Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 824 惜別

2023年12月27日 | 1976 年 


今年の6月に成人T細胞白血病で亡くなった北別府学のルーキー時代インタビュー


連覇ならずパッとしなかった今年のカープだが、ここにきて俄然脚光を浴びだした新人がいる。ウエスタンリーグ優勝の立役者である北別府学投手である。

ライバルは青山投手(中日)
聞き手:巨人戦に初登板(9月29日)した感想は?
北別府:別に意識しませんでした。ただ、王さんや張本さんを相手にすると圧倒される感じは正直ありました。
    ランナーをためないように思い切り投げることだけ考えました。

聞き手:巨人打線は怖かった?
北別府:怖いと思いますね。でも力むとこの前の阪神戦(19日)みたいに打ち込まれちゃうから冷静になろうと。
    でも王さんの時は抑えようと力んでしまって全然ストライクが入りませんでした。

聞き手:満員の後楽園球場でも緊張しなかったの?
北別府:むしろ緊張したのはデビュー戦の神宮球場や甲子園球場の時で、前の阪神戦で打ち込まれてしまって
    自分は本当にプロで通用するのか不安になって巨人戦では緊張する余裕もなかったです。

聞き手:高校出の新人で一軍で活躍している選手はあまりいない。自信がついたのでは?
北別府:そうですね、まだ自信とまではいかなくとも安堵感はあります。プロ入り前は2~3年は二軍で体力を
    つけるのが優先だと思っていましたから、こんなに早く一軍で投げられるなんて考えていませんでした。
    同期でプロ入りした選手でいま一軍にいるのは青山投手(中日)だけ。同い年だけに負けられません。


まさかプロ入りするとは
聞き手:プロ入りの決意はいつから?
北別府:夏の県予選が終わった頃です。いろいろな球団から話があって指名されるかもと思いました。甲子園には
    一度も行けなかったので、それまではプロ野球は夢のまた夢でした。

聞き手:プロは昔からの夢だった?
北別府:いえ。僕は野球をやっていて一度もプロは考えてませんでした。
聞き手:思い描いていたプロ野球と現実はどうでしたか?
北別府:確かに厳しい面もありますが、一方でそうでもない面もありました。厳しいのは時間に関する事です。
    練習も私生活もです。寮の門限は一度も破っていません。

聞き手:その寮生活はどうですか?
北別府:まぁ楽しくやっています。暇な時はレコードを聴いたり読書したりゴロゴロしています。
聞き手:家族は?
北別府:両親と兄2人です。親父はプロ入りに賛成してくれましたが、お袋は反対しました。心配しないように
    時々は実家に電話をしています。


何でも吸収しよう
聞き手:今シーズン終了後に若手選手を大リーグのパイレーツに派遣する話がありますが参加するのですか?
北別府:まだ正式には聞かされてませんが、もし参加できたら向こうの野球を見てみたいです。
聞き手:ところで目標とする選手はいますか?
北別府:外木場投手や鈴木孝政投手です。特に鈴木さんは真っすぐと落ちる球で勝負できる憧れの投手です。
    今まで雲の上の存在だった人たちと話ができるのは夢のような気分です。だから外木場さんに
    話かけれると本当に嬉しいです。学べるものは貪欲に吸収したいです。

聞き手:今後の目標は?
北別府:正直勝ち負けはどうでもいいんです。早く一軍で1勝あげたいですけど、内容のある投球をしたいです。
    そして絶対逃げるんじゃなくて真っすぐ打者に向かっていく投手になりたいです。

聞き手:これからも頑張って下さい
北別府:はい、ありがとうございます。怪我をしないように頑張ります。
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# 823 鈴木啓示

2023年12月20日 | 1977 年 


鈴木啓示投手とはもっと早く対談をしたかったが、なかなかチャンスがなかった。オールスター戦前のロッテ戦に上京した際にようやく時間をとってもらうことが出来た。今や両リーグを代表する左腕投手からどんな秘話が聞けるか期待は大きかった。

低迷したとき考えた
聞き手…ようやっとるねぇ
鈴 木…いや、もう息が詰まるような感じですわ(苦笑)
聞き手…近鉄としては精一杯か?
鈴 木…我々選手がこんなことを言うのおかしいけど、ようやってる方やね。
聞き手…打てないからねぇ(苦笑)
鈴 木…チーム打率は12球団最低でしょ。2割3分いってない。ようあそこまで粘ったと思うね。
聞き手…打線が湿ってると、どうしても自分が抑えなきゃと思うんじゃないの?
鈴 木…以前は自分で言うのもアレですけど投げやりな性格だったんです。もうアカンと思ったら諦めが早かった。
    それが年齢と共に変わってきました。

聞き手…粘っこいピッチングになってきた?
鈴 木…いや、それよりも生意気な言い方ですけどチームの中で自分の置かれた立場を考えるようになった。
    変な色気とかなしに自分が試合を捨てたら誰が後始末するんやとか考えるようになった。

聞き手…つまり以前だったら、あぁ今日は相手投手の調子が良いし自分が1点・2点取られたらもうダメだと諦めて
    手を抜いてしまったと。

鈴 木…自分で計算してしまった。今日はもうエエわと決めてしまった。気分屋だったんやね。
聞き手…いつ頃からその気持ちが変わったの?
鈴 木…ただ力だけで投げていた間は計算できた。25歳くらいから3年ほど10勝ラインで低迷した時期があって
    その時に自分勝手に投げても試合には勝てないと思うようになった。


阪神が好きだったが
聞き手…第1回目のドラフト組だよね?
鈴 木…はい。巨人の堀内投手と同期です。
聞き手…はっきり言って同期は多くが消えて行ったね
鈴 木…う~ん、そうですね。
聞き手…そのドラフト1期生で200勝したのは君が最初で、今なおエースとして頑張っている。しかも近鉄は
    正直言って決して強いチームじゃないだけに、君の実力で勝っている。大したもんだよ。

鈴 木…それも巡り合わせですよね。僕らの時からドラフト制度が出来て自分で行きたいチームを選ぶことが
    出来なくなった。でもあそこのチームが好きだとかファン目線で見るのと職場として働けるかどうかは
    全く違う。関西に住んでいましたから阪神が好きでしたし、阪神からも欲しいと言われてました。
    ドラフト制度が無かったら阪神を選んでいたかもしれませんが阪神で今みたいな野球人生を過ごせて
    いたかは分かりません。

聞き手…近鉄に指名されてすんなりプロ入りを決めた?
鈴 木…いえ、当時は阪神以外は大学進学を考えていました。でも色々な方の話を聞いて最終目標はプロ入りだと。
    だったら1日でも早くチャンスがある時にプロ入りすべきと気持ちを入れ替えて近鉄入団を決めました。


まずライバルに勝つ
聞き手…入団当初からずっと一軍でしたか?
鈴 木…ドラフト2位指名で無名でしたし最初は二軍でした。ウエスタンリーグのトーナメント大会の準決勝戦で
    完封したんです。そして翌日の決勝戦で5回からリリーフ登板して抑えて近鉄が優勝したんです。近鉄が
    優勝と名が付くものを手にしたのは一軍はもちろん二軍でも初めてで、ご褒美で一軍に上げてもらえた。
    5月24日の後楽園球場の東映戦で投げてプロ初勝利です。

聞き手…ドラフト2位指名か。1位指名は誰だったの?
鈴 木…田端(謙二郎・鎮西学園)というてね電電九州から来た投手です。当時の野口投手コーチが田端投手は
    即戦力で15勝が確実だと評価していて最初から一軍でした。

聞き手…ライバル意識はあった?
鈴 木…ありましたね。ないとダメでしょ。プロの世界は負けず嫌いじゃないと成功しないと思います。敢えて口に
    出すかしないかは別にして。

聞き手…チーム内でライバルがいなくなったら他のチームの選手をライバル視?当時の左腕投手だと梶本投手(阪急)?
鈴 木…梶本さんや小野さん・荒巻さん(毎日)ですかね。でも一番は村山さん(阪神)です。
聞き手…今後の目標は優勝ですね?
鈴 木…はい。是非とも西本監督を胴上げしたいです。それと個人的には300勝です。
聞き手…おお、300勝ですか。頑張って目標を達成して下さい。今日はありがとうございました。
鈴 木…はい、頑張ります。ありがとうございました。
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# 822 選手会

2023年12月13日 | 1977 年 



「現行の年金では孫のオモチャ代にもならない」「選手会を法人化して共済会制度を設置する以外に退団後の保障はありえない」とプロ野球選手会が遂に立ち上がった。

月額5万円では女房・子供を養えない
OH砲(王・張本)2人合わせた年俸が1億円を超えたとかサッシー(酒井投手)の契約金が5千万円だのトップクラスのプロ野球選手の話題は確かに華やかだ。一方で今時そんな馬鹿な!と思える話も多い。野球協約では「参加報酬の最低保障」は年額60万円と定められている。月額5万円だ。もちろん実際には年俸60万円の選手は存在しない。しかし年俸120万円の選手はセ・パ両リーグに10人近くいる。昨年から年俸360万円以下の選手が一軍で出場した場合には差額を補填するシステムを採用したが、二軍の選手だけでなくレギュラークラスの働きをする中にも該当する360万円以下の選手がいたのが驚きだ。

「ウチの選手に聞いた話ですがプロ入り1年目は一般のサラリーマンより給料は上だが、二軍に埋もれたままだと3年目で抜かれてしまうそうです」と話す巨人・柴田選手会副会長。巨人選手の年俸は両リーグの頂点にあるが、中には低年俸の選手はいる。今季から一軍の試合に出場するようになったS捕手は入団9年目だが、今年の年俸は260万円(推定)。田淵選手(阪神)の控えだったF捕手は嘗て契約交渉で球団から年俸200万円を提示されたが「自分は女房子供を食わせていかなきゃならない。これじゃとてもじゃないが養っていけない」とタンカを切って任意引退の道を選んだケースもあった。

そんな時、球団フロントのお偉方から出る台詞は決まって「大リーグと違って日本の二軍は入場料金も取れないし本当の意味でプロとは言えない。二軍の選手が低年俸なのは当たり前ですよ」と言う。毎年ドラフト会議が開催されるが上位で指名されてもプロ入りを拒否して社会人野球の道を選ぶ高校生や大学生がいる。一流企業に就職すれば好きな野球をやって55歳の定年まで働いた方が生活は安定するし、まとまった退職金も手にできる。仮に年金受給資格の「10年選手」になっても月額2万4千円が貰えるだけだ。なるほど「孫のオモチャも買えない」というのも頷ける。


経営者任せでは夢も希望もない
選手会は毎年オールスター戦期間中にセ・パ両リーグ会長や経営者側代表4人が出席して開かれる特別委員会で年金の大幅アップを要求し続けてきた。プロ野球年金基金は財団法人日本プロ野球機構が委託者になり東洋信託銀行および三菱信託銀行が管理しているが、約8億円余りがプールされているという。オールスター戦や日本シリーズの収益と選手個人の拠出金で毎年8千万円が積み立てられるが、現在の受給者200人に加え毎年10人近くが受給者に加わる。「このまま経営者側に年金を任せていたら引退後に老後を安心して送れない。選手会を法人化して選手会独自に共済資金を作り不安を一掃しよう」と立ち上がった。

法人化が認可されれば税金は無税になる。選手会は昨年暮れ東京・九段の武道館で「プロ野球・歌の球宴」を文化放送と共催して成功させ、この時に選手たちが得た報酬300万円をプールし選手会の資金とした。言うなれば「歌の球宴」が選手会をパワーアップさせる文字通りの旗揚げ興行となったわけだ。しかし法人化が実現しなければ選手会がいくら資金を稼いでも莫大な税金を課せられることから選手会は顧問弁護士として依頼した下飯坂常世弁護士に相談したところ、法人格獲得の勝算ありとの報告を受けた。そうなればまさに画期的な事となる。7月24日に大阪で開催された特別委員会で正式に法人化申請の件が報告された。


選手会主催でゲームがやれるか?
選手会は将来、枯渇するであろう年金資金補充の為に選手会主催の試合開催を考えている。特別委員会終了後に会見に応じた岡野パ・リーグ会長は「選手会から改めて法人化して共済制度を作りたい旨の提案がありました。我々も異議はないので一緒に研究しようということで一致しましたが、選手会主催の公式戦開催の件は統一契約書に抵触する案件なので却下しました」と述べた。統一契約書第19条の【試合参稼制限】で「選手は本契約期間中、球団以外の如何なる個人、又は団体の為にも野球試合に参稼してはならない」と明記されている。勿論、選手会はそれを承知しているが但書の「コミッショナーが許可した場合はこの限りではない」を拠り所としている。

福島パ・リーグ事務局長は「試合開催は難しいでしょうね。そもそも選手会の法人化は簡単ではない。認可は文部省の管轄で公益社団法人の適格性を持たせなくてはならない。例えば青少年の体育向上とか育成に協力を呼びかけなければ共鳴されないでしょう。選手ら個人の共済制が第一目的では認可されるか疑問です」と法人化の難しさを話す。たとえ法人化が認可されたとしても大リーグの選手会並みにタカ派的にはなれないだろう。選手会の顧問弁護士の下飯坂常世氏は鈴木セ・リーグ会長とは長年付き合いのある温厚なハト派弁護士で、鈴木会長自らが選手会に顧問弁護士就任の推薦をしたのだから機構側に弓を引くとは思えない。
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# 821 青バット

2023年12月06日 | 1977 年 



一直線に弾丸ライナーでスタンドに飛び込むホームラン。片や大きな弧を描いてフェンスを越えるホームラン。青バット・大下弘の打球は天高く舞い上がるモノだった。

最強打者の夢は青バットと共に
日本プロ野球は昭和11年に創設された。そんな昔の事を言われても分からないという若い読者に伝えると、あの「二二六事件」が起きた年だ。それくらいプロ野球の歴史は古い。そのプロ野球の歴史の中で最強の打者を選べと言われたら大いに悩む。打撃の神様・川上哲治を落とすわけにはいかない。またミスタープロ野球・長嶋茂雄も同じく外せない。他にも王貞治や野村克也、中西太など枚挙に暇がない。しかし敢えて私が選ぶとしたら先ず大下弘の名前を最初に挙げる。昭和21・22年に「赤バット・青バット」が流行した。この赤バットと青バットが有名になった経緯はまるで違う。

東京・銀座に南風堂と言う運動具店があった。アイデアマンだった店主が当時、日本中に広がっていた軟式野球を利用してひと儲けすることを思いついた。軟式バットに赤ペンキを塗って売り出したのだ。だが当時はまだテレビはなく、宣伝したくても手段がなかった。そこで店主は川上選手に赤色に塗装したバットを無償提供して試合で使ってもらった。今で言うスポーツ用品メーカーのアドバイザリー契約だ。柴田選手や高田選手がスポーツ用品メーカーのCMに出ているのと同じことを川上選手にお願いした。だから川上選手が使う赤バットには南風堂の刻印が入っていた。

対する大下選手の青バット誕生は川上選手のそれとは性質を異にする。商魂とは別の男のロマンがあった。昭和21年1月に発売され大流行した『リンゴの唄』の歌詞の中にある♪ 黙って見ている青い空 ♪が大好きだった大下選手。「当時、川上さんが赤バットを使っていて、もし私ならこの青い空の青色にしたいと思いました。果てしない青空、男の心はかくありたいと思いましたね」と大下選手は述懐した。占領下の日本ではペンキを入手するのは簡単ではなく、駐留していた米兵専門店のPXに行くしかなかった。川上選手の赤色はペンキをハケで塗装したものだったが、大下選手の青色は吹き付け塗料だった。


ピタリと当てた男
昭和24年8月18日、札幌・円山球場で第1試合は大映対東急、第2試合は巨人対中日の変則ダブルヘッダーが組まれていた。第1試合は8回終了時点で12対2と大映が大量リードし勝敗はほぼ決まっていた。9回表一死、打席に入った大下選手はマウンドの野口正明投手に向かって「打たせろ」と声をかけた。つまり打ちごろな直球を投げろと要求したのだ。さすがに野口投手は拒否してカーブを投じた。それを見透かしたかのように大下選手は引きつけて強振した。打球は青空に吸い込まれるように舞い上がった。その時、球場隣の陸上競技場では第2試合の巨人と中日の選手たちがウォーミングアップをしていた。

「ウオゥ」という球場からの大歓声に気づいた巨人と中日の選手たちが空を見上げると白球が上昇していた。「誰が打ったんだ」との声に「あんな打球を打てるのは大下さんだ」とピタリと言い当てた選手がいた。中日の杉下茂投手だった。なぜ杉下投手は断言できたのか。「簡単ですよ。青空に消えていく打球に見覚えがあったからです。私が明治大学在学中に先輩の大下さんが明大の練習場に来て指導してくれたんです。今ならアマチュア規定に抵触して大問題ですけど。その時に大下さんが打撃練習を見せてくれました。打球は45度の角度で舞い上がり滞空時間は5~6秒あったでしょうか。その時見た打球と同じでしたから」と杉下投手。


頂点52メートルの高射砲ポンちゃん
野口投手から放った打球はグライダーのように右翼スタンドを横切り雑木林を越え小川を飛び越え、なおも飛び続けた。推定飛距離は約150m で大下選手にとって最長飛距離の本塁打となった。大リーグのアストロドーム球場の天井はベーブルースが放った打球を参考にして高さは62m に設計されている。大下選手の打球もそれに匹敵する高さであると推定される。後楽園球場の照明塔は地上41mだから大下選手の打球は照明塔より20m上を行く。今もしも大下選手が現役だったなら " 青バット " のように " 青空打者 " とニックネームをつけられたかもしれない。

大下選手のアダ名 " ポンちゃん " には様々な通説がある。芸者の「ポン太」に惚れ込んだからとか、麻雀をすると必ず「ポン」をするとか。更にはスイングする時、大下選手はバットの先端をグッと下げる癖がある。ある時、バットの先が振り上げた右足に「ポン」と当たったとかいうのもある。だが真説は明治大学在学中に打撃練習で「ポンポン」放つのを見た先輩の河西俊雄や加藤三郎らが「よくもまあ高射砲のように高角度でポンポンと打ち上げるよなぁ。顔はボンボンだが打球はポンポンだ」と驚き、練習が終わると先輩たちは大下選手を「おい、ポン!」と呼ぶようになったなったという。
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