納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています
巨人はドラフト会議をボイコットしただけでなくドラフト会議そのものを「無効」であるとして提訴し反撃が始まる。今回はボイコットから金子コミッショナーの所謂 " 強い要望 " が出るまでの1ヶ月を巨人及び讀賣グループの動きを内側から振り返る。
S53.11.21 … 巨人が江川と契約したと発表。鈴木セ・リーグ会長が選手登録申請を却下すると巨人は翌日のドラフト会議ボイコットを表明
11.22 … ドラフト会議当日午前中にセ・リーグ連盟が江川との契約を却下した事に対し巨人が異議申立書を提出
南海・ロッテ・近鉄・阪神の4球団が江川を1位指名入札し抽選の結果、阪神が交渉権を獲得
会議終了後に巨人がドラフト会議無効の提訴状提出
11.23 … 巨人はドラフト会議で指名されなかった鹿取投手(明大)らをドラフト外で獲得へ
後楽園球場ではファン感謝デーが開催。入場者は4万7千人余り
11.24 … セ・リーグのオーナー懇談会終了後に松園(ヤクルト)、中部(大洋)、松田(広島)オーナーが正力オーナーを訪ねる
11.25 … 金子コミッショナー、鈴木セ・リーグ会長、工藤パ・リーグ会長が会談
11.26 … 熱海で巨人軍納会
11.28 … 江川の契約却下に反論する書類を提出。江川が栃木県小山市の自宅付近でトレーニング開始
11.29 … 巨人がホテルニューオータニに報道関係者を招き1年間の慰労会を開く
11.30 … 工藤パ・リーグ会長が大阪で南海、阪急、近鉄の首脳と会談
12. 1 … 江川が日本テレビ「野球教室」のインタビュー収録。巨人がドラフト会議無効に関する書類を提出
12. 2 … 金子コミッショナー、鈴木セ・リーグ会長、工藤パ・リーグ会長が会談
12. 3 … 熱海後楽園で巨人OB会。日本テレビ「野球教室」にて江川のインタビュー放映
12. 4 … パ・リーグ理事会開催。NHKの「NC9」に江川が生出演しインタビューを受ける
12. 5 … 東京グランドホテルで開催されたセ・リーグオーナー会議に正力オーナーが出席しドラフト廃止論を提唱
讀賣新聞紙上で星野運動部長の署名入りの「今日の断面」を掲載
12. 6 … 5日付け「今日の断面」を関係各位3千箇所に郵送
12. 7 … セ・リーグ理事会開催
12. 9 … パ・リーグ理事会及びパリーグオーナー懇談会開催
12.11 … 江川がフジテレビ「ニュースレポート6:30」のインタビュー収録
12.12 … 金子コミッショナーが大阪で阪神・田中オーナーと会談
12.13 … 長谷川代表をコミッショナー事務局に呼び出し事情聴取
12.14 … 江川がフジテレビ「3時のあなた」に出演しインタビューを受ける。金子コミッショナーと工藤パ・リーグ会長が会談
12.15 … セ・リーグ理事会開催
12.21 … 金子コミッショナーが「江川との契約を認めなかったセ・リーグの決定は正しい」 「ドラフト会議は有効」と裁定を下す
12.22 … コミッショナー事務局が緊急実行委員会を開催し金子コミッショナーが「強い要望」を表明
ドラフト会議ボイコットからコミッショナー裁定が下される1ヶ月間、巨人及び讀賣グループの動きを内部から見ていくと・・・11月20日を契機に江川盗りへの徹底抗戦の軌道を我武者羅に突っ走るしかなかった。讀賣新聞社内での会議は連日行われ巨人がとった行動を正当化する為に次々と異議申し立てや提訴を行なった。また新聞やテレビを使ってドラフト制度の非を鳴らし巨人の合法性を訴えた。11月22日、ドラフト会議を欠席した午前中に「江川との契約却下」に対する異議申立書を長谷川代表が提出、午後には「巨人の欠席により構成要件が欠けているドラフト会議の効力は発生せず会議そのものが無効である」として提訴した。
同じ頃、讀賣新聞社の編集・販売・広告・出版の各部門の責任者が集まり情勢分析が行われた。販売部数の落ち込みが当初の予想より少ない4~5万部に留まった事に力を得て系列の報知新聞と共にドラフト制度批判や巨人がとった行動の正当性を紙面上で展開した。讀賣新聞一面のコラム「編集手帳」にドラフト制度がもたらす悲劇を載せたり、極めつけが12月5日付け朝刊の「今日の断面」に星野敦志運動部長の署名入りで480行に及ぶ『江川問題これが本質だ』の大論文を掲載した。「巨人はあくまでも正当であり巨人や江川への批判・暴言は巨人を悪者にしようとする意図的なモノだ」とする擁護論を繰り広げた。
また読売出版局発行の「週刊読売・12月10日号」に " 正力オーナーに聞く " と 江川の手記 " ボクはあくまで巨人で戦いたい " を掲載した。更に活字媒体だけに留まらずテレビにも進出した。江川の実際の姿や話を一人でも多くの人に聞いてもらいマスコミによって作られた虚像を打ち消そうとした。先ずは同じ讀賣グループの日本テレビ「野球教室」に出演し世間の反応を見た後に、より公共性の高いNHKのニュース番組「NC9」にてインタビューに答えた。その後も主婦向けのフジテレビ「3時のあなた」や夕方の「ニュースレポート6:30」など様々な番組に出演した。
外部への対策を立てる一方で讀賣内での意思統一を図る必要もあった。巨人は納会や家族親睦会を開催した際には正力オーナーが直々に「巨人軍がとった行動は正しい」と強調し続け、OB会では長谷川代表が「どうか巨人軍を助けて欲しい」と訴えた。また讀賣新聞に掲載された「今日の断面」を讀賣関係者は勿論、巨人軍後援会である「無名会」の主要メンバーの野村証券・波川美能留会長をはじめとした財界大御所十二名、「フェニックス会」の東洋曹建工業・森嶋東三社長ら中堅クラス十九名、「ホームランクラブ」のパイオニア・松本誠也社長ら若手財界人など合わせて3千余人にも郵送した。
もっとも受け取った財界人の反応は様々で批判的な声も多く週刊誌の格好のエサとなったりもした。巨人軍の果てしなき抵抗は続けられ矢面に立つ長谷川代表のゲッソリと痩せこけた顔は今でもハッキリ憶えている。しかし12月21日に巨人と江川が交わした契約を無効とした鈴木セ・リーグ会長の判断は正しく、無効を訴えていたドラフト会議も有効であるとし巨人軍の主張を全面的に却下したコミッショナー裁定により巨人軍は撤退するしかなかった。が、翌日の所謂、「阪神は江川と契約した後に江川を巨人へトレードすべし」との金子コミッショナーによる「強い要望」によって巨人軍は一夜にして地獄から天国へ駆け上がる事となり1ヶ月に及ぶ激動の幕は降ろされた。
第十五章 ~ 新人選手の選択 ~
第138条:球団が選択した選手と翌年の選択会議開催の前々日までに選手契約を締結し支配下選手の公示をする事が出来なかった場合、当該球団はその選手に対する選手契約締結交渉権を喪失すると共に以後の選択会議でその選手の同意なしに選択する事は出来ない
文字通りに解釈するとドラフトの前々日までは交渉権があるが前日なら交渉権を失った球団以外の他球団が交渉する事が可能となる、巨人側はそう判断した。江川側が交渉を一任していた自民党副総裁・船田中代議士はかつて法制局長官も務めており法曹界にも知人も多く各方面に確認した結果、その解釈は法律的に間違いないとのお墨付きを得ていた。だがその " 空白の一日 " はコミッショナー事務局に言わせればあくまでも事務的手続き、準備の為の一日であった。そういう点で野球協約には法的不備が数多く見られた。空白の一日について文言通り解釈するか、或いはコミッショナー事務局が主張する球界内部の取り決めである慣習を取るかによって解釈も大きく変わってくる。
江川を取り巻く環境は激変していた。前年に交渉権を得ていたクラウンライターが西武に買収され江川の交渉権も西武に移った。江川攻略に西武が動き出す。新任の宮内巌球団社長は10月17日に江川側に交渉を申し入れると20日に渡米し直接交渉に臨んだ。だが江川本人の意志は変わらず滞在するロスで会見を開き「西武さんにはお断りを入れました。巨人入りの気持ちは変わっていません」と公言した。慌ただしさが増して船田事務所は遂に伝家の宝刀を抜く決意をし、蓮実秘書を通じて長谷川代表に強行突破しかないと持ち掛けたのが10月末だった。船田事務所に長谷川代表と山本栄則顧問弁護士が出向き法律的な確認を終えると正力オーナーに「江川獲得にはこの方法しかない」と決断を迫った。
これを機にこの事案は巨人軍の手を離れて讀賣新聞編集局内の専門グループに委ねる事となった。渡辺恒雄政治部長(現専務取締役)が中心となり法的理論武装を確立していった。ちなみに野球協約の不備を指摘し空白の一日を見つけたのもこのグループだった。この時点まで巨人側は鈴木セ・リーグ会長は味方になってくれると考えていた。球界内部のルールを破り道義的な問題が発生する事は覚悟の上だった。仮にこれが事破れればリーグ脱退もやむなし、と腹を括り新リーグを結成した場合に参画してくれそうな球団をリストアップしていた。11月18日、長谷川代表と山本弁護士は紀尾井町のホテルニューオータニで鈴木会長と会い空白の一日を指摘し江川と契約したい旨を打診した。鈴木会長は「そんな暴挙は世間が許さない」と認めなかった。
11月20日午後5時過ぎ、江川がロスから緊急帰国する。殺到するマスコミの問いかけにも「分かりません」「お答えできません」を繰り返した。成田空港から船田事務所へ直行した後に南青山の蓮実秘書宅に身を寄せた。その頃、讀賣新聞社7階にある社長室で正力オーナーと長谷川代表が最終的な打ち合わせをしていた。日付が11月21日に変わった午前零時半、長谷川代表は社長室を出てホテルニューオータニへ。そこには蓮実・大嶋両秘書が待っていた。記者発表用の書類に目を通し不備がない事を確認すると大嶋秘書がアマチュア野球担当の幹事である産経新聞運動部の名取和美記者宅に電話を入れた。前夜から船田事務所を通じて「21日に江川選手に関する会見を行う。時間や場所は改めて」と連絡を受けて会社で待機していたが夜10時を過ぎても連絡がなかった為、帰宅していた。
既に風呂にも入ってくつろいでいた時に電話が鳴った。「21日午前9時半から船田事務所がある全共連ビル6階で江川選手の件で会見を行う」と告げられたが彼女にも会見の内容は伏せられた。それから名取記者は各マスコミの担当者に電話を入れた。「最後の社に連絡し終わったのは午前4時過ぎ。すっかり風邪を引いてしまった(名取記者)」と後日愚痴をこぼしていた。21日午前6時を過ぎるとホテルニューオータニから長谷川代表、山本弁護士、蓮実・大嶋秘書も駆けつけやがて江川父子も来た。午前7時に正力オーナー、8時に船田代議士が現れ全員が揃った所で長谷川代表が用意してきた統一契約書に江川がサイン。正力オーナーと江川が握手し大騒動劇の幕が切って落とされた。昭和53年11月21日午前8時50分だった。
午前9時33分、全共連ビル6階の会議室「オークルーム」に殺到した報道陣を前に正力オーナーが用意した声明文を読み上げた。「本日午前9時、読売巨人軍は江川卓君と契約いたしました。ご承知の通り江川君は昨年の・・・中略・・・従って江川君は今日11月21日現在、ドラフトにかけなければならない資格条件はないものと判断いたします。以上の観点に立ち野球協約に従い契約を終了した次第です」と一気に捲し立てた。騒然とする記者達を尻目に「江川君の巨人入団が決まりこの1年に渡り身を預かっていた私としては喜びにたえません。この上は1日も早く立派に成長して欲しいと願っています」と船田代議士が続いた。記者からの質問を遮り江川が立ち上がり「子供の頃からの夢が実現して大変嬉しく思います…」と型どおりのコメントをした。
「一体いつから巨人と話し合っていたのか?」「明らかな協約違反ではないか」など次々に記者から質問が飛ぶ。それに対し江川は「僕自身はこのような方法があるとは思っていませんでした。話は今日の朝に初めて聞かされました。しかし巨人軍に入りたいという思いは変わりなく、それが今日なら協約上可能であると聞かされ納得してサインしました」と淀みなく答えた。質問は長谷川代表にも飛ぶ。「球界の盟主を自任している巨人がこんなドラフト破りをしていいと思っているのか?」それに対し「協約に従った正しい契約だ。法律的に問題ないと確認している」と長谷川代表は撥ねつけた。会見場は混乱する一方だったが長谷川代表は「これにて会見を終了します。本日は朝から御苦労様でした」と会見を打ち切った。抗議する記者も幾人かはいたが多くの記者は電話にすっ飛んで行った。「江川、巨人と契約」のニュースは瞬く間に日本中を駆け巡った。
長年の新聞記者生活で筆者は独自のアンテナ網を球界に張り巡らせていた。その網にかかったのが「阪神は江夏を出したがっている」と「野村が巨人入りを望んでいる」のビックな情報だった。もしこれらが本当なら球界地図が塗り替えられるような天変動が起きる・・
昭和50年の12月初旬の事だった。自宅の電話がけたたましく鳴った。昔の新聞記者仲間で大阪の球界事情通として一目置かれているK氏からだった。「阪神が江夏を放出しますよ。巨人で獲りませんか?」 にわかには信じられない情報だった。K氏を疑う訳ではないが一応は自分の情報網を駆使して確認した所、確かに阪神球団のトップレベルで交換トレードを画策していた。私は直ぐに佐伯常務に報告し「獲る価値は有りますよ」と進言したが佐伯常務は「阪神がウチに出すかね」と余り乗り気ではなかった。とにかく今はこちらから動かず状況を見守ろうという事に落ち着いた。
佐伯常務が今一つ乗り気でなかった理由がいわゆる「黒い霧事件」に江夏が関与しているのでは、という当時の世間の声だった。個人的には江夏の潔白を信じたかったが球団上層部を納得させるには確証が必要だった。そこで讀賣新聞を通じて関西地方の組織暴力団について事細かに把握している大阪府警、兵庫県警に情報を求めた。しかし年末で忙しかったのも手伝い回答はなかなか得られなかった。そうこうしていると12月24日付のスポーツ紙が『江夏(阪神) ⇔ 江本(南海)の交換トレード成立』と報じて愕然としたが直ぐに阪神の長田球団代表が「数球団から打診があるのは事実だが江夏は来季の構想に入っている」と否定した事でまだ脈アリと判断し情報収集を続行した。
間もなくK氏から「長田代表の話は嘘。26日に契約更改予定と言っていたが本人には連絡していない」と情報が入った。その時点で未だ警察からの返事は無かったが私の独断で江夏に接触する事を決めて電話をかけた。「一度お会いして話をしたいのですが」「暮れに東京へ行きますからその時に」「では29日に是非」など会いたい理由は告げなかったがお互い阿吽の呼吸だった。29日夜、場所はホテルニューオータニ
「巨人に来る気はないですか?」
「やはりその話でしたか。私も早くスッキリしたいと思っています」
「是非とも来て頂きたい。長嶋監督も賛同しています」
「巨人軍が本気で私を欲しいと思っているなら異存はありません」
「あなたの気持ちは分かりました。上層部と相談して話を進めます」
江夏は阪神球団や吉田監督の事を批判する事なく終始折り目正しい口調で応対し、巷間伝えられているような人間でない事を確信した。年が明け昭和51年の仕事始めとなった日に大阪府警、翌日には兵庫県警から相次いで回答があった。共に「江夏の身辺は全くのシロ」だった。その結果を持って讀賣新聞本社9階のオーナー室で正力オーナー、長谷川球団代表、佐伯常務と私の4人で会議が開かれた。江夏獲得で意見は一致したが肝心の交換要員の目途が立たず阪神球団にトレードの申し込みすら出来ずに時間ばかりが過ぎて行った。やがて1月19日のスポーツ紙に南海と「3対5」の交換トレードが成立と報じられるに至り、残された時間は少ないと判断した上層部がようやくトレード申し込みに動いた。
1月22日、私はオーナー室から阪神球団へ電話をかけ、長田代表が電話に出ると長谷川代表に代わった。「巨人軍の長谷川です。お宅の江夏君をトレードして頂きたいのですが…」私は固唾を飲んで次の言葉を待った。「そうですか。それは残念ですが縁が無かったという事でしょうな。失礼しました」と言うと電話を切った。「きょう決めたそうだ。やはり南海だ。遅かったな」と一息入れて答えた。トレードは確かに難しい。だがタイミングさえ良ければ成立もする。そんな教訓を得た江夏のトレード話だった。幻に終わったトレード話は幾つかある。野村監督の場合もその一つだ。
昭和50年8月の阪神戦で大阪に遠征した際に当時の毎日放送アナウンサーM氏が宿舎を訪れ「その辺で一杯やりながら…」と誘われ近くのバーでグラスを傾けた。他愛もない雑談の後「巨人でノムさんを獲らんかな」とポツリ。「ノムさんて、あの野村監督?」と聞き返すと「そう。色々と球団と揉めていて本人から相談されたんだ」と一連の愛人騒動で南海を出たいと言っているらしかった。当時の巨人は32勝48敗4分で最下位に低迷していたが投手陣の不調に加えて捕手陣のリードにも低迷の原因があると批判されていた。そんな状況下で野村捕手の卓越した頭脳とリードは魅力的だった。ただ懸念は長嶋監督の存在。道程は違っても共に大スターの道を歩んできた者同士、ぶつかり合う可能性もあった。野村監督は「気にしない」と言ったが長嶋監督は「どうかなぁ…」その一言でこの話は消えた。野村監督の南海残留が発表されたのは数日後だった。
最下位の屈辱を晴らすべく長嶋巨人のトレード攻勢は続いた。加藤という大魚を首尾よく釣り上げる事には成功したが持ち駒は少なくそうそう旨い話は転がっていない。にべもなく断られるケースが殆どだった。筆者はアテもなく大阪へと出発する・・
昭和50年10月22日、私は一通のリストを懐に忍ばせ球団事務所を後にし新幹線に飛び乗った。行き先は新大阪。マスコミの目を避けての移動だったが車中で顔見知りの記者(共同通信社)と鉢合わせした。「おや、張江さんどちらに?」 まさかトレードの交渉に行くとは言えずドキリとしたが平静を装い「以前から故郷のお袋の具合が悪くてね。日本シリーズ開始までは暇なのでちょっと見舞いに」と誤魔化すと記者は「それは大変ですね。故郷は金沢でしたよね、お大事に」と挨拶し別れ座席に腰を下ろしホッとした。しかしよく考えればその列車は「ひかり」で金沢方面へ乗り換える米原駅には停車しない。まずいかなとも思ったが記者は国体が開かれている三重県に向かうと言っていたし米原駅より手前で下車するから大丈夫だとタカをくくっていた。しかし敵もさる者、米原駅に停車しない事は先刻承知で名古屋駅で下車すると直ぐに大阪の支社へ連絡したという。
最初の交渉相手は近鉄だった。しかし私が手にしていた相手のリストには魅力を感じる選手の名前は無かった。事前に交渉に伺うと連絡をしていたのは近鉄の他に南海と阪急。失礼のないように近鉄側に断りの挨拶を済ませ次に向かったのが大阪・ロイヤルホテル。そこには野村監督(南海)が待っていた。南海で白羽の矢を立てたのは柏原選手。以前に野村監督と何度か会った際に「アイツは内野ならどこでもこなすし外野も出来る。打撃もどんどん良くなる筈や」と聞かされていた、いわば秘蔵っ子。なのに「出してもいい」と予想外の答え。今思い返せば当時の野村監督は愛人騒動で球団と揉めていて半ばヤケになっていたのかもしれない。
「張江さんの気持ちは分かった。その情熱に敬意を払う。ただ私としては長嶋監督の気持ちが知りたい。本当に柏原を欲しいのか、どのように育ててくれるのかを聞きたい。会えずとも電話で構わない」と最後に注文をつけた。私は「分かりました。必ず長嶋監督から電話なり連絡させます」と答え別れた。翌日の夕方、今度は阪急の梶本投手コーチ宅を訪問した。日本シリーズを2日後に控え忙しかった筈だが快く迎え入れてくれた。梶本夫妻とは家族ぐるみの付き合いで新聞記者時代には海外旅行を共にした仲だ。だが商売の話となるとなかなか切り出せず、どうにか「実は阪急の選手が欲しい」と幾人かの選手の名前を挙げたが梶本コーチは「投手はともかく野手の事は分からない。日本シリーズが終わったら上田監督とも相談して回答したい」としながらも個人的意見として水谷投手を推薦してくれた。
梶本宅を後にし宝塚市内のホテルに戻り球団にこれまでの経緯を電話で報告した。その際に野村監督の伝言を長嶋監督に伝えるよう頼んだ。東京へ戻る前に西本監督に直接会って非礼を詫びる事にした。形通りの挨拶を済ませて帰ろうとすると西本監督の方からリストには載っていなかった選手を挙げて改めてトレードの話となった。神部投手、梨田捕手、有田捕手、羽田選手の名前が有り興味をそそられたが交換相手に高田選手を要求された為に近鉄とのトレード話は断念した。トレード話とは別に西本監督には長嶋監督の野球、采配など有意義なアドバイスを頂いた。本当に野球を愛し立教大学の後輩でもある長嶋監督へ寄せる期待には頭が下がる思いだった。このトレード行脚で成立したのは水谷投手(阪急)と島野投手(阪急)だけに終わったが返す返す残念だったのが野村監督への電話がいつも不在で繋がらず柏原の獲得が成らなかった事だ。