「ベンチがアホで野球ができん」…球史に残る名(迷)言が飛び出しました
8月26日、甲子園での対ヤクルト19回戦。先発した江本は8回に3点を取られ降板後、すぐにダグアウトを出た江本はロッカーに向かう途中の通路で「ベンチがアホやから野球ができん」と吐き捨てた。囲みのトラ番記者たちは「いつもの事」として大して気にはせず江本に真意を尋ねる事はなかった。そんな雰囲気を察してか今度は大声で「あいつらはアホや」と叫んだ。「あいつら」とは中西監督であり藤江投手コーチである事は明白だった。私服に着替えた江本を球場出口で記者たちが取り囲んで取材すると再び首脳陣をアホ呼ばわりして溜まった不満をぶちまけた。
「どうせ代えるならもっと早い回に代えるべきやろ。いつもは信じられんほど早く交代させるくせに今日に限って続投や。何を考えているのかサッパリ分からんわ」「今日の俺の球は7回には浮ついていたんや、投手の状態を見極めるのが監督・コーチの仕事やろ」どうやら江本には長い間の首脳陣への鬱憤が積もり積もっていたようだった。7月の北海道遠征では勝利投手の権利を得る寸前に降板させられたりと首脳陣への不満はいつ爆発してもおかしくない状態であった。
江本は翌27日正午過ぎに大阪市北区の球団事務所に呼び出されて事情聴取を受ける事となった。球団は「1週間から10日間の謹慎処分」を科し幕引きを計ったが江本の方が役者が1枚上だった。「発言の責任をとって退団させてもらいたい」この発言に球団は大慌て。午後0時半から始まった事情聴取は延々3時間半ものロングランで球団事務所に詰めていた記者たちは処分に江本がゴネていると思っていたが、あにはからんや実際は江本の退団要求に岡崎球団代表が退団を思い留まるよう説得していたのだ。いつの間にか江本と球団の立場が逆転していたのだ。
結論は岡崎代表が会見で明らかにした。「昨日の試合後の江本君の発言に関して事実関係や本人の気持ちなどを聞き話し合った結果、細かい経緯は略しますが江本君の"発言の責任を取りたい" "この際、阪神を退団したい" との申し出があり球団は受理しました。本日付けをもって任意引退の手続きをとりました」と衝撃発言すると会見場は蜂の巣をつついた状態に。
岡崎代表が会見を終え会場を後にすると江本が記者会見に臨んだ。「言った事は事実だし、責任は取らなイカンという気持ちが強かった。覚悟はしていた」「昨日の発言は1つのきっかけ。今までの事の積み重ねであって突然の思いつきではない」「球団からの慰留?強い引き留めは無かったね」と淡々と会見に応じた。記者からは「3時間半」は謹慎処分の話にしては長いが退団について話し合うにしては短い、日を改めて会談しない理由は何か、会談の中身は何だったのか、何か他に隠されている事があるのではないかと質問が相次いだが江本はノーコメントだった。
そもそも江本孟紀とはどんな男だろうか。昭和22年7月22日生まれ、高知商時代は浜村(西鉄→巨人→太平洋)と共に速球投手として注目された。昭和40年のセンバツ大会に選ばれたが他生徒の不祥事で開会式直前に出場停止処分となる悲劇を味わった。卒業時のドラフト会議で西鉄から指名されるも拒否し特待生で法政大へ進学した。当時は先輩の田淵や山本浩よりも上と評価されていたがエース・山中の陰に隠れ目立たず、さらに4年生の秋のシーズンに松永監督と衝突して合宿所を飛び出し実家に帰ってしまうなど実力を発揮できずにいた。
昭和44年に熊谷組へ入社、2年後ドラフト外で東映入り。東映では結果を出せずにいたが南海・野村監督に見出され移籍し16勝をあげる活躍をし、やがてエースにまで上り詰めた。南海入団3年目のオフに野村監督の「長髪禁止令」を無視してパーマをかけてテレビ出演した事で球団からペナルティを受けるが契約更改で髪を切る事を条件に提示額より50万円アップを勝ち取り話題となった。昭和51年の江夏とのトレードで阪神入りして15勝。以後南海時代から通じて昭和54年まで8年連続2桁勝利をあげた。阪神に入ってからも度々トラブルを起こした。昭和52年9月、巨人戦で降板しベンチに退いた際にグローブを蹴り上げ「投手の立場を軽視する阪神の体質に抗議してやった」と発言、2年後の最終戦で4回KOされると今度はグローブをスタンドへ投げ入れて再び球団批判をし、とうとう今度の大騒動に。