Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#42 プリンスホテル旋風

2009年06月28日 | 1978 年 
社会人野球にプリンスホテルが参入した事の方がプロ野球界にとっては西武ライオンズ誕生より
大きな出来事でした。プロ野球よりプリンスホテルを選んだ理由に

 ① 新しいチームである
 ② オリンピック出場という目標
 ③ 野球をやめた後の仕事に困らない
 ④ 会社が安定している

という4点を挙げる選手が多かったようです。大学野球のトップクラスの選手には、向こう何ヵ年かに
分割して2800万円の支度金を賞与として支払われたそうです。プリンス野球部員には野球手当てが
月額25万円 大卒社員の初任給が10万500円なので、月給は35万500円 年額420万円。当時のプロ
野球選手の年俸でこれ以下の選手は大勢いましたから、プリンスを選ぶのも不思議ではありません。


「今の学生たちはプロに入って芽の出なかった先輩が血マナコになって職探しをしているのを目の当たりにしている。将来の
不安というより不安そのものに臆病になっている。いつまでも"何でも見てやろう" "見る前に跳ぶ" という時代じゃありません」


学生たちの意識の変化と共にプリンス側の交渉のやり方の違いも選手たちを惹きつけました。従来は
大抵 大学野球部の監督を通して交渉していました。その典型が明治大学の島岡監督で、選手本人が
入社を望んでも監督が「ノー」と言えば、話はご破算でした。しかしプリンスは選手と直接 交渉しました。
あくまでも本人、親に働きかける事もありませんでした。不安を前提とした挑戦ではなくて、安定という
背景があっての冒険という西武グループの口説き文句に選手たちは次々と陥落していきました。記事の
見出しに載ってる選手は残念ながら その後 大成しませんでした。 プリンス1期生では石毛・中尾くらい
しかプロで成功しなかった事を考えると、彼らの選択は正しかったのかもしれません。
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#41 西武ライオンズ 誕生 ②

2009年06月24日 | 1978 年 
   …前回からの続き

西鉄黄金期は遠い昔の事で今やBクラスが定位置のお荷物球団を買収したのは、江川の交渉権が
あればこそでした。たった一人の選手がチームを一変させるという事を堤氏は以前に経験していました。
国土計画というアイスホッケーチームを保有していましたがチームは低迷していました。打開策として
堤氏は岩倉組に所属していた岩本選手を引き抜きました。岩本は当時 ホッケー界のスーパースターで
この引き抜きで岩本は出場停止処分を受け、国土計画も批判されましたがチームは強くなりました。

今回はその岩本役が江川なのです。だからこそ負債も含めて10億円という大金を叩いたのでした。
しかし江川の西武入りに待ったをかけたのが鈴木実行委員会議長でした。鈴木はセ・リーグ会長で
巨人べったりの人物でした。「江川のような大物選手の入団を球団売買の道具にすべきではない」
そして江川の交渉権放棄が西武への身売りの条件で、それを中村オーナーも約束したと漏らした。
一方の中村オーナーは「そんな約束をした覚えはありません」と言い切ったことで話はややこしく
なっていきます。そんな重要な事をなぜ書面ではなく口頭で済ませたのか、書面に残せない理由が
あったのか。

話を総合すると身売り発表の前日にコミッショナー・両リーグ会長・中村オーナー、そして何故か巨人の
正力オーナーも同席して江川の交渉権についての話し合いが持たれました。その話し合いの中で江川の
交渉権を放棄しない場合は球団譲渡と本拠地移転は認めないとの"口約束"が確認され中村オーナーも
「承知した」そうです。しかし堤氏には伏せられていたようでライオンズ買収の会見で記者から"口約束"に
ついて質問されても、逆に質問した記者に「それはどんな内容のモノですか? 後でよく聞かせて下さい。
ライオンズの所有する権利は当然すべて継承するものと承知しています」と敢然と言い放ちました。

堤氏が会見中 終始笑顔を見せなかった理由は、この"口約束"を知らされてなかったからでした。
球団売買の際に、ほんの数人の関係者間で裏工作が行なわれていた事に「もしこの"口約束"が
本当なら球界を監視・指導すべき立場の人間が特定球団寄りだという証明ではないか」と反発する
声も多く聞かれてパ・リーグ球団は一致して「西武は江川の交渉権を所有する」と認め、セ・リーグ
球団にも同調を求めました。世論も今回の"口約束"に批判的でコミッショナーらの目論見は崩れ
去りました。
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#40 西武ライオンズ 誕生 ①

2009年06月20日 | 1978 年 
かねてより噂されていた西武がクラウンライターを買収しプロ野球界へ進出して来ました。10月12日に
開かれたオーナー会議でクラウン・中村オーナーより球団譲渡に関する緊急動議が出されて売却が
公になりました。実は地元九州では6日付の一般紙でクラウンの身売りが報じられてました。この時期
身売りに関する報道には慣れっこになっていたファンに驚きは少なく、平穏さを保っていました。それは
身売りになっても福岡を去ることは無いとタカを括っていたからでした。

本拠地移転となる事が分かって地元は大騒ぎになりましたが、時すでに遅しでした。中村オーナーと
堤氏は並んで会見に臨みましたが、終始 笑顔の中村オーナーと対照的に硬い表情の堤氏が買収
までの経緯を説明しました。


「私はこれまで繰り返し申し上げてまいりました通り、今すぐプロ野球球団を持つ気は無かった。過去何度も中村氏に頼まれても
お断りしてきましたが、今回はパ・リーグ会長直々の申し出で 次の3か条を満たして貰えるという事でしたので決断しました」
  ・円満に本拠地を所沢に移転させる
  ・両リーグ 全12球団が西武のプロ野球進出を理解・歓迎してくれること
  ・オーナー会議で全会一致で賛成してくれること

こちらから積極的に乗り込んで来たわけではない、頼まれて「プロ野球のために…」と買収に応じたのであって、九州のファンの
憤りは心外であると言いたかったのでしょう、球界の敵役にされるのはたまらないという心理が見てとれます。


だが誰一人として堤氏の発言を信じておらず、用意周到なプロ野球界への殴りこみだと考えてました。
堤氏は常々「いろいろ検討してもパ・リーグならメリットは無い」と公言していました。ライオンズには
全国区のスター選手もいない、なのに何故買収したのか?それは「江川の交渉権」以外有り得ない。
10億円も出して買収したのは江川を獲得できるから、そんな西武の思惑に横槍が入ります。 …つづく
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#39 堤義明の野望

2009年06月17日 | 1978 年 
前回触れたライオンズをめぐり西武の影がチラついてきました。当時 既に堤氏はアマチュアスポーツの
重鎮でしたがプロ野球界にも徐々に食指を伸ばし始めました。この年にオープンした横浜スタジアムの
建設にも関与したり、新球場(現在の西武ドーム球場)建設を発表するなど表舞台に姿を現してきました。
新球場建設の表向きの目的は「西武線沿線住民へのサービス」としていましたが、まともに受け止める
人はいませんでした。一般市民の為にしては設備が立派すぎるし、 新球場建設の発表が7月3日で
完成予定が翌年3月とプロ野球開幕に都合が良いスケジュールであることなどから、いきなりプロ野球に
参入するか否かは別としても関わりを持とうとしているのは間違いないと書いています。

「球団を買うという事は今のドラフト制度の下では有り得ない、ただ巨人なら話は別」 「でもドラフト制に
反対している人が6人集まれば新リーグができる」「60試合程度はプロの試合をやってもらいたい」等々
プロ野球が視野に入っているコメントです。アマチュア界の実力者である堤氏にとって実はプロ野球より
社会人野球参入が本当の狙いではないかという話があります。マスコミ記者との定例会見で、ドラフトが
あるプロ野球界では欲しい選手は獲得できないが社会人チームなら自由に交渉できる。松沼・石毛・中尾
さらにハワイ大のタツノも含めたドリームチームが作れる、と発言。さらにクラウンライターを買収すれば
江川の交渉権も付いてくる、10億円出しても元は取れると注目発言をしました。

この発言に世間は、プロ野球にドラフト指名された選手が何の実績も無い新興社会人チームに入る
わけがない。社会人球団・新球場・クラウンライター買収となれば莫大な金が必要で、いかに西武と
言えども無理だろうというのが大方の意見でした。しかし結果は全てやり遂げました。 江川を入団
させることは遂に出来ませんでしたが、松沼はライオンズに、中尾・石毛・タツノ はプリンスホテルに
入りました。以降、ドラフトで1位指名された有力高校生までもがプロを拒否してプリンスホテル入りし
その後ライオンズ入りしたことなどからプリンスホテルはライオンズの為のトンネル球団かとの批判が
出るほどでした。
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#38 落日のライオンズ

2009年06月14日 | 1978 年 
一時代を築いたライオンズもこの頃には低迷し球団経営も苦しく先行きは暗い状態でした。この記事を
改めて読んで分かりましたが、福岡時代のライオンズは特殊な球団でした。他球団との一番の違いは
親会社を持っていなかったと言う事です。西鉄が球団経営に苦慮し売却先を捜していた時、"ペプシ"に
仲介したのが当時オリオンズのオーナーだった中村長芳氏でした。この売却話は同時期に東映が先に
売却された事でプロ野球球団経営の不安定さをペプシ側が感じとって売却話から撤退しました。

ペプシ以外に売却の交渉に応じる企業は無く、中村氏個人がライオンズを引き受けましたが野球協約で
同一の法人・個人が複数の球団を保有する事は禁じられていた為オリオンズのオーナーを辞し3億円で
買い取り "中村ライオンズ"のオーナーになりました。経営母体はあくまで中村氏個人で、それとは別に
スポンサーがつく形をとっていました。3年目までは太平洋クラブ、4年目からはクラウンライターガスが
年平均1億5千万円の赤字を補填してきました。今で言うところの「命名権」で何とか凌いできましたが
中村オーナーが個人の借金をしてまでの球団経営も限界が来て再び売却の噂がちらほら出てきました。

福岡財界の有力者が中村オーナーの窮状を見かねて地元企業に打診してみたものの、累積赤字が
8億円を超えてる球団に付いた値段は3億円だったそうで、何とか九州にプロ野球球団を残したいと
考えていた中村オーナーにも、より条件の良い本拠地移転を含めた売却が選択肢の一つになりました。
そこに登場してきたのが西武グループ総帥・堤義明氏でした。
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#37 組織票

2009年06月11日 | 1978 年 
オールスター戦のファン投票には組織票問題が今も昔も付き物です。古くは近鉄・太田幸司投手
違った趣旨で選ばれた中日・川崎投手などの例がありましたが、'78年の日ハム勢が選出された
事例は少し違っていました。この年は後楽園で開催されるとあって日ハムは球団をあげて選手を
プッシュしますが、これは普通のことで特段 珍しいことではありません。

当時、日ハムには少年ファンクラブがあり会員は3万5千人いて、会員に投票用紙を5枚ずつ郵送
し投票を依頼しましたが批難されるような行為ではありません。ただ投票依頼が球団の枠を超えて
日本ハム本社が関与するようになって様相が変わってきました。本社と取り引きのある会社は勿論
関連・下請け・孫請け会社にまで投票を協力 (強制?) してもらうなど、度を越すようになりました。

少年ファンクラブの投票だけなら約18万程度なので問題はありませんでしたが、本社が関与した結果
日ハム勢は大量得票し全ポジション中8人が選出されました。今回の組織票の発案者と言われていた
三原球団社長も慌てたのか、古屋・菅野 両選手に出場を辞退するよう要請しました。ただ三原社長は
辞退の理由について「組織票とは関係ない、オールスター戦が選抜という前提に立てば少々バランスが
崩れています。2人が辞退したのはその為ですよ」と苦しい弁明になりました。

最近 オールスター戦を廃止し代わりに全日本チームを結成し国際試合(相手は韓国・台湾あたり?)を
開催しようとの動きがあるそうです。セ・パ交流戦が始まりオールスター戦の価値が無くなったというのが
理由だそうです。開催のスポンサー探しにも苦労してる現状では廃止も有り得るかもしれません。余談
になりますが古屋選手はその後、実力でオールスター戦出場を果たしましたが、菅野選手は選出される
ことはありませんでした。
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#36 デレク・タツノ 投手

2009年06月07日 | 1978 年 
デレク・タツノという日系左腕投手がいました。前年 アメリカで行なわれた日米学生野球選手権で
1年生ながら 15回を投げて 8安打 自責点 0 奪三振22 と圧巻の投球をしました。2年生になり
9勝3敗 防 1.61 112回で奪三振161 と全米 No,1投手の評価を受けています。広島出身の祖父を
持つ日系3世で "シズオ"の日本名も持っています。そんな実力の持ち主が「日本でやってみたい」と
発言したことで日本のプロ球団は色めき立ちました。

神宮球場に12球団のスカウトが揃い注目があつまる中、小雨が降る悪コンディションでも散発5安打
三塁を踏ませぬ完封勝利で、外野へ飛んだのは4本だけで力でねじ伏せる投球でした。スカウトからは
「文句ナシの即戦力、今すぐプロに入っても15勝は堅い。貴重な左腕でヒザ元に食い込んでくる速球は
ちょっと手が出ないでしょう。江川に1億円だとか言ってるのがバカらしくなる」と絶賛の嵐でした。

実は私も神宮球場でタツノを見ました。天気は晴れでしたのでこの記事とは別の試合だと思いますが
タツノは他の投手とは別格でした。日本チームには後に西武入りした松沼弟(東洋大)・巨人入りした
鹿取(明治大)がいて、私が見た試合に2人も投げました。1塁側ベンチ後方の席で投球を横から見て
いましたが日本の投手が投げる球筋は "点" で捉えられましたが、タツノの球筋は "一直線" に見え
ました。子供の動体視力では追いつけなかったのでしょう、投球練習で1球を投げただけで球場内に
どよめきが起きたことをハッキリ憶えています。

アメリカのドラフトは大学生になると3年生の前・後期、4年生の前・後期と計4回 指名の機会があります。
タツノは3年生の6月にパドレスの2位指名を受けましたがプロ入りせず日本のプリンスホテル入りしました。
プリンスホテルは支度金の名目でパドレスが提示した契約金以上の額を出したそうです。西武の寝業師と
言われていた根本氏が裏で動いていたそうで この年に誕生した西武ライオンズ入りを画策したそうですが
日米間の紳士協定の「ドラフトにかかった選手には手を出さない」を覆す事は出来ませんでした。タツノは
その後 '80 ,'82年 と計3回指名をされ'82年にブリュワーズ入りしました。プリンスホテルが出した支度金は
一時所得で税金が発生する事の無いように賞与に組み込み分割した為 すぐに退社出来なかったタツノの
アメリカ球界入りは遅れました。アメリカに戻ったタツノは課題の制球難を克服する事が出来ずメジャーに
昇格する事なく2年で2A球団を解雇されました。
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#35 ドラフト改正案 ②

2009年06月04日 | 1978 年 
  …前回からの続き

ドラフト制度審議委員会が提示した最終案は次のようなものでした。

 ❶ 1位指名は従来通りクジ引きで順番を決めて指名する
 ❷ 2位以下はウェーバー方式を採用
 ❸ 1位指名に限って交渉期間を12月20日迄とし、期間中に合意しなかった選手は拒否選手として
    翌年1月に再ドラフトを行なう
 ❹ 拒否選手はセ・パ両リーグから3球団ずつを希望球団として選び最大6球団で抽選をする
 ❺ 拒否選手を指名できるのは1球団1人だけ
 ❻ 本来の1位指名選手と再ドラフトで拒否選手の2人を獲得した球団は翌年の1位指名は出来ない
 ❼ 拒否選手の契約金は制限され、その分は拒否された球団へ分配される

当然 反対意見もありました。前年に通常と再ドラフトの両方で選手を獲得しその年の通常ドラフトで
指名権が無くても再ドラフトには参加できるのだから、人気チームに有利な改正案ではないかとの
意見や、密約や裏交渉の温床になるとの声もありました。プロ野球界ではルールや制度の改定には
12球団の代表で構成される実行委員会の了承が必要です。たとえオーナー会議で決定した事でも
実行委員会で3/4 (9球団) 以上の賛成が無ければ効力は有りません。そして このドラフト改正案は
実行委員会で承認されませんでした。この案とは別にウェーバー方式案も議題にかけられましたが
こちらは8球団が賛成しました。あと一歩でドラフトの歴史が変わるところでしたが、この結果に慌てた
巨人や阪神などの人気球団が選手に選択権を与える案を断念し、現在の形に近い入札方式案を
受け入れてドラフト問題は決着しました。
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#34 ドラフト改正案

2009年06月01日 | 1978 年 
'77年のドラフトで江川投手がクラウンを拒否して、アメリカで浪人することになった事で球界内に
ドラフト改正の動きが出始めました。当時のドラフトは現在とは形式が違っていて、まず予備抽選を
して本抽選の順番を決めます。つまり2回クジを引いて指名順が確定します。前年の江川の場合は
クラウンが1番目、巨人が2番目でした。

指名順が確定してから指名するまでには、間に昼休みがあって各球団はその間に指名の戦略を
練ります。巨人はクラウンに会談を求めて江川を指名しないようにとの要請をしました。 その際に
巨人はクラウンに対してレギュラークラスの選手を無償でトレードするとの約束をしたようでしたが
クラウンはこれを断り、江川を指名しました。一説には、この時すでに西武への身売りを交渉中で
江川の交渉権を付加する事で球団譲渡額の増加を狙っていたと言われています。

江川のプロ入り拒否がきっかけで設けられたドラフト制度審議委員会で検討が重ねられて、幾つかの
案が示されました。そのひとつが「リエントリー制度」で、選手に拒否権を与えて拒否された球団を除く
11球団で1ヶ月後に再びドラフトを行なうというものでした。さらに「リエントリー + トレード制度」という
ものも示されました。2度のドラフトでも合意できない場合は6ヶ月後にトレードできるというものでした。
こうした案を叩き台にして選手に球団を選べるようにするなどの最終案を提示しました。 …つづく
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