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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 750 オールスター戦中継

2022年07月27日 | 1977 年 



現在のオールスター戦は冠スポンサーが付いてCMを流せないNHKは勿論、テレビ朝日以外の民放にも見放されて久しく、放映権争いを各局が競っていた昔と隔世の感アリアリです。

選ばれなかったNHKの謎
プロ野球オールスター戦のファン投票が始まったが、一足早く試合を中継するテレビ局が決まった。
 
 ◆第1戦(7月23日・平和台球場)…TBS系
 ◆第2戦(7月24日・西宮球場)……NTV系とテレビ朝日系
 ◆第3戦(7月26日・神宮球場)……フジテレビ系

これまで毎年中継していたNHKが外れて3戦全て民放が中継することとなった。NHKとしては例年のように第1戦を「当然ウチが中継できるものと考えていた(NHK・松本運動部長)」がTBS系に持っていかれる完敗であった。これはプロ野球コミッショナーが12球団の総意ということでNHKに通達したものだが、NHKサイドとしては「パ・リーグの試合中継に貢献していると思っているが全球団の総意であるなら仕方ない。ショックではありますが受け身のウチとしてどうしようもない」と昨年の第1戦を中継して21.4%の高視聴率を記録しただけに落胆の色を隠せない。


プロ野球を育てたのはNHKではなく民放だ
オールスター戦が民放に独占された舞台裏について「いま各方面でNHK に対抗しているテレビ朝日が何かしら画策したフシがある。もともとNHKより民放各局の方がプロ野球界との付き合いは強くプロ野球人気をここまで育てたのは我々だという自負がある。なので直ぐに各局が足並みを揃えてプロ野球サイドに働きかけた。一説には民放独占の為に放映権料は1千万円増額した4千万円を提示したらしい。現在の形勢が続けば甲子園の高校野球もNHKの独占でなくなる日が来るかもしれない」と放送関係者は語る。

民放各局の後塵を拝したNHKは3試合ともVTRを撮って午後10時台にハイライトを放送する予定だが、実はこのVTR撮影に関しても当初民放各局は反対したが、コミッショナーの仲介で公共性を鑑みVTR撮影は出来るようになった。なぜ民放はNHKの中継に反対したのか?「仮にNHKと民放が同じ試合を同時に中継した場合、視聴率はNHKに民放は勝てない。昨年の例だと第1戦をNHKとテレビ朝日が同時中継したがNHKの21%に対してテレビ朝日は14%だった。民放にとって視聴率が悪ければスポンサー獲得に支障が生じる。死活問題なんです。視聴率に左右されないNHKには遠慮してもらいたい」と某テレビ局編成部員はNHKとの同時中継に反対する理由を語る。


夏の甲子園大会にもテレビ朝日が名乗り?
NHK外しの音頭取りがテレビ朝日だったという説の真偽はともかく、いまテレビ朝日が各方面で話題を呼んでいることは周知の事実である。テレビ朝日はプロ野球以外の分野でも躍進が目立つ。モスクワ五輪の放送権をNHKや他の民放各局を出し抜いて独占することに成功した。次いで米国のベストセラー小説『ルーツ』のテレビドラマの放映権をNHKと争った末に獲得した。更にNHKが独占状態の夏の甲子園大会にも触手を伸ばしている。夏の甲子園大会は高野連と朝日新聞が共催する大会であるが、朝日系列のテレビ朝日が名乗りを上げるとなるとひと悶着が起こりそうである。

話をオールスター戦に戻して、中継が民放に独占されて心配されることがある。昭和43年の第1戦で1回表パ・リーグの先頭打者・ロペス選手(ロッテ)は初球を狙い打って見事ホームランを放った。陽気なロペスは喜びを爆発させてダイヤモンドを一周し、ホームインするとテレビカメラに向かってポーズをとった。ところがこの一連の動きはテレビで放映されなかった。試合を中継した民放ではまだコマーシャルの映像が流されていたのだ。まさに民放の落とし穴である。このロペスの前例を教訓にして今年は試合開始時刻を定刻より3分ほど遅らせる案が検討されている。

野球ファンとすればNHKだろうが民放だろうが尻切れでない完全中継と、面白くよく分かる解説や安定したアナウンスさえあれば文句はない。今年はNHKが誇る鶴岡一人、川上哲治の両解説者の登場は午後10時台のハイライト放送のみである。鶴岡氏はオールスター戦通算17勝の最多勝利監督であり、川上氏は監督として最多出場11年の記録保持者(水原茂氏とタイ記録)である。両御大のいるNHKを蹴散らした民放各局の解説陣、アナウンサーはファンやNHKに笑われることのない中継をお願いしますよ。
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# 749 草魂 

2022年07月20日 | 1977 年 



ほれ、見たことか
話の巧みな人だ。相手を逸らすということがない。アクセントは関西訛り。だがその話し言葉は標準語に近い。話の合間に " ほれ見たことか " というムキ出しの大阪弁が飛び出して来る。それがこちらを驚かせる。思わずドキッとさせられる。だが話をしているうちに一見ドギツイ感じを受ける大阪弁が、実は彼の投手としての有り様というものを最も端的に表しているのではないかと思うようになってきた。プロ野球史上15人目の200勝をプロ12年目の今季早々に達成した。「投手は当然打者に研究される(鈴木)」。相手打者は鈴木を打ち崩そうとしてきたが、「相手に研究される前にこちらが対処すればいいだけの話」と鈴木は涼しい顔。

「早い話が相手打者が研究するのは昨年までの私だ。次の年になったら新しい投手になってマウンドに上がればいい。昨年までのデータが通用しないようになっていたら相手はまごつく(鈴木)」と。相手に「ほれ、見たことか」と思わせることが20勝投手の生きる道があると言う。「ほれ、見たことか」と口にする鈴木は本当に嬉しそうに楽しそうに活力と自信に満ちた表情になる。だが一方で策士策に溺れるということも過去にあったという。深く考え過ぎて自分の長所をも押し殺してしまい、逆に打者に打ち込まれてしまい泡を喰って再修正に追い込まれることも珍しくないという。


豪邸は憩いの場所だ
兵庫県西宮市街を一望に見晴らす甲山の中腹にある白亜の豪邸が鈴木の住まいだ。敷地250坪・建坪75坪。広々とした応接室の南面と東面がガラス張りで、そこから眼下に市街が見渡せ遠くには神戸の海が光る。周辺の坪単価は60万円は下らず、ザッと暗算したら目眩がしたので途中で止めた。「私らはプレーをお客さんに見てもらう仕事で報酬を貰っている。だから肉体的にも精神的にも常にベストの状態にするように心がけている。贅沢と思われるこの家を建てた真意もそこにある」と言う。試合で疲れ切った心身を休める為に最上の憩いの場を持つというのがプロ入り以来の念願だった。

幼少期は兵庫県の西脇町で育った。家業は酒屋で家も大きかった。その為、今もアパートやマンションでは心からくつろぐことが出来ない。「例えば隣の部屋から子供の騒ぐ声が聞こえたら寝られない。寝不足で体調を崩してプレーに支障をきたしたら、プロとして下の下ですよ」と言う。鈴木は小学生の頃からプロ野球選手を本気で目指していた。「小学校のクラス会に行った時に同級生から言われたんだが2年生の時の作文でプロ野球選手になると書いていたそうだ。自分じゃ憶えていないんだけどね。プロでお金を稼いでもう一軒の酒屋を持つのが夢だったらしい(笑)」と鈴木は小さく笑った。

「あの頃は赤バットの川上さんに憧れていたなぁ。上級生になると長嶋さんのような選手になりたいと思っていた」と少年の頃を振り返る表情は子供のままだ。その頃の夢を追い続けて遂に200勝という大記録を樹立した。「大記録といえば大記録かも知れないが、自分ではそう思ってはいない。200勝はプロ野球選手としてあくまで一つの区切りです。まだまだやり残していることもある。200勝を通過点として、さぁこれからだというのが今の気持ちですね」とプロ野球選手としてまだまだ上を目指している鈴木である。


なんでも1番が好き
背番号は『1』。高校野球なら当たり前だがプロ野球で投手が背番号1というのは珍しい。「でしょう。投手で一桁の背番号は阪神のバッキー(4番)くらいじゃないかな最近では(鈴木)」と。育英高校から近鉄入りした時に、たまたま1番が空いていて「それを下さい、とお願いしたら許されたんだよね。海のモノとも山のモノとも分からない若造に1番をくれた球団も気前がいいよね」と鈴木は苦笑する。「プロになるならやっぱりトップを行く選手になってやる。一番になってやる、っていう気持ちでした。昔から一番が好きでしたね」と鈴木は述懐する。そう話している途中に応接室に入って来た3歳になる長男のシャツの背中にも「1番」が書かれていた。

インタビューも一段落し、雑談していると鈴木が「ソウコン」という言葉を発した。私がソウコン?と聞き返すと「そう、草の魂と書いてソウコン」と鈴木が言った。耳慣れない言葉だったのでどういう意味なのかと尋ねると「私が考えた言葉で今まで他人に言ったことはない。今初めて言うが、プロ入り以来ずっとこの言葉を自分の胸に秘めて座右の銘としている」と鈴木は答えた。草魂は雑草のような根強さを持つ魂だという意味だと言う。「雑草は踏みつけられ、押し潰されても枯れることなく粘り強く芽を出して生長していく。それがたまらなく好きで自分もそういう生き方をしていきたいんだ」と。

私は思わず鈴木の顔を見返した。鈴木はプロ入り以来順調に勝ち星を積み重ね、常に栄光の道を歩み続けてきた男ではないのか。昭和41年に近鉄に入団し、いきなり10勝をし翌年には早くも20勝投手の仲間入り(21勝)をし、昭和43年には23勝。同44年には24勝で最多勝にも輝いた。昭和50年には勝率第1位投手にもなっている。そんな長年に渡りプロ野球界を代表する投手の一人である鈴木が、いったいどこで誰に踏みつけられてきたというのか不思議に思った。大きな故障もなく200勝を達成し栄光のスター選手となったのも鈴木自身の努力と鍛錬の賜物であろう。
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# 748 スタルヒン

2022年07月13日 | 1977 年 



歴代の速球投手を語る時、ビクトル・スタルヒンを抜きには出来ない。とにかく速かった。速いのを通り越して " ボールが震える " とまで言われた。しかし彼はただボールが速かっただけではない。マウンド上にたえず権謀術数をめぐらせていた。現在の球界に彼ほどの速球投手はいなければ、彼ほど策をめぐらせる投手もいない。

湯之元キャンプと雪の旭川の差
今春のヤクルトキャンプが行われた湯之元に注目度 No,1の酒井投手が父親・義員さんと一緒にやって来た。父と子が揃ってキャンプ地に来たのをとやかく言う気はない。いや、本音を言わせてもらえば男が体を張り命がけでプロの世界に飛び込むのに何故一人で来ないのか。しかしこれは酒井個人を責めてもご時世だから仕方ない。大学入学試験や合格発表に親子が揃って来る時代なのだ。酒井親子を見た時、ふとスタルヒンを思い出した。スタルヒンの父親は行商で世界中を歩き回り、ほとんど家にいなかった。しかも酒好きで家に稼ぎを入れず浪費してしまいスタルヒン家の暮らしは楽なものではなかった。時代の違いとはいえ酒井親子とは余りにもかけ離れていた。

昭和9年、全日本軍(後の巨人軍)の総監督に就任した市岡忠男氏はもうすぐ11月になろうという頃に大学時代の友人・秋本元男氏にスタルヒン獲得を依頼した。「旭川中学にビクトル・スタルヒンという投手がいる。まだ3年生だがとにかく速い球を投げるそうだ。京都の沢村と共に2人をスカウトしてきて欲しい」と全日本軍入りの命を受けた秋本は早速寒風凍てつく旭川を訪れた。だがスタルヒンの周囲には " スタルヒン後援会 " なるものが存在し蟻一匹入り込む余地はなく、旭川中学から早稲田大学へというレールが既に敷かれていた。

とりあえず後援会に筋を通して挨拶をしたが当然の如く拒否され、けんもほろろに追い返された。困り果てた秋本は後援会を介さずにスタルヒン家に直接交渉に挑んだ。父親がラシャの行商人でカネ使いが荒くスタルヒン家はお金に窮していると考えた秋本は「支度金 1000円・月給 120円」を提示した。当時の私立大学卒業生の初任給が40円、東京帝国大卒だと50円。支度金と月給を合わせると帝大卒の約2年分のお金を前に、生活が苦しかった母親はその条件を聞いてスタルヒンの全日本軍入りを承諾した。

さて、後は如何にしてスタルヒンを周囲に気づかれずに旭川から連れ出すのかだった。秋本は考えた。早朝に函館行きの列車に母親と一緒に3人で乗り込み、一刻も早く後援会の目をかい潜って抜け出そうと。早朝の旭川は雪が舞い暗くて寒い。中学3年で既に180㌢を超す長身だったスタルヒンが母親を背負い駅に向かった。「ひょっとしたら二度と旭川の地は踏めないかもしれない」とスタルヒンは熱いものがこみ上げてきたと述懐している。全日本軍入りは即ち故郷を捨てることを意味していた。


江夏の全盛期より速かった " 震球 "
あれから40余年の歳月が流れた。中学3年のスタルヒン少年が母親を背負い、雪の旭川を泣きながら脱出したのに対して18歳の酒井は父親に付き添われてキャンプイン。果たして時代は良くなったのか悪くなったのか。スタルヒンは " 震球(しんきゅう)" という新語をプロ野球界に作った。彼が絶好調時の投球は打者にはブルブルと震えるように見えたという。恐らくスタルヒンの球が打者の動体視力を上回るスピードであったと思われる。また別名をアベックボールとも称された。つまり球が震えて2つに見えたのだ。戦前の速球投手と言えば先ず沢村投手の名が挙げられるが、スタルヒンも負けず劣らぬスピードの持ち主だった。

だが残念ながらスタルヒンのスピードを測定した資料は残っていない。ただし目撃者による推定は可能だ。藤本定義氏は巨人軍の監督時代にはスタルヒンを、阪神の監督時代には江夏を間近で見ている。その藤本氏が「スピードだけならスタルヒンの方が速かった」と証言している。江夏が阪神時代に測定した時のスピードは秒速42mで、時速に換算すると150km を超す。スタルヒンの球速はその上をいく。秒速42m強とはどれくらいの速さなのか?" 夢の超特急 " の新幹線は秒速55m なので約76%に相当する速さである。スタルヒンが現在のプロ野球界で投げたとしてもトップクラスである事は間違いない。

加えてスタルヒンは現在の投手と違う一面がある。例えば投手は相手投手が打席に入ると全力投球はしない。ぶつけたりしたら申し訳ないという気持ちもあり外角中心の投球に終始する。だがスタルヒンの場合は全力投球をする。一体なぜか理由は明快である。「お前に俺ほどのスピードボールを投げられるか」のデモンストレーションである。また別の理由はもっと心理的だ。スタルヒンの震球を見た相手投手は自信が揺らぎ弱気になり打ち込まれる可能性が高くなり、スタルヒンに勝機が増し、自分はスタルヒンに勝てないというコンプレックスに繋がる。そうした心理を計算した上での全力投球なのだ。


40歳の命散らす黒塗りのシボレー
スタルヒンは昭和11年から引退するまでの19年間で586試合・303勝175敗・防御率 2.09 という超人的な成績を残している。単に体力があったからではなく相手打者や投手の心理を熟知していた結果である。スタルヒンのような権謀術数に長けた投手は現在のプロ野球界には残念ながら存在しない。現代的合理主義の弊害と言えるのではないか。さて野球に関しては天才的な発想をするスタルヒンだが悪い癖も持ち合わせていた。乱暴な自動車運転である。「スタルヒンが運転する車には乗るな」が巨人軍関係者の一致した声であった。いつの日か大きな自動車事故を起こすのではないかと誰もが危惧していたが、それが起きてしまった。

昭和32年1月12日午後10時38分頃、渋谷駅発二子玉川行き2両編成の玉川電車が三宿停留所を出て約30mほど走った時、黒塗りのシボレー41年型自家用車が推定時速100km近い猛スピードで最後部に追突した。自家用車の運転手はスタルヒンだった。ほぼ即死状態だったという。まだ40歳の若さだった。この日のスタルヒンは知り合いのボーリング場経営者のオープニング式典に招かれアルコールも入っていたようだった。なぜスタルヒンは投手相手に震球を投げるほどの深慮遠謀で自動車を運転しなかったのか。それが残念でならない。震球を投げた男が自分自身が揺れるように猛スピードで電車に激突したのも皮肉な最期であった。
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# 747 田淵よ、お前もか…

2022年07月06日 | 1977 年 



掛布の復帰でようやく阪神の追撃が開始されると思ったファンの喜びは束の間だった。ミスタータイガース・田淵選手がヒジ痛でベンチに。故障者続出の中を1人で頑張った田淵だったが吉田監督は「田淵よお前もか」と暗澹たる気持ちだろう。お祓いでもしたいような阪神の不運はいつ晴れるのか…

昨年のスタメン脱落と期せずして同じ時期の欠場
日本列島に梅雨の季節が訪れた。阪神ファンには例年以上に憂鬱な梅雨となった。そんな阪神ファンがスタンドから「オイ、吉田!田淵を出さんかい!最後くらい見せ場を作れ!!」と叫んだ。だが吉田監督は田淵選手を起用することはなかった。梅雨の晴れ間となった6月14日、ヤクルトと帯同した静岡・草薙球場での出来事だった。田淵はこの試合に代打での出場もなく、昭和49年から続いた連続試合出場も343試合で途切れた。「残念だけど仕方ありません。試合前の打撃練習もしていないし出場は無理だと諦めていました。こうなったらヒジが治るまでプレーしないと腹を固めました」と田淵は言う。

主砲を欠いた阪神は敗れた。勢いに乗ったヤクルトに場所を神宮球場に移した翌15日の試合も負けて6連敗を喫した。15日の試合は吉田監督は苦肉の策でスタメンを全て若手選手を起用したが功を奏さなかった。思い起こせば昨年の6月11日、ナゴヤ球場での対中日戦で田淵はスタメン落ちをしていた。中日戦の前の巨人戦で田淵は守りでミスを連発し、打つ方も不発で巨人戦は連敗。当時の吉田監督や山田ヘッドコーチら首脳陣は攻守ともに不振が続く田淵の処遇に苦慮していたが、遂に田淵のスタメン落ちを決めた。

このスタメン落ちはミスタータイガースであり主砲である田淵の心証を害した。試合に出たい田淵はソッポを向き、ベンチの雰囲気は悪化するばかりで困り果てた吉田監督は一札を入れた。それは「今後いっさい四番から外さない。どんな事態になろうとも…」と全面降伏だった。左ヒジ痛(正確には左ヒジ外顆炎)が6月10日に大阪厚生年金病院の黒津清明整形外科医師が下した正式診断だ。翌々日の12日の対中日戦(甲子園)からスタメンを外れて代打で途中出場、次の対ヤクルト戦では代打出場すらしなくなった。あれから1年、状況は多少の差異はあるが再び田淵は四番を外されベンチを温める事態に陥った。


故障者続出でヒジ痛を我慢していたマイナス
ここで一つ不可解な点はヒジ痛の症状である。田淵は診察を受ける前日に山内コーチ指導の下、150球も打ち込みをしていた。診察結果は左ヒジ炎症だったが試合出場に支障はないと言われた。ところが田淵はスタメンから消えたのだ。田淵本人の意思なのか首脳陣が大事をとっての措置だったのかは明らかではないが、昨年の一件を考えれば余りにもあっさりベンチ控えとなったのは腑に落ちない。恐らく田淵はかなり以前からヒジ痛を感じていたのだろう。だが故障者続出のチーム状態を考えて無理を押して出場し続けていたが、とうとう我慢の限界を越えて休養を余儀なくされたと考えるのが妥当であろう。

5月12日から6月9日の約1ヶ月間、74打数17安打・打率.229・1本塁打。安打の殆どが右方向であり本来の田淵の打撃の姿とは程遠いモノだった。この間チームは掛布選手や佐野選手ら故障者が相次ぎ、これ以上チーム内に混乱を招きたくなかった田淵は報道陣に多くを語らなかったがチラリとヒジの具合が思わしくないと漏らしたことがあった。田淵がプロ入りした当時の監督で田淵の状態を熟知する後藤次男氏は「5月の中旬あたりから振りの鈍さが目立ち始めた。下半身がグラついて手打ちばかり。あれでは長打は出ない。彼本来の豪快なスイングは見られず、ヒジを怪我しているなら治療に専念すべき」とズバリ指摘する。


深刻な田淵とチームの悩み、ミスターと共にある阪神
プロ生活9年目で30歳となれば若い頃の勢いを求めるのは少々酷というもので、やはり衰えは隠せない。だがいくら故障がちとはいえこうも急激に降下するものでもない。田淵は苦しい胸の内を「はっきり言って自分でもよく分からない。打撃不振の原因はいくつか考えられるけどヒジ痛だけとは思えません。キャンプで減量して逆にパワーダウンしたのかも…と考えてしまって。ホームランを打ちたい、チャンスには応えたい、と気持ちは人一倍あるのに結果が出ないもどかしさ。今回の休養をきっかけに何とか早く調子を取り戻したいと考えています」と打ち明ける。チームリーダーの打撃不振は当然のようにチーム全体に大きな影響をもたらした。

その間に首位巨人は着実に勝ち星を重ねて阪神とは8.5ゲーム差にまで広がった。ヤクルト、大洋にも抜かれて4位に転落し、もはや首位争いどころか中日や広島と最下位争いを展開中だ。ペナントレースはまだ3分の1程度を消化した時点なので優勝の灯が消えたと言うのは早計だが巨人との足取りを比較すると優勝は絶望的との危機感は否めない。巨人の王選手も一時は田淵と同様にスランプに陥っていたが、6月の声を聞く頃になると徐々にではあるが復調の兆しを見せ始めた。王は絶不調から自力で這い上がりつつある。両主砲の明暗はそっくりそのまま両軍の明暗に反映している。
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