人。しかもこれらの数字は " 公式発表 " であり実数はかなり少ないと考えて間違いない。そのロッテに今季、巨人から移籍して来たのが山本功児。
「確かに1ケタ違うな」大勢のファンが駆けつけ常に超満員の球場でプレーしていた山本は苦笑する。しかし続けて「でもやっているのは同じ野球ですよ。お客さんは多いに越したことはないけどパ・リーグの野球にもパ・リーグにしかない面白さがあるんです」と。法政大学を卒業して社会人の本田技研鈴鹿を経て巨人に入団したのが1976年、主に代打で起用されてきた。トレードの話は突然降って湧いた訳ではなく、ここ数年オフになると毎年のようにスポーツ紙を賑わせていた。ロッテとのトレードが決まると気持ちの切り替えは早かった。代打として試合に出場するだけでは満足できない部分があったからだ。「学生時代からずっと打って・守って・走る野球をやってきた。やっぱり打つだけでは面白くないですから」と。
現在の山本を見ているとルーキーのような初々しさを感じる。もう32歳の中堅からベテラン選手の域に入っているが、今あらためてプロ野球を新鮮な目で見つめている。「パ・リーグの投手にプロらしさを感じますね」と山本は言う。「セ・リーグの投手とは一味違う。例えば僕は低目が好きだし、強い事は周知の事実でセ・リーグの投手は低目を見せ球にして最後は高目の球で勝負してくる。一方のパ・リーグの投手は打者によって攻め方を変えてこない。つまり勝負球は自分が一番自信のある球を投げてくる傾向が強い。投手としてのプライドを凄く感じます」「鈴木啓(近鉄)さんや山田(阪急)さんは決して自分の持ち味を変えない。有藤さんや落合君に仮に打たれても次の打席では打たれたコースをもう一度攻めてくる。プロだなぁと思いますね」
そうしたプロフェッショナル達と山本はロッテ打線の中心選手として渡り合っている。面白いデータがある。開幕してまだ2ヶ月も経っていないのに山本は4つも失策を記録している。ご存知のように山本の一塁守備には定評がある。グラブさばき、打球に対する感、フィールディングなどどれを取っても申し分ない。しかし何故か失策が目立つ。「西武戦で大チョンボをしてしまった。一塁に走者がいて打者はスティーブで打球は一・二塁間へ。『ゲッツー頂き』と思い無理に飛び出してしまい打球をはじいてしまった。それだけならまだしも慌てて二塁に悪送球、走者の背中に当たって球は外野を転々…結局それがきっかけで失点し試合に負けてしまった」守備には自信を持っていただけに激しく落ち込んだ。「普通なら飛び出さず二塁手に任せる打球だった。自分の守備範囲は分かっているつもりだったが、あの時は自分の近くに来た打球は全部取ってやろうと意気込んでいた」
やはりルーキーのような心境なのだ。初めてプロのユニフォームを着た選手のように浮き立つような思いでグラウンドに立っている。でもそれは悪い事ではない。手慣れたグラブさばきでさり気ないプレーもプロらしいが慣れ過ぎたプレーには驚きを感じる事は少ない。例えエラーをしても初々しいプレーには清々しさを感じ拍手を送りたくなる。プロ入り以降、時間はかかったが今回のトレードで山本は初めてレギュラーの座をつかんだ。その嬉しさがエラーに繋がるとは何とも人間味があって宜しいではないか。そんな奮闘する山本のもとにファンレターが届く。その多くが巨人時代からのファンだそうでロッテファンからは思いの外に少ないという。ちょっと寂しい話ではないか。ロッテファンには新たにチームにやって来た少々老けたルーキーを励ましてほしい。束になったファンレターが川崎球場の山本のロッカーに届く日がやって来る事を心から願う。
昭和38年、古葉毅(現在は竹識)はデッドヒートの末に長嶋茂雄に首位打者を明け渡した。それは無念なるかな死球が原因だった。しかし古葉はこれにより甦り、後には監督として長嶋に打ち勝つのだった
昭和38年のペナントレースは川上監督率いる巨人が独走し興味は個人タイトルのみとなっていた。王が一本足打法で打撃開眼し初の本塁打王をほぼ確実にしていた一方で首位打者争いは長嶋と古葉の一騎打ちとなっていて古葉の首位打者挑戦が広島ファンの最大の関心事となっていた。10月12日に広島は地元の広島市民球場で大洋と対戦、長嶋がいる巨人は中日と戦っていた。前日時点で古葉は3割3分9厘、長嶋は3割4分5厘だった。6回裏、古葉が打席に入った。対するは大洋・島田源太郎投手。初球は内角にシュート、続く2球目もシュート。球は踏み込んで打ちにいった古葉の左下顎を直撃した。古葉はその場に昏倒し一塁側ベンチから白石監督はじめフィーバー平山コーチや長谷川コーチらが一斉に飛び出して来た。投げた島田投手や大洋・三原監督も心配そうに駆け寄った。
「古葉、俺が分かるか?」「動くなジッとしていろ」周りからの問いかけに古葉は黙って頷いた。一塁側スタンドからも「頑張れ」「大丈夫か?」とファンも絶叫していた。古葉を乗せた救急車は広島市内の日赤病院に横付けされた。直ちに口腔外科部長である栗田亨氏による診断が始まった。結果は左顎下骨折で全治1ヶ月と診断された。自宅から玲子夫人が駆けつけ、その日の夜に手術が行われた。これによって激しく争っていた首位打者レースは終わった。古葉は3割3分9厘のまま病院のベットの上でシーズン終了を迎え、長嶋が3割4分1厘でタイトルを獲得した。手術を前にして玲子夫人は報道陣に「主人は『千載一遇の好機だから死に物狂いで頑張る』と言っていたので本当に悔しがっていると思います。出来る事なら私が代わってあげたい…」と涙ながらに語った。
『古葉、死球で負傷退場』の知らせは長嶋の元にも届いた。ライバルのアクシデントに長嶋は困惑した表情で「終盤での怪我で古葉君がリタイアしたのは残念だ。古葉君に追い上げられて焦りを感じていた半面、非常な励みにもなっていた。実に寂しい」とコメントを出した。その日の翌日、病床の古葉のもとに一通の電報が届いた。「キミノキモチハワカル イチニチモハヤク ゲンキニナルコトヲイノルノミ キヨジングン ナガシマシゲオ」・・長嶋からのものだった。この事を契機に古葉は長嶋を生涯のライバルに見立てたようである。阪神の村山投手が天覧試合でサヨナラ本塁打を浴びてから長嶋を野球人生の宿敵に定めたように古葉もまた打倒長嶋を目標にした。「最高のバットマンと真剣勝負が出来た。今回の経験を生かしていつの日か恩返しをする時が来るまで頑張る」と心に誓った。
年が明けた昭和39年、古葉は名前を「竹識」に改名した。同時に玲子夫人も「久美子」と改めた。なぜ改名したのか、古葉は多くを語らないが恐らくはあの死球を契機に新しい自分を作りたかったのではと推察される。その願いは直ぐに叶えられ古葉は大怪我から不死鳥のように甦った。打率こそ前年を下回り悲願の首位打者のタイトルは嘗ての日鉄二瀬で同僚だった江藤慎一(中日)に譲ったが盗塁王に輝いた。昭和33年にプロ入りして以来、初の個人タイトルを獲得した。親交のある画家の成瀬数富氏は「彼は実に芯の強い人間。熊本生まれで肥後もっこすらしく頑固で信念を絶対に曲げない。長嶋さんに負けた悔しさを糧にして盗塁王になれたのでは」と語る。そう言えば古葉の座右の銘は『耐えて勝つ』だ。いかにも古葉らしい言葉ではないか。
その古葉が選手から監督へと立場を変えて再び長嶋と対峙する時が来た。昭和50年に川上監督の後継者として巨人を率いる長嶋、球団初の外人監督となったルーツ監督がシーズン途中に退団し急遽監督に就任した古葉。共に1年生監督で長嶋は昭和11年2月生まれ、古葉は同年4月生まれ。学年こそ長嶋が1つ上だが「僕と長嶋さんは同世代。どんな事があっても負けられない」と打倒長嶋を露わにした。結果は長嶋率いる巨人が開幕6試合目に最下位に落ちて以降一度も浮上する事無く低迷したのに対して広島は昭和25年の球団創設以来初のリーグ優勝を成し遂げ日本中に赤ヘルブームを巻き起こした。昭和50年10月15日、後楽園球場で古葉は長嶋の目の前で宙に舞った。「キモチハワカル…」あれから12年、古葉は見事に恩返しを果たした。「古葉は逆境に立てば立つほど強くなる。生まれ育った環境が今の彼を育てたのかもしれない」と地元の評論家は言う。
古葉は熊本市内でも目立った洋館3階建てのお屋敷で生まれた。父が経営する鋳物会社は大変繁盛し裕福な生活を送っていた。ところが戦後になると生活は一変する。会社は倒産し一家は豪華な洋館から六畳一間のあばら家に住む羽目になり、間もなく父が白血病で倒れ亡くなる。しかし降って湧いたような悲劇にも古葉は屈せず生き抜いた。「私はね辛い事、苦しい事を肥料にするのが上手いのかもしれんね。男の人生は一度や二度は死ぬような思いをしなければ一人前ではないという話を聞いた事があるが確かにそうだと思う。私は諦めるのが大嫌い。子供の頃からナニクソ、ナニクソと辛い事に耐えてきたんだ。それが血となり肉にとなっているように思うね」これは初優勝した後に古葉自身が語った言葉である。滅多に自分の幼少期の話をしない古葉が珍しく吐露した。苦しい事、辛い事を明日の糧に出来る男だからこそ現在の地位にいるとも言える。
自社の新商品の宣伝に2年連続最下位の監督をテレビCMに起用する。それだけなら何ら構わないが、まるで似合わないコミカルな演技を芸能タレントの如く強いるのはいかがなものか。挙げ句にチームは負け続け、自軍の担当記者にまで商品名の「タフマン」をもじって「多負マン」と陰口を叩かれる始末。更には連敗が続くと「ヤクルトミルミル」にかけて「みるみる●●連敗」といった新聞見出しまで登場した。チームが負けてこれほど親会社製品のイメージが悪くなった例を知らない。プロ野球の本質は本拠を置く地域のファンを喜ばせ野球を通じて地域社会と絆を結び合う一つの社会的還元を行なうものであるべきなのにプロ野球チームを持つ事は自社製品の宣伝の為としか考えていないからファンからしっぺ返しを喰らう事になるのだ。
今回のヤクルトの監督交代劇 『武上監督の辞任 → 中西ヘッドの監督代行就任 → 中西監督代行の辞任 → 土橋投手コーチの監督代行の代行就任』と続いたゴタゴタ騒ぎは過去にちょっと例のない醜態である。単に敗戦の責任を取って指揮官が交代しただけ、では済まされない問題が潜んでいる。球団フロントがどういったチームを作るかのビジョンが全く見えてこない。一説によると中西監督代行があの巨体が萎むほど眠れぬ夜を過ごしたのはトレードや新外人獲得といった補強策に球団がまるで動いてくれそうもない無関心さにイライラが募ったせいだとも噂されている。書類上はあくまでもヘッドコーチのままで指揮権も曖昧なままでは思い通りの采配は振るえまい。自分の子供のような歳の選手相手に汗まみれになって打撃指導するほど野球が好きだった男が「もう勘弁してほしい」とユニフォームを脱ぐ心境になったのには余程の事があったのであろう。
次は代行の代行となる土橋投手コーチ。就任会見の際に記者から球団社長に対して「今度の監督代行の指揮期間はいつまで?」と皮肉たっぷりの質問に「武上君と中西君とも色々と相談しないと…今はお答えできません」と奥歯にモノが挟まったような不思議な答弁をした。それを横で聞いていた土橋コーチは驚き「いえ、僕は松園オーナーから最後までやれと言われましたからそのつもりです」と即座に球団社長の発言を否定した。オーナーは「最後まで」と言い、球団社長は「何とも言えない」とする不徹底さ。ここにこのチームの悲劇がある。中西監督代行が辞意を表明した時、各スポーツ紙は球団フロントの「長期展望の欠如」「抜本的改革意識の無さ」「明確なチームビジョンを持たない悲劇」と書いた。ヤクルトという球団の問題点を今や球界関係者のみならず一般のファンですら分かっている。
嘗てヤクルトに在籍していた元選手が苦笑しながら話した事がある。「球団フロント陣は動きたくても動けないんですよ。下手に動いてオーナーの怒りを買って冷遇されるより黙って大人しくしている方が身の為なんです」と。抜本的な対策を講じる事なく目の前のほころびを繕うのみ。だが所詮は応急処置なので直ぐに元に戻ってボロボロに。それでも対策を進言しない。それくらいヤクルトでは松園オーナーの権力は絶大で、オーナーは客を招待している酒の席に監督・コーチや選手を呼ぶのが好きでオフの期間は勿論、シーズン中でも珍しくない。元選手によれば「私は野球人。男芸者じゃない」と敢然と断ったのは嘗ての広岡監督くらいだそうだ。この発言が事実だとすればヤクルトというチームは松園オーナーのペット的存在であるという事になる。心ある野球人としては何とも悲しい事である。
この15年でヤクルトの監督(代行も含む)は土橋コーチで7人目となる。平均2年余りの短命指揮官だ。嘗ては日本プロ野球史に名前を残す名監督・三原脩もいた。球団初のリーグ優勝&日本一を達成した広岡達朗もまたしかりである。こうした名将たちは自らが理想とするチーム作りに着手し始めてもやがて球団に不信感を抱いてチームを去る事となる。指揮官を失い方向を見失った中途半端なチームが残され、後を継いだ新たな指揮官はゼロからのスタートを強いられた。今年のドラフト会議でヤクルトは前評判の高い即戦力の高野投手(東海大)を指名したが、球界内には高野の将来を危ぶむ声が広まっている。ヤクルトのドラフト1位投手は大成しないとよく耳にする。本人の資質もあるが指揮官が頻繁に交代し一貫性の無い指導方法にも原因があるのではという意見は多い。
ゴールデンルーキーの荒木投手の場合もそうだ。人気があるから、とまだプロとしての実力も備わっていないのに " 客寄せ " の為に登板させた。確かに荒木は人気者である。登板すれば普段よりも多くのファンが球場に押し寄せるだろう。しかし肝心の実力が伴っていないのだからファンの関心が次第に薄れていくのは必然である。見よ現在の荒木を。投げる機会も減り、ただ漠然と練習している様は痛々しいだけだ。巨人の槙原投手は1年間きっちりと二軍で鍛えた成果が今の活躍となっている。当初は武上監督も荒木を二軍で鍛えてから一軍で投げさすつもりだったが人気低迷に悩む松園オーナーの要望には逆らえずデビューさせた。大人の事情で一軍にいる荒木はむしろ被害者かもしれない。今後も長期的展望がないままなら来年以降のチームや荒木にも多くは望めまい。ヤクルトの低迷は目先の事しか考えない結果であり、一事が万事である。
中日と巨人、この2球団の話になると何時だって野球だけで終わらない。どうしても親会社である中日新聞と讀賣新聞とのいわゆる " 新聞戦争 " という生臭い話に行き着く。郡山での巨人戦に逆転勝ちして「みちのくシリーズ」を全勝した際に中日・山内監督はポケットマネーからポンと10万円を出した。3連戦最後の郡山の試合は9回二死から代打の豊田が西本投手から逆転2ランを放って監督賞を手にした。通常は5万円の監督賞のみだが巨人戦には「半督賞(ハントク賞)」と称する半分の2万5千円の賞もあり、牛島と金山が手にしたのだ。ことほど左様に中日の巨人に対するライバル心は相当なもので当然、親会社の中日新聞も販売部数で讀賣新聞に負ける訳にはいかないのである。
山内監督の一種異様なはしゃぎぶりの裏にもこの新聞戦争があるのだ。中日はシーズン前に二度ばかり壮行会を親会社の中日新聞本社内で行なった。社内での内輪だけの壮行会だから当然本音が飛び交う。球団関係者によれば今年ほど " 打倒巨人 " のボルテージが上がった事はなかったという。「ウチの打倒巨人は毎度の事なのですが今年はしきりと巨人の創立50周年が引き合いに出された。例年なら先ずは中日の優勝を口にするんですけど今年は自分の優勝より巨人の優勝を阻止する事をお偉方が盛んに強調してました。ちょっと異様な雰囲気でしたね」と中日新聞関係者は言う。
讀賣新聞が名古屋地区で「中部読売」を発行して50年になる。また中日スポーツと対峙する報知新聞も含めて " 中・読 " 戦争は激化するばかりであったが、昭和57年に一応の決着がついたと見られていた。名古屋の政財界の後ろ盾や根強い地元意識を背景に讀賣新聞の浸食を最小限に食い止めたからだ。それが今年になって再燃した大きな要因が地元の大府高から巨人入りした槙原投手の存在である。プロ2年目の昨季、中日相手に5勝をあげた。「中日新聞上層部が慌てたのは槙原の出身地である半田市の販売部数が激減した事。それまでは8対2で大きく水を空けていたのが5対5にまで急追された」と関係者は語る。
名古屋地区全体では中日新聞の牙城は依然として強固であるが、仮に今年も槙原に負け続け巨人に優勝されたら地滑り的な現象が名古屋地区に広がるのではないかと警戒している。一説には中日球団は山内監督に対して優勝よりも巨人に優勝させないよう厳命しているのではと言われているがあながち無い話ではない。一方の讀賣サイドも対抗策を打っている。例えば中日の準地元である津・金沢・岐阜・浜松で巨人主催のオープン戦を挙行した。また開幕後には名古屋初遠征の際に歴代の監督が名古屋市中栄区にある中部読売本社を訪れるのが恒例となっていて、今年も王監督が訪問し「僕らは野球で頑張るが記者さん達は一致団結して記事で敵を圧倒して下さい」と檄を飛ばした。
そうこうして始まったこれまでの今季対戦成績は7勝1敗1分けで中日が圧倒。「昨季の中日新聞は200万部、中日スポーツは50万部だったが今季の好調ぶりを反映してそれぞれ、202万部・51万部と伸ばして球団もろともウハウハ」とは中日担当記者。自分の所で確保していた中日スポーツが売り切れた為にわざわざ他の販売店に走る中日新聞販売店員が出るなど中日の快進撃に比例して中日スポーツは売れに売れている。片や低迷する巨人のせいで中部読売は大苦戦。「もう新聞は読まない!」という巨人ファンの足止め策として「お金はいらないから」と配達を続けているという噂話まで出る始末。明暗がこれ程はっきり出ては山内監督ならずともハシャギたくもなるだろう。
実は讀賣新聞の他にも中日の快進撃に割りを喰った新聞社がある。スポーツニッポン新聞社だ。スポニチはペナントレース開幕に合わせて現地印刷を始めた。中日スポーツに独占されている東海地区の部数を当て込んでの事。「アチラ(中日スポーツ)さんと同じ事をやっても読者は奪えない。ドラゴンズの裏ネタやセンセーショナルな記事で中日ファンを切り崩そうと思ったんですが、ドラゴンズがこう強くちゃ勝負にならない。読者は単純なヒーロー記事を喜ぶんです」とスポニチ関係者は嘆く。最近では中日関連の記事が一面を飾る機会がめっきり減って地理的に近い阪神ネタが多くなった。
現時点では出だしからつまずいた巨人を横目に打倒巨人すなわち打倒讀賣を目論み通り果たし、返す刀で東海地区進出を虎視眈々と狙う毎日新聞系列のスポニチもバッサリと斬り捨てた山内中日。「ですから中日新聞本社では早くも論功行賞が行われているらしいですよ。例えば山内監督を招聘した鈴木代表に対して山内監督の任期中(5年間)の代表職を約束したみたいです」と中日担当記者。ま、そんな話はともかく中日ファンとしては山内監督の面白い野球がこの先もずっと見られればいう事なし、という所だろう。
今年プロ入りした大学出のルーキーでビッグ4と言えば高野(ヤクルト)、銚子(大洋)、白井(日ハム)、そして小早川(広島)だ。この中でド派手なデビューを飾ったのが小早川。2月25日の中日とのオープン戦で1本塁打を含む4安打・5打点の活躍を見せた。今回はポスト衣笠として期待される小早川を中心に4人の現状を伝える。
オープン戦とはいえプロ初打席で初アーチを含む4安打と衝撃のデビュー、翌日の試合でも安打し懸念の三塁の守りも無難にこなして首脳陣の評価もウナギ登り。今季一軍定着を目論む期待の中日・平沼投手のカウント1-3からのカーブを捉えた。しかし本人は「打ったのはストレート。浩二さん(山本)に『おめでとう』と言われた時は嬉しかった」と球種を勘違いするほど興奮していた。山本浩は大学の先輩であるだけでなく同じ広島出身でもあって日頃から可愛いがられていて、スパイク磨きなど身の回りの世話係も兼ねている。「浩二さんからは色んな事を学ばせて貰っています。夜間練習の特打の時もアドバイスを頂いています」と今や師弟関係だ。
入団早々に「サードを守りたい」と宣言し1月中旬に始まった沖縄での自主トレから阿南コーチとマンツーマンで内野守備の特訓を行なった。阿南コーチと言えば嘗て一塁から三塁へコンバートを命じられた衣笠や外野から遊撃に変わった高橋慶の時も守備力向上の担当となっていて今回の小早川が3人目である。「やる事は沢山ある。打球に対する足の運び、グラブさばき、バックアップなど課題は山積み。一度に全て克服するのは到底ムリ。一つ一つ憶えるしかない(阿南コーチ)」と今は1日500本の猛ノックを浴びている。ただ三塁には衣笠がいて簡単に試合には出られず、このままでは宝の持ち腐れとなってしまう為に首脳陣は本職の右翼での兼用も検討しているが基本は三塁である。
正三塁手の衣笠も既にベテランの域にありこの先何年もプレーし続けられるものではない。ポスト衣笠&山本浩が広島の近々の懸念材料である。外野手の候補はいるが三塁手は見当たらなかった。昭和55年のドラフト会議で原(当時東海大)を指名したが抽選に外れてしまった。あれから3年余、ようやく候補が現れた。「打撃に関しては球を捉えるタイミングやバットスイングの鋭さはプロで2~3年やっているレベルにある。後はどうポジション争いに勝つか、だ」と古葉監督も認めており、一にも二にも守備力向上が課題なのである。「キャンプを1回こなしたからと言って直ぐに使える三塁手になれる筈がない。これからはオープン戦で慣れる事も大事だしシーズンが始まっても今以上の努力が必要」と阿南コーチは手厳しい。
「奴もなかなかヤルじゃないですか」と高野が小早川の活躍を耳にしたのは海の向こうのユマキャンプ。所属する大学もリーグも違うが投打の大学 No,1としてお互いの存在は意識し合っていた。4年生の明治神宮大会の準決勝戦で一度だけ対戦した事がある。第3打席までキッチリ抑えていたが9回の先頭打者として左中間に二塁打を許した。「内容まで憶えているんですからやっぱり気になる存在だったんですかね」と言うと二ヤリと笑う顔にはプロとしての余裕が感じられた。高野の評価は日に日に上がっている。早々とキャンプ中に武上監督から3月10日のオープン戦初戦となる日ハム戦の先発を命じられた。「今の所、他の人を気にする余裕は無いです」と言いながらも逸る気持ちを抑えている。
即戦力 No,1投手がベールを脱ぐのは学生時代に慣れ親しんだ神宮球場。「どこまで通用するのか不安の方が大きいですよ。やっぱりプロの打者は失投を見逃してくれませんから」速球に鋭いカーブ、それと味方相手では遠慮して使わなかったシュートも解禁するつもりでいる。「恐らくキャンプで見せていた投球より一段階ワイルドな高野を見せてくれるんじゃないかな」と武上監督はじめ首脳陣は今から大いに楽しみにしている。既に先発ローテーション入りは確定しているだけに今後は投球内容が問われる。「全て八重樫さんのサイン通りに投げます。小早川?エエ、彼とも銚子(大洋)とも早く対戦したいですね」と物怖じする事のない頼もしいルーキーである。
法政大学の同期で主将と副主将として小早川とクリーンアップを組んでいた銚子。ツーと言えばカー、の仲だがプロでは大洋と広島の敵同士に分かれた。「何やら大暴れしたみたいですね?早速テレビで活躍ぶりを見ました。先ず感じた事は小早川の打球はもっと鋭かったと思いました。例えば大学時代の彼が芯で捉えた三遊間を破る打球に野手は一歩も動けなかった。ただ今回の当たりは少し緩く見えましたね」と実感したそうだがそれは自らにも当てはまる。アマとプロの違いをまざまざと見せつけられているのだ。「プロの投手が投げる球威に押されてヘッドの抜けが遅くなって打球に力が伝わっていない」と自分でも感じているのだ。
大学野球とプロの世界では格段の差がある。大学王者の法大で主力打者を務めていたとしてもそこはルーキー。今後、投手の調整が仕上がってくれば今以上にスピードについて行くのが難しくなる。銚子もなかなか思うように左方向へ引っ張る打撃が出来ていない。本塁打こそ1本出たがまだまだフォーム固めの真っ最中である。 " 銚子シフト " なる外野手が一斉に右寄りに守備位置をずらすなど早くもプロの洗礼を浴びている。ともあれ敵味方に分かれてライバルとなる旧友だが「もう今は自分の事で精一杯で他人の事をあれこれ考える暇すらありません。だからお互い一度も連絡を取り合ってません。こっちはこっち、ゴーイングマイウエイです」と敢えて無関心を装う銚子であった。
日米大学選手権でのチームメイトだった小早川・銚子は東京六大学リーグのスター、首都大学リーグの星が高野、そして白井(日ハム)は東都大学リーグの即戦力 No,1野手としてそれぞれのチームに身を投じた。自主トレ・キャンプ序盤はかつてのチームメイト達の動向も多少は気になっていたという白井だがあっという間に学生気分は吹き飛んでしまった。アマとプロの違いをまざまざと見せつけられ自分の身体で実感したからだ。プロ入り前は自分の能力に少なからずプライドを持っていた。自信が無ければプロの世界にやって来る訳はないので当たり前の話であるが。しかしセールスポイントと自負していた守備と走塁でポカを連発する失態を演じてしまった。
「自分がこんなに野球が下手だったのかと思うとガッカリしました」と完全に自信を喪失した時期もあった。だがそこは駒大・太田監督が「総合力では石毛(西武)より上」のお墨付きを添えてプロへ送り出した逸材、1日1000本の打ち込み・600本の特守を14回受けると頭角を現し紅白戦で田中幸投手から初本塁打、その後も快音を響かせ13打数5安打・打率 .385 と打ちまくった。オープン戦では少々お疲れモードなのか打撃は3試合で8打数1安打・1四球・1三振と精彩を欠いているが守りは堅実さをアピールしていて先ずは首脳陣から合格点を貰った。「手も足も出ない訳ではない。まだ球種を絞れてないだけ。小早川の活躍?他人は他人、自分は自分です」と白井はユックリズムの腹づもりのようだ。
「何しとるんじゃ、打者に集中せい!」サチ(衣笠)の一言で我に返った。佐々木にカウント2-1からの3球目は高目のボール気味のカーブをファールしてカウントは変わらず。4球目は直球で誘うが見送られ2-2の平行カウント。続く5球目、内角低目にボールになるカーブで空振り三振に仕留め、ようやく一死。ここで再びサチが走り寄る。今度はヨシヒコ(高橋慶)も来て一息ついた。次打者は石渡(現巨人)、小技も得意な選手でスクイズも警戒しなければならない。初球のカーブを石渡は悠然と見送る。「悠然」と言うより漠然と打席で立っているという感じだった。じっくり球筋を見極めるとか狙い球が外れたとかではなくベンチからの指示を待っているかのように。水沼のサインは2球目もカーブ。投球動作に入った瞬間、石渡がバントの姿勢になった。と同時に水沼は立ち上がった。「来たか!」・・カーブの握りのままウエストボールを投げざるを得なかった。石渡もウエストボールが変化するとは思っていなかったのだろう、球は曲がり落ちてバットの下を通り過ぎて行った。
スクイズ失敗。三塁走者の藤瀬は三・本間に挟まれタッチアウト。二死二・三塁と近鉄圧倒的有利の場面から一転した。それにしても我ながらよくもカーブの握りでウエストボールが投げられたと感心する。とてもその瞬間を理屈・理論づけなど出来ないが思い当たる事が一つある。カネさん(金田正一氏)に教わったのだが、投げようとして打者に球種を読まれていると感じたら投げる球を瞬時に変えられるようになって一人前の投手や、とアドバイスされ自分なりに研究していた。球種だけでなく腕がトップの位置にあっても打者の気配によって投げるコースを変えられるとカネさんは豪語していた。それをカネさんは「間」と表現していたが若造だったワシは頭では理解出来ても実践する芸当は持ち合わせていなかった。しかし長い事やっているうちに時折本能的にそういう事をしている自分に気がついた。カネさんが言っていたのはコレか、と得心がいくようになった。それが一番大事な瞬間に出た。つくづく積み重ねというものは大切であると実感した。
余り語られていないが水沼のキャッチングは見事であった。石渡のバントの構えに反応して慌てて立ち上がった時点で恐らく水沼は自分がカーブを要求した事など頭から消えていただろう。石渡がウエストボールが予期せぬカーブだった事に対応出来なかったように水沼も球をファンブルしてもおかしくなかった。しかも三塁走者の藤瀬は猛ダッシュで本塁寸前まで到達していたので水沼が少しでもミスをしていたら間違いなく同点になっていただろう。水沼の冷静沈着なプレーがあったからこその結果だった。しかしまだ二死二・三塁とピンチが続く。ここで再びサチが来て「まだ試合は終わっとらん。気を抜くな」とアドバイス。改めて気持ちを切り替えて石渡に相対した。ここまで来ると前述した「流れ・勢い」は近鉄から広島へ移っていた。勝負球はカーブと決めていた。勝利の瞬間、何をどうしたかは憶えていない。後で映像を見るとピョンピョン飛び跳ねたり水沼に抱き付いたりしているが全く記憶がない。身体の芯から喜び、感動した時はそういうものなのかもしれない。
日本シリーズ終了後にも嬉しい事があった。ペナントレースのMVPに選出されたのだ。これは本当に嬉しかった。自分自身の喜びだけではなく救援投手という役割に最高の栄誉が与えられた事が嬉しかったのだ。従来の受賞者は優勝チームの本塁打王とか首位打者、投手で言えば20勝投手などが主だった。選手も世間もMVPとはそういうモノだと思っていた所にワシのような云わば " 縁の下の力持ち " 的な選手に光が当てられたのが嬉しかった。若かりし頃のワシは「投手は先発・完投こそ生き甲斐。リリーフ役など真っ平御免」と言い続けていたが、阪神から移籍した南海の監督だった野村さんに「江夏よ、プロ野球界に革命を起こしてみないか」と説得され嫌々ながら救援投手を務める事となった。この年にMVP受賞の知らせを聞いた時に真っ先に思ったのが野村さんのあの言葉だった。「あぁ、ホンマに革命を起こしたんやな」・・充実した年だった。
今でも初対面の人とは必ずと言っていい程あの場面の話になる。昭和54年の近鉄との日本シリーズ。3勝3敗で迎えた第7戦、広島の1点リードで迎えた9回裏。もう一度同じような場面に遭遇したらスタコラサッサと逃げる・・それが正直な気持ちだ。あの場面を語る前にあのシリーズの最中にワシの頭をチクリと刺激した事に触れておきたい。大阪球場での第1戦、2戦と連敗。その第2戦の7回裏無死一塁でマニエルに対し福士がカウント0-2とした場面で急遽、ワシに出番が来た。一塁走者は " あの " 藤瀬であった。普段より牽制球を多投したり間合いを取り先ずは藤瀬の盗塁を防ぐ事を考えていた。どうにかマニエルをカウント2-2までに戻した迄は良かったが勝負球は藤瀬の足を警戒しクイックモーションで投げた為に制球が甘くなり打たれ傷口が広まり万事休す。たとえカウント2-3になっても慎重に投げるべきだったと。 " 二兎追う者は一兎も得ず " この教訓があのシリーズ中ずっと頭にこびり付く事となる。
両軍譲らず3勝3敗で迎えた11月4日の第7戦。ワシが福士から引き継いだのが4対3でリードしていた7回裏二死二塁、前述の第2戦と似たような場面だったが、この試合は7回、8回と無難に抑え9回裏を迎えた。先頭打者は羽田。羽田は初球から打ってきた。センター前ヒット。アレッ?と思った。日本シリーズ最終戦の最終回、しかも1点を追う場面だ。きっと慎重に選球してくると勝手に思い込み簡単にストライクを取りにいき打たれてしまった。「なんちゅうチームや。セオリーが通じん」と思った。次打者はアーノルド。ここで代走に藤瀬が起用された。第2戦を思い出し打者に集中したが思わぬ事が起きた。藤瀬が盗塁を試み、阻止しようと水沼が送球した球が悪送球となり藤瀬は三進。あっという間に無死三塁、外野フライで同点の大ピンチとなってしまった。水沼が顔面蒼白で詫びに来たがワシは平気だった。高目さえ投げなければ外野まで飛ばされないと外人相手の勝負は心得ていた。低目を攻め続けた結果は四球で無死一・三塁となり球場がザワつき始める。
正直言うと「同点は仕方ない」と腹を括った。サヨナラさえ防げばまだ勝機はあると。迎える打者は平野。平野はこの試合で2ラン本塁打を放っており要注意人物だった。ただ南海時代に対戦した事があり、その時の印象では攻撃的ではなく受け身タイプの打者だったので初球からストライクを取りに行こうとセットポジションに入ろうとした時だった。三塁側ベンチの動きが目に入った。池谷と北別府が慌ててブルペンに走って向かったのだ。「何だ、何だ?監督はワシを信用しとらんのか?」「日頃から『江夏と心中する覚悟』と言っているのは嘘か?」と心が乱れ頭に血がカーと昇った。監督の言葉に少々痛みがあろうが意気に感じて投げ続けていたのは何だったのか…怒りよりも虚しさを感じた。マウンド上で「冷静になれ」と自分に言い聞かせて改めて平野に対峙した。先ず初球は真ん中高目にストレートを投じたが案の定、手を出さない。既に一塁走者は眼中になかった。第2戦で得た教訓を生かして打者に専念しようと決めた。
賭けに出た。内角のストライクゾーンいっぱいの所からボールになる落ちる球を投げようと決めた。打ってもファールか内野ゴロ、ただしワンバウンドして捕手が後逸する危険も孕んでいるが平野への2球目はこの球しかワシにはなかった。投げた。平野は打ちにきたが途中で止めてハーフスイング。判定はストライク。平野も近鉄ベンチからも「振ってない」と抗議するが判定は変わらず。ただその間隙を縫って一塁走者が二盗に成功。無死二・三塁となり広島ベンチから満塁策が指示され平野は敬遠でいよいよ無死満塁となった。「勝負あった…」マウンドの土を手に取りながらワシは思った。勝負事には目に見えない流れがある。理屈ではない、敢えて表現するなら「勢い」だろうか。どうせ負けるのならリリーフのプロとして華々しく散ってやろうと開き直りベンチを睨んだ。近鉄ベンチではない、広島ベンチをだ。どうしてもブルペンで投げている池谷や北別府の姿が気に障っていたのだ。後になって冷静に考えればワシは既に3イニング目で仮に同点となり延長戦突入を想定すれば監督として当たり前の準備なのだがそこまで考えが至らなかった。
続く打者は代打の佐々木恭。初球は内角低目にボールになるカーブで探りを入れると佐々木は打ち気満々の姿勢で見送った。「よし、この打ち気を利用してやれ」と決めた。打ちたくてウズウズしている打者にはストライクかボールか際どい球を散らしていくしかない。2球目は外角低目の直球を再び見送ってストライク。3球目は内角の懐付近への直球。佐々木は敢然とフルスイング。打球は物凄い勢いで左翼線へ飛び場内の近鉄ファンから歓声が上がったがファール。打球を追った先のブルペンで投げている2人の姿が再び視界に入った。「信頼されてないのに何を懸命に…」まだ拘っていた。その時だった、サチ(衣笠)が一塁の守備位置から猛然と走り寄って来て「何をしとるんじゃ、ベンチを見るな!打者に集中せい!」と檄を飛ばされた。サチはワシの思いを見抜いていた。ベンチやブルペンを見てイラついているのを見て取っていたのだ。「お前が投げんと何も始まらん。今は余計な事を考えるな」と言うと守備位置へ戻った。「分かってくれている奴もおるんや」・・・気持ちがスーと落ち着いた。
それにしてもまぁ、これだけのベテランを掻き集めたものである。6人の大量移籍入団。彼らの平均年齢は実に34歳である。ドラフトが全くの思惑外れだったなら分かるが安藤監督は「先ずは狙い通りの補強が出来た」と言っていたのだ。彼らには失礼だが誰が考えても信じられない補強である。その裏には何があるのか?
関西のスポーツ紙のN紙とD紙は球界の話題をテーマに漫画を掲載している。活字に表現しにくい話題も漫画でユーモラスに描き読者にも選手にも好評を博している。しかし先日、両紙は読者から抗議を受けた。「新聞はワシらの仕事にケチをつけているのか?まるで差別しているみたいじゃないか」と。両紙が偶然にも同時期に安藤監督を廃品回収業者になぞらえ笑い者にしたのだ。『御家庭で不要になったクズ鉄、古新聞はございませんか…』と街中を行き来する安藤監督。怒りの主は大阪の廃品回収業者たちで真面目に働く人間を笑いのネタにしている事への抗議だった。両紙の担当者は平身低頭で謝罪し一件落着したが実は当の安藤監督には大受けだった。安藤監督が運転するトラックの荷台には山内、稲葉、太田の3つの「クズ鉄」が積み込まれていた。こういった陰口は早くから出回っていたが誰も表立って声にしていなかっただけでそれをズバッと漫画で取り上げて拍手喝采だった訳だ。
昨年オフに降って湧いたようにエースの小林が現役引退を表明し是が非でも先発ローテーションを任せられる投手が必要となった。実は小林は球団に対しシーズン途中から引退したい旨を伝えていたが安藤監督はじめ首脳陣は引退を翻意させられると思っていた。慌てた阪神は抑えの山本和をタマに大型トレードを画策する事となる。小林の引退で球団はなりふり構わない補強を迫られたがトレードは成立せず山本と首脳陣間の不信感が残ってしまった。トレードがダメなら…となった球団は " 信じられない補強 " をせざるを得ない状況に追い込まれていった。先ず安藤監督と慶応大学の先輩・後輩の関係でもある藤田監督(巨人)にお願いして太田投手を獲得。巨人は無償トレードでOKとしていたが阪神が太田のプライドを傷つけまいと鈴木投手との交換トレードとなった訳だが鈴木にとってはとんだトバッチリである。
小林の穴を太田一人で埋められる訳はなくトレード担当の西山・藤江の両編成担当が動き出すが11月過ぎとあって他球団は既に来季の編成はほぼ終えておりトレード話は難航した。「あの時の阪神さんの慌てぶりは凄かったね。とにかく余った投手なら誰でもいい、という感じだった(在京パ球団フロント)」と。時機を逸していたので在阪球団に絞って交渉をし始めた。同じ関西地区の球団なら引越しをしなくて済む事で少しでも選手や家族の負担を軽くしようと配慮したのだ。結果、山内新(南海)と稲葉(阪急)の両投手の獲得に漕ぎ着けた。実は今回のトレードには裏話がある。阪急、近鉄、南海の3球団間には「阪神とはトレードしない」という不文律が存在していた。阪神に移籍したからと言って成績が急に向上する訳ではない。なのに関西のマスコミは1試合に活躍しただけで大騒ぎをしてスター選手扱いをする。それを見たファンに「何であんな良い選手を放出したんだ」と文句を言われる。そんな不条理に在阪球団の各フロントは嫌気が差していたのである。
「山内や稲葉のトレードが決まった時、阪神の実情が分かったと思いましたね。だって3球団の不文律は我々も知っていましたし、その内の2球団が無償トレードで放出した訳でしょ?つまり2人がいかに余剰戦力なのか、ハッキリ言えば使い物にならないガラクタって事ですよ。そのガラクタを獲らなくてはならない程に阪神は選手が足らないという事です」と某セ・リーグ球団関係者は言う。マウイ、安芸と続いているキャンプで山内・稲葉・太田はそれなりに順調に調整をしている。3投手に弘田を加えた移籍選手達は最後の一花を咲かせようと頑張ってはいるが、どうもチーム内には彼らを " 面白くない存在 " と見る雰囲気が広まりつつある。理由は至って簡単で補強を焦るがあまり彼らの年俸が全て現状維持のまま契約した事。例えば稲葉は昨季、2試合・7イニングに登板しただけで普通なら減俸が当たり前だが年俸は1千5百万円のまま。阪神では池内と同額で防御率のタイトルを獲得した福間と3百万円しか違わない。
これでは今まで阪神一筋でやってきた生え抜きから不満が噴出するのも当然で思わぬ形で不協和音が表面化した。「さすがに阪神も年俸ダウンを相手球団に打診したが『それならトレードはしない』と言われて泣く泣く現状維持で契約したそうですよ。とにかく頭数を揃えて体裁を整えたかったんでしょうね。後々困るのは目に見えているのに、それだけ焦っていた証拠です(某パ・リーグ球団関係者)」・・しかし一連の補強を " 廃品回収 " と揶揄出来ない。昨年も同様にベテラン投手の野村を大洋から加藤博との交換で獲得した時も使い物にならないと批判されたが終わって見れば小林に次ぐ12勝を挙げる活躍だった。出血を伴わない無償トレードで今回まさに " 二匹目のドジョウ " ならぬ三・四・五匹目のドジョウを目論んでいるという訳。ただ本来なら球団は長期ビジョンに立ってチーム作りをしなければならずベテラン選手に偏ったチーム編成は歪みを生じる。阪神の将来を考えると今回の補強は決してプラスにはならないであろう。
ルーキー達にとっては初めてのプロの世界。真新しいユニフォームに身を包みベテラン選手に混じりちょっぴり恥じらいながら汗を流すキャンプ。そんなルーキーの中でも俄かに評価を高めてきた実力派ルーキー4人を紹介しよう。水野(巨人)や藤王(中日)だけがルーキーではないのだ。
中西清起(阪神)…ファームでのんびりなんかしてられん! トラ番記者も首脳陣もビックリした度胸の良さ
話は少し古くなるが中西が甲子園球場の自主トレに現れた時の事、10人程のカメラマンに取り囲まれた中西が準備体操の最中に「ブッ」と豪快な屁をかました。本人曰く「自然現象ですから」とニッコリ笑った、いわゆる「ガス爆発事件」である。その瞬間すかさず「僕に近づき過ぎると危険ですよ」とジョークで周りを笑わせ「奴はいい心臓をしている。並みの新人じゃない」と報道陣から高評価を得てしまった。事の顛末を聞かされた安藤監督も「頼もしい奴だ」と目を細めた。
第2陣組として遅れてマウイ入りし、初めてブルペンに立った日に10球ほど投げると捕手を務めていた加納コーチに向かって「座って下さい」といきなり要求して視察していた安藤監督や若生投手コーチを慌てさせた。事前のスケジュールでは中西や同じく新人の池田は肩慣らし程度の投球とされていた。それをいきなり捕手を座らせる要求は故障を恐れる首脳陣によりストップがかかったのは言うまでもない。「第2陣組はマウイに来て間がないだけにスロー調整させようと思ったんだが中西は第1陣組と同じメニューにしてくれ、と言ってきた。あの強心臓は大したもんだ」と若生コーチも恐れ入った様子。
ただ懸念材料もある。中西は社会人時代から軸足がマウンドプレート上でズレる欠点を指摘されてきた。そのズレが左肩の開きに繋がり上体がそっくり返り、球数が増えると球威が落ちると言われている。しかし阪神OBでもある村山実氏は「軸足のズレは大した問題じゃない。中西はその欠点を補うに余りある良い投球フォームをしている。右腕を真下に振り下ろせる技術は一流投手の必須条件だが中西はそれが出来ている」と不安視する声を一掃する。中西が1年目に何勝するか、いつ頃一軍デビューするのかは未だ見当はつかない。しかし他のルーキー達とは一味違ったキャンプを送っているのは紛れもない事実だ。
仁村 徹(中日)…中日BIG2(藤王・三浦)とは違う。プロの厳しさは兄(巨人・仁村 薫)から教え込まれてます
「藤王く~ん」「三浦く~ん」 中日の串間キャンプにこだまする若い女性ファンの声・声・声。何も今に始まった事ではなく自主トレを行なっていたナゴヤ球場からそうだった。「いやぁ、僕なんか " ドラフト外 " ですよ」とドラフト2位で東洋大学から入団した仁村は苦笑いする。ファンだけではなく系列の中日スポーツも藤王らの入団直後から一面で数多く2人を扱ってきた。藤王が計10回、三浦も負けじと同じく10回、片や仁村は一面はおろか記事すら小さい扱いだった。
「でも、ある意味では僕は幸せ者だと思っている。彼らは高校生なのに大変だなぁとつくづく同情しているんです」それは実兄である仁村薫(巨人)に言われた言葉だという。「兄は家族や周囲に期待されて入団しました。その期待に応えようと頑張り過ぎて1年目に早々と故障してしまいました。『お前が今、騒がれても何の得にもならない。周囲に踊らされず足元を見つめて練習しろ』と言われました」と話す。ファンの目がBIG2に向けられている今こそ力を蓄える絶好の機会であると。そのあたりは高校生と比べて大人である。
他の新人より一足早く1月4日に合宿所入りし1月24日の自主トレ最終日まで皆勤賞、「プロの練習は兄から聞かされていましたが予想以上にキツかったです」と謙遜するが身体はしっかり出来上がっている。首脳陣が仁村に注目し出したのはプロの練習に遅れる事なくこなし、軽めの投球練習を始めた1月の中旬頃。「フォームがしっかりしている(中山投手コーチ)」「腕の振りと制球力は一軍クラス。下手投げは最近では珍しく戦力になる可能性は高い(水谷投手コーチ)」と首脳陣の評価も高まった。人気は相変わらず高校生の2人に集まっているが首脳陣へのアピール度は仁村の方が上。「まだまだです。本当の厳しさはこれからと覚悟しています」とあくまでも控え目な姿勢が逆に頼もしい。
小野和義(近鉄)…鈴木啓もゾッコンの大物ルーキーは首脳陣の評価も即戦力。その負けじ魂で一軍入りは濃厚
日向キャンプでいつも小野の傍には鈴木啓がいる。準備体操やキャッチボールの相手をする。大ベテランと新人は常に行動を共にしている。「目をつぶって投げても大体思った所に投げる事が出来る。一流投手は微妙な指先の感覚を持っているが小野君にはそれがある。大したもんや」と現役最多勝投手は大物新人の非凡さを見抜いていた。キャンプイン前日、宮崎空港から宿舎への移動の際にわざわざ小野が乗車していた若手組のバスに乗り込み小野の隣に座りプロとしての心構えを説いた。以後、食事の時も同じテーブルを共にする事となる。
鈴木がこれ程までに新人を可愛いがった例は過去にはなかった。2人の関係は1月10日の自主トレ初日に始まった。「創価高校から来た小野です。宜しくお願いします」 鈴木がトイレで用を足している時、背後で大きな声がした。驚いた鈴木だったが「ワシを見つけてわざわざ挨拶をしに来た。声も大きくハキハキして気持ちのいい青年だと思った。いい目つきをしてるしプロで成功するタイプやね」と大投手がたちまち惚れ込んだ。思えば2人には共通点も多い。左腕である事、高校時代は地元ではナンバーワン投手と称されるも甲子園大会出場は共に1回のみ。そして1回戦で敗退しているのも同じ。
鈴木は昭和40年のセンバツ大会で徳島商相手に1対3、小野は昨夏の大会で東山高に0対2で涙を飲んだ。「高校野球で出来なかった事をプロの世界でやるんや。それがワシの原動力になっとる。入団会見で『記録破りが夢』と言い放った小野は頼もしい」と鈴木は言う。一方の小野は「偉大な投手に声をかけて貰って光栄ですが正直戸惑っています」と緊張の日々を送っている。宿舎でもグラウンドでも気が張っていて実はキャンプイン早々に左肩痛を発症してしまった。幸い怪我の程度は軽く済んだが「プロの厳しさを味わっています」と。ブルペンで小野が投げ始めると岡本監督がスーっと近づいて来る。「ハッキリ言って小山(3年目)、加藤哲(2年目)より上(仰木ヘッドコーチ)」と首脳陣の評価は現時点で即戦力である。
板倉賢司(大洋)…80スイングのうち10本がスタンド入り。天性のバッティングは父親・克己さんの情熱の賜物
大洋二軍のキャンプ地・焼津市営球場にどよめきが起こった。キャンプ初日のフリーバッティング練習での事、紅顔の美少年が放った打球がライナーで両翼91㍍のスタンドへ次々と飛び込んだ。「高校生ルーキーでは初めて見る打球」と江尻二軍打撃コーチは驚きの声を上げた。計80スイングで10本の柵越え。高校生新人がこれ程の長打力を見せたのは大洋では田代以来でその評判は一軍首脳陣にも直ぐに届いた。江尻コーチによる分析では ➊バットのヘッドスピードが速い ❷身体がガッシリしていて強い ❸打撃フォームに関しては非の打ち所が無い…など絶賛。
板倉を作り上げたのは父親・克己さんだと言って過言ではない。東京・江東区生まれなのに調布リトルに入れる為に調布市に引越した。克己さんは建築業の傍ら調布リトルのコーチを務めるほど息子に熱を入れた。全体練習が終わった後も板倉を近所のバッティングセンターに連れて行き打ち込みをさせた。そうした親子の努力が甲子園大会での3本塁打を生んだと言える。しかし素材は超高校級だがそう簡単に一軍デビューが出来るかと言われると疑問符がつく。「確かに打撃は特Aランクだが守備や走塁はCランク」と江尻コーチは言う。ただし、それは入団前から想定内の事で獲得担当だった中塚スカウトは「まだ高校生ですよ。守備は鍛えれば幾らでも上手くなれます。でもあの打撃は天性のモノ」と。
中塚スカウトは1年間かけて説得してドラフト前から板倉の気持ちを大洋へ傾けさせた。実力もだが大洋には若い女性ファンが注目する選手が少なかっただけに板倉の人気も魅力だった。その目論見は当たったようで早くも合宿所に届くファンレターは板倉が群を抜いている。しかし板倉本人に浮かれた所はなく練習の虫は夜も宿舎の焼津ホテルの大広間で300本の素振りを欠かさない。「1年目から一軍へ行けるとは思ってませんが必ず2年目には昇格したい。希望は三塁手です。藤王も三塁を守るみたいなので負けたくないです、いえ負けません」と同い年のライバルに対抗意識を燃やしている。大洋では久々の大砲候補に早速、関根監督も視察に訪れる予定だ。
小松辰雄(中日):期待され背番号も変わり子供も生まれた。何をすべきかも分かり態度も顔つきも変わった
今年の串間キャンプを訪れた人はきっと驚くだろう。他球団と比べて練習量が少なかった中日が山内新監督就任で変わった。山内イズムが早くも浸透した感じだが最も影響を受けているのが小松だ。良く言えば天衣無縫、悪く言えば気分屋でちゃらんぽらんな性格の小松がプロ7年目を迎えて文字通りチームの先頭に立っている。「小松?あぁ、奴は自主トレの時から変わったね。先ず口数が減った。以前は練習中もダラダラと喋り続けて集中していなかった。でも今年は黙々と練習していてこっちの調子がおかしくなっちゃうよ」とベテランの藤沢は話す。小松本人は「今年変わらなかったら僕は一生エースになれない感じがするんです」と真顔だ。
昭和53年にプロ入りし1年目にして時速150㌔の快速球でデビューして以来、将来のエースとの呼び声が高かった。事実、一昨年のリーグ優勝がかかった130試合目の大洋戦に登板し見事完封勝利を収めて名実ともにエースの称号を得た筈だった。しかし昨年は防御率こそ3点台前半と合格点だったが7勝14敗と大きく負け越し。本人が言う通り今年も満足な成績を残せなかったら二度とエースになれないかもしれない。小松を取り巻く環境が変わったのも転機となるだろう。近藤監督が辞め対話上手の山内監督が就任した。昨秋のキャンプ初日に山内監督は小松を呼び話し合った。「何を話したかって?要するにエースはお前だって事。先発一本で行くと話したよ(山内監督)」と意思疎通を図った。更に選手の顔とも言える背番号が変わった。中日ではエースを表す「20番」だ。古くは杉下茂氏、権藤博氏、記憶に新しい星野仙一氏など偉大な投手が付けていた番号だ。
奮起させる事が私生活でもある。長女・美月ちゃんの誕生だ。「女房と2人だけの時はそうでもなかったんですが子供が生まれれてみると改めて『しっかりしなきゃ』と強く思うようになりました」と小松の胸に嘗てない責任感が芽生えたようだ。過去6年は毎年必ず一度は故障を起こしてチームを離脱している。「先ずシーズンを通して働けるスタミナを付ける。秋季キャンプ、自主トレも全てそれの為にやってきた。このキャンプがシーズンに向けての総仕上げになる筈です。技術的には追い込んでからの制球力でしょうね。それと集中力の持続」と目標は定まっている。変身願望に燃える小松の今季の目標は200イニング、防御率2点台、そして20勝だ。「恐らく自分の野球人生で転機となる年になると思う」・・永遠のエース候補が本当に変わるかもしれない、周囲はそう思い始めている。
工藤幹夫(日ハム):慢心が焦りに変わり屈辱を味わった昨季。泥だらけのユニフォームが変貌を物語る
「去年と比べたら体がよく動きますね。オフからずっとやっていたし、今年はいけそうな気がします」 と工藤に明るい表情が戻りつつある。昭和57年に20勝をマークし一躍エースの座に就いた工藤だったが一昨年のキャンプは肩痛を発症するなど大失敗だった。「プロの世界はそんなに甘くないよ」と現監督で当時の投手コーチだった植村監督は工藤に苦言を呈したが一度緩んだタガはなかなか元に戻らなかった。練習が終わると一目散にパチンコ屋に直行。肩の調子が今一つで外人対策に落ちる球を覚えたが肝心の直球の威力が落ちたせいで効果は上がらなかった。キャンプの不出来はそのままシーズンの成績に表れて8勝8敗と沈み、シーズン途中には二軍落ちの屈辱を味わった。
「昨年の失敗で本人も分かったと思う。キャンプの過ごし方が悪いとシーズンに入ってからアレコレやっても這い上がれないってね」と話す植村監督の視線の先には昨年とは比べものにならない動きを見せる工藤がいた。キャンプ初日には早速に田中幸と共に居残り特守に挑んだ。捕手のプロテクターとレガースを着用し利き腕の右手はボクシンググローブで守り僅か10㍍の近距離からのノックを受けた。鈴木コーチに「おい若造、減らず口だけじゃボールは取れんゾ」と右へ左へと揺さぶられるが「うるせい老いぼれ、もう疲れたか?ボールの勢いが無くなったゾ」とやり返し最後までやり通した。キャンプ早々に工藤を真っ先に締め上げたのも「お前が投手陣の柱なんだ(植村監督)」という首脳陣の気持ちの現れである。
事実、投手陣を見渡してもやはり工藤がローテーションの中心にならなければ1年間を乗り切る事は難しい。登板する度に打ち込まれ勝てなかった昨季は投手陣が火の車となり宿敵・西武に大差をつけられた。「去年の事は言われなくても自分自身が一番情けなく思ってます。何をすればいいのか、置かれている立場は分かっています。ただ余り意識しないようにしてますけどね」と静かに燃えている。ただ調整のペースは早くない。今迄は1月の自主トレの頃から変化球を投げていたが今年は意識的にペースを落としている。まだ六分の力で投げていて、専ら右手の位置を高く保つ事と制球力に主眼を置いて投げている。
今年のキャンプでは大好きなお酒もやめた。「僕は飲んでいる方が本当は調子が良いんですけどね」と笑うがエース復活へのケジメだろう。今年はキャンプに美智代夫人を呼ばないつもりでいる。「女房は家を守っていれば良い」と。キャンプでは16人の投手が一軍枠10人を巡って激しい死闘を繰り広げている。男の職場、云わば戦場に来てくれるなという事だ。工藤といえども横一線で二軍落ちもあり得ると植村監督は公言している。だからこそ「今は10人に選ばれる事だけを考えている。何勝するかなんて考えるのは一軍に残ってからですよ」と強い口調で話す。一日の練習が終わるとユニフォームは泥だらけになる。「もう負けるのは嫌です。今年は皆で力を合わせて優勝したい」・・工藤の闘いは今、たけなわである。
チームの柱となるべき投手たち。しかし定岡(巨人)7勝7敗、北別府(広島)12勝13敗、小松(中日)7勝14敗、工藤(日ハム)8勝8敗…なんとも情けない成績である。思いかけない転落、或いは予期された数字だったのか?どちらにせよ彼らは低迷の原因を追及し何をすべきなのかを考えた筈である。今年は彼らにとって野球人生の一つの節目となるに違いない。
定岡正二(巨人):去年は自分本来を見失って失敗。今年は「原点」に戻ってスタートした。やっぱり投手は制球力
常夏の島・グアムで早々に真っ黒に日焼けした定岡はランニングでも筋トレでも常に先頭を切っている。「動きが軽いでしょ。何たって今年はやらなくちゃ、去年みたいな思いはしたくないですから」 出ると負け・・昨季はマウンドに上る度に打ち込まれた。今年の正月元旦、いつもの年より始動は早かった。故郷の鹿児島で兄・智秋(南海)、弟・徹久(広島)と共に走り出し、1月中旬には静岡・日本平で鹿取投手と一緒に山籠もりを敢行した。その早い出足が今のグアムキャンプでの疾走に繋がっている。「ウン、いいんじゃないの。今年の定岡は無我夢中と言うか良い意味で追い込まれているね」と王監督の目にも危機感が映っている。昨年の日本シリーズ終了後の秋季キャンプでの事、引退し専任したばかりの堀内投手コーチと一晩じっくり話し合い一つの結論に達した。それは「原点に戻る」だった。
原点とは意識改革である。一昨年まで二桁勝利を続けていた当時の定岡の身上は制球力だった。江川のような豪速球や西本のようなカミソリシュートは無い。有るのは低目を丁寧に突く制球力、それが唯一にして最大の武器だった。しかし勝つだけで満足していた時期を過ぎると投手としての本能がムクムクと頭をもたげてくる。江川のように空振りを取りたい。西本のように打者のバットをへし折ってやりたいと。昨年の宮崎キャンプで定岡は間違った方向転換を試みた。当時の定岡はそれを「覚醒」だと思っていた。「ねぇねぇ、僕の球、速くなったと思いません?僕も一皮剥けたかなぁ」と報道陣に問いかけた。変化球投手から本格派投手への変身を図っていたのだ。投手なら誰だって変化球でかわすよりも直球一本で押しまくる方が気持ち良いに決まっている。顔に似合わず負けん気が強い定岡なら尚更である。拙い事にこの意識改革で一時的に好成績を残してしまった。開幕からポンポンと勝ち5月終了時点で7勝(1敗)、ハーラーダービーの首位を走り自身初の20勝も狙える程だった。
それがある日を境にパタッと勝てなくなる。きっかけは5月下旬に右膝を痛めた事。当初は軽傷と見られていたが痛みが引かず結局二軍落ち。痛みが消え一軍に復帰しても強気の投球パターンに固執したが勝てず結局7勝(7敗)のままシーズンを終え、西武との日本シリーズでも出番は敗戦処理登板だった。実は定岡自身も力の投球には限界を感じていた。しかしキャンプ中ならまだしもシーズン中に投球パターンを変えるのは危険過ぎた。制球力重視と頭では分かっていても直ぐに切り替える事は出来なかった。宮崎での秋季キャンプでは若手中心の合宿練習に定岡も加わった。「エへへ、何か変な感じですね。若手連中の中に入ると僕なんかオッサンですから」と定岡本人は例によって明るく笑顔を振りまいていたが、この時から定岡の「10年目の逆襲」が始まっていた。新たな決意を胸に迎えた2月2日のグアムキャンプ第2クール初日、ブルペンでの投球が解禁された。定岡はゆっくり確かめるように投げ始めた。丁寧にそして丹念に力む事なく外角低目を狙って投げ続けた。「スピード?いやいや僕の生命線はコントロールですよ」・・・原点に立ち戻った定岡、昨年とは一味違う。
北別府 学(広島):体調万全、走り込み十分。既に身上のコントロールもバッチリで自信も回復。再び20勝を目指す
沖縄市営球場から歩いて15分の所にある宿舎『京都観光ホテル』の最上階1人部屋の505号室で北別府は毎朝さわやかに目を覚ます。しかし昨年は目覚める度に憂鬱になった。「朝起きると前の日の疲れが残っているんです。あぁ、また練習か…としんどくてね」と。思えば一昨年はセ・リーグで唯一の20勝投手となり沢村賞も受賞しバラ色の毎日を送っていた。加えてオフには結婚式も挙げて " 我が世の春 " を謳歌していた。ただ多くの表彰式に出席する事が続き身体をしっかり休める事が出来なかった。「俺はまだ若いから」と心配はしなかったが不摂生のツケはキャンプで早くも現れた。「走り込まなくちゃ、と分かっていたけど皆のペースに付いて行けない。無理をしてペースを上げると翌日に影響が残った。こりゃヤバイなと思いながらキャンプ・オープン戦を過ごした」
思えば昨年の今頃は " 連続20勝宣言 " の見出しが欲しい記者から抱負を求められても「目標は17勝です。20勝はそんな簡単に達成出来ない」と予防線を張っていたのも自らの不調を感じ取っていたからかも知れない。しかし結果はもっと悪かった。12勝13敗と負け越し完封は1試合のみ、自身の代名詞でもある制球力も落ちて無四球試合はゼロだった。「ようけい給料を貰って何をしとんのじゃ」と地元広島のファンは遠慮なく罵声を浴びせた。特にタクシーの中が堪えた。狭い車内で見ず知らずの運転手から投球術の説教までされる始末。だからと言って目的地に着くまで降りる訳もいかず、広美夫人同伴の時は北別府の代わりに夫人が責められた。新婚を不振の理由にするのは野球界の定説だからだ。「弁解のしようもない。自分の予想通り、いやそれ以下でした。何を言われても言い返せない」とまさに屈辱のシーズンだった。
どんな非難にもジッと耐えていた北別府が、どうにも我慢出来なかったのが若い津田や川口が赤ヘルのエースだと言われ始めた事。「冗談じゃない。カープのエースは北別府ですよ。たった1~2年の実績しかない投手と比較されるのは心外。彼らと僕を一緒に扱わないで下さい」と普段は温厚な北別府にしては珍しく語気を荒げた。高校から入団して2勝、5勝、10勝、17勝と順調に勝ち星を重ね8年間で94勝を挙げたプライドが北別府を黙らせていなかった。「確かに去年は川口に勝ち星で負けましたけど力関係まで逆転した訳ではない。今年は再び20勝を狙います。必ず20勝して力の差を見せつけます」と昨年とは雲泥の差がある体調の良さが元来無口な北別府を雄弁にさせている。キャンプでは新任の迫丸コーチの指導でランニング量は例年の5割増しだが今年は問題なくこなしている。
「今年は疲れが翌日まで残らない。朝起きると体が軽く感じて、回復力がまるで昨年とは違います」と。肩の仕上がりも順調でキャンプ初日から捕手を座らせ六分の力で50球余りを投げ込み、投球の最後に投げる「外角低目」も一発で決めるほど好調をキープしている。ただ本人は「僕からコントロールを取ったら何も残らない」と涼しい顔。この自分の調子のバロメーターでもある外角低目への制球力は下半身が安定していないと定まらない。事実、昨年のキャンプでは「ラスト1球」と宣言してから10球前後の球数を要していた。今年はここまでは思い通りの調整が出来ており早々と20勝宣言をした。「昨年は走れなかったけど今年は大丈夫。下半身さえしっかりしていればコントロールは安定する。新しい球種を増やすとか必要ありません」と自信たっぷりだ。
本場アメリカの速球王ノーラン・ライアンの異名「カリフォルニアエクスプレス」になぞらえて付けられたのが「オリエントエクスプレス」、東洋の速球王・郭泰源(21歳)。8月のロス五輪後には日米入り乱れての獲得合戦が解禁になる。果たして郭はどこのユニフォームを着るのだろうか?
1月12日付の報知新聞に『巨人、郭泰源獲得へ急前進』の見出しが躍った。前進に敢えて " 急 " が付いたのがミソである。巨人は郭獲得レースでは出遅れていた。決して評価が低かった訳ではない。親会社の讀賣新聞が社の方針として台湾を独立国家として認めておらず、あくまでも中国本土の一部であり巨人は中国政府が認めていない " 非合法 " な台湾で大っぴらに活動出来ずにいた。巨人が躊躇している間に中日が台湾で存在感を増す事になる。今から4年前、先ず手始めに練習で使い古した球を台湾の高校や大学に無償で寄進し始めた。台湾では硬球は未だに貴重品で入手は難しい。これは毎年続けられ郭泰源が所属する合作金庫には新品を届けた。更に郭泰源が兵役で台湾陸軍に入隊すると陸軍チームにまで新品を贈った。また中日球団とは別ルートからの接触も怠らなかった。台湾のナショナルチームのユニフォームを誂えたのは名古屋市内の運動用具会社だが、この会社は中日球団とも親しい関係で中日の野球道具を一手に引き受けており、特に重役のA氏は " 中日の陰のスカウト " と言われていて郭源治獲得にも関わった。その郭源治は「Aさんは親であり兄である」と言って憚らず、当然A氏は郭泰源獲得にも動いている。
更に中日には郭源治という存在もある。郭源治には球団から「何としても郭泰源を連れて来い」との指令が下されており今年の正月に里帰りした際には何度も郭泰源と接触している。表向きは日本の野球や食事・習慣など生活面のアドバイスをした、とされているが中日入りを薦めている事は想像に難くない。郭泰源中日入りの暁には郭源治にもそれなりのボーナス(一説には金5百万円也)が入る事になっているらしく必死となるのも無理はない。そんな中日だからこそ台湾側から " ちょっといい話 " が舞い込んで来る。それはナショナルチーム強化の為にコーチを派遣して欲しい、というもの。「人選は中日さんにお任せするが出来れば中日OBの方を一人」との事。ここまで信頼されると中日も強気になる。「食い込んでいると言われている西武や国民的英雄の王さんがいる巨人だってこんな話は来てないでしょう?」と中日球団幹部が胸を張るのもまた当然である。今現在、中日は堀込スカウトを郭泰源専用スカウトに充てている。堀込スカウトは2回の渡台、大越球団総務に至っては6回も台湾入りしていて着々と工作を進めている。では郭泰源の中日入りの可能性が高いのか?物事はそう簡単ではない。ここで前述した巨人の " 急前進 " だ。
1月11日、巨人の沢田スカウト部長は巨人軍の正式な球団関係者として初めて台湾入りした。" 初めて " と言うのが巨人の出遅れを表しているのだが沢田部長の表情は焦りを感じさせなかった。14日に帰国した際に「いやぁ非常に友好的だった。泰源君は勿論、兄の義煌さんにもお会い出来ました。王監督の写真も頼まれてね」と余裕たっぷりに語った。このコメントは郭獲りに懸命になっている他球団の関係者を驚かせた。何故なら郭は昨年のアジア大会後に「来年のロス五輪が終わるまでどこの国の球団とも会わない」と宣言し実行していたからだ。それがあっさりと覆されたのだ。加えて沢田部長は台湾ナショナルチームの呉祥木監督とも懇談し友好ぶりをアピールした事に中日が慌てた。たった一度の渡台で巨人は一気に土俵際から中央にまで盛り返す、まさに " 急前進 " だった。また巨人にはもう一つ強力な味方がいる。在日華僑グループである。台湾と日本の華僑グループは強い絆で結ばれており、王貞治後援会の堤志明会長は「我々が交渉の席に乗り出すとなると単に野球界だけの話ではなくなる」と郭の巨人入りに動く事を示唆している。
昨夏のアジア大会以後、阪急を除く11球団が郭サイドと接触し条件提示をしている。そこで気になるのが各球団が用意している " 実弾 " の額である。複数の大リーグ球団も接触済みで中でもSt・カージナルスが熱心だが提示額は3千万円とアメリカ国内では破格だが日本の球団と比べると格安。今のところ先行している中日は5千万~6千万円と見られている。ただ中日には所謂「N資金(長嶋氏招聘の為の資金)」が手付かずで残されており余裕はある。巨人もドラフト1位並みの6千万円あたりで、その他の球団も大差はなく争奪戦と言う割には抑え目な金額。そんな状況に憤慨しているのが福岡市在住のB氏である。「台湾の選手に対する日本の球団の評価は低すぎる」と。B氏は郭サイドの日本における窓口役を務めていて、ちょうど郭源治とA氏との関係性で郭本人はB氏を「日本のお父さん」と信頼している。実はこのB氏は西武と強い繋がりがあり、B氏の言葉は西武が郭を非常に高く評価している事を窺わせる。今のところ西武は表立って動いていないが時至れば一気に " 億単位 " の実弾攻勢を仕掛けて来るに違いない。
日米入り乱れての争奪戦を台湾の人々は冷やかに見つめている。何故なら今年8月のロス五輪でナショナルチームが金メダルを取る事を全国民が願っているがエースの郭が争奪戦に巻き込まれて動揺するのが困るのだ。台湾で唯一のスポーツ新聞「民生報」の高正源記者は「台湾では野球の普及はまだまだだけど郭泰源の名前は皆が知っている。彼は国の誇りで五輪で活躍して金メダルを取ったら国民的英雄になれる。だからこそ彼にはベストコンディションで臨んで欲しい。出来ればプロ球団の人達には静かにしていてもらいたい」と話すがおそらく多くの台湾人も同じ気持ちであろう。そして郭の今後については「恐らくプロへ行くでしょうがアメリカには行かないのでは」と。最後は郭本人の気持ち次第だが重要なのは台湾人は誠意を重んじる人達であるという事。決して札束攻勢には屈せず、むしろ逆効果である。争奪戦はもう暫く続く事になるだろうが、いずれにしても日米を舞台とした各球団による泥試合…なんて事にならないように願いたいものだ。
◆ 野口裕美(西武)…ドラフト1位に指名され期待されて入団しながら全く活躍出来ず「(契約金)6千万円のバッティングピッチャー」と陰口を叩かれた。だが今は違う。「奴はきっとやる」という周囲の期待と共に本人も「俺は必ず出来る」と確信している。目下、所沢での第一次キャンプで汗を流しているが始動は雪降る故郷の米子であった。野口はまだ深い積雪に覆われている小高い丘の中腹にある実家から飛び出し黙々と走り続けた。連日7㌔の道のりを足を取られながら走った。「寒いのは今だけ。メサキャンプになれば半袖ですから」と既に頭の中では2月のキャンプを想定しており自分なりにテーマを持っている。「小林さん、木村さんが移籍したので中継ぎ枠が空いてますから先ずはソコ狙いです」と。自信に満ちた口ぶりは昨年とは別人である。
昨年は周囲の目にビクついた1年だった。東京六大学のエースとしての自信はキャンプイン早々に打ち砕かれた。体にキレがない、下半身がモロくて硬い、投球フォームはバラバラで手投げ…と首脳陣の評価は散々だった。広岡監督には「あれがドラフト1位か」、投内連携練習を見守る森ヘッドコーチには「やる気がないならサッサと帰れ」と一喝された。周りの視線が気になり首脳陣の言動に過敏となり萎縮するようになる。当然、本来の投球スタイルにも影響しダイナミックさを欠くようになり打ち込まれた。二軍に降格した際には悔しさよりも「ホッとした」と安堵感を吐露した程だ。そんな呪縛から解放されたのはシーズン終盤だった。10月半ばに一軍に昇格し近鉄戦に先発し勝ち星こそ付かなかったが好投した。「一軍で投げる事が出来たのは収穫でした。変化球はダメでしたが直球だけでも抑えられたのは自信になりました」と。
メサキャンプでの課題は制球をつける事だと自覚している。直球は勿論、カーブ・スライダー・シュートの精度を上げて思い通りの所へ投げられる事が出来なければ一軍に生き残れない。それさえ出来れば中継ぎはもとより先発陣に食い込むだけの潜在能力はある。今季大きく変わったのは投球フォームである。走り込みの成果で下半身が安定して昨年までのギクシャクしたフォームが流れるようなフォームに修正された。「今のフォームの方がしっくりします。もう大丈夫です」と話す表情からも今季にかける気迫が伝わる。公私共に仲が良いのが同じ左腕の工藤だ。「工藤とは中継ぎのライバル同士だけど気が合ってね。でも負けませんよ歳も上だし」仲のいい二人だが昨季は明暗を分けた。野口が無勝利だったのに対し工藤は2勝(0敗)、年俸も野口が60万円ダウンの540万円、工藤は120万円アップの680万円と逆転した。嘗ての六大学奪三振王は今、灼熱の地で巻き返しを虎視眈々と狙っている。
◆ 木戸克彦(阪神)…木戸の目に映るハワイの景色は1年前と変わりないが木戸自身は大いに変わった。「そうですか?2年目で慣れたからでしょうか。去年は気持ちに余裕がなくてアッと言う間に1日が過ぎていきましたから」と宿舎のマウイビーチホテルの中庭の芝生の上で胡坐をかいた木戸は頭をポリポリと掻きながら1年前を振り返る。思えば昨年は苦労続きだった。卒業試験の為に調整が遅れた事に加えて風邪を引いてコンディションは最悪なまま二軍の選手と共に甲子園球場でキャンプインした。「多くの報道陣に見られていると意識して良い所を見せようと余分な力が入り無理をして訳が分からなくなった。混乱したままマウイキャンプに合流したんです」ハワイ入りした後も木戸の不運は続く。某トラ番記者は声を潜めて「千葉経済短大の篠田さんが臨時トレーニングコーチを務めていたけど木戸の体調を無視してシゴキまくり『細くなったろう』とアピールしたが実は過労でやつれただけだった」と体調不良は改善される所か悪化する始末。
マウイキャンプでは夜の素振りに酒に酔った状態で現れて横溝打撃コーチにこっぴどく叱られるなど話題に事欠かなかった。開幕後も5月に腰痛を発症し二軍落ち。静養しても改善せず治療の為に南紀・勝浦温泉病院に通う羽目になるなどプロ1年目にしてすっかり辛酸を舐め尽した木戸だった。期待していた安藤監督も落胆し木戸を推薦したスカウト陣を非難する一幕もあった。「まぁ昨年で5年も6年もの経験をした感じ。落ちる所まで落ちたので後は上昇するだけと前向きに考える」と話す木戸の表情は思いのほか明るい。年明け6日に木戸は勝浦に行ってきた。球団からの指示ではないので費用は全額自己負担。経過観察も兼ねて6泊7日で自主トレを行なった。「10万円ちょっとですかね。苦しんだ頃を忘れないよう自分を鼓舞する為にも勝浦でね」
安藤監督は「今年こそ」と木戸に期待している。笠間を越える正捕手として青写真を描いている。「笠間じゃダメと言う訳ではないが阪神の将来を考えると木戸が出て来てくれないと困る。打力は法大時代に実証済み、2割5~6分は打てるでしょう。後はインサイドワーク。センスもあるので山倉(巨人)クラスの捕手になって欲しい」と。安藤監督は既にオープン戦で木戸の起用が多くなる事を公言しており、その期待に木戸がどう応えるか。「昨年は " 酔虎伝 " などとからかわれましたが今年はもう二度とマスコミの皆さんに話題を提供しないようにします。たとえ、つまらない男と言われても…」と " 笑いのネタ男 " 返上をハワイの青空の下で誓う木戸であった。
◆ 榎田健一郎(阪急)…鳴り物入りでプロ入りしてから1年間、榎田の周りには常にマスコミの目が光っていた。しかし今はゴールデンルーキー・野中に注目が集まり、榎田の周辺は静かになった。「野中の人気は凄いですね。僕の時以上で大変でしょうけど。でも負けませんよ、実力で勝たなかったらこの1年が無駄になりますから」と榎田は持ち前の負けん気を露わにする。 " 男はタフでなければ生きていけない " とはレイモンド・チャンドラーの名言だがこの言葉を身をもって体感したのが榎田である。名門PL学園のエースとして甲子園で優勝投手になりドラフト1位指名で入団した。童顔の残る甘いマスクで人気が沸騰し榎田の周りを常に若い女性ファン20~30人が取り囲んでいた。あれから1年、多くの女性ファンは野中の方に殺到。移り気なファンを責めても始まらない。榎田はひとり黙々と汗と泥にまみれている。
「ギャル?いなくなりましたね。何しろ年賀状が昨年の500通が200通に減りましたからね。でも負け惜しみではなくカメラに追われなくなって楽になりました。今は練習に集中出来てます」とすっかり明るくなった。元々陽気な若者だったが昨年は余りに過大な期待に押し潰されそうになり笑顔が減っていた。高校生離れした強靭な肉体をフル回転させて自主トレ、キャンプと目一杯飛ばし、普段は慎重な上田監督を「使えるかも」と思わせる程だった。しかし好調は長くは続かなかった。オープン戦の3戦目の先発に抜擢されたが結果はKO。以降は精彩を欠き、挙げ句には投球フォームを崩し二軍落ち。シーズン終盤に一軍に昇格していよいよ大器が目覚めるか、と期待されたが運悪く腰椎分離症を発症し秋季キャンプまで静養を余儀なくされた。
「まだまだプロでは通用しないと思い知らされた。それが分かっただけでもこの1年は無駄じゃなかった」と前向きに考えられる余裕が出来てきた。勿論、精神面だけではなく下半身に比べて弱い上半身も逞しくなった。腰痛の治療中でもウェートトレーニングを欠かさなかった成果が現れ、昨年の今頃の体重は74㌔と都会のモヤシっ子だったが今は82㌔に増えた。今年もまた自主トレからフル回転するつもりでいる。若手投手たちの先陣を切って早々とブルペン入りし既に全力投球している。「昨年の暮れからノーワインドアップ投法にして動きがスムーズになった。昨年は気持ちばかり先行して身体が付いていかなかったけど今年は違います。体力だけなら一軍ですよ」とキッパリ言い切る顔からは甘さが減り大人へ脱皮しつつある。昨年は逃した開幕一軍を目指して猛ダッシュだ。