Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#23 大物新人

2009年04月29日 | 1978 年 
ヤクルトに柳原隆弘という選手がいました。智弁学園から大商大へ進み、入学早々に
三塁のレギュラーとなり卒業まで中心選手でした。大学の1年先輩に大洋の斉藤投手が
いましたが、斉藤 曰く 「守備は上手くありません。あんまりポロポロやるのであだ名は
ポロでした。でも打撃は素晴らしいです、1年間プロを経験して言えることは柳原の打撃は
間違いなくプロで通用します。」と賛辞を送っていました。4年生の春には4割を超す打率で
首位打者となりヤクルトの1位指名を受けて意気揚々とプロ野球の門をくぐりました。当時の
ドラフトは現在の形とは違って、全球団で指名順をクジ引きで決めて1番から順番に指名して
いくものでした。ヤクルトは6番目で柳原を指名しました(ちなみに1番目は法政大・江川)。

この年はヤクルトとして初の海外キャンプを行なうなど本社をあげて球団をバックアップします。
当然 柳原も1軍キャンプ帯同が決まっていましたが、練習嫌いを堂々と公言していた柳原は
第1次神宮キャンプを無断でスッポカシました。これが規律を重んじる広岡監督の逆鱗に触れ
1軍メンバーから漏れることとなります。柳原を売り出したい球団は広岡を説得しますが、結局
2軍落ちとなりました。自主トレならまだしも新人がキャンプをサボるのは前代未聞でした。

ただし柳原はこんな事で落ち込んだりはしません。2軍の教育リーグ戦に出場して2試合連続で
満塁本塁打を打つなど2軍クラスとの格の違いを見せつけます。1軍が帰国するとすぐに合流し
真価を問われることとなりました。しかし この頃から柳原の言動は大人しくなってきます。広岡監督、
森ヘッドコーチというガチガチの管理野球の下、彼本来の自由奔放さは消えて萎縮していきました。
期待された1年目は 20試合 20打数 3安打 1割5分 0本塁打 に終わりました。 2年目以降も
成績は芳しくなく '82年オフに近鉄にトレードされました。近鉄で一瞬の輝きを放ちます、'84.6.11 の
南海戦で史上4人目となる代打逆転満塁サヨナラ本塁打を打ちました。その後、日ハムに移籍し
その年オフに現役を引退しました。       【通算351試合 2割1分8厘 19本塁打】

選手にとって入団する球団のカルチャーは大事ですね。ドラフトで指名された、しかも1位だったと
いうことは間違いなく技術・力量はあったはずですが、自分に合う指導者・上司に出会える運を彼は
持ち合わせていなかったのでしょう。   
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#22 球界の首領

2009年04月26日 | 1978 年 
…昭和47年 晩秋の11月、東京銀座の第一ホテルでロッテの松井静郎専務とカネやんが対面交渉し
重光武雄オーナー勅命を受けて、大沢監督後任の第12代監督就任を要請されタレント稼業の身から
4年ぶりに現場に戻ると決めた直後の事である。交渉を一任されていた松井専務は監督の年俸として
「0」を7個つけた金額を提示した(カネやんによると3000万円だったそうだ)。するとカネやんはそれには
目もくれず 「給料はいらんからワシの会社をバックアップして欲しい」 「ワシには億単位の仕事をする
能力があるし自信もある、ゼロを1つ増やしてほしい」 全権を一任されていた松井専務も即決できず
オーナーの判断を仰いだ。オーナー曰く 「億の金を積んでも獲得する価値の有る男」とカネやんを評し
正式に監督に迎えることになった。            

                           -中略ー   

監督在任5年間で後期優勝2回、日本一1回。カネやんブームは低調だったパ・リーグに灯をともし
ロッテ本社のイメージアップにも計り知れない貢献をした。 「カネダ企画」をはじめステーキハウス・
サウナ・クラブなど7社に対する億を超える援助も元は取れたそうだ。カネやんは球団の人事権も
掌握していて、契約更改の時になると球団社長と共にソロバンをはじいた。 例えば1億5千万円を
人件費と決定して、もし予算がオーバーしてしまうと2軍で将来性のない選手を数人クビにしたそうだ。
テレビの仕事を優先して試合開始間際ギリギリに球場入りすることも珍しくないなど、勝手な行動も
多かったが選手はもちろんフロント連中もオーナーお気に入りのカネやんに意見できなかった。


ロッテOBでもない金田がここまで重用されたのは、オーナーの同胞意識からでしょうか。
過去から現在に至るまで、ここまでの全権監督は存在しなかったでしょう。第二次政権の
時は会社経営が危なくなり まとまった金銭が必要になった金田が逆にオーナーに泣きつき
契約金と年俸を手にしたと言われてます。現役時代からワンマンで お山の大将でなければ
気が済まない金田は野球界が、いつまでも川上や鶴岡といった古株に牛耳られているのが
我慢できず、長嶋や王を抱きこんで名球会を立ち上げたそうです。わざわざ"昭和名球会"とし
2000本 or 200勝 をクリアしている大正生まれの川上や別所に入会資格を与えませんでした。
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#21 大リーグ中継

2009年04月25日 | 1978 年 
'70年代の花形スポーツは間違いなく野球でした。各TV局もそれぞれが様々な野球と
関わっていました。NHKと朝日系は夏の高校野球、日テレは巨人戦、TBS(毎日系)は
春のセンバツ大会と社会人都市対抗野球。 そんな中、フジ産経は蚊帳の外でしたが
そこで目をつけたのが大リーグでした。それ以前にもワールドシリーズやオールスターは
単発でNHKなどが放送してましたが、フジは通常のペナントレースの中継を計画しました。

前年に放送されたW・シリーズの評判は良く、フジ以外のTV局も注目し始めていたので
フジはスポーツ部ではなく報道部の責任者をアメリカへ派遣するなど隠密行動をとりました。
一方でテレ朝も動き始めましたが、先を行くフジが契約を成立させました。当時の大リーグは
R・ジャクソン(ヤンキース)、T・シーバー(レッズ)、N・ライアン(エンジェルス) など錚錚たる
選手がいましたが日本での知名度は低く視聴率的には苦戦しました。

当然、生中継ではなく日曜日の昼に1時間30分、月曜の夜8時から1時間に編集して
放送しました。番組コンテンツとしては成功しませんでしたが、日本のプロ野球中継に
与えた影響は大きなものでした。 日本の中継はバックネット裏からのカメラアングル
でしたが、大リーグはセンター方向からの映像でした。この映像は投手の球筋や打者の
ミートポイントもハッキリと分かると大変好評で、現在の中継アングルが定着しました。
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#20 選手名鑑

2009年04月23日 | 1978 年 
今や個人情報の管理にうるさくなって学校では生徒の名簿は作成しない所も珍しくない
御時世ですが、この頃の選手名鑑には住所まで掲載されていました。住所の掲載は
その後も暫く続きますが '80年代に入ると削除されました。その代わりに家族構成が
実名で掲載されるようになります。一般人よりも高額の報酬を得ているプロ野球選手の
子供の実名を掲載するのは犯罪に巻き込まれる恐れがありそうですが当時はのどか
だったのでしょうか?家族構成の掲載はその後も暫く続きました。

名鑑の中身を見てみると意外に、一戸建てに住んでいる選手が少ないことが分かります。
すでに一流選手であった阪急・山田投手や福本選手、広島・山本浩二選手クラスでも
マンション派です。ヤクルト・若松選手などは前年に2度目の首位打者を獲り、それなりに
昇給したはずなのにアパート暮らしだったのには驚きです。さすがに長嶋・王・金田クラスは
既に都内一等地に一戸建てを構えていました。かつてドラフトで意中でない球団に指名されて
入団条件として土地を要求した投手がいましたが野球選手でも"家"はまだ高嶺の花でした。
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#19 脱・管理野球

2009年04月20日 | 1978 年 
吉田前監督の下、4位に終わった阪神タイガースは後藤次男氏を新監督に据え新たな年を
迎えました。チーム内に細かな規則を作り徹底した管理野球を行なった吉田前監督でしたが
結果はBクラスの4位に終わるも続投に意欲を見せフロントも一時は容認しますが選手からの
反発が強く結局 辞任に追い込まれました。フロントが続投させようとしたのには阪神特有の
お家事情がありました。当時は 吉田vs村山の派閥対立がチーム内に留まらずフロントにも
存在していました。吉田が辞めて村山派が台頭するのを嫌った現フロントは、吉田の続投を
画策するも失敗し次善の策として、どちらの派にも属してない後藤次男氏を監督に迎えました。

現場の権力抗争に興味の無かった後藤は解説者として自由気ままに引退後の生活を送って
いました。そんな自由人 後藤は脱・管理野球を掲げます。以前 "放任野球"で有名だったのが
東映監督時代の大下弘です。大下は"三無主義"を掲げます、「門限・罰金・サイン」を全て無くし
選手の好きにやらせますが結果は大失敗。後藤はそれ以来の放任野球をすると宣言しました。
キャンプも前年までとは雲泥の差の軽い練習で選手には好評でしたが・・

午後の練習は早々に切り上げ、代わりに自主練習を設定、夕食後のミーティングも廃止。夜の
外出・飲酒は自由、門限もあって無いようなもの・・・最初の頃は午後の自主練習をする選手も
いましたが当然のように徐々にいなくなり、中心選手の田淵は課題の守備練習もソコソコに
打撃練習で気分良く柵越えを連発すると練習を切り上げて、夕食も摂らずに夜の街へと消えて…

周囲は ぬるま湯環境が成長株の掛布選手に悪影響があるのではと危惧しますが後藤監督は
「掛布は大丈夫、ヤツは放っておいても自分でやるタイプだから」と放任しますが、掛布もやがて
飲酒運転を起こすなどトラブルメーカーとなっていき、実績だけをみれば監督やコーチの要請が
あってもおかしくない人物なのに引退後 未だに現場を経験していません。 ちなみにこの年の
阪神の成績は41勝80敗で球団初の最下位となり、後藤監督は1年で退くことになりました。
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#18 練習生

2009年04月18日 | 1978 年 
ドラフトで指名されなくても当時はドラフト外というプロ入りの道がありました。さらに裏技で
球団職員や練習生として"入団"する方法もありましたが、ユニフォームは着れても背番号は
付いてなく、2軍の試合にも出場できませんでした。西武・伊東、中日・大豊、阪神・中込など
多くは有力選手を囲い込み、翌年のドラフトで指名するという抜け穴をついた方法でした。

この様なドラフトの裏技として使われる前は、記事の松永選手のようにプロへの入り口として
正常に機能していましたが、ドラフト指名選手よりも実力が劣る場合が多く成功は稀でした。
数年前 阪神に15歳の辻本投手が指名されて話題になりましたが、'78年にも15歳の選手が
クラウンライターに練習生として入団しました。投手と外野手の2人でしたが外野手の選手は
中学時代はバスケ部所属で野球経験は無く、球団は無責任だとの声が大勢でした。 結局
両選手は支配下登録されず、2軍の試合にすら出場すること無く '81年に解雇されました。

現在では育成選手制度が出来ましたが、一定期間内に支配下登録されないと自由契約となり
厳しい立場であるのは昔と変わりません。育成出身の巨人・山口投手が新人王に選出される
など徐々に機能し始めてきました。ちなみに記事の松永選手は その後スイッチヒッターとなり
練習生出身の選手としては、数少ない成功例となりました。
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#17 甲子園優勝投手

2009年04月15日 | 1978 年 
この年のキャンプの話題をさらったのは、阪急の高卒ルーキー 松本・三浦の両投手でした。
「ナタの松本」「カミソリの三浦」とタイプの違う2人に注目が集まりました。特に松本は夏の
甲子園優勝投手で"江夏2世"の前評判通りの投球をキャンプで披露しシーズンでの活躍を
期待させました。

実は、それまでの甲子園優勝投手は大成せず遡っても浪商の尾崎くらいでした。優勝するまで
連投を強いられて、力投派の投手は力尽き 技巧派が勝ち残る事が多かった為と思われます。
この傾向はPLの桑田が現れるまで、愛甲・金村・畠山などがプロ入りしたものの投手としては
成功せず、記事の「ジンクス」を打ち破れませんでした。

期待された松本でしたが課題の制球難はついに解消されず、通算 32試合 1勝3敗 で引退。
一方の三浦は1年目でデビューを果たし1年目4勝、2年目8勝 と順調でしたが3年目以降は
怪我に悩まされて結局、通算 36試合 14勝 14敗に終わりました。このジンクスは彼ら2人だけ
ではなく、桑田以降も松坂や田中将(優勝は2年生時)が現れるまで 吉岡・石田・正田などが
プロ入りしましたがジンクスには勝てませんでした。
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#16 B級ニュース in 1977

2009年04月13日 | 1977 年 
王の756号、野村監督解任騒動 など色々あった '77年でしたが、ちょっとB級ニュースを・・・
現在の外国人助っ人獲得は各球団のスカウティング能力も上がり、成績の出来・不出来は
あるものの いわゆる"不良"外国人は少なくなりました。しかし30年ほど前は現地に足を運ぶ
ことなく代理人の言うがままに契約することも珍しくはありませんでした。かつてロッテが契約
したのは別人だったというのが、来日して初めて分かったという嘘のような実話がありました。

  ◆ ブレット・レイノルズ投手(大洋)
    シーズン途中に急場しのぎで獲得したので仕方ないかもしれないが、レスラー顔負けの
    上半身から金髪のアフロヘアーを振り乱しての投球。「俺はアーロンにも打たれなかった
    だから王に打たれるはずがない」 と散々大口を叩いていたが実際に投げてみると愛称の
    "ブレット=弾丸"とはかけ離れたチェンジアップばかり。5月11日の巨人戦 初登板し 3回
    もたず降板。26日 阪神戦・28日 広島戦でも結果を出せず2軍へ。それっきり姿を消して
    心配した球団関係者がマンションを訪ねると、もぬけの殻。投球回数6回、投球数143球
    1球のお値段が8万円のお騒がせ外国人でした。

  ◆ バティ・ブラッドフォード外野手(近鉄)
    この選手はシーズン前の評価は高く、オープン戦では1試合3ホーマーを放つなど活躍
    しました。ところがシーズンが始まると早々に肉離れで離脱。ケガなのでしょうがないと
    球団は日本で治療に専念するよう命じますが、本人はアメリカでの治療を希望して対立。
    散々もめて挙句には「ナインが冷たい」「マンションにゴキブリが出る」と不満タラタラ・・
    さっさと帰国してしまいました。これにはおまけ話があって、代わりの助っ人を探しに
    行ったスカウトは性格までチェックして 契約寸前までいったところで、その選手が実は
    麻薬中毒の常習者であることが判明し慌ててキャンセルして事なきを得ました。
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#15 もしも この時・・・

2009年04月11日 | 1977 年 
野村騒動の余波で江夏投手の行き先が定まらない。トレードで南海へ入り、野村"捕手"と
出会ってリリーフ投手としての適性を見出され、この年 セーブ王を獲得して従来の、投手は
先発・完投が理想という固定観念を覆し、今では当たり前の"分業制"確立の立役者でした。

解任騒動では週刊誌に「南海ナインよ 恩を仇で返すのか」という手記まで発表し「南海で
プレーする気は無い、トレード希望だ」と公言。そこで先ず中日が手を上げたが堂上投手を
要求され御破算。クラウンも永射投手は出せないとして撤退。江夏獲得に最も熱心だった
ロッテが何度も交渉を重ねるも最終的に合意には至らず同一リーグへだけには出したくない
南海が折れて広島と金銭トレードすることで決着しました。

この後 江夏は広島・日ハム・西武と移籍し最後は大リーグに挑み海を渡りました。もしも
この時 大リーグへ行っていたらどうなっていたでしょうか? 当時29歳、全盛期のスピードは
出ないものの、それを補うコントロール。球数制限が既に主流であった大リーグの方がむしろ
江夏に向いていたかもしれません。
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#14 スパイ行為

2009年04月09日 | 1977 年 
10年ほど前、当時のダイエーホークスがスパイ行為をしてるとの報道がありました。しかも
それを報じたのが地元の一般紙だったので単なる飛ばし記事ではなかったと思われます。
野球界には本気で検証する気は無かったようで結局、うやむやのままフェードアウトしました。
ダイエーの前身 南海ホークスはスパイ行為の先駆者で野村監督もそれを認めていました。
親会社は変わってもカルチャーは変わらずという事でしょうか、記事をそのまま引用します。


先駆者は野村監督だった。昭和48年 大阪球場の中堅後方にあるスコアボード。得点表の空いた部分から双眼鏡を
覗きながら1人の男がジェスチャーした。捕手が投手に送るサインを盗みベンチへ伝達、それを打者が受け取って
投手の球種を察知する。「次はカーブだ、ストレートだとサインを送ってくれるんです。最初のうちは100%近く当たって
ましたね、そりゃ打ちやすかったですよ。」と当時を振り返って某主力打者はこう言った。野村監督は「頭は生きている
うちに使うんや、プロ野球規則に違反せん事は取り入れんとな。ズルイと言われても勝たんことにはどうしようもない。
まぁ、あれは大ヒットやったな。」 もちろん?その年 前期ペナントレースを制しプレーオフにも勝って日本シリーズに
進出しました。この阪急とのプレーオフはまさに"忍者合戦"でした。阪急・西本監督も忍者を放ち、外野席に赤・白・黒・
青色のシャツを着こんだ人を配置し、捕手が投手にサインを送るたびに色違いの男がスクッと立ち上がるのだ-中略ー

これを知った各球団の首脳陣もスパイ戦術を取り入れるようになった。勝負に勝つ為には非常手段も必要、相手チームに
先を越されてはどうしようもない。 太平洋・稲尾監督は「双眼鏡より良く見える」と天体望遠鏡まで買い込んだ。


ダイエーの手口も外野席から双眼鏡で盗み見をして打者に知らせるという古典的手法だったそうで
I T時代のスパイにしては古びた手法でしたが、アナログ世代の首脳陣らしいスパイ行為でした。


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#13 監督解任 ②

2009年04月05日 | 1977 年 
9月26日 対日ハム戦が中止後、報道陣の前に姿を見せたのを最後に消えていた
野村監督は8日後に記者会見を開きました。


「この1週間 色々私なりに考えてまいりましたが、私は鶴岡元老にブッ飛ばされたと思っております。スポーツの
世界に政治があるとは思ってもみませんでした。鶴岡政権の圧力の前に私は吹っ飛んだわけでございます…」



会見冒頭でいきなり南海ホークスのOBで重鎮の鶴岡一人氏を名指しで批難しました。
これは原監督が長嶋・王氏を、真弓監督が星野SDを批難するようなもので球界は騒然と
なりました。後日談として鶴岡氏が亡くなった際に、野村氏は通夜・告別式に出席せず
この問題の根深さを改めて世間に知らしめました。

会見では広瀬新監督にも触れ、広瀬監督の野球は頭を使わない昔の"根性野球"と卑下し
"シンキング・ベースボール"に馴染んだ選手には受け入れられず、チームは空中分解する
だろうと予言までしてみせました。広瀬監督は"泥まみれ野球"を標榜し'78年を戦いますが
この予言は的中し、野村監督に心酔する'77年のセーブ王 江夏投手と5番打者柏原選手が
抜けたチームは最下位に転落していくのでした。

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#12 監督解任

2009年04月04日 | 1977 年 
以前 広岡監督の手腕について書きましたが、今回は野村監督の解任劇です。成績を
理由にクビを切られたり 契約満了でその座を退くのが通常ですが、野村監督の場合は
前代未聞でした。解任の理由に「人間性」が挙げられたのは初めてでした。プロ野球の
歴史の中で「人間性」が問われたのは今回と沢村賞の選考で記者達から発せられた
「江川投手の人間性は沢村賞にふさわしいのか」の2回くらいではないでしょうか。

元々 野村監督は続投することが決まっていました。8月末にオーナー自らの発言で
「来季も野村体制」を打ち出していました。実はこの発言が解任の動きのきっかけと
なったのでした。野村監督はオーナーのお気に入りで、それがチーム内の不満の声を
押さえつけていたのですが、現体制の反対勢力派がオーナー発言を受けて動きます。
球団レベルを超えて南海グループの問題として会議が開かれました。 議題はズバリ
「野村監督に公私混同の言動が多すぎる」 会議には球団関係者だけでなくグループと
関係の深い大手百貨店社長、宗教界から有名寺院の住職も招かれ、野村監督の勝手な
行動などが報告されました。
  ・東京遠征では監督はチームとは別行動で愛人宅に宿泊
  ・帰阪の際にも愛人の都合で出発時間が変更になるなど規律がとれない
  ・その愛人がコーチ会議に出席し作戦面にも口を出す
  ・監督職は解任するが野村捕手は支配下選手なので勝手な言動は許さない

     (注) この愛人が現夫人のサッチーこと沙知代さんでした

会議の結果、野村監督の続投は取り消され広瀬新監督の就任が発表されました。これに対し
野村監督は、まだシーズン中にも拘らず姿を消し職務を放棄しました。消息が途絶えて8日後
記者会見を開き反論を主張、球団と全面対決へと発展しました。    
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#11 万年Bクラス

2009年04月03日 | 1977 年 
'90年代には優勝争いの常連だったヤクルトスワローズ。ヤクルトを強くしたのは野村監督と
言われてますが、万年Bクラスの負け犬集団を叩き直したのが広岡達郎監督です。 前任者の
荒川監督がシーズン途中で解任され広岡コーチが昇格したわけですが、 ここで一悶着が
ありました。広岡コーチは監督就任に際し契約金を要求したのです。こう書くと何か広岡氏が
守銭奴の様に思えますがそうではありませんでした。当時のヤクルトは今以上に良く言えば
ファミリー的で結束力がある、悪く言えばナァナァ&ぬるま湯的でオーナーの鶴の一声で
全てが決まる球団でした。決定権の無い球団フロントは慌ててオーナーにお伺いをたてますが
オーナーの返事は「No」何度かの交渉の末 「500万円なら」となりますが、 これは広岡氏の
オーナー&フロントに対するショック療法だったようで実際は契約金ナシで監督に就任しました。

チーム作りでも広岡監督は大ナタを振るいます。エース松岡が起用法に不満を持ち 御丁寧に
医師の診断書を付けて6月に1週間の"夏休み"を要求したところ、あっさり2軍行き。投手陣の
中心である松岡の処遇を目の当たりにした調子の上がらない安田投手は調整の為に打撃投手を
自ら申し出るなどチーム内の空気は一変しました。

チーム内での様々な禁止事項、飲酒・麻雀・門限 ・・・に選手は勿論 コーチまでが反対しました。
「大人なんだから」「巨人とは違うんです」そんな声に広岡監督は選手達の自由にさせましたが
結果はボロボロ・・選手達から反対の声は消えました。前季途中で就任して体質改善に着手し
この年は2位の成績を収めたものの「まだまだ子供のチーム」「来年は優勝争いに絡んで2年後の
優勝が目標」 と控え目でしたが、翌 '78年には初優勝・日本一の栄冠を手にしました。
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#10 世界新記録

2009年04月01日 | 1977 年 
世の中の"756号フィーバー"に冷や水をかけるような記事です。当時の週刊ベースボールは
どちらかと言うと巨人寄りで表紙も巨人選手が飾ることが多く、このような記事は珍しいです。

「王の本塁打数がH・アーロンの記録に迫った時 "世界新記録"として大騒ぎになるのは
目に見えているが、果たしてそれは妥当な表現なのだろうか?」 と問題提起して、暗に
"世界新記録"を否定しています。野球規則を引用して日本の球場が完全な規格以下で
大リーグの記録と比較する意味が無いとまで明言しています。加えてマイナー・リーグでは
年間最高72本も打ってる選手がいるがアメリカでは話題にもならないと、アメリカでは関心が
薄い日本のプロ野球はマイナー並みと言わんばかりです。

私自身が実際に目撃した一例ですが、大リーグのチームが来日し後楽園球場で行われた
親善試合で王選手が本塁打を打ちました。その時 打球を追っていた右翼手がフェンスに激突
しました。まるでそこにフェンスなど有る筈が無いと言う様な追い方で大怪我をしても不思議で
ない程の激突でした。ベースを一周する王選手は両手の平を振りながらバツが悪そうでした。
まるで「会心の当たりではないよ」「詰まって手が痺れてるよ」「僕 本来の本塁打はこんな
モンじゃないよ」とでも言いたそうな表情でした。
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