納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています
「今までは自己満足で投げていた。思いっきり投げて三振を取る、それがたまらなく嬉しかった」・・・昨年は右太腿の肉離れと右足親指付け根の痛みで大事な終盤に戦線離脱し、プレーオフはベンチ入りさえ出来ず9勝9敗に終わった。「投手なら誰でも変わらなければならない時が来る」 当時は聞き流していた4年前の鈴木啓示(近鉄)の言葉が心に沁みた。「いかに速い球を投げるか」ではなく「いかに速い球に見せるか」かが今年の村田のテーマだった。キャンプからオープン戦を経て村田が辿り着いた答えが開幕戦での投球にあった。6年連続の開幕投手、過去5年の開幕戦の初球は渾身のストレートだった。その村田が選択した今年の初球はシンカー・・過去の自分との決別だった。
◆自己満足…投手であるならば三振で打ち取る妙味を感じない者はいないはずだ。「去年までは新聞を見ても防御率と三振奪取欄ばかり気にしていた。勝ち星より三振数、いかに速い球を投げるかの方が自分には大事だった」それは自己満足だと諭された。そんなに速い球が投げたければ一日中ブルペンでスピードガンと競争してろと言われて目が覚めた。
◆16奪三振…昭和54年春、日生球場の近鉄戦で足立(現阪急コーチ)が持つ日本記録「17」にあと一歩の16個まで迫った。「最初から最後の1個までどんな三振だったか今でも全て鮮明に憶えている。逆に言えば三振を獲り損ねた場面も憶えている。つまり記録を破れなかった事がそれだけ悔しかったって事だよ」
◆曲がり角…「スピードの衰えを自覚した時の兆治は見るに忍びないほど落ち込んでいたが速球投手なら誰もが通る道。速球派から技巧派へ、これが平坦な道じゃない。鈴木(近鉄)でさえ3年近くかかったとアドバイスした(ロッテ・若生投手コーチ)」
◆甲子園…進学先は創立3年目の福山電波高。家の近くに尾道商があったが、電波高の校長が「ウチの野球部は絶対に甲子園に行く」との宣言につられて入学。2年生と3年生の時は優勝候補と言われながらも、甲子園出場は叶わなかった。
◆先輩…1学年上に浅野啓司(巨人)がいた。浅野が3年生の時に県予選準優勝してドラフト9位でヤクルト入りした。「浅野さんは1年目に8勝してね、あの時初めてプロを意識したんだ。俺もプロに行けるかもって」
◆オリオンズ入団…当時の評価は球は滅法速いが制球難。家族は大学進学、本人は社会人入りを考えていたが連日12球団のスカウトがやって来て話をするうちにプロ入りに気持ちが傾く。「親があんまり大学、大学とウルサク言うもんで『俺はプロへ行く』と、反抗したい年頃だったしね。でもプロなら広島カープ一本槍で他は考えてなかった・・ドラフトだから仕方なかったけど東京は頭になかった」
◆マサカリ投法…ヒップ投法とも言われるダイナミックな投球フォームは入団4年目くらいから。「プロ入りした頃から球は速いと言われていたけどフォームがバラバラで制球難だった。速い球を投げるには腕を強く振らなければと思っていたけど、腕に力を入れると下半身がついて来ない。先ずは下半身強化だと考えて行き着いたフォームがあの投げ方」
◆フォークボール…「フォークを投げたいと思ったのは村山さんのファンだったから。真っ直ぐしかなかったからマスターしようと必死だったけど投げ方すら分からなかったから全然ダメでね、ブルペンで俺が投げていたフォークを見たコーチに『あんな球じゃ試合では使えないからやめておけ』と言われていたけど試しに投げてみた。案の定ポカスカと打たれたけど『あれはカーブです』と言って誤魔化した。実際にカーブと大して変わらなかったね」
◆消える魔球…オープン戦で対戦した新人・原(巨人)が「村田さんの球スゴイんです。途中で消えちゃいました」と発言。これに対し「悪い気はしない。次までには必ず打てるように努力してぶつかって来るはず。でも感心したね、あれだけ騒がれてプロに入って来ても謙虚さがある。だからこっちも色々と教えてやろうという気になる。大きく育って欲しいね」
◆家族…妻・長男・長女の4人家族。取材中に小学校1年生の長男が西武ライオンズの帽子を被って遊びから帰って来た。「ロッテ? うん、好きだよ。でもロッテの試合を見たのは1回だけ、パパが投げてた試合。パパが毎日試合に出ないからつまらない。なんでバッターじゃないの?」 にはパパも苦笑い。
◆パ・リーグ…「優勝した時だけチヤホヤされて1年たつと忘れ去られる、これがパ・リーグでプレーする選手の辛いところ。控え選手でも周りに盛り上げてもらえる環境にある球団にいる選手には分からない苦悩がある。近年は西武人気もありパ・リーグに注目が集まりつつある。これを一時的なものにしないようリーグ全体で頑張りたい」
小川亨(近鉄)…前期終了時点で2割3分6厘、一時は2割を切ったこともあった。「俺にも遂に限界が来たのか」打撃センスは一級品と称された男が頭を抱え込み、もがき苦しんだシーズンだった。一度も優勝争いに加わること無く最下位に沈み最後は西本監督勇退。プロ入り最大のスランプを抜け出すには練習しかなかった。「あと何年野球を続けられるか分からないが1年でも長くやるには練習しかない」と自宅で行なう素振りの回数を若い頃の倍に増やした。周囲の励ましもあった。「チームの調子が悪い時こそムキになって自分の成績にこだわれ。各自がそうする事でチーム全体が上向きになる」「モーやんは元々打てる力を持っているのだから自分を信じろ」等々。
終わってみれば2割9分台まで上がったが「とても満足感からは程遠く、今年ほど寂しいシーズンはなかった。監督の花道に泥を塗ってしまったし・・。でもここまでやれたのだから来年もまだやれそうな気になれたのが救いかな。前期のままだったら真剣に引退を考えたかも」と振り返る。「先ずは体調を万全にする。3本ほど残っているムシ歯を治す事からやらなくちゃ」と気持ちは既に来季に向いている。来年はあと46本と迫っている1500安打達成という目標もあるが「でもなぁやっぱりチームの優勝の喜びに比べたら・・」とイブシ銀男の思いは個人成績よりも優勝なのである。
山下大輔(大洋)…突然の長嶋監督招聘表明で大揺れの大洋で山下大輔兼任監督説が浮上している。球団レベルを越えて大洋漁業本社・久野修慈総務部長兼秘書役が「これからは若い人の時代。広岡・野村氏ら既成の監督では新鮮味が無いでしょ。個人的には山下兼任監督は素晴らしいアイデアだと思います」と発言したのが発端。プロ8年目の29歳、早すぎる監督説だが球団内では意外とは受け止められてはいない。いずれは監督になるべき人間と考えられている選手だからだ。
沈みっぱなしの大洋で孤軍奮闘。巨人へ移籍した松原に代わって選手会長となりプレーでもチームを牽引した1年だった。開幕当初はそんな気持ちが空回りしたのか打撃不振に陥った。4月21日からの博多遠征の頃の打率は1割台まで落ち「お前の身長(174cm)より低いじゃないか」とOB解説者に冷やかされた。それに発奮したのか5月に入ると上昇気配を見せて6月には大爆発して、自身初の月間MVPを受賞しチームも4位まで順位を上げた。
「もう8年目だからね、誰だってこのくらいの歳の頃が一番良いんじゃないの。3割?う~ん、、まだ一度も打った事がないから分からない。一応、試合数プラス20本のヒットを心がけていますよ」と月間MVP受賞の際の会見で心境を述べた。打撃成績向上には怪我の功名もあった。4月末の中日戦で打球を追って左翼の長崎と交錯して突き指をしてしまったが「アレのお蔭でインパクトの瞬間に余計な力が入らなくなったのも好調の要因の一つ」らしい。
9月に入り土井監督が14試合を残して休養。その直前に山下は土井監督から直々に選手会長として積極的にナインの先頭に立って欲しいとチームの今後を託され、これまで以上にチーム全体の事を考えなくてはならなくなった。そのせい?なのか打率は下降し始めて初の3割は難しくなった。それでもプロ入り初の全試合出場は目前だ(10月1日現在)。昨年までは「大ちゃん」と呼ばれボンボン扱いされていたが今年ようやく一皮剥けて、来年の更なる飛躍を目指している。
掛布雅之(阪神)…先ずは下の表を見て頂こう。新人の年は別として、昨年の成績がいかに惨めなものであったかが一目瞭然である。
年 度 試合数 安 打 本塁打 打 率
49 83 33 3 .204
50 106 78 11 .246
51 122 132 27 .325
52 103 126 23 .331
53 129 148 32 .318
54 122 153 48 .327
55 70 59 11 .229
56 123 145 22 .333 (10月2日現在)
「ゼロからの出発ですわ」 開幕前に掛布は自分に言い聞かせるように言っていた。習志野高からプロ入り以来順調に階段を駆け上がっていた成績が初めて転げ落ちた。昨年は何を聞かれても「別に何も無いっスよ」もともと口数の多い選手ではなかったが、さらに無愛想な1年だった。「去年は聞かれるのは怪我の事ばかり…。野球の話が出来るのがこんなに嬉しいとは思わなかった」と今年は表情も明るく別人だ。
昨年は左ヒザ半月板損傷、左太腿肉離れ、腰痛と次々と故障。期待が大きいだけにファンの失望も大きく、どこで調べてくるのか自宅マンションの電話は鳴りっ放しで安紀子夫人は心労で5kgも体重が落ちた。オフのサイン会やゴルフコンペは全て断り身体の手入れに努めた。藁をも掴む思いで千葉の実家にあった池を「敷地内に池があると不幸を招く」との進言に従い埋めてしまうなど一族郎党あげてバックアップをしたほどだった。
9月29日の中日戦8回表、三沢から21号を放った。タイトルを取った48本に比べたら半分にも満たないが「本塁打の数?ファンの皆さんには物足りない本数と言われそうですが今の僕には充分な数字。とにかく今年はここまで1試合も休まずに来れた事が一番嬉しい」今年の掛布を語る時についてまわるのが「休まず」なのだ。タイトル争いに加わる事は出来なかったがプロ入り初めて全試合に出場できた事が一番の収穫だった。
森繁和(西武)…自分の事を「ワシ」と言う森と、森に「オッサン」と呼ばれる田淵の2人はウマが合う。歳は田淵の方が上だが物腰や言葉使いからは森の方が落ち着いて見える。その田淵が「将来の西武の屋台骨を支えるのは森」と断言する。力の松沼弟か技の森、つまりどちらがエース候補なのか?現エースの東尾はどう見ているのか。「チームを引っ張るという意味では森かな。勝っても負けても淡々としていて気分転換も上手い。あの勝負度胸は大したもん」と森に軍配を上げる。
着実に力をつけてきた。ドラフト1位で住友金属からプロ入りして初めてのキャンプで自ら野村(現解説者)に捕手役を求めるなど当時から度胸は折り紙付き。「ホワイトソックス戦で先発(2回無失点)した時はシュートのキレが抜群で"平松二世"だと思ったね」と野村氏は語る。そのシュートを武器に1年目は先発・リリーフの両投遣いで5勝16敗7Sと球団創設1年目で最下位に沈んだ西武で獅子奮迅の力投。「チームは断トツの最下位だったけど良い勉強になった。アマ時代は先発する事が多かったがリリーフを経験できた事が今に役立っている」と言う。
2年目のキャンプでパームボールを習得して一段と投球に幅が出来て10勝14敗7Sと成績も向上した。そして今季は目下14勝とチームの勝ち頭だ。エースの資格の一つが自己主張が出来る投手というのが東尾の持論だが、この点でも森は当てはまる。森は「我が道を行く」タイプで地元の高校から駒大付属高へ父親の反対を押し切って2年生の時に転校した。「野球でメシを喰っていく」と既にその当時から森は心に決めて、その為の最善の道を選択したのだ。しかし闇雲に、ただプロ野球選手になれればそれで良しとしないのも森らしい。
昭和51年のドラフトでは佐藤(現阪急)・斉藤(現大洋)と共に「大学ビック3」と称されロッテに1位指名されるも拒否。表向きの理由は「プロでやれる自信が無い」としていたが実際は「やる以上は組織のしっかりした球団で」と言う思いが強かったからである。駒大卒業後は住友金属に就職、配属先は人事労務部だった。この部署は社内的にはエリートコースと言われている所で過去のスポーツ選手で配属されたのは山中投手(法大出)ただ一人である。「サラリーマンとしても仕事が出来る人間だと見込まれていたのだろう。この3年間、彼と接してみて人間性が素晴らしい事を再認識した」と根本監督は言う。恵まれた体格から真っ向勝負を挑む本格派は人間的な成長も加えて、来季は20勝を狙うと早くも宣言した。
小松辰雄(中日)…「ウチにもやっと江川に力で対抗できる投手が出てきたよ」 近藤監督が嬉しそうに語る。ストッパーから先発へ転向した小松投手の事で、持論の投手分業制も小松に関しては不要だ。10月2日現在、12勝6敗11S。先発転向後は8勝4敗、そのうち完投は6試合。2日の阪神戦で敗れるまで6連勝と今やローテーションの柱で、もしも開幕から先発させていたら20勝も可能だったかもしれない。
投手を見る目に長けている近藤監督でも入団以来ストッパー専門で、いつも全力投球をする小松の限界は50球と踏んでいた。「あいつは何度言っても全球を全力投球してしまう。八分の力で投げてもスピードは変わらないと言っても信じないんだ」そこで近藤監督は一時的に先発で使う事にしたのだ。さすがの小松も先発させれば力をセーブして投げるだろうと、そして全力で投げなくてもスピードは落ちないと分かったら再びストッパーに戻せばいいと考えていた。
転向当初はやはり全力投球のままでスタミナ切れで5回もたない試合が続いたが次第に力を抜くコツを覚えて完投できるようになった。広島戦では延長12回を1人で投げきるなど9回を投げ終えても「あと2~3回なら大丈夫」とケロリと言ってのける程になった。「とにかく私の想像以上の能力、完全な認識不足でした」と近藤監督も脱帽する。怪我の功名だった先発転向がもう少し早かったらチームも小松本人も違った1年になっただろうが、後の祭りで既に視線は来季を見据えている。
小松の来季の目標は20勝。プロ入り時の目標「200勝して名球会入り」の為には是非とも達成しなければならない。巨人の連続得点試合を147試合でストップさせた豪腕と怪物・江川との対決が来季の目玉になる事は間違いない。
松岡弘(ヤクルト)…ここ数年オフを迎えると同じセリフの繰り返しだ。「俺個人はソコソコ満足できる数字だけど今年も若いヤツは出て来なかった。俺みたいなロートルが投手陣の柱じゃチームは強くならんよ」と伸び悩む若手投手たちに歯がゆさを感じているのだ。9度目の2桁勝利、チームの勝ち頭で巨人や広島を相手にする時はストッパーとして登板するなど34歳にしてなおフル回転だ。
「マツが凄すぎるのか若手が情けないのか、練習量ひとつとっても差は歴然だから当然か・・」と堀内投手コーチは深い溜め息をつく。試合前のランニングでも松岡の前に出る若手はいない。ダッシュを重ねれば重ねるほど松岡の健脚ぶりが目立つ。「若手が遠慮しているというより、ついて行けないんだ。走る事だけじゃなく投げる方でもマツが一番連投に耐えられる肩と体力を持っているんだ」 いつまでも松岡に頼らざるを得ない現状を根来コーチも嘆く。
肉体的な強さに加え精神面の支えは父・正男さんだ。「この歳になって言うのは照れくさいけど親父は凄い男、いまだに親父には勝てんよ。ヤクルトが万年Bクラスだった頃はチーム内にもクセ者が多くてね、あんまりイビリが酷いので何度も退団したいと思っていたんだ。でもその度に親父に怒鳴りつけられてね、お前は自分の事だけしか考えん人間なのかって」…正男さんは今年で70歳。終戦後満州から岡山に引き揚げて雑貨店を営み家族を養った。
「とにかく貧乏だった。子供心にも親父が音をあげないのが不思議なくらい貧しく、日々の食事にも困る状態だったけど親父の口癖は『死ぬまで諦めるな』だったな」 貧しさの中で自分たちを育ててくれた父親への敬意。時代の変遷の中で死語と化した父親への尊敬の気持ちをジッと持ち続ける男、派手さはカケラも無く単純で地味な努力だけが目立つ松岡だが、その考えが変わらない限り簡単には衰えないだろう。
岡山・倉敷商の1年先輩の星野(中日)も言う「アイツは間違いなく200勝するよ。あれだけ投げていて故障らしい故障をしないなんて奇跡に近い」と。どんなに食べても贅肉が付かない体質、ガタのこない足腰のバネは故障がちな平松や堀内ら同世代の連中からは羨望の的。強靭な躯体を武器に来年もまだまだ若手からの挑戦を受け続けるつもりだ。
稲葉光雄(阪急)…「あの怒鳴り方は凄かったな」「凄いと言うより酷かったよ」「アイツの顔を見てられなかったよ」・・ベテラン連中の会話である。3ヶ月前の6月20日の事で、稲葉は後楽園での日ハム戦に先発したが3回を2安打・4四死球でKO。ベンチに下がった稲葉を上田監督が怒鳴りつけたのだ。プロ11年目の投手を新人の如く叱った。本人もこの試合が今季で一番印象に残っていると振り返る。
「あの試合がボクの目を覚ましてくれた」後期は山田・今井と共に三本柱の一角としてローテーションを守り9月17日のロッテ戦で通算100勝を達成した。洒落たフレーム眼鏡に細見のスタイルで、銀行員と言われても誰も疑わない。一見ヤサ男だが秘めている思いは熱い。昭和45年、日本軽金属にいた稲葉に最初に接触してきたのは巨人だった。他球団が動かなかったのは体力に不安を感じたからだ。174㌢・67㌔・・野球選手としては線が細くてとてもプロの練習に耐えられそうもない身体だった。稲葉自身もプロでやっていく自信は無く巨人の誘いにも消極的だった。
しかし蓋を開けてみると中日が指名した。「相当迷いましたよ。家族は反対でしたしボクもプロへ行く気にはなれず断るつもりでいました」しかし同僚の一言で気持ちが変わった。「ちょうどオイルショックの頃でこれからは不景気になる、ウチの会社だってどうなるか分からないから勝負してみろと言われたんです」そしてその言葉通り数年後に日本軽金属野球部は解散したのだ。中日入団後は周囲の心配をよそに2年目には20勝をするなど活躍した。阪急に移籍後も3年連続2桁勝利をするなど順調だったが昨年は5勝8敗・防御率は6.36と低迷した。
トレードとは言え中日から放出された経験から不成績のシーズンオフは落ち着かない。「もしクビになったらもう拾ってくれる球団は無いだろう」それだけに昨年の契約更改の会見では「来年も野球が出来る」と喜んだ。だが今シーズン当初は結果が出ず「キャンプ、オープン戦とやれる事は全てやってきた。でも勝てない。そんな時に上田監督に喝を入れられて開き直った。あの試合が無かったら今頃はユニフォームを脱いでいたかもしれない」 終わってみれば11勝をあげ見事に復活した。「これでまた来年も野球をすることが出来る」と稲葉は心からそう思っている。
北別府学(広島)…6月16日の巨人戦で江川と投げ合い勝利した。これ以降、江川は広島相手に勝てなくなり広島戦を回避するようになった。鹿児島県と宮崎県の県境にある町で生まれ、都城農高時代には江川がいた作新学院と対戦した事もある。「ボクが1年生の時でしたけど凄い投手がいるんだと驚きでしたね」「でもプロ入りはボクの方が先だし負けられません」と気合が入る。
高橋慶、大野、北別府。この3人がカープ若手の人気を三分する。北別府の人気の秘密は赤いホッペの童顔と親孝行ぶりが母性本能をくすぐるらしい。昨年の東西対抗戦でMVPに選ばれ100万円を手にし、何に使うかを問われると「ここまで育ててくれた両親と祖母にあげたい。3人には今まで何もしてあげられなかったので、このお金で旅行にでも行って欲しい」と即座に答えた。母親のツユ子さんは「もったいない。学が命を懸けて得たお金を使うなんて・・神棚に飾って学の健康を祈ります」と涙ながらに語った。
「ボクには兄貴が2人いるけど2人とも普通のサラリーマン。給料もボクに比べたら少ない。けど2人とも幸せな生活をしています。ボクは兄貴らが一生かけて手にするお金を数年で稼げる。でもそれは周りの協力や助けがあればこそです。いくら野球が上手くても人間としてダメなら寂しい人生を送るようになってしまう。そうはなりたくないんです。周りの人達への感謝を忘れずにこれからもやっていきたい」 同じ合宿所暮らしの大野はいまだに自転車で球場まで通う。ドラフト1位で入団して常に陽の当たる恵まれた環境で過ごして来た北別府。勝負の厳しさを背負いながら野球に対する姿勢も前向きになってきた。
山内新一(南海)…今季の目標を15勝と公言していた山内は開幕から3連勝。---気持ちに張りがあると良い仕事をする---今年の山内がそれだ。開幕前の新居への引越しと9月に誕生した次女の存在だ。「ローン返済があるし、家族が増えたからボヤボヤしてられんのや」 前期に8勝をあげて投手陣の屋台骨を支えていた山内に肩痛が襲ったのは次女が生まれる1ヶ月前だった。
2週間の安静を強いられて自宅で悶々としていた時と同じくして出産準備の為にれい子夫人が家を空ける事となった。自宅には長女と山内の2人。長女の遊び相手にとマルチーズを飼う事にしたが、気に入ったのは長女ではなく山内だった。「まさか・・と思いましたよ。あの神経質な主人が犬と一緒に寝るなんて」とれい子夫人は驚いた。と言うのも山内は部屋を真っ暗にしないと寝られない、しかも人の気配がすると寝られず寝室には必ず1人。そんな山内が犬と寝てる事が信じられないのだ。
それにはどうやら理由があるらしい。山内は自宅から大阪球場への行く道も負けると変えるくらいゲンを担ぐ性格。たまたま犬と寝た次の日に好投して以来、夜になると娘から奪うように自分のベッドへ連れて来るようになったのだ。「今じゃ生まれた次女よりも犬の方にベッタリで・・」とれい子夫人も苦笑い。
9月28日の近鉄戦に今季最後の登板をして負け投手になったが14勝10敗と目標に近い勝ち星をあげる事が出来た。14勝はチームの稼ぎ頭で、自身では昭和51年の20勝に次ぐ好成績。「怪我もあったけど順調なシーズンだった。家も建てたし次女も無事生まれて今年は良い事づくめだった。まだまだ頑張るよ、早く150勝したいね」とベテランの目は既に来シーズンに向けられている。