Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 424 郭泰源争奪戦

2016年04月27日 | 1984 年 



台湾の速球王・郭泰源投手(22歳)を巡る巨人と西武の争奪戦が、いよいよ最終段階に入った。一時は巨人入り濃厚と噂されたが西武・坂井代表が五輪の舞台となったロサンゼルスで激しい巻き返しを見せて事態は混沌としてきた。ペナントレースより面白い " G・L戦争 " はどんな決着を見せるのだろうか?


7月26日、ロスからの共同電が衝撃的なニュースを伝えた。渡米中の西武・坂井代表が25日、ロス入りした郭投手の実兄・義煌氏を空港に出迎えた際に西武入りの内諾を得ているかのような会話を交わしたという。記事内の「郭投手一家とは大変親しくさせて頂いています。義煌氏を出迎えたのも今後とも宜しく、という意味だ」の坂井代表のコメントからは " 西武入り " を読み取れないが共同電であるという事が重要なのだ。共同通信の場合、「見込み」や「当て推量」で記事を発信する事はない。通信社という性質上、「事実」のみを報じる事が使命なのだ。その共同通信が西武と郭サイドの証拠固めをした上で " 西武入り " を打った以上、ほぼ事実と考えてよいだろう。

更に記事では前ヤクルト監督の武上四郎氏の談話も載せている。武上氏は現在ヤクルトの駐米スカウト兼、大リーグ・パドレスの客員コーチとして米国に滞在中だが「僕の感触では巨人と中日は無さそうだ。ヤクルト入りを薦めたが本人は西武入りを望んでいるようだ」とコメントしている。『巨人入り濃厚から一転、西武入りへ』という訳だが実は元へ戻っただけの話だ。巷間、郭争奪戦に先行していたのは中日だと言われていたが実際は西武の方が早かった。郭は社会人の合作金庫時代に頭角を現し注目を浴びたが西武は郭が長栄高校3年生の時に坂井代表が渡台し自分の目でその好素材ぶりを確認していた。

郭獲得の為に西武が取った方法は表立って行動せず外堀を埋める工作から始めた。先ず目をつけたのが根本管理部長と親交が深い「あけぼの通商(福岡市)」池田社長。池田氏は台湾で顔が広く郭家との繋がりも強く「日本のお父さん(郭)」という程の関係。また堤オーナーが懇意にしている岸信介・福田赳夫の両元首相に台湾政府筋への働きかけを依頼したとも言われている。西武のこうした攻勢に「西武はかなり以前から郭家に経済的援助をしている」という噂が囁かれている。更に引退後の身分保障として「いずれ台湾に建設するプリンスホテルか西武デパートの然るべき地位を約束する」との付帯条件を出すのではと言われている。

嘗てタツノ投手(ハワイ大)を複数の大リーグ球団と獲り合った時にもこの手法でプリンスホテルに入社させた実績があるだけに、いよいよ西武が身分保障という最後の切り札を出したのではと推測される。西武が用意している条件は契約金1億円プラス付帯条件。これ以上ないという物量作戦で巨人とのマッチレースを制しようと形振り構わぬ姿勢を見せている。郭投手がロス入りしてからは米国在住のプリンス系列のホテルマンを専従させている。こんな西武の独走状態に対する巨人サイドは意外と余裕を見せている。7月25日、東京・稲城市のよみうりランドで室内練習場の上棟式が行われ、出席した正力オーナーは記者団に対し「郭投手を全力をあげて獲得する。見通しは明るい」と述べ、7月30日にロスに出発する際に成田空港で沢田スカウト部長も「西武さんがかなり食い込んでいるのは分かっている。でも勝算は有りますよ、無ければわざわざ無駄足を運びません」と語った。普段は肝心な点になると慎重なコメントに終始する同氏だけに記者団も色めき立った。

西武と巨人が血眼になって獲得しようとしている郭投手とは一体どんな投手なのか?郭投手の存在が日本に初めて伝わったのは今から5年前で当時、郭投手は高校を中退し合作金庫に入ったばかりだったがたちまちエースの座に就いた。その後、兵役で陸軍へ。そして陸軍の大黒柱として連戦連勝の快進撃を見せ「江川より速い」と一気に注目の的となった。昭和56年に郭源治投手が中日入りした際に「僕より速い球を投げる投手がいる」と言っているのを聞いて中日の大越総務は渡台し獲得を目指したが兵役中だった為に一時中断していた。その間に郭投手は様々な国際試合で快投を見せて競合相手は増す一方となった。

郭源治以上の逸材を放っておけない、と中日に続いて大洋・西武・ヤクルトも争奪戦に参入したが巨人は何故か静観していた。巨人は台湾を独立国と認めない中国政府に配慮する親会社の讀賣新聞の立場を考慮し交渉出来ずにいた。しかし正力オーナー以下、幹部が訪中し交渉した結果、中国政府から「今回に限り」という条件で自由に台湾での活動が出来るようになった。全身をムチのように使って繰り出す速球は最高154㌔、平均でも150㌔。しかもカーブ・スライダー・シュート・フォークなど変化球も多彩で制球も抜群ときては「僕より勝てる(昨季9勝の郭源治)」という発言は大げさではない。

今年の2月に実際に郭投手の投球を見た前中日投手コーチ・権藤博氏によれば「好調時の江川に匹敵する。手元で球がグーンと伸びる」という。評論家の青田昇・高田繁両氏も少年野球教室で台湾を訪問した時に目の当たりにした感想を問われると「中日の郭源治より上。間違いなく15勝する力を持っている」と絶賛している。劣勢が伝えられる巨人の奥の手が王監督の出馬である。西武の球団フロント幹部は「シーズン中に王監督が台湾入りして交渉するとは思えないけど、もし仮に郭投手を日本に招いて王監督が会ったりしたら形勢は一気に逆転してしまう。それくらい王監督の存在は大きい」と警戒している。郭投手はロス五輪後にある10月の世界選手権には出場しない事が決まっており「9月中に結論を出す」と公言している。
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# 423 男達の人生劇場 ②

2016年04月20日 | 1984 年 



作家の村松友視氏がとあるコラムに『今夜こんな所に来てる連中はよっぽど家庭に事情を抱えているんだぜ』という野次を川崎球場のロッテ対南海戦で聞いた、と書いていた。村松氏が観戦に行ったのはまだ肌寒い晩に行われたナイターであったのだろう。つい最近のデータによれば川崎球場でのロッテ戦の1試合平均の観客数は7千人。これだけ入れば御の字と思われるかもしれないがこれは対西武など人気チームとの対戦を含めた平均値。コラムに書かれた4月10日からの南海3連戦では3試合合計で5千人。しかもこれらの数字は " 公式発表 " であり実数はかなり少ないと考えて間違いない。そのロッテに今季、巨人から移籍して来たのが山本功児。

「確かに1ケタ違うな」大勢のファンが駆けつけ常に超満員の球場でプレーしていた山本は苦笑する。しかし続けて「でもやっているのは同じ野球ですよ。お客さんは多いに越したことはないけどパ・リーグの野球にもパ・リーグにしかない面白さがあるんです」と。法政大学を卒業して社会人の本田技研鈴鹿を経て巨人に入団したのが1976年、主に代打で起用されてきた。トレードの話は突然降って湧いた訳ではなく、ここ数年オフになると毎年のようにスポーツ紙を賑わせていた。ロッテとのトレードが決まると気持ちの切り替えは早かった。代打として試合に出場するだけでは満足できない部分があったからだ。「学生時代からずっと打って・守って・走る野球をやってきた。やっぱり打つだけでは面白くないですから」と。

現在の山本を見ているとルーキーのような初々しさを感じる。もう32歳の中堅からベテラン選手の域に入っているが、今あらためてプロ野球を新鮮な目で見つめている。「パ・リーグの投手にプロらしさを感じますね」と山本は言う。「セ・リーグの投手とは一味違う。例えば僕は低目が好きだし、強い事は周知の事実でセ・リーグの投手は低目を見せ球にして最後は高目の球で勝負してくる。一方のパ・リーグの投手は打者によって攻め方を変えてこない。つまり勝負球は自分が一番自信のある球を投げてくる傾向が強い。投手としてのプライドを凄く感じます」「鈴木啓(近鉄)さんや山田(阪急)さんは決して自分の持ち味を変えない。有藤さんや落合君に仮に打たれても次の打席では打たれたコースをもう一度攻めてくる。プロだなぁと思いますね」

そうしたプロフェッショナル達と山本はロッテ打線の中心選手として渡り合っている。面白いデータがある。開幕してまだ2ヶ月も経っていないのに山本は4つも失策を記録している。ご存知のように山本の一塁守備には定評がある。グラブさばき、打球に対する感、フィールディングなどどれを取っても申し分ない。しかし何故か失策が目立つ。「西武戦で大チョンボをしてしまった。一塁に走者がいて打者はスティーブで打球は一・二塁間へ。『ゲッツー頂き』と思い無理に飛び出してしまい打球をはじいてしまった。それだけならまだしも慌てて二塁に悪送球、走者の背中に当たって球は外野を転々…結局それがきっかけで失点し試合に負けてしまった」守備には自信を持っていただけに激しく落ち込んだ。「普通なら飛び出さず二塁手に任せる打球だった。自分の守備範囲は分かっているつもりだったが、あの時は自分の近くに来た打球は全部取ってやろうと意気込んでいた」

やはりルーキーのような心境なのだ。初めてプロのユニフォームを着た選手のように浮き立つような思いでグラウンドに立っている。でもそれは悪い事ではない。手慣れたグラブさばきでさり気ないプレーもプロらしいが慣れ過ぎたプレーには驚きを感じる事は少ない。例えエラーをしても初々しいプレーには清々しさを感じ拍手を送りたくなる。プロ入り以降、時間はかかったが今回のトレードで山本は初めてレギュラーの座をつかんだ。その嬉しさがエラーに繋がるとは何とも人間味があって宜しいではないか。そんな奮闘する山本のもとにファンレターが届く。その多くが巨人時代からのファンだそうでロッテファンからは思いの外に少ないという。ちょっと寂しい話ではないか。ロッテファンには新たにチームにやって来た少々老けたルーキーを励ましてほしい。束になったファンレターが川崎球場の山本のロッカーに届く日がやって来る事を心から願う。
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# 422 男達の人生劇場 ①

2016年04月13日 | 1984 年 



昭和38年、古葉毅(現在は竹識)はデッドヒートの末に長嶋茂雄に首位打者を明け渡した。それは無念なるかな死球が原因だった。しかし古葉はこれにより甦り、後には監督として長嶋に打ち勝つのだった

昭和38年のペナントレースは川上監督率いる巨人が独走し興味は個人タイトルのみとなっていた。王が一本足打法で打撃開眼し初の本塁打王をほぼ確実にしていた一方で首位打者争いは長嶋と古葉の一騎打ちとなっていて古葉の首位打者挑戦が広島ファンの最大の関心事となっていた。10月12日に広島は地元の広島市民球場で大洋と対戦、長嶋がいる巨人は中日と戦っていた。前日時点で古葉は3割3分9厘、長嶋は3割4分5厘だった。6回裏、古葉が打席に入った。対するは大洋・島田源太郎投手。初球は内角にシュート、続く2球目もシュート。球は踏み込んで打ちにいった古葉の左下顎を直撃した。古葉はその場に昏倒し一塁側ベンチから白石監督はじめフィーバー平山コーチや長谷川コーチらが一斉に飛び出して来た。投げた島田投手や大洋・三原監督も心配そうに駆け寄った。

「古葉、俺が分かるか?」「動くなジッとしていろ」周りからの問いかけに古葉は黙って頷いた。一塁側スタンドからも「頑張れ」「大丈夫か?」とファンも絶叫していた。古葉を乗せた救急車は広島市内の日赤病院に横付けされた。直ちに口腔外科部長である栗田亨氏による診断が始まった。結果は左顎下骨折で全治1ヶ月と診断された。自宅から玲子夫人が駆けつけ、その日の夜に手術が行われた。これによって激しく争っていた首位打者レースは終わった。古葉は3割3分9厘のまま病院のベットの上でシーズン終了を迎え、長嶋が3割4分1厘でタイトルを獲得した。手術を前にして玲子夫人は報道陣に「主人は『千載一遇の好機だから死に物狂いで頑張る』と言っていたので本当に悔しがっていると思います。出来る事なら私が代わってあげたい…」と涙ながらに語った。

『古葉、死球で負傷退場』の知らせは長嶋の元にも届いた。ライバルのアクシデントに長嶋は困惑した表情で「終盤での怪我で古葉君がリタイアしたのは残念だ。古葉君に追い上げられて焦りを感じていた半面、非常な励みにもなっていた。実に寂しい」とコメントを出した。その日の翌日、病床の古葉のもとに一通の電報が届いた。「キミノキモチハワカル イチニチモハヤク ゲンキニナルコトヲイノルノミ キヨジングン ナガシマシゲオ」・・長嶋からのものだった。この事を契機に古葉は長嶋を生涯のライバルに見立てたようである。阪神の村山投手が天覧試合でサヨナラ本塁打を浴びてから長嶋を野球人生の宿敵に定めたように古葉もまた打倒長嶋を目標にした。「最高のバットマンと真剣勝負が出来た。今回の経験を生かしていつの日か恩返しをする時が来るまで頑張る」と心に誓った。

年が明けた昭和39年、古葉は名前を「竹識」に改名した。同時に玲子夫人も「久美子」と改めた。なぜ改名したのか、古葉は多くを語らないが恐らくはあの死球を契機に新しい自分を作りたかったのではと推察される。その願いは直ぐに叶えられ古葉は大怪我から不死鳥のように甦った。打率こそ前年を下回り悲願の首位打者のタイトルは嘗ての日鉄二瀬で同僚だった江藤慎一(中日)に譲ったが盗塁王に輝いた。昭和33年にプロ入りして以来、初の個人タイトルを獲得した。親交のある画家の成瀬数富氏は「彼は実に芯の強い人間。熊本生まれで肥後もっこすらしく頑固で信念を絶対に曲げない。長嶋さんに負けた悔しさを糧にして盗塁王になれたのでは」と語る。そう言えば古葉の座右の銘は『耐えて勝つ』だ。いかにも古葉らしい言葉ではないか。

その古葉が選手から監督へと立場を変えて再び長嶋と対峙する時が来た。昭和50年に川上監督の後継者として巨人を率いる長嶋、球団初の外人監督となったルーツ監督がシーズン途中に退団し急遽監督に就任した古葉。共に1年生監督で長嶋は昭和11年2月生まれ、古葉は同年4月生まれ。学年こそ長嶋が1つ上だが「僕と長嶋さんは同世代。どんな事があっても負けられない」と打倒長嶋を露わにした。結果は長嶋率いる巨人が開幕6試合目に最下位に落ちて以降一度も浮上する事無く低迷したのに対して広島は昭和25年の球団創設以来初のリーグ優勝を成し遂げ日本中に赤ヘルブームを巻き起こした。昭和50年10月15日、後楽園球場で古葉は長嶋の目の前で宙に舞った。「キモチハワカル…」あれから12年、古葉は見事に恩返しを果たした。「古葉は逆境に立てば立つほど強くなる。生まれ育った環境が今の彼を育てたのかもしれない」と地元の評論家は言う。

古葉は熊本市内でも目立った洋館3階建てのお屋敷で生まれた。父が経営する鋳物会社は大変繁盛し裕福な生活を送っていた。ところが戦後になると生活は一変する。会社は倒産し一家は豪華な洋館から六畳一間のあばら家に住む羽目になり、間もなく父が白血病で倒れ亡くなる。しかし降って湧いたような悲劇にも古葉は屈せず生き抜いた。「私はね辛い事、苦しい事を肥料にするのが上手いのかもしれんね。男の人生は一度や二度は死ぬような思いをしなければ一人前ではないという話を聞いた事があるが確かにそうだと思う。私は諦めるのが大嫌い。子供の頃からナニクソ、ナニクソと辛い事に耐えてきたんだ。それが血となり肉にとなっているように思うね」これは初優勝した後に古葉自身が語った言葉である。滅多に自分の幼少期の話をしない古葉が珍しく吐露した。苦しい事、辛い事を明日の糧に出来る男だからこそ現在の地位にいるとも言える。
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# 421 ヤクルトタフマン

2016年04月06日 | 1984 年 



自社の新商品の宣伝に2年連続最下位の監督をテレビCMに起用する。それだけなら何ら構わないが、まるで似合わないコミカルな演技を芸能タレントの如く強いるのはいかがなものか。挙げ句にチームは負け続け、自軍の担当記者にまで商品名の「タフマン」をもじって「多負マン」と陰口を叩かれる始末。更には連敗が続くと「ヤクルトミルミル」にかけて「みるみる●●連敗」といった新聞見出しまで登場した。チームが負けてこれほど親会社製品のイメージが悪くなった例を知らない。プロ野球の本質は本拠を置く地域のファンを喜ばせ野球を通じて地域社会と絆を結び合う一つの社会的還元を行なうものであるべきなのにプロ野球チームを持つ事は自社製品の宣伝の為としか考えていないからファンからしっぺ返しを喰らう事になるのだ。

今回のヤクルトの監督交代劇 『武上監督の辞任 → 中西ヘッドの監督代行就任 → 中西監督代行の辞任 → 土橋投手コーチの監督代行の代行就任』と続いたゴタゴタ騒ぎは過去にちょっと例のない醜態である。単に敗戦の責任を取って指揮官が交代しただけ、では済まされない問題が潜んでいる。球団フロントがどういったチームを作るかのビジョンが全く見えてこない。一説によると中西監督代行があの巨体が萎むほど眠れぬ夜を過ごしたのはトレードや新外人獲得といった補強策に球団がまるで動いてくれそうもない無関心さにイライラが募ったせいだとも噂されている。書類上はあくまでもヘッドコーチのままで指揮権も曖昧なままでは思い通りの采配は振るえまい。自分の子供のような歳の選手相手に汗まみれになって打撃指導するほど野球が好きだった男が「もう勘弁してほしい」とユニフォームを脱ぐ心境になったのには余程の事があったのであろう。

次は代行の代行となる土橋投手コーチ。就任会見の際に記者から球団社長に対して「今度の監督代行の指揮期間はいつまで?」と皮肉たっぷりの質問に「武上君と中西君とも色々と相談しないと…今はお答えできません」と奥歯にモノが挟まったような不思議な答弁をした。それを横で聞いていた土橋コーチは驚き「いえ、僕は松園オーナーから最後までやれと言われましたからそのつもりです」と即座に球団社長の発言を否定した。オーナーは「最後まで」と言い、球団社長は「何とも言えない」とする不徹底さ。ここにこのチームの悲劇がある。中西監督代行が辞意を表明した時、各スポーツ紙は球団フロントの「長期展望の欠如」「抜本的改革意識の無さ」「明確なチームビジョンを持たない悲劇」と書いた。ヤクルトという球団の問題点を今や球界関係者のみならず一般のファンですら分かっている。

嘗てヤクルトに在籍していた元選手が苦笑しながら話した事がある。「球団フロント陣は動きたくても動けないんですよ。下手に動いてオーナーの怒りを買って冷遇されるより黙って大人しくしている方が身の為なんです」と。抜本的な対策を講じる事なく目の前のほころびを繕うのみ。だが所詮は応急処置なので直ぐに元に戻ってボロボロに。それでも対策を進言しない。それくらいヤクルトでは松園オーナーの権力は絶大で、オーナーは客を招待している酒の席に監督・コーチや選手を呼ぶのが好きでオフの期間は勿論、シーズン中でも珍しくない。元選手によれば「私は野球人。男芸者じゃない」と敢然と断ったのは嘗ての広岡監督くらいだそうだ。この発言が事実だとすればヤクルトというチームは松園オーナーのペット的存在であるという事になる。心ある野球人としては何とも悲しい事である。

この15年でヤクルトの監督(代行も含む)は土橋コーチで7人目となる。平均2年余りの短命指揮官だ。嘗ては日本プロ野球史に名前を残す名監督・三原脩もいた。球団初のリーグ優勝&日本一を達成した広岡達朗もまたしかりである。こうした名将たちは自らが理想とするチーム作りに着手し始めてもやがて球団に不信感を抱いてチームを去る事となる。指揮官を失い方向を見失った中途半端なチームが残され、後を継いだ新たな指揮官はゼロからのスタートを強いられた。今年のドラフト会議でヤクルトは前評判の高い即戦力の高野投手(東海大)を指名したが、球界内には高野の将来を危ぶむ声が広まっている。ヤクルトのドラフト1位投手は大成しないとよく耳にする。本人の資質もあるが指揮官が頻繁に交代し一貫性の無い指導方法にも原因があるのではという意見は多い。

ゴールデンルーキーの荒木投手の場合もそうだ。人気があるから、とまだプロとしての実力も備わっていないのに " 客寄せ " の為に登板させた。確かに荒木は人気者である。登板すれば普段よりも多くのファンが球場に押し寄せるだろう。しかし肝心の実力が伴っていないのだからファンの関心が次第に薄れていくのは必然である。見よ現在の荒木を。投げる機会も減り、ただ漠然と練習している様は痛々しいだけだ。巨人の槙原投手は1年間きっちりと二軍で鍛えた成果が今の活躍となっている。当初は武上監督も荒木を二軍で鍛えてから一軍で投げさすつもりだったが人気低迷に悩む松園オーナーの要望には逆らえずデビューさせた。大人の事情で一軍にいる荒木はむしろ被害者かもしれない。今後も長期的展望がないままなら来年以降のチームや荒木にも多くは望めまい。ヤクルトの低迷は目先の事しか考えない結果であり、一事が万事である。
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