Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#100 打者顔負けの打撃センスを魅せた投手たち

2010年01月28日 | 1979 年 





プロで活躍している投手の高校時代はエースで四番だった場合も多くプロ入り後も打撃センスの良い
投手も沢山いました。古くは3打席連続本塁打を放った堀内や、高校時代 甲子園大会では清原に
次ぐ本塁打数を記録した桑田などが代表例ですが、さらに昔には2人を凌ぐ投手達がいました。


         勝利数   打席   安打  本塁打  打点   打率
金田正一    400    2054   406    38    177   .198
米田哲也    350    1556   266    33    112   .171
小山正明    320    1555   244     9     76   .157
別所毅彦    310    1972   499    35    248   .253
スタルヒン    303    1880   446    19    252   .237
稲尾和久    276    1161   220    17     98   .189
梶本隆夫    254    1466   299    13    130   .204


長池(阪急)が保持していた連続試合安打の日本記録は、1979年 高橋(広島)に破られましたが
長池以前は、投手の野口二郎(阪急)が記録保持者でした。記録を達成した年の野口は投手
として13勝14敗。 登板しない日は四番で右翼を守り、2割9分8厘で9位の打撃成績でした。 

金田の38本塁打には2本の代打本塁打が含まれていますし、別所の通算499安打などは打者
顔負けです。パ・リーグは昭和50年からDH制を採用した為、投手は打席に立つことが無くなり
ましたが、現役にもよく打つ投手はいました。

鈴木啓示(近鉄)は昭和43年から2・2・3・3・2本と昭和47年まで毎年 本塁打を打ち、昭和45年は
打率 .277 を記録しました。山田久志(阪急)は昭和52年の日本シリーズ第1戦で適時二塁打を打ち
第4戦では8回に右前打、同点の9回には右中間2塁打で決勝点を叩き出す殊勲者になりました。
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#99 スピードガンの信憑性

2010年01月22日 | 1979 年 





今では当たり前のスピード表示ですがテレビに出始めの頃は、さして注目されていませんでした。
"135km・140km" などと表示されても、それがどれ位の速さなのか比較対象が無かった為でした。
今では高校野球中継でも表示するNHKは他の民放局がスピード表示を始めても「数字に客観性が
無い」として頑なに採用しませんでした。NHKの言い分も尤もで '79年のオールスター戦では2つの
新聞社が同じスピードガンを使用して球速を測定しました。


              初速      終速
       A社    146km     141km               140km    135km
江夏(左腕)                           山内(右腕)
       B社    145km     141km               136km    131km


       A社     132km     127km               144km    139km
梶間(左腕)                           江本(右腕)
       B社     131km     126km               141km    136km


機械の設置場所や右投げ・左投げの違いでも測定したスピードは異なりました。A・B両新聞社共
左腕投手の測定値の差は僅かでしたが右腕投手は差が出ました。また当時の快速球投手 中日
鈴木孝政投手と全盛期を過ぎた江夏投手のスピード表示が大差ない事に少々落胆するファンも
いて、スピードガン自体に懐疑的になりかけていた時に、彗星の如く現れたのが中日・小松辰雄
投手でした。小松はそれまでは未知の領域だった時速150km の扉を抉じ開けました。

「投手の生命線はコントロール」「投球に緩急をつけるのが大事」「球のキレこそ第一」 それぞれ
もっともでしたが、小松の時速150kmの快速球はそれらを一蹴しました。 「少々速くてもコースが
甘ければプロの打者は打ち返す」との定番な意見は小松には当てはまりませんでした。 小松の
速球は "少々" ではなかったのです。野球ファンは贔屓チームに関係なく小松のスピードに熱狂
しました。小松によって速球投手=150km が定着しましたが小松の出現が無ければ、ひっそりと
消えていったストロボアクション同様、スピード表示も廃れていったかもしれません。



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#98 危険球で顎の骨を粉砕

2010年01月18日 | 1979 年 






現在は頭部への死球は、危険球で一発退場となる為、所謂 ビーンボール or ブラッシュボールの
類は少なくなりました。'79年パ・リーグの前期を独走し、マジックナンバー点灯の最大の貢献者は
マニエル選手でした。 50試合で打率 .370(2位) 本塁打 24(1位) 打点 60(1位) の成績を残し
5月の月間MVPも決まった直後のロッテ戦で八木沢投手から顎に死球を受けました。

下顎複雑骨折、顔面挫傷、口内挫傷、奥歯の根元も粉砕されているという凄まじさでした。口から
血がしたたり落ちているにも拘らず、ロッテベンチから「死球ぐらいで騒ぐなよ」のヤジをきっかけに
両軍の遺恨が始まりました。骨折部分を接合し退院したマニエルは「あの死球は故意だった。私は
八木沢を許さない」と発言。一方の八木沢は「初球をカーブでストライクを取り、2球目はインコース
ぎりぎりを突くつもりで投げた。それが指のかかりが悪くてスッポ抜け、そこに踏み込んできた彼の
上体が前傾した瞬間に当たってしまった。本当に悪いことをした」と場面を振り返りました。

概ね他の投手は八木沢に同情的で、頭を狙って投げるなんて有り得ないとしていましたが、中には
「スッポ抜けて右打者に当たるのなら理解できるが左打者の頭部に当たるのは考えられん。左打者
に当たる場合は、スッポ抜けるのではなく指先が引っかかった時だけど、その時は足元に行くはず」
「八木沢は完全試合を達成した投手だろ、コントロールには定評がある」「コーチ兼任だから投手陣を
代表してマニエルを潰しにかかったんじゃないの?」と発言する投手もいました。

事態に油を注いだのはロッテ側の対応の不味さでした。のたうち回るマニエルを前にしてベンチから
「死球ぐらい…」と言ったり、翌日 グラウンドでロッテ・山内監督が近鉄・西本監督に言葉を掛けたが
「中身は言えないが、かなり酷いことを言われた」と西本監督は激怒しました。入院中のマニエルに
花すら送らないと言われると八木沢本人でも球団フロント幹部でもない、全く無関係の高見沢選手を
見舞いに送り出しました。その後、両球団が報復合戦に至らなかったことが唯一の救いでした。
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#97 江川は阪神戦で黒星デビュー

2010年01月12日 | グラビア 
2ヶ月遅れの開幕戦





逆転3ラン被弾で初黒星

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#96 プロ野球 トレード騒動史

2010年01月08日 | 1979 年 
最近でこそトレードは活躍の場を求めてのチャンスと考えるようになりましたが、以前のトレードは
"放出"であり、チームに不要な選手であるとの烙印を押されたと思うことが多かったのでした。


 ◆大下弘 (東急→西鉄)
   戦後の本塁打ブームを作った「青バット」の大下の移籍は決着するまでに4ヶ月を要しました。当時は統一契約書が
   確立されておらず、またリーグ分裂騒動の余波で選手の引き抜きが横行しており混乱していました。昭和26年11月 
   東急は大下に契約更新を申し入れ交渉しましたが、途中でこじれて大下は退団を決意。東急も移籍先を近鉄・西鉄
   大映・毎日に絞り天秤に掛けて最終的に西鉄に決め大下の代理人がサインしました。しかし大下本人が西鉄入りを
   拒否、近鉄を希望しサイン。両球団とも一歩も引かず膠着状態が続いている状況を見て今度は毎日が「どちらに決定
   しても遺恨が残るだろうからウチが引き受ける」と登場してきてさらに混乱。だが毎日の球団社長は実はパ・リーグの
   会長を兼務していたので「公平・公正でない」として毎日入りも暗礁に。最後はコミッショナーが乗り出してきて翌年の
   ようやく4月になって西鉄入りが決まりました。

 ◆田宮謙次郎 (阪神→大毎)
   投手として入団しましたが肩を痛めて打者に転向後3年目には打撃ベスト10に入るなど阪神打線の主軸に成長しました。
   その後もベスト10 の常連で、特にルーキー長嶋との首位打者争いを制し初の首位打者となり長嶋の新人での三冠王を
   阻止しました。しかし球団内での田宮の評価は低く給料はチーム内で10番目以下 人気者の吉田義男の半額以下でした。
   首位打者のタイトルを獲得した年はちょうど「A級10年選手」の資格を得たこともあり田宮は強気に交渉しましたが、阪神は
   あっさり交渉打ち切り。給料アップも10年目のボーナス支給も拒否する阪神に見切りをつけ大毎に移籍しました。

 ◆江藤慎一 (中日→ロッテ)
   中日で"燃える男"と言えば星野仙一ですが、星野の先代は江藤でした。昭和39-40年と2年連続で首位打者となるなど
   押しも押されぬ中日の主軸でしたが、昭和44年 低迷するチームの建て直しに球団OBではなく初めて外部から招聘した
   水原監督の構想から江藤は外れました。「オレは中日の江藤なんだ、他のチームなんぞに行ってたまるか」と反発。江藤も
   球団も折れることはなく、遂に江藤は任意引退を選びました。時間が経ち冷静になった江藤はユニフォームを脱ぐことへの
   寂しさに苦しみ、単身 東京の水原宅を訪ね玄関口で土下座し「すみませんでした。ボクを中日に残して下さい」と懇願します。
   しかし水原は「球団の方針で決まった話だからオレには何とも出来ないよ」と冷たく言い放ちました。それまでにも過去何度も
   江藤は歴代監督と衝突してきましたが切られるのは、いつも監督の方でした。しかし今回ばかりは相手が大物過ぎました。
   春のキャンプが始まっても江藤は自宅に籠もったまま、そんな江藤が気持ちを切り替えてトレードを受け入れたのが6月に
   入ってからでした。この移籍によって翌年 江藤は初の両リーグでの首位打者を成し遂げることになります。
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#95 30年前の『週刊ベースボール』の読み返しは今年も続きます・・

2010年01月04日 | 独り言  
錆びついた脳ミソをムチ打って書き綴った初めての当ブログも、気がつけば無事に年を

越せました。自分には懐かしい話題でも今のヒトたちには 何の事だか分からない記事も

多々あったでしょうに、お付き合い頂いて大変感謝しています。当初の予想よりも多くの

方々が訪問して下さった事に大変驚いています。実は去年のドラフト会議の頃に花巻東・

菊池投手を扱った Yahoo ニュースに、このブログがリンクされて「万単位」の人達が訪問

された事もありました。 記事や写真の著作権もクリアしてないので、余りに多くの人の目に

触れるのもマズイかなとも思っています。 この不況下でも幸福にも貧乏ヒマ無しの会社員

ですので相変わらず更新頻度は低いでしょうが今年も お付き合いして頂けると有り難いです。





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