Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#272 無名の名選手 ②

2013年05月29日 | 1982 年 



尾茂田 叶【松山商-明治大-セネタース】…「回転レシーブ」という言葉が日本中に広まったのは東京五輪の女子バレーの活躍によってだが、それよりも遥か以前に特技にしていた選手がいた。尾茂田である。外野手だった尾茂田は単に落下地点にダイビングキャッチをするのではない。地上スレスレで捕球するやいなやクルッと1回転して一瞬のうちに内野手に返球する態勢を整え矢のような送球をし飛び出した走者を刺した。

尾茂田がこの技を習得したのは松山商時代。夏休みで帰郷していた先輩の中村邦投手(明治大)の助言によるものだそうだ。初めのうちは上手く出来ず危険が伴うので砂場で繰り返し練習して身に付けた。「阪急の西村正夫も似たような事をやっていたが彼のはただ回転するだけで俺のように飛び込んだりはしなかった。坪内や岩本も私の真似をしようとしたけど出来なかったな」とプロの選手でも真似出来なかった荒業だった。
 
【 通算成績 275安打 9本塁打 打率.261 】



森 弘太郎【一宮中学-名古屋鉄道局-阪急】…昔の投手の球種と言えば直球とドロップの二種類と相場は決まっていた。そんな時代に森はシンカーを駆使して勝ち星を稼いだ。昭和12年にプロ入りした森だったが当初の3年ほどはパッとしない二線級投手だった。打撃が意外と良かったので打者転向を薦められたりしたが本人は頑として投手に拘った。しかし「森投手」に与えられた役割はバッティング投手で来る日も来る日も肩が抜けるほど投げさせられた。

バッティング投手だから打者に気持ち良く打たせるのが仕事である。だが投手の本能として打者に簡単に打たれるのは気分が悪い。とは言え打者に要求もされていないのに変化球を投げて打ち取る訳にはいかない。そこで見た目では変化球と分かり難いシュートを多投し詰まらせて打ち損じを誘い気分を紛らわせた。その時、力の入れ具合を変えるとシュートが曲がりながら沈む事に気づいた。

「この球は使える」二線級投手から脱皮した瞬間だった。シンカーという武器を手に入れた森は見違える投球をするようになる。全盛期は昭和16年で48試合に登板し30勝8敗 防御率 0.92 で最多勝に輝いた。名古屋軍相手にノーヒット・ノーランも達成し阪急は8年ぶりに優勝した。

【 通算成績 112勝78敗 防御率 1.92 】



皆川定之【桐生中-阪神-東急】…現在のプロ野球界で一番の小兵はロッテ・弘田(163cm)だが「それだけあれば昔だったら真ん中くらいで決して小さくない」と言う皆川は157cm・60kg、足のサイズは24.5cmだ。入団当初、ネクストバッターズサークルで素振りをしていたら二出川主審に「坊や、危ないからバットを拾ったらベンチへ帰りなさい」と叱られた。そう、小柄ゆえにバットボーイの子供と間違われたという逸話がある。「その話は本当だよ。なんせ俺よりバットボーイの子の方がデカかったからね。だけど悔しいやら、恥ずかしいやらで気合が入ってヒットを打って一塁ベース上から二出川さんに手を振ったら苦笑いしてたよ」と笑った。

負けん気と勝負強さはさすが国定忠治を生んだ上州生まれだけの事はある。桐生中では稲川監督にしごかれ阪神入り後は石本監督の猛ノックと「ヘタくそ!荷物をまとめて故郷に帰れ!!」の罵声を浴びながら培った守備力と根性が皆川の持ち味だ。打撃ではスタルヒンとの対戦が球場を沸かせた。35インチのバット(通常は34インチ)をグリップエンドいっぱいに握りアンダーシャツをたくし上げて巨漢のスタルヒンと対峙した。「向こうの方がやり難かったと思うよ。的が小さいから制球重視で八分程度で投げていたんじゃないかな、だから俺でも打てたわけだ」と当時を懐かしんだ。
  【 通算成績 630安打 21本塁打 打率.204 】
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#271 無名の名選手 ①

2013年05月22日 | 1982 年 



重松通雄【呉工廠-阪急-大洋-西鉄-金星-西日本】…日本初のアンダースロー投手には諸説あるが筆者が思うに第1号は重松投手だ。重松のアンダースローの投球フォームは左足を上げた段階で既に身体を「く」の字に折り曲げていて、後に登場する杉浦忠や秋山登らとは違っていた。入団当初はテークバックが小さい為に球に威力が無く、風変わりな変則投手の域を出なかったが腰を思いっきり打者側に突き出すフォームに改造してからはスピードが増し打者を抑えるようになった。「フィニッシュ時は腰が入って軸足のケリが強いからまるでジャンピングスローのようだった」と重松の元同僚の日ハム・丸尾スカウトは言う。

筆者とも浅からぬ因縁がある。昭和14年の東西対抗戦で先発した重松はノーヒット・ノーランを達成したのだが(投球イニングの制限は無かった)、準完全試合で唯一の四球を選んだのが私だった。7回の打席でカウント2-3からの外角低目の直球が外れて完全試合を逃した。正直言うと手が出ず見逃したのだが「あれは入っていただろ?白状しろよ」「いや、球1個分外だった」とお互い現役を退いた後も幾度となく言い合った。ちなみに当時の東西対抗戦は今で言うオールスター戦で出場選手は各球団の主力だっただけに価値ある偉業達成だった。
        
【 通算成績 63勝82敗 防御率 3.06 】



中根 之【神港商-明大-名古屋-イーグルス】…日本球界で初のスイッチヒッターは誰か?巷間、ジミー堀尾と中根のどちらかであると言われているが中根本人に尋ねると「俺だよ」と即答する。一方のジミー堀尾が既に故人なので中根の言い分を信じるより他ない。同じスイッチヒッターでも堀尾の場合は左右打ちの機会に規則性は無く右腕投手相手でも右打席に立つ事もあったが中根の場合は右腕投手には左打席、左腕投手には右打席と徹底していた。昭和11年秋、中根は打率.376 で日本プロ野球の初代首位打者に輝いた。「右打者が苦手とするアンダースローも打てたし左腕の内藤幸三君には8割くらい稼がせて貰ったしタイトルが取れたのはスイッチのお蔭だよ」

中根のスイッチは高校時代からのものだ。中根のいた神港商は山下実や島秀之助らを輩出した名門で、スイッチの助言をしたのも同じくOBの二出川延明だった。3年生の時に俊足を生かす為にも左で打つよう薦められ本格的に練習に取り組んだ。「俺はね元々反体制側の人間で天の邪鬼でね、当時は重いバットが主流で強い打球が求められていた時代だった。それに反発したくて軽いバットを使っての軽打専門だった」左打席で走りながら打ち単打を稼ぐ中根を見て二出川が「そんな打ち型じゃ強打者にはなれんゾ。左右両打席で本塁打を打てるようにならないと六大学へ行っても大成しない」と言われて打撃を改造した。

【 通算成績 183安打 7本塁打 打率.286 】



永沢富士雄【函館商-巨人】…今やどこの運動具店でも売られているファーストミットの原型を編み出したのが永沢だ。内野手からの送球はいつも取り易いものばかりではなく高かったり横へ逸れたりと一塁手は捕球に苦労するのもしばしばである。一塁手だった永沢のグローブは一見して指の部分が長く異様な形をしていて、大日本野球連盟東京協会(大東京軍)の代表だった鈴木龍二(現セ・リーグ会長)が違反グローブじゃないかと物言いをつけた程だった。昭和9年に来日した大リーグ選抜軍の一員だったジミー・フォックスに「一塁手のグローブは捕球し易い様に大きい方が良い。お前のグローブは小さ過ぎる」と言われてアメリカ製のグローブを取り寄せて自分で改造したのだ。

入手したグローブはアメリカ人用だけに大きく指も長く捕球し易かった。さらに永沢は親指と人差し指の間のネット部分を外して新たに柔らかい銅線で形を大きく、深く改造した自作のネット部分を取り付けて球がグローブからこぼれ出ないようにした。銅線を布テープでグルグル巻きにし、さらにその上から絆創膏を貼り付け強化した。出来上がったグローブは原型を留めておらず、まさに現在のファーストミットの形をしていたのだった。こうして自作のグローブを永沢は10年の選手生活で2個しか使わなかった。

【 通算成績 158安打 5本塁打 打率.200 】
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#270 試金石

2013年05月15日 | 1982 年 



オープン戦の成績は当てにならないと言われて、特に外人選手は季節が暖かくならないと判断できない。しかし新人選手に関してはオープン戦の出来・不出来がそのままシーズンの成績を暗示するケースが多い。昨年の新人王に輝いた原と石毛はオープン戦から結果を出していた。

        試合  打数  安打  打点  本塁打  打率
   【 原 】  12   39   12    5     2    .308
   【石毛】 16   56   20    3     2    .357



石毛は2月28日のデビューから2試合は1安打と出遅れたが徐々に本来の力発揮し始めて3月21日の日ハム戦では本塁打を含む3安打と実力を見せつけた。一方の原も同じ3月21日のヤクルト戦で3打数2安打として打率5割でオープン戦首位打者に躍り出た。原はオープン戦終盤に不調に陥り11打席無安打と不安をのぞかせたが公式戦が開幕すると初戦で牛島(中日)から左前初安打、2戦目に小松から右翼越え初本塁打の見事なデビューを飾った。石毛の公式戦デビューは原以上で開幕戦で初本塁打を含む3安打、2戦目にも第2号本塁打を放った。新人の開幕戦3安打は昭和33年の古葉(広島)・森永(広島)以来23年ぶり、開幕戦から2試合連発は昭和30年の枝村(大映)以来26年ぶりの快挙だった。

また中尾(中日)も規定打席不足ながら4割を越す打率を残していた。昨年のオープン戦には原・石毛・中尾を含めて18人の新人が出場して打率は.251 だったが、この3人を除くと打率は.172 とガクンと落ちる。いかにこの3人が図抜けていたかが分かる。過去に新人王に選ばれるほどの選手はオープン戦から結果を出している。昭和36年に35勝をあげた権藤(中日)は28回 1/3 で防御率 0.13 。昭和37年に24勝した城之内(巨人)は33回 で防御率 0.27 と先輩打者を寄せつけなかった。最近では昭和55年の木田(日ハム)が17回投げて防御率 1.06 と公式戦での活躍を予感させた。

今年の新人達もオープン戦で奮闘中だ。田中(日ハム)は2月20日のオープン戦初戦に先発して広島打線を5回まで2安打・無失点に抑えて勝利投手に。さらに27日の大洋戦でも2回を無失点に抑えて2勝目をあげている。宮本(ヤクルト)は3月9日の巨人戦に先発して3回1安打で無失点、津田(広島)も3月7日の西武戦で5回2失点と好投した。打者でも平田(阪神)が4割を越すアベレージを残して真弓を押しのけて遊撃手のポジションを虎視眈々と狙っている。

そんな中で苦しんでいるのが金村(近鉄)である。代打のみの4試合出場である事を割り引いても「超大物ルーキー」の片鱗は見せていない。高校を出たばかりでは最近のプロ野球では通用しないという事を改めて思い知らされる。昭和27年の中西(西鉄)は打率.281 12本塁打、翌28年の豊田(西鉄)は打率.281 27本塁打、投手では昭和31年の稲尾が21勝6敗 防御率 1.06 を記録したのは遠い昔の話だ。高校を出たその年に新人王になったのは昭和41年の堀内(巨人)以来現れておらず、打者となると昭和34年の張本(東映)が最後である。

高卒選手が一軍で活躍する以前に一軍の試合出場数自体が減ってきている。ドラフト制以降、1年目に100試合以上出場した新人は29人いるが高卒選手はゼロで一番多いのが昭和49年の掛布(阪神)の83試合。昨年は高校を出て即プロ入りした選手が47人いたが一軍の試合に出場したのは打者3人・投手6人だけだった。安打を記録したのは秋山(西武)と原(広島)の1安打、勝ち星は井上(南海)と小野(西武)の1勝と寂しい限り。果たして金村がプロの壁を突き破る事が出来るか注目である。
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#269 試練の新人たち

2013年05月08日 | 1982 年 



尾上 旭…カ~ンと乾いた打球音が球場に響き渡ると尾上は公式戦でサヨナラ本塁打を放った選手かのように拳をグイッと突き上げてベースを一周した。2月16日の紅白戦で堂上投手から打った一発は「満塁」のオマケ付きだった。実戦形式になってから8打席無安打と結果が出ずに苦しんでいただけに喜びが爆発したのだ。思えば1月中旬の自主トレの時、ナゴヤ球場に姿を現した黒江コーチは尾上の打撃フォームを一見して「かなりのアッパースイング。あれじゃプロの球は打てん」と当初の「暫くは自由にやらせてフォームはいじらない」という球団の方針を撤回してフォーム改造に乗り出した。

「守りはともかく打つ方は平田(阪神)以上で即戦力。すぐにでも一軍でやれる(田村スカウト部長)」との評価は音を立てて崩れ落ちた。長年慣れ親しんだフォームを変えるのは至難の業で結果は直ぐには出ず悩みに悩んでキャンプイン1週間で尾上の体重は8kgも落ちてしまった。朝8時15分の散歩から始まり10時の球場入り後は午後3時過ぎまで練習メニューを消化し皆が引き揚げた後に個別で打撃と守備特訓。夕食後の8時半から11時頃まで「黒江打撃教室」に通うのが日課となっていて「部屋に帰ると風呂にも入らずバタンキューです」

しかし痩せるのも当たり前のスケジュールをこなして来たのにあの一発以降も打てない…3月4日のロッテとのオープン戦に三塁手で先発出場したが4打数無安打、守りの方もどこかぎこちない。「おかしいっスね、村田さん以外の投手の球は打てない感じじゃなかったのに…新しいフォームにも慣れてきましたから焦らず頑張りますよ」と努めて明るく振舞っているのが逆に痛々しい。「ポッと出の大学生がいきなり打てる方がおかしいですよね。練習また練習です。24時間野球漬けが今の僕に出来る事です」と尾上は歯を食いしばる。





右田一彦…プロ初先発(2月28日・日ハム戦)を控えた前夜、右田は試合に備えて静養しているのかと思いきや宿舎を抜け出して静岡市内のパチンコ屋にいた。それも足元には銀玉がぎっしり詰まった千両箱が。「野球と同じで負けるのは気分が悪いですから」と7千円見当のプラスの成果だった。この男にはオープン戦くらいではプレッシャーとは無縁のようだ。

木田投手と投げ合った結果は3回を投げ被安打3で1失点とまずは合格点の内容だった。心配そうに見つめていた湊谷スカウト部長は「キャンプ疲れのピークかな。アマ時代と比べるとスピードは物足りない。アイツの力はこんなもんじゃないですよ」と気遣ったが本人はケロッとしたもので「内容はまぁまぁじゃないですか。緊張?いや、紅白戦と変わらなかったですよ」と相変わらずの強心臓だった。

キャンプ前から「放言ルーキー」として面白おかしくマスコミに取り上げられていたが、達者なのはクチだけでなく実力の方も確かなようだ。「僕ってそんなに図々しい事を言っていますかね?活字になるとキツイ物言いになるけど実は小心者で周囲に気を遣っているんですよ新人ですから」本来なら球団も新人をPRするところだが逆に「本人も気にしているからあまり記事にしてくれないで欲しい」と注文する始末。

自主トレ初日に関根監督から「オープン戦の九州遠征ではどこで投げたい?」と聞かれ「長崎(対中日)がいいです。実家(熊本)からも近いですから親類や知人も見に来やすい」と即答していたが、キャンプで結果を残して地元凱旋登板を実力で手にした。しかし好事魔多し、親類縁者21人の大応援団の前で3回を投げて被安打5、四死球3で7失点の失態を演じてしまった。「自分のリズムで投げられなかった。一からやり直しです」と言葉少なく球場を後にした。





平田勝男…当初、首脳陣の平田に対する評価は真弓に疲れが出始めた頃を見計らって守備要員として使えれば充分~あくまで真弓の控えというものであったが今は嬉しい誤算を感じ始めている。「六大学No,1内野手」はともかく「どこの球団へ行っても即レギュラーの力を持っている(島岡監督)」については眉ツバものと冷ややかな声もあったが実戦形式の段階に入ると周囲を唸らせるだけの力量を平田は見せつけ始めた。

元々定評があった守備よりも巧打の方でアピールしている。紅白戦やオープン戦8試合全てで安打を放ち25打数10安打、打率.400 とくれば「だから2位指名で取れる選手じゃないんだ。1位指名が当然の力を持っているんだよ」という島岡監督の声が聞こえて来そうだ。逆に前評判が高かった守備に関しての評価は今ひとつ。「腰高で手投げ」「上半身に柔軟性が無い」ただ「守備は練習を積めば積むほど良くなる。打撃はセンスが必要だけどね」と安藤監督は合格点を与える。

ここに来て「近い将来は格好の二番打者になれる」と安藤監督は平田の起用プランを口にするようになった。「大学時代も二番を打ってきたのでバントや右打ちも抵抗なく出来ると思っている」と平田本人も自信をのぞかせる。平田が遊撃手のポジションを取るとなると真弓はどうなる?かつてライオンズ時代には外野手が本職だっただけにコンバート話が持ち上がる可能性すらある。平田の予想外の活躍で阪神首脳陣は嬉しい悲鳴を上げる事となるのか・・
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#268 昔日の豪腕投手

2013年05月01日 | 1982 年 



「あの時に山口を指名しとけばなぁ」昭和50年、阪急-近鉄のプレーオフ敗退後の藤井寺球場のロッカールームで近鉄・西本監督がポツリと呟いた。前年のドラフト会議で一番クジを引き当てた近鉄だったが指名したのはその年の目玉であった山口投手(松下電器)ではなく同僚の福井投手だった。「契約金が高過ぎる」…それが近鉄本社の意向で指名を見送り二番クジだった阪急が棚ボタで山口を獲得した。1年後の今、その新人投手がプレーオフ第2・4戦で完投勝利を収め近鉄の前に立ちはだかり日本シリーズ進出の夢を打ち砕いた。

その勢いのまま広島との日本シリーズに突き進みチームは4連勝、山口も4連投で球団初の日本一の瞬間のマウンドに立ち上田監督の胴上げに続き「次はタカシや」の声と共に宙を舞った。入団1年目から4年連続2桁勝利、昭和53年には13勝4敗15Sでセーブ王を獲得したが翌年に肩を痛めると成績は下降線を辿る一方となった。昭和54年は1勝、翌55年も1勝、昨年は遂に勝ち星なしに終わった。


昨年の昭和56年4月27日、西宮球場での西武戦の5回途中から登板した山口は山崎に特大の一発を含め9安打7失点の滅多打ちにあい降板、即二軍落ちを告げられた。山口に対して上田監督は「闘争心が無くなったのならユニフォームを脱げ。『山口高志』という名前を大事にしたらどうだ」と引退勧告まで突きつけられた。あれからほぼ1年、秋季キャンプ・自主トレ・春季キャンプ・オープン戦と球を投げ続けた。自主トレ期間中にフリー打撃に登板したのはプロ入り以来初めての事で、それ程に山口の復活に懸ける思いは強い。

3年間も低迷を続けるきっかけは昭和53年のヤクルトとの日本シリーズ直前に襲って来た腰痛だった。抑えの切り札である自分が戦列から離脱する訳にはいかないと痛みに堪えて練習を続けたのがいけなかった。とうとうパンクし腰痛の権威である大阪大学附属病院の小野教授の診察を受けた。椎間板ヘルニアとか腰椎分離症といった明確な病名ではなく、長年の酷使により疲弊したものと少々曖昧な結果であった。幸い手術は避けられたが痛みが引いても再発を恐れるが余り無意識のうちに腰を庇う投球フォームになり、球威は落ちて往年の豪速球は影を潜めた。

思えば自分ほど幸福な道を歩んで来た者はいない、と山口本人は思っている。関大で通算46勝の記録を作り大学日本選手権や日米大学野球選手権で優勝、都市対抗野球では小野賞を受賞しプロ入り後はいきなり日本一の立役者となった。「順風満帆すぎて腰痛でダウンするまで苦労という苦労を経験してなくて抵抗力が無かった。不屈の闘志で長年の肩痛からカムバックした足立さんを手本にしなければ」と自らを奮い立たせる。だが「ストレートだけで勝負して来た俺が今じゃチームで一番の球種持ちなんだよ。でもね、どれ一つ満足できる変化球じゃないんだ…今更ながら自分の不器用さに呆れてるよ」と寂しく笑う。




結局、山口は復活する事なくこの年オフに引退しました。一番好きだった選手でしたが肩の故障も腰を庇ってフォームを崩したのが原因とされていただけに腰を痛めた時に思い切って手術をしていれば…と思わなくもないです。
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