Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 568 ペナントレース総括・読売ジャイアンツ

2019年01月30日 | 1985 年 



覇気が失せた常勝軍団に若い芽が
四番に座ると打率が低下する怪奇現象
ここ数年来、四番打者を固定できずにいる巨人。何故なら四番に据えた途端に打率が低下してしまう選手が続出したのだ。例えば昨季、四番打者としての中畑選手の打率は2割7分0厘だが四番以外の打順の時は3割1分8厘。同じく原選手は2割4分7厘と2割9分9厘。クロマティ選手は2割5分0厘と2割8分2厘だった。また今季も中畑は2割6分8厘と2割9分6厘。クロマティは2割3分1厘と3割1分6厘。原に至っては2割7分4厘と3割8分9厘と1割以上の差があった。かつては巨人の四番は日本の四番と呼ばれた時代もあったが今や巨人には満足に自分のチームの四番を務められる打者がいないのだ。四番を任せられる選手がいないチームに常勝軍団の姿は求められない。

周りが打てば火つく打線。ウラを返せば…
更に中畑・クロマティ・原の3人は意外とムードに左右されやすいのも巨人にとっては致命的だった。つまり他の選手が打てばそれに乗せられて打つが、緊迫した投手戦になるとサッパリ打てなくなるのだ。1点差で負けた試合の打率は中畑は1割7分0厘、クロマティは2割2分9厘、原は2割8分6厘だった。例えば9月4日の対広島戦は2対3で惜敗したが、この試合の3選手は合わせて11打数1安打。これが5点差以上で勝った試合だと一転して中畑は5割0分5厘、クロマティは3割1分0厘、原も3割9分2厘の高打率。周りが打てない時こそ真価を発揮させるのがクリーンアップの役割りなのだが残念ながら巨人の場合は程遠い。

投の斎藤、打の吉村の台頭で来季に期待
そんな巨人に明日の希望を灯す選手が現れた。22歳の吉村選手と20歳の斎藤投手だ。吉村の強みは左打者ながら左腕投手を苦にしない点だ。今季は打率3割2分8厘で堂々のリーグ3位、対左腕も50打数21安打の4割越えと一気に才能を開花した。斎藤は対ヤクルト戦5勝を筆頭に12勝をあげ巨人投手陣トップの成績。この2人の成績はシーズンが深まるにつれ比例するようになり、吉村が打って斎藤が勝つというシーンが増えていった。8月13日の阪神戦では7回裏に吉村が決勝本塁打し斎藤は7勝目。5日後の大洋戦では0対0の6回表に吉村が中前適時打し斎藤は完封勝利。斎藤が勝利投手となった12試合の吉村の打率は4割5分2厘だった。

番記者が選ぶベストゲーム
8月3日の対阪神戦17回戦(甲子園)。この試合で江川投手があわやプロ入り初のノーヒットノーランかという快投を見せた。113球・7奪三振・1被安打で二塁を踏ませない完封勝利。最近は「100球肩」やら「6回戦ボーイ」やらの酷評を吹き飛ばす怪物ぶりだった。記者席では快挙に向けて過去の無安打試合の記録を調べたり慌しい雰囲気に包まれた。実は今回の関西遠征中、宿舎近くの喫茶店での記者達との雑談中に江川が「あと3年は現役を続けたいなぁ」と弱音を吐いて周囲を驚かせた。それでも終わってみれば「やっぱり江川はモノが違う」を印象づける圧巻のピッチングだった。

定岡投手は他球団で投げるつもりだった。それなのに…
近鉄へのトレードを拒否して引退した定岡正二氏。でも本当はまだ野球を続けるつもりだった!「巨人に憧れて巨人に入った。野球をやるなら巨人で、と心に決めていた。あと2~3年やってボロボロになり辞めるより " 巨人の定岡 " でユニフォームを脱ぎたい」と現代っ子らしい男のケジメを見せた定岡氏だが実は「ヤツは巨人以外でも野球を続けるつもりだったよ」と某主力選手は言う。では何故引退を選んだのか?某主力選手は球団の不手際を指摘する。ここで一連の定岡問題を振り返ってみよう。トレード通告…それは10月25日のことだった。岩本渉外担当が都内のホテルで定岡氏と会った。「君を欲しいという球団が3つほどある。これは決してトレード通告ではいが新天地でやるのも君の為かと思う」と。

しかし定岡氏はこれをトレード通告と受け取った。帰宅後に定岡氏は親しいチームメイトに電話をし、「俺は巨人が好きだ。けど野球がもっと好きだ。野球を辞めてこの先のアテもないし…」と迷いを打ち明けている。この時点で定岡氏の気持ちは揺れていた。少なくとも絶対に巨人で、という強い気持ちではなかった。だが事態は思わぬ形で動き出す。マスコミ報道である。マスコミはセンセーショナルな話が好きだ。話を煽る。『定岡、トレード拒否。引退へ』の見出しがスポーツ紙に踊った。この辺りから話はややこしくなる。球団側は " トレードなら引退 " 報道に狼狽えた。「私はトレード通告などしていない(岩本担当)」、「私は何も聞いていない(長谷川代表)」と球団のトレード責任者は共に責任回避に躍起になっていた。

その裏で球団の事務方担当の渡辺一雄管理部長が10月29日に密かに定岡氏と会い " 事情聴取 " をしていた。もしもこの聴取を長谷川代表が自ら行なっていたら状況は変わっていたかもしれない。後日、定岡氏は「僕の我儘かもしれないけれど、あの時はいい知れない寂しさを感じた。もしも代表が僕の話を聞いてくれたなら、他球団でプレーすることが僕の為にも巨人の為にもなるのなら違った結論だったかも。渡辺さんは決して悪い人ではないけれど、野球に関しては全くの素人さんだし細かな事を聞いても『分からない』でしたから。あぁウチ(巨人軍)はこんなもんなのか、と気持ちが切れちゃった」と述懐した。11月2日に長谷川代表との話し合いが行なわれたが定岡氏は翻意することなく引退の道を選んだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

# 567 ペナントレース総括・広島東洋カープ

2019年01月23日 | 1985 年 



9月の7連敗で連続Vの夢破れる
内弁慶になりきれなかった赤ヘル軍団
昨季は日本一になった広島は地の利を十二分に生かしていた。ロードゲームでも勝率.576 と決して弱くなかったが、ホームゲームは41勝20敗1分けで勝率.672 と圧倒的に強かった。ところが今季の広島からは本拠地における強さが失われてしまった。ロードでは36勝27敗2分けで昨季とほぼ同じ勝率.571 だったがホームでは32勝30敗3分けの勝率.516 と昨季とは逆に本拠地で勝てなくなり、いつの間にか地元のファンにも見放されてしまい、今季の観客動員数は65試合で105万6千人でセ・リーグ最低だった。

高木・金石ら若手の失速もV逸の要因
ペナントレース佳境の9月3日の時点で広島は首位・阪神と0.5ゲーム差の2位だった。何度も修羅場を潜り抜けて来た選手が多い広島だけに、その実力を発揮するのはこれからだと思われた矢先に7連敗を喫し優勝戦線から脱落してしまった。原因は若手投手陣の失速。6月末までに4年目の高木投手は9勝、また4月18日のヤクルト戦でプロ7年目にして初勝利し、高木と同様に6月末までに9勝をあげた金石投手の2人が7月の声を聞くとパタッと勝てなくなり、7月以降は何と2人合わせて0勝9敗と浮上する事なくシーズンを終えた。

川端投手が " 首位打者 " 打つ方でも活躍した投手陣

      【 各球団投手陣の打撃成績 】
   

投げる方では失速した投手陣だが打つ方では9人目の打者として機能していた。新人王に輝いた川端投手は打っても46打数15安打・打率.326 と規定投球回数をクリアした投手の中でトップ。投手陣全体でも28打点、勝利打点も北別府「2」、高木・大野・金石が各「1」で合計「5」もあった。他の5球団は合わせても「4」であるから、広島投手陣の打撃力は傑出していた。

番記者が選ぶベストゲーム
7月17日・対阪神14回戦(広島)。チームの今日と明日を端的に表したゲームというとこの試合を置いて他にはない。当時の広島は首位で2ゲーム差の2位阪神を地元に迎えた一戦だった。1対4とリードを許した5回裏、五番・小早川選手が阪神先発の池田投手から左越え満塁本塁打を放って逆転。その後、同点に追いつかれたが7回裏一死一・三塁の場面で衣笠選手がセーフティーバントを決めて勝ち越した。この勝利で前半戦の首位ターンを決めた。大技・小技を絡めた試合で当時の古葉監督も「11年間の成果」と胸を張った。投げる方でも高木・小林・大野と繋ぎ最後は川端が締めた。投打共に若手とベテランが上手く絡み世代交代の成功をチーム内外に示した試合だった。

古葉監督はフロント人事に怒り、2月には辞任を決意していた
古葉監督は今年の2月に一度、球団側に辞意を伝えていた。日南キャンプ中に行われた球団役員会での人事異動を巡って辞意を固めたのだった。その異動は2月下旬に発表された。マネジャー兼球団部長代理に就任していた雑賀幸雄氏が突然、販売部長に移された。人事上は部長代理から部長職への栄転だが現場の人間は誰一人としてそうとは受け取らなかった。雑賀氏は古葉監督の腹心中の腹心人物で昭和50年に球団初のリーグ優勝した当時からマネジャーとして才能を発揮。選手の間でも「確かに雑賀さんは " 個性 " が強いけどチームマネージメントは12球団の中でもトップクラス」と評されており、古葉監督の公私に渡るスケジュール管理をするなど2人は一心同体の関係でもあった。

組織上は雑賀氏はフロント陣の一員だが現場との密着度が深いだけに士気にも影響する。古葉監督は現場に対する介入と受け取った。コーチミーティングの席上で古葉監督は「いきなりこうした事をやられると冷静に指揮を執る自信はない」と発言した。静まり返った席上で長い沈黙を破ったのが阿南コーチ(現監督)だった。「監督がそこまで言うのなら我々も一緒に辞めますよ。ここまで皆で力を合わせてやってきたんです。辞めるのも一緒ですよ」と言うと一同は賛同した。この発言にはさすがの古葉監督も驚いた。各自の生活を投げ捨ててまで一緒に球団側と戦うという。それを考えると自分一人の感情で迂闊に行動を起こすことは出来ないと辞任を思い留まった。

結局、雑賀氏は辞令を受け入れ販売部長に就任した。代わって球団部長に就いたのは上土井販売部長。マネジャーには衛藤サブマネジャーが昇格した。上土井氏は松田オーナーの子息で松田球団常務とも近い人物。現場は未経験だけにチーム内の評判も芳しくない。遠征中の移動は選手達のバスに同乗して球場入りするのがこれまでの慣例だったが、周りの気まずい雰囲気を察したのか上土井氏は道具を運ぶ荷物車の助手席に乗って移動していた。球場入りしてもベンチには近づかず外野で球拾いをする姿がよく見られた。仮に優勝すれば一気に雰囲気も変わったかもしれないがチームは優勝を逃して球団と現場との溝は埋まらず、シーズンが終了すると間もなく古葉監督は11年間の監督生活に別れを告げた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

# 566 ペナントレース総括・阪神タイガース

2019年01月16日 | 1985 年 



21年ぶりの優勝も波瀾万丈だった
巨人戦の後にはやはりダメ虎に
21年ぶりに優勝したと言うのに相変わらずだったのが巨人戦直後の試合の弱さである。いわゆる伝統の一戦が終わると気が抜けるのか、直後の試合に弱いのは今年に限った話ではない。昭和58年は4勝6敗1分け、翌59年は3勝7敗、今年は何と1勝9敗だった。過去10年で勝ち越した年は2回だけというダメ虎ぶり。これではいくら巨人戦に頑張って13勝12敗1分けと勝ち越してもペナントレース全体を考えると厳しい。

G投にバッサリ斬られた三冠王・バース
チーム本塁打数219本でセ・リーグ記録を更新し、打点もバース・掛布・岡田が揃って100打点以上を記録した阪神打線。その中心はやはり三冠王のバース選手。1試合平均の得点は「5.6」だがバースが無安打に抑えられた試合だと「3.4」に落ち、勝率も.370 にガタ落ちしてしまう。それだけに各球団もバース封じに躍起になるが是非とも巨人のバース対策を参考にしてみてはどうか。打率.350・54本塁打・134打点のバースを打率.210・4本塁打に抑え込んだ巨人投手陣。特に後楽園球場では打率は1割台で本塁打は1本も許さなかった。山倉捕手はバース対策について多くは語らないが打席での立ち位置に注目しているという。

完封された後に連勝した猛虎の奮起
猛打を看板にした阪神だが完封負けが4試合あった。しかし完封されると奮起するのが今季の阪神打線。5月23日の広島戦で北別府投手に完封されると次の試合から6連勝。8月3日の巨人戦で江川投手に完封された時も次の引き分けを挟んで5連勝。更に9月3日の中日戦で小松-市村-鹿島の継投で零封されると6連勝だった。

番記者が選ぶベストゲーム
4月17日の巨人戦(甲子園)。7回表まで槙原投手に抑えられ0-3とリードされていた。このままズルズルと負け試合パターンだったが、7回裏にそれは起きた。先ずバース選手がバックスクリーンに放り込んだ。続く掛布選手もバックスクリーンへ。負けじと岡田選手までが続き、バックスクリーン3連発の快挙。この回一気に5得点して逆転した。「今年の阪神は何かドデカイことをやるかも」という予感が虎キチに広まった。試合後のベンチから引き揚げる3人の顔は上気し、ペンを握る番記者の手は汗でビッショリだった。

岡田のちょっとマズイ話と中西のちょっとイイ話
エッ、あの話を書くんですか?勘弁してくださいよ、と岡田選手に言われそうだがもう時効で笑い話で済まされそうだから書いちゃいます。例のFF事件が起きたのは7月の事。ゲイバーのホステス?ホスト?との一夜をバッチリ写真に撮られた時、世間に公表される前にカミさんや母親に言っといた方が罪が軽くなるかも…と岡田なりに淡い期待を持ち電話で報告した。息子の告白に母親のサカヨさんは「あんたみたいな人騒がせな子を産んで情けない。もうウチの敷居は跨がせません。(若手合宿所の)虎風荘で寝泊まりしい!」と叱責。受話器の向こうの岡田はショボン。事件はあっという間にナインの耳にも入り「お前ホントに男と分からんかったのか?」とニヤニヤ。

だが岡田は大物?なのか何事も包み隠さない。「いやホンマに綺麗かったで。男やったとは今でも信じられへん。綺麗やった…」と。この岡田の「キレイ」がナインの間で流行し木戸選手や平田選手は岡田と目が合うと「今日の岡田さんキレイ」と冷やかした。その度に「頼むからそのキレイ言うのやめてくれへんか。メシでも驕るからさ」と平身低頭だそうな。これを聞いた他の選手たち、特に懐が寂しい若手選手を中心に「岡田さんキレイ」を連発したという。身内には怒られ、チームメイトには揶揄われ一夜の遊びの代償は大きかった。

9月4日、ナゴヤ球場でアキレス腱を部分断裂し直ちに大阪大学付属病院へ入院した山本和投手を何度も見舞ったのは中西投手。足繁く通ったのは怪我の見舞いは勿論だが優勝を目前にして抑え役を一手に引き受ける事となり大先輩に抑えの教えを請う為でもあった。「和さん、こんなピンチな時はどう対処したらよいのですか?」と中西は山本に問うた。孤高の人と呼ばれる山本も意外と情にもろい。「抑えて当たり前。打たれたら罪人扱いされるキツイ仕事や。そんな時はこの勝負は俺の腕ひとつにかかっている、俺が抑えられないなら誰が投げても抑えられんと自分に言い聞かせるんや」と答えた。「和さんの教えを肝に銘じて投げ続けました」と中西の活躍の裏に山本ありだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

# 565 珍記録 ②

2019年01月09日 | 1985 年 



阪急がとった11年ぶりの人海戦術
7月13日の阪急対日ハム戦は大乱戦の結果、11対11で引き分けたが、この試合で阪急はベンチ入りした25人全員を総動員した。1点を追う阪急が9回二死一塁の場面で24人目となる長村選手を代打に起用し、長村が内野安打で出塁すると代走に残った25人目の小嶋を送った。この小嶋は野手ではなく投手だった。この後に福原選手の右前適時打で同点として引き分けに持ち込んだのである。パ・リーグでは昭和50年から指名打者制を採用して以降は投手に代打を送る必要が無くなったので選手交代は少なくなっていた。なので25人総動員は昭和49年9月29日の日ハム以来、実に11年ぶりパ・リーグでは5度目の出来事だった。

対戦相手の日ハムも22人を起用し、両軍合わせて47人も昭和43年4月2日の東映対南海戦の47人(東映25人・南海・22人)に並ぶパ・リーグ記録だった。また阪急は8月24日の近鉄戦でも25人を使い切る総力戦を演じた。一方のセ・リーグでは10月24日の巨人対阪神戦で阪神が25人を起用したが、これは日本シリーズに向けてのコンディション調整の意味合いが強かった。セ・リーグでベンチ入り選手全員を使ったのは昭和56年7月24日の大洋対巨人戦の大洋以来4年ぶりの出来事。ちなみに対戦相手の巨人も24人を使い、両軍合わせて49人が出場する総力戦だった。


43年ぶりに実現した兄弟バッテリー
正捕手の木戸選手が負傷欠場となり代わりに新人の嶋田兄が8月13日の巨人3連戦からマスクを被った。3戦目の7回裏、同じく新人の嶋田弟が登板し兄弟バッテリーが誕生した。過去に兄弟バッテリーが同じチームに在籍した例には旧大洋の野口(明・二郎)、中日の上崎(克公・泰一)、西武の森(宝生・隆峰)とあるが上崎と森は兄弟ともに一軍経験はなかった。野口兄弟のバッテリーが誕生したのは戦前の昭和17年で嶋田兄弟の実に43年前だった。野口兄弟は戦後は阪急に在籍したが兄・明が捕手で出場した昭和21~23年の間に弟・二郎は登板せず兄弟バッテリーは実現しなかった。嶋田兄弟はその後も8月18日の広島戦、9月3日の中日戦、11日の大洋戦にも出場したがいずれも途中出場で兄弟揃って先発出場は来季以降にお預けとなった。

ボール・スリーなのにフォアボール
9月23日の中日対阪神戦の8回表、掛布選手はボールカウント2-1からの4球目のボール球を見送り、2-2の平行カウントに。続く5球目もボールと判定されると掛布は当たり前のように一塁へ歩き出した。実は4球目の後のスコアボードや球審のインジケーターは2-3と表示されていたのだ。小松投手は異議を唱えたが球審は取り合わず、中日ベンチからも抗議はなく掛布は一塁へ。野球規則 - 九・〇二(b)により、小松が次打者の岡田選手に1球目を投じたことで判定を覆すことは不可となり掛布の「3ボール四球」は公式記録となった。

草野球みたいな凡ミスは過去にもあった。昭和29年8月21日・山田(大映)、昭和43年4月29日・遠井(阪神)、昭和53年7月20日・柴田(巨人)らが3ボールで四球に。逆に4ボールなのに気づかず打席に立ち続けて三振をしたケースが昭和42年6月14日・青野(東映)、昭和47年5月7日・水谷(広島)、昭和53年6月21日・山村(クラウン)と3人もいる。それにしても今季の打率がちょうど3割0分0厘だった掛布が、もしも本来のカウント2-3から打って凡退していたら打率は2割9分7厘となるところだったから掛布にとっては大ラッキーと言える " 誤審 " だった。


1イニング2本塁打!でも年間では4本
岡村選手(西武)の今季の成績は224打数54安打・打率.241 ・4本塁打と特に目立った数字ではない。だが印象に残るシーンがあった。5月22日のロッテ戦でサイクルヒットを達成したり、シーズン最終日の10月22日の対日ハムとのダブルヘッダー第1試合の6回裏、先頭打者で本塁打を放つと打線に火が点き打者一巡の猛攻で満塁の場面で再び岡村に2打席目が回ってきた。結果はまたも本塁打。1イニング2本塁打は史上11人目の快挙だった。しかし過去の達成者の多くが強打者で年間本塁打数が1桁の選手はいない。そこへいくと岡村は前述のサイクルヒットの本塁打が今季第1号で2本目は8月のロッテ戦で、この2本塁打を含めても年間4本だった。

ベストナインがゼロの巨人
2年連続で優勝を逃した巨人に追い討ちをかける出来事が。ベストナインに選ばれた選手が皆無だったのである。これは昭和25年以降にベストナイン選出が定例化した中で球団史上初の屈辱だった。しかも次点に入ったのも吉村選手のみという体たらく。加えて巨人の内野手は誰一人として1票も獲得していない。過去には昭和28年に7人(広田・川上・千葉・平井・与那嶺・南村)が選ばれた年もあり、5人選手された年が7回もあった。最下位に転落した昭和50年でも王選手が選ばれた。リーグを代表する選手がいないという現実を選手・首脳陣・球団フロントは真剣に考えるべきである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

# 564 珍記録 ①

2019年01月02日 | 1985 年 



阪神の21年ぶり優勝が話題を総ざらいした1985年のプロ野球だが、アレ?と思わせた事件は随分あった。4月6日に開幕したパ・リーグでは西武が6対0とリードしていたのに、あっけなく逆転負けして10年連続開幕戦に白星なし。それでいて直近4年間に三度も優勝だから開幕戦に勝てない西武は珍記録である。記録の手帳が独断と偏見で選んだ今年のプロ野球10大珍記録を披露しよう

開幕戦の石毛と西武のジンクス明暗
パ・リーグはセ・リーグより一足先に4月6日に開幕したが西武の石毛選手は今年も開幕第1打席に安打を放った。プロ1年目の昭和56年4月4日の開幕戦で村田投手(ロッテ)の2球目を中前にプロ初安打。その後の開幕戦でも第1打席に安打を記録している。翌57年は高橋一投手(日ハム)から中前安打、58年は山内孝投手(南海)からこれまた中前安打。59年は山内和投手(南海)から左前安打。そして今年は鈴木啓投手(近鉄)から左越え本塁打と5年連続、しかもいずれも先頭打者で記録更新中。

対照的にチームは開幕戦に弱い。昭和57年は日ハム相手に1回表に5点先取し、3回終了時点で7対0と楽勝ムード。しかしジリジリと反撃されて終わってみれば7対10で負けた。翌58年も南海と対戦して7回裏に一挙4点をあげて6対4と逆転し、今年こそと思われたが8回表に石毛の失策などで同点に追いつかれて結局、引き分け。今年も1回裏に石毛の先頭打者本塁打に続いて井上選手の適時打で2点を追加。4回終了時点で6対0とリードするも7対9の逆転負けを喫した。これで西武は昭和51年以降、1分けを挟んで開幕戦は10年連続で白星なしだ。西武の10年連続と石毛の5年連続記録のどちらが先にストップするのか注目である。


たった1球投げて勝利投手になった男
8月7日の広島対中日戦は投手戦となり延長10回、0対0で引き分けた。大野投手(広島)が168球、牛島投手(中日)が136球と完投したが共に熱投は報われなかった。この逆をいったのが4月25日の近鉄対南海戦で高橋里投手(近鉄)で僅か1球を投げただけで勝ち投手となった。試合は南海が9回表に2点をあげて追いつき、なおも一死一・二塁の場面でナイマン選手(南海)は交代した高橋の初球を打って遊ゴロ併殺打でチェンジ。その裏の攻撃で大石選手(近鉄)が劇的なサヨナラ本塁打を放ち、高橋は勝利投手に。これはプロ野球史上6人目の出来事だがパ・リーグでは昭和38年のミケンズ投手(近鉄)以来、22年ぶりの珍事。ちなみに6月6日の日ハム対西武戦で1対1の同点の9回裏に登板した渡辺投手(西武)は古屋選手(日ハム)に初球を左越えサヨナラ本塁打を浴びて1球で敗戦投手となった。1球敗戦は史上10人目、パ・リーグでは5人目だった。

2日連続して先発してきた投手
ロッテの深沢投手は5月2日の近鉄戦に先発したが4回途中まで投げて5失点で降板した。すると翌3日の同じく近鉄戦に再び先発登板した。今度はまさに捲土重来の6安打・1失点で完投勝利。先発は球場に来てから告げられたそうだが、前夜とは別人の如くの快投は本人曰く「完全な開き直りのお蔭」だそうだ。高校野球や中継ぎ登板ならいざ知らず、プロ野球で2日連続で先発してくる例は滅多にない。過去には西本投手(巨人)が昭和57年5月3日の広島戦で先発し1回に6失点KOされると翌4日のヤクルト戦に先発し1失点で完投勝利した。

深沢と西本は見事に前日の借りを返したが、返り討ちの憂き目に遭うことも。伊藤投手(阪神)は昭和58年6月21日の大洋戦に先発し1回 2/3 で降板し、翌22日も先発したが再び大洋打線の餌食となり2回 1/3 でKO。関根投手(大洋)の場合は更に上をいく。昭和59年10月10日の広島戦はダブルヘッダーが組まれていた。第1試合に先発した関根投手は負けはしたが完投した。すると関根は第2試合にも先発した。実は規定投球回数に到達する為の登板で2回で降板したが失点をしてしまい負け投手に。結果的に同じ日に2敗を喫する珍事を演じてしまった。


プロ入り初打席に本塁打を打った青島
ヤクルトの新人・青島選手は名門社会人チームの東芝の監督の座を約束されていたが、それを捨て退路を絶ってプロ入りを表明したがドラフト会議で指名されることはなかった。失意のどん底にあった青島にヤクルトが救いの手を伸ばした。ドラフト外で獲得したのだ。今季の開幕当初は二軍暮らしだったが5月11日の阪神戦から一軍のベンチ入りを果たし、早速出番が回ってきた。6回裏に大川投手の代打でプロ初打席、工藤投手が投じた2球目をフルスイングすると打球はバックスクリーンを直撃。史上20人目の初打席初本塁打を達成した。華々しいデビューだったがシーズンが終わってみると24試合・40打数・9安打・打率.222 ・1本塁打と寂しい結果だった。初打席初本塁打を記録した過去19人の中に、その1本が生涯唯一の本塁打だった選手が5人(うち2人は現役)もいる。青島が6人目にならないことを祈る。

当たったのに死球にならない
金森選手(西武)が死球を受けた時に発する「ギャオ~」という大声は今やすっかり名物になった。今季も死球数は両リーグトップの15個。だが隠れ死球があった。5月12日の日ハム戦の3回裏、津野投手が投じた3球目は金森の足に確かに当たった。しかし球審の判定は『ボール』だった。野球規則六・〇八(b-2)には「打者が投球を避けないで故意に触れた場合は死球に該当しない」とされている。この時点で早くも5死球でまだ102試合も残していたので17死球のパ・リーグ記録は勿論、日本記録(昭和27年の大洋・岩本義行選手の24個)を更新する可能性もあったが、この一件以降は10個とペースダウンした。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする