Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 333 因縁の二人

2014年07月30日 | 1983 年 



週刊ベースボール創刊号の表紙を飾ったのが長嶋茂雄と広岡達朗。もちろん2人がプロ野球を代表する「顔」だったからである。その後の2人の歩みはまた週刊ベースボールの歩みでもあった。本誌に掲載された二人の言葉で再構築した " 長嶋&広岡 " 物語である。


週刊ベースボールの創刊号は大物ルーキー・長嶋に対する空前絶後の期待度を垣間見せている。僅か60ページ程の小雑誌のうち8ページを長嶋一人に割いていた。現在の約130ページだと17~18ページに相当する扱い量だ。その長嶋の本誌における第一声は「学生野球の時は下手なりに夢中でやっていました。下手は下手なりに面白かったのですが、今の心境はレベルの高いプロ野球の奥深さを早く知りたいです」と語った。周囲の大騒ぎは巨人の先輩連中の耳にも入っていた。たかが学生野球の一選手が入るだけで直ぐにでも優勝出来るかのような喧騒に苦々しく思っていた選手もいた筈。しかし「紳士たれ」と教え込まれていた先輩たちは決して不満を外部に漏らす事はなかったが唯一の例外が広岡で、昭和33年4月16日号で「長嶋が入ってどう変わりますか?と聞かれるのが一番困る。1年経ってからなら判断出来るけど今聞かれても答えようがない」・・・誠に広岡らしい正論だが、チクリと一言多いのも今と変わらない。この潔癖なまでの一貫性が広岡の身上だ。

広岡が初めて単独で表紙を飾った昭和33年6月18日号では「チームの捨て石になる事に抵抗はない。打率を良くするだけが昇給の対象となる現状はいかがなものか。勝つ為には打撃が全てではないと思う」など常に自己とチームと言う命題を考え続けた選手だったのとは対照的に長嶋は昭和33年4月30日号で立教大時代の同級生・杉浦(南海)との対談で開幕戦で金田投手に4三振を喰らった時の心境を問われ「別にアレじゃなかったけど…悔しいとか、そんな気持ちではなく…次に対戦する時に打てばチャラで、要は打てばオールOKで幾つ三振しようがどうって事はなかったですね」 まぁ見事な " 長嶋語 " が早くも披露されていた。長嶋が新人ながら二冠王に輝いた年のオフにセントルイス・カージナルスが来日し親善試合が行われ広岡と長嶋は共に本塁打を放つなど活躍した。2人の大リーグに対する印象も「とにかくお客さんに楽しんでもらうという野球に徹していますね(長嶋)」「どんな選手でも基本に忠実。命令通りにきちんとプレーする点は見習うべき(広岡)」とまたもや異なった。あくまでも長嶋的であり、広岡的なのは変わらない。

長嶋の入団2年目以降のスポーツジャーナリズムは長嶋一色になる。昭和34年7月29日号で桑田(大洋)との対談の中で村山(阪神)から放った天覧試合サヨナラ本塁打について「打った瞬間ファールになると思ったけど入っちゃった」と語っている。村山が「あれはファールだ」と言い続けているのもこの辺に理由があるのか?一方の広岡は長嶋の入団前から打撃不振に陥り試行錯誤を繰り返していた。プロ入り1年目こそ3割を超える打率を残したが2年目以降は2割5分前後と伸び悩み打撃改造に取り組んだが周囲は改造に懐疑的だった。昭和36年5月1日号では「日本の野球しか見ていない人があの打法を批判するのはおかしい。僕はベロビーチキャンプで大リーガーを目の当たりにしてあの打法が一番理にかなっていると思った」と反発した。「あの打法」とはダウンスイングだ。ダウンスイングと言えば " 荒川コーチと王 " が思い浮かぶが巨人で最初の、そして最も熱心な実践者だったのが意外にも広岡だった。

しかし広岡の起死回生のダウンスイングも成績向上には結びつかず、この年は打率.203 と低迷から抜け出す事は出来ず長嶋との差は開く一方だった。長嶋は入団2年目に首位打者に輝きプロ2年目にして早くも打撃主要三部門のタイトルを全て手にした。3年連続の首位打者と二度目の本塁打王獲得で2人の打者としての勝負は着き、広岡が本誌の表紙を飾る機会は大幅に減った。そんな広岡が誌面を賑わしたのが昭和39年のトレード騒ぎ。川上監督、正力オーナー、更には正力松太郎讀賣新聞社主まで巻き込む大騒動となった。「僕は巨人を誰よりも愛している(昭和39年11月30日号)」「巨人以外のユニフォームを着る気はない(昭和39年12月14日号)」とトレードを拒否し事態は混乱したが正力社主の鶴の一声で残留が決まった。しかし広岡の巨人への未練はこの騒動を機に絶たれる事となる。川上監督との確執は続き2年後に現役を引退する。その時の広岡は「僕の野球人生は事実上2年前に終わっていた(昭和41年11月14日号)」と語っている。

2年前のトレード騒動には伏線があった。今でも語り草となっている「ホームスチール事件」だ。昭和39年8月6日の国鉄戦、三塁走者だった長嶋はホームスチールを敢行したが結果はアウト。打席にいた広岡はバットを放り投げてロッカールームに消えてしまった。口にこそ出さなかったが「川上監督はそれ程俺を信用していないのか」の抗議行動だったのは明白だ。この時の広岡の談話は本誌には載っていないが長嶋の「広岡さんには悪い事をしてしまったが、あの場面でどうしても点を取りたいという気持ちを抑えられなかった(昭和39年8月24日号)」とのコメントは残っている。引退した広岡は見聞を広める為、単身米国へ向かった。渡米に際して『だから私は米国へ行く』と題する手記を昭和42年3月6日号に寄せている。片や長嶋は選手生活のピークを迎えていた。本塁打数こそ同僚の王に敵わなかったがチャンスに強い打撃は王を凌ぐ人気を得て球界で確固たる地位を築いていた。その長嶋にも肉体的衰えは着実に忍び寄って来る。昭和42年からは打撃コーチ兼任となり「川上の次は長嶋」とい声が周囲から漏れ伝わるようになる。そのあたりを当の長嶋は昭和42年11月11日号で「考えてみた事もない。少なくともあと5年は出来ると思っている」と一蹴している。

米国から帰国した広岡は根本睦男監督に請われて昭和45年に広島のコーチに就任した。年俸1千万円は広島のコーチとしては破格なものだった。1月28日の自主トレに現れた広岡の第一声は「お粗末なグローブばかり。全く手入れもせずプロとしての自覚が感じられない」表現はキツイが指導者として生きていく覚悟が読み取れる。広島でのコーチ業を2年で終え長嶋が引退し川上監督の後を継いだ同じ年にヤクルトのコーチに就任し2人は今度は指導者として再び同じ土俵に立つ事となる。最下位、優勝、江川騒動、そしてあの解任劇と長嶋の監督としての6年間はドラマチックと言うよりドラスティック(強烈)だった。特に江川騒動は長嶋を苦しめた。小林とのトレードが決まるまで長嶋は「その件については勘弁して下さい」と沈黙を続けた。この問題は監督がどうこう口を挟めるレベルを越えていた。小林というエース級投手を失って勝てと言うのが無理な話で長嶋は優勝を逃し続けて昭和55年10月21日に解任された。広岡はコーチから監督に昇格し昭和53年にヤクルトをセ・リーグ初優勝&日本一にするも翌年にはコーチの人事を巡り、松園オーナーと衝突してシーズン途中で事実上解任された。

奇しくも2人仲良く浪人生活を送る事となったが先に監督に復帰したのは広岡だった。実は浪人中の広岡は長嶋がまだ巨人の監督をしていた頃に「長嶋の下で二軍監督をしてもいい」と漏らした事があった。広岡の心の中にはやや屈折はしているが共に同じ時代を生きてきたという長嶋に対する連帯意識のようなものがあるのかもしれない。事実、広岡は長嶋監督時代の巨人を批判する事はなかった。そして長嶋が解任され巨人から追われると巨人批判を連発するようになる。「巨人は球界全体をレベルアップする姿勢に欠けている。西武こそが球界のリーダーとなり他球団の目標となっていかねばならない(昭和57年2月1日号)」…その姿勢は西武を日本一に導いた後も変わっていない。



          
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#332 十大秘話 ⑩ 空白の一日

2014年07月23日 | 1983 年 
今回のトレードで僕は江川君個人に対して特に言いたい事は無い。要は阪神が僕を欲しかっただけでしょう。プロの世界で1球も投げていない投手と僕を天秤にかけざるを得なかった讀賣グループも苦しかったと思いますよ。このトレードを拒否して野球を止めるのは簡単な事、でもそれがきっかけでプロ野球を見るのを止めるファンも増えてしまう気もする。僕が阪神に行く事で一連の騒動で嫌気が差して離れて行ったファンも戻って来てくれるかもしれない。今やこの問題は社会的影響も大きく江川君一人の問題ではなくなっている。

僕がこのトレードを受け入れる事でプロ野球界の改革の為にもっと次元の高い人達が動き出してプロだけじゃなく野球界全体が良くなる事を期待したい。僕のプロ野球人生は巨人が最下位になった年から始まった。今度は阪神が最下位から這い上がろうという時にお世話になるのも何かの縁を感じる。巨人で得た経験を阪神に持ち込んで良い刺激を加えて微力ながら名門チームの再建に力を貸す事が出来ればと思っています。ですから今回のトレードは今後の僕の人生においても意義あるものだと感じています。  【 昭和54年2月19日号より 】



昭和53年11月21日、いわゆる「空白の一日」を理由に巨人が江川獲得を発表した時から翌年の1月31日、キャンプイン直前に「阪神・江川」と「巨人・小林」の強い要望トレードで決着するまでの71日間は社会問題化した史上空前の大騒動だった。改めて当時の小林のコメントを読み返してみても小林の論理は整然としていて淀みがない。

「僕は江川の身代わりで阪神へ行くのではない。球界全体の混乱収拾の為に希望を持ち喜んで阪神のユニフォームを着る」・・・あるセ・リーグ幹部は「我々は小林君に足を向けて寝られない」とまで言った。小林は加えて「僕を人身御供的に見て貰いたくない。今日からは仲間ではなく敵です」「物質的に恵まれ過ぎた環境に慣れて本来の野球への情熱を忘れないで欲しい」と古巣・巨人の選手らにメッセージを残した。

この年の小林のピッチングは鬼気迫るものだった。嘗ての仲間は「打席であの眼を見ただけですくんだ」と口にした。中日~大洋~巨人~広島の順に首位が入れ代わる大混戦のペナントレースだったが小林に全く勝てない巨人が次第に首位争いから脱落していき、やがて絶対的守護神となった江夏を抱える広島が首位に立ちそのままセ・リーグを制した。

この年の日本シリーズでは3勝3敗で迎えた第7戦に江夏が近鉄相手に9回裏無死満塁の大ピンチを切り抜けた、いわゆる「江夏の21球」で広島を球団初の日本一に導いた。江川を巡る大騒動で揺れた1979年は1年が経過すると主役は江川から江夏へと代わっていた。やがて江川という劇薬の効き目が薄れていくと「プロ野球界全体が抱えた色々な問題と刺し違えた」とまで言い切った小林の気力も次第に萎えていく。

「国民的敵役」だった江川はプロ2年目から2年連続で最多勝、昨年は北別府(広島)に次ぐ19勝と「ひょうきんな実力派」へとイメージチェンに成功し幅広いファン層を掴んだ。一方の小林は移籍1年目に22勝で最多勝に輝いた大活躍以降は15勝前後とやや精彩を欠き、昨年はローテーション投手となって以来最低の11勝と沈み契約更改直後の会見で「来年は投手生命を賭ける」と漏らすほど追い込まれた。5年の歳月は2人の立場を逆転させた。手負いの小林が復活を果たすのか2人を巡るドラマはまだ終わっていない。
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#331 十大秘話 ⑨ 最高年俸

2014年07月16日 | 1983 年 
阪神が遂に江夏を放出した。問題児とか異端児などと呼ばれながらも投手としての実績は不動のものだ。「プロの世界で生き残るにはあれ位のアクの強さが必要なんだ。それを扱いきれずにトレードに出してしまうとは残念で阪神にとって大損失だよ。困ったもんだ…」と語るのは昭和39年に阪神を優勝に導き、江夏も「お爺ちゃん」と慕う藤本定男元監督。また鈴木セ・リーグ会長も「あれだけのスター選手を失うのはセ・リーグとしても惜しい。ここ数年は球団と色々と揉めていたようだが何とか阪神に残って欲しいと願っていたんだがねぇ」とパ・リーグへの流出を残念がった。

惜しまれながら南海入りする江夏の代わりに南海からは江本が阪神にやって来る。江本は今回のトレード劇に「トレードは野球選手には付き物。野球をするのはどこでも一緒、望まれて行くんだからショックなんて無い。寧ろ、セ・リーグはお客さんも多いしやり甲斐は今まで以上にある」とやる気充分のようだ。 【 昭和51年2月9日号より 】



常に打者優位だった球界最高年俸の座に優勝請負人こと江夏が遂に辿り着いた。しかし、そこに至る迄の江夏の野球人生は紆余曲折な道だった。日本中が王選手の本塁打世界新記録に沸いた昭和51年から52年、巨人と人気を二分する阪神のシンボル的存在の一人だった江夏が縦縞のユニフォームと決別し南海へ移籍した事は後のプロ野球界にとって大きな分岐点となる。キャンプで江夏の投球を自ら受けた野村兼任監督は愕然とし頭を抱えた。嘗て長嶋や王をキリキリ舞いさせた豪速球は消え失せていたのだ。

並みの投手となってしまった江夏をどうすればもう一度「日本一の投手」に戻す事が出来るのか、を野村は考えた。既に28歳で心臓に持病がある江夏に今更、激しいトレーニングを課す事は無理。長いイニングを全力投球出来ないのなら短いイニング専門の投手として活路を見い出すしかないと判断しリリーフ投手転向を薦めたが江夏は頑として拒否した。「先発して完投する事こそ投手としての生き甲斐。リリーフ投手なんて半端者のする事、いっそ引退した方がマシ」とまで言い切った。しかし野村は時間をかけて口説き続けた。

江夏を自宅に呼び、時には江夏の家まで出向いてコンコンと説いた。「短いイニングに全力投球する事が今の君がこの世界で生き残る道だ。チームだってそれで助かり、君の投手寿命も伸ばす事が出来る最良の策なんだ、と大げさではなく命がけの説得だった」と野村は懐かしそうに語る。「時には深夜から早朝まで延々と説得する野村さんの熱意に負けた。野村さんの野球に対する情熱に賭けてみようとリリーフ転向を決意した」と江夏はようやく折れた。

長嶋や王の引退後も山本浩ら打者が常に占めていた球界最高年俸の座に投手、それも最多勝争いが常連の先発投手ではなく救援投手がつく事になる。「江夏が行く所に優勝あり」の言葉通りに広島は日本一に、日本ハムは悲願のリーグ初優勝を成すなど最高年俸選手に相応しい活躍を見せた。王に始まり王に終わった昭和51年から52年、後のプロ野球界に優勝する為に不可欠な存在となる救援専門投手が生まれたのだ。ちなみに江夏の代わりに阪神入りした江本は首脳陣と衝突してアッサリと縦縞のユニフォームを脱ぎ、今やテレビCMや芸能界で活躍している。
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#330 十大秘話 ⑧ 指名打者制度

2014年07月09日 | 1983 年 
ひと足先に指名打者制(以下、DH制)を採用した米国のアメリカン・リーグでは守りの負担から解放されたベテラン打者が救われたのとは対照的に日本のパ・リーグでは逆に投手に利したようだ。日本シリーズでDH制の隔年採用を迫るパ・リーグの現状は…

日本プロ野球界における " 20世紀最大の革命 " と言われるDH制度をパ・リーグが採用してから約50日が経過した。当初、パ・リーグ連盟はあらゆる事態を想定して複雑なルール附則を用意していたが無用の心配であって制度適用に伴うトラブルは今の所ない。投手は投げる事に専念し代わりに打つ専門の10人目の打者が登場するという野球は違和感なく進行している。意外にも点の取り合いとなるのでは、との開幕前の予想に反して現在のところ今年のパ・リーグは投手上位という傾向を示している。 【 昭和50年6月16日号より 】


大リーグのアメリカン・リーグがDH制を採用したのは1973年の事。導入の理由は無気力な投手の打撃を見せられるよりは守りや走塁の衰えにより出番は減ってはいるがベテラン選手の年季の入った打撃を見ればファンも喜ぶだろうとの考えからだ。前年のア・リーグ投手たちの打率は.146 と冴えなかったがDHに入った選手の打率は.257 と上昇して派手な打撃戦も増えた。また出場機会が減り引退も近いと思われていたF・ロビンソンやO・セペタらベテラン選手がDH制のお蔭で蘇った。

日本の場合は投手たちがDH制の恩恵を受けた。代打起用による投手交代の場面が減り完投する投手が増えた。完投が増えれば中継ぎ投手陣への負担も減り休養も取れるようになり球威も戻り選手寿命も延びた。DH制導入の前年はパ・リーグ全体で金田留広投手(ロッテ)の16勝が最高で史上初めて20勝投手がゼロとなったが、導入後は忽ち稲尾投手(太平洋)が23勝、鈴木投手(近鉄)が22勝をあげた。勿論、ベテラン打者の復活の手助けとなったのも事実。永池徳二(阪急)・大田卓司(太平洋ク)や監督兼任で、ほぼ引退同然だった江藤慎一(太平洋ク)もその一人だ。

対するセ・リーグは投手交代の妙が減る、大味な試合が増え緊張感が無くなる、野球とはそもそも走攻守の三拍子揃った選手で戦う競技、打てないながらも投手の打撃を見るのも一興、などの理由をあげて通常のリーグ戦はもとよりオールスター戦や日本シリーズへのDH制導入に一貫して反対してきた。しかし制度導入から9年経ち「時代の流れ」「平等の原則」を盾にパ・リーグ側は日本シリーズでのDH制の採用、少なくとも隔年での実施をプロ野球機構に直訴し下田コミッショナーも一定の理解を示した。

コミッショナーや世論に押され気味なセ・リーグ。巨人の九連覇が終わり中日、ヤクルト、広島など巨人以外の球団も日本シリーズに登場するようになったが阪急に3連覇を許すなど形勢はパ・リーグがややリードか。この上さらに不慣れなDH制を導入されたら益々勝ち目が無くなりそうだ。そんなセ・リーグの数少ない理解者がパ・リーグに所属しながらもDH制に否定的な広岡監督(西武)なのも皮肉な話だ。
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#329 十大秘話 ⑦ 三冠王

2014年07月02日 | 1983 年 
一つの時代の終焉、それは新しい時代の到来でもある。長嶋の引退声明が行われた日に王は、はなむけのアベック本塁打を放った。それは既にほぼ確定していた自らの三冠王への祝砲でもあった。本塁打数で田淵(阪神)に終盤までリードを許し、敬遠の四球に悩まされながら最後まで望みを捨てずに闘志を掻き立てて2年連続三冠王の偉業を達成した。 【 昭和49年11月4日号より 】


この号は「長嶋茂雄引退記念特集号」だったが、もう一つの特集が「世界初の偉業・2年連続三冠王の王貞治」だった。その王を支えたのは飽くなき闘争心だ。「今年はもう諦めろ。無理をして故障でもしたら来年に差し支えるぞ」周囲の人達に言われると寧ろギアをチェンジして猛然とスパートをかけて遂に三冠を手にした最後の1ヶ月間の王こそ野球人として真の姿である。後に王自身が語ったところでは2年連続の三冠王を意識したのは10月になってからだったという。

10月に入っても三冠部門で王はいずれもトップから引き離されていた。特に本塁打はトップの田淵が好調で2本差を縮める事がどうしても出来ずにいた。打率は上下するが本塁打と打点は下がらない為、数字以上に差が大きく感じられた。10月2日からの対阪神4連戦、田淵が豪快な一発を放ち嬉しさを隠す事なく小躍りしてベースを一周する姿を目にした王の闘争心に火が点いた。10月5日のダブルヘッター第1試合、1本差に追い上げられた田淵は3回に関本投手から再び2本差とする44号3ランを左翼席上段に叩きこんだ。

10月中旬、王の下唇の左下に小さなオデキが出来た。それは見る見る大きくなってやがてカサブタとなった。ナインから「お灸でもすえられたか?」と冷やかされたが神経の疲労からくるモノである事は明らかだった。昭和37年から12年間も守り続けてきた本塁打王のタイトルが遂に他人の手に渡ろうとしている。田淵の嬉々として目の前を通り過ぎた姿を思い浮かべて「絶対にタイトルは渡さない!」と改めて自分に言い聞かせた。

この頃から王の顔つきが変わっていった。普段はロッカールームで明るく振舞っていたが、日に日に口数が減り黙り込む事が多くなった。頬は窪み眼だけが異様にギラつくようになった。「勝負事は相手に戦う意欲を無くさせた方の勝ち。良かれ悪しかれこの2週間で全てが決まる、と自分を追い込み生活の全てを野球だけに集中した。あんな気持ちで日々を過ごしたのはプロに入って初めてだった」と述懐する。結果は田淵を最後に追い抜き2年連続の三冠王を達成した。しかしチームは10連覇を逃し中日が2度目の優勝を手にした。長嶋は現役を引退し、川上監督はその座を長嶋に禅譲し勇退。確実に一つの時代の終焉だった。
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