時間を止めることが出来たら…私の念頭からいつも離れぬこの思い…ここにトンネルをくぐり抜け過去の名選手たちが人工芝の上にすっくりと立つ
20年近くの昔を呼ぶ素手の感触
昨年の秋、藤村氏の勤務先を訪ねた。大阪・扇町にある商事会社で彼は「社長付き参事」の肩書で仕事をしていた。還暦を2ヶ月ほど過ぎた藤村が出迎えてくれた。応接室の片隅に真新しい37㌅(約94㌢)の「物干し竿」が飾られていた。聞けば後日行われる『巨人vs阪神OB戦』で使って欲しいと運動具メーカーから贈呈されたものだという。「ありがたく頂戴しました。自宅に1本、会社に1本ずつ置いて、暇を見つけては素振りをしています。ボールペンばかり握っていると掌が鈍ってしまいますから」と藤村は答えた。私は感動した。還暦を過ぎ20年以上も前に失ったバットの感触を言葉は悪いが、たかがお遊びのOB戦の為に取り戻そうとしているのだ。
時を同じくして平和台球場でも『西鉄vs南海OB戦』も行われ私は博多へ駆けつけた。懐かしい面々に挨拶がてら、この試合に備えて練習をしてきたか尋ねた。当然だが彼らは日々の生活が忙しく練習どころか身体を動かすことさえ遠ざかって久しいと答えた。それが当たり前だけに藤村の姿勢というかプロとしての心構えに改めて感服した。「昔の選手は今の選手に比べて練習量は少なかった」という話は定説になっている。この説に私も否定しない。近代野球は練習の量も質も昔とは段違いだ。だが藤村の場合は今、現役でユニフォームを着ていたとしても阪急や巨人の練習に苦も無くついていけるだろう。それは藤村が創意工夫に富んだ思考の持ち主だからだ。
あぁアンモニア、我を助けたまえ
藤村は現役時代、年間50本のバットをあつらえていたが、その保存方法が独特であった。「陽の当たらない場所で陰干しをし、乾燥させてバットの強度を増すようにしてました。それでも他のバットより長い物干し竿はよく折れた。どうすれば強度がより増すのか必死に考えた(藤村)」そうだ。来る日も来る日もバットを乾燥させる方法はないかと考えた。試合中や球場で練習している間はもちろん遂には風呂や便所の中にいる時でさえ考えるようになった。ある真夏の日、便所で用を足していた時だった。当時の日本の便所は水洗式ではなく殆どが汲み取り式で、しゃがんでいた藤村は熱気と充満するアンモニア臭に圧倒された。
「アンモニアを利用できないか」と閃いた藤村は知人を通じて大学教授に相談をしてみた。化学を専門とする教授の返答はアンモニアには木材を乾燥させる作用があるとのことだった。「それだ!」と我が意を得た藤村は家中にあるバットを便所の中に並べた。立ち昇るアンモニアでバットはより乾燥された。ちょうど藤村が46本の本塁打を放った昭和24年は物干し竿を藤村家の便所と球場を忙しく往復させていたに違いない。これだけ探求心のある藤村なら近代野球でも充分に活躍できたであろう。最近のバットは乾燥していないから折れやすいと嘆いている現役選手らはボヤク前に藤村ほどの努力・工夫をしているのだろうか。
信じられるか?この反射神経を
藤村の終身打率は3割ちょうど。「藤村さんの時代は直球とカーブ、シュートくらいで手元で変化する球が全盛の今だったら打てなかったんじゃないかな」と考えている人がいたらそれは間違いである。それは何故か。先ず当時の主戦投手は球種は確かに今よりは少なかったが球威そのものは現代でも充分通用する。杉下(中日)しかり別所(巨人)しかり、真田(松竹)しかりだ。もちろん金田(国鉄)もしかり。速さだけなら堀内(巨人)、外木場(広島)、平松(大洋)らを凌駕する。いま直球だけで抑えられるのは好調時の山口(阪急)くらいであろう。その速い直球を藤村はホームベースの1㍍手前で捉えた。
速球は引きつけるだけ引きつけて右方向へ打て、が鉄則だが藤村は引きつけず手前で捌いた。これは余程の反射神経の持ち主でないと出来ない芸当だ。当時の阪神監督だった松木謙治郎氏は「藤村ほど器用な選手はいなかった。例えば走者三塁の場合と無走者の場合とでは手首の使い方が違った。走者三塁の場合は手首を捻って外野へ飛球を打ち上げ、無走者だと手首を返さずライナーを放つ打ち方と使い分けていた。一見豪快に見えても実に器用だった」と述懐した。更に後輩の金田正泰氏は「ヒット狙いと長打狙いで手首の使い方が違う。真似をしようとしたけど僕には出来なかった。しかも1㍍も投手寄りで捉えるには並外れた反射神経が必要で常人には無理」と。
最後になるが私は打撃の藤村も一流だが守りの藤村も高く評価している。私がまだ新人記者だったある日、藤村がこんな話をしてくれた。「内野手は大きいグローブよりも小さいグローブを使う方がよいと思うよ。大きいとグローブ全体で捕球しようとして雑になる。小さいと掌で取る感覚になって慎重になる。小さいグローブを使う方が守備は上達するし球際にも強くなる筈」と力説した。ところが今のグローブはどうだろうか。昔に比べると押し並べて大きくなり、ポケット部分も改良され捕球しやすくなった。性能の改良といえば聞こえは良いが、要は多少ヘタでも目立たなくなる。現役選手には耳の痛い話ではないだろうか。
# 663 『ライバル』 参照