Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 589 印象度バツグン男 ➋

2019年06月26日 | 1985 年 



コイと恋でお金も来い!オレ、エンターテイナー欠端だ
今季はカープキラーの名を欲しいままにし、チーム二番目の9勝をマークした欠端投手。周囲から " ザ・カケハタ " と呼ばれるエンターテイナーに「お願いだから黙っていて欲しい」と懇願されたことがある。クジラ番記者が合宿所の部屋を訪ねた時、乱雑に散らかった机の上にポツンと写真立てが置かれてあった。無類の親孝行で毎月10万円を両親に送っている欠端なので家族の写真かなと目をやると、そこにはニッコリと微笑む可愛い女性が写っていた。事情を察した記者は無粋な質問はせず欠端を見ると顔を真っ赤にしていた。結婚もしていないので内助の功というのもおかしいが今季の欠端の活躍とその女性は無縁のものではないと直ぐに分かった。

今季はプロ入り最高の9勝をマークし、そのうち5勝を広島戦で稼いだカープキラー。恋とコイの両手に花の1年だった。「自分の投球をすれば打たれない、という事じゃないですかね。広島だからと意識はしてませんよ」と勝つたびに欠端は繰り返し言っていた。特に7月10日の試合は見事だった。この東北遠征シリーズではご当地の盛岡で故郷に錦を飾った。この前日の試合でエース・遠藤投手が延長10回を投げ抜いたが打撃陣の拙攻もあって1対1の引き分けに終わり、「今季で最も頭に血が昇った試合だった」と近藤監督が振り返る翌日の試合に欠端は登板して勝利した。「欠端のお蔭であの引き分けが無駄にならなくて済んだ。欠端サマ・サマだよ」と近藤監督は話す。

試合には欠端が生まれ育った岩手県福岡町からバス20台を連ねて大応援団が駆けつけた。人口2千人の町のほぼ半数近くが欠端を応援しにやって来たのである。一塁側スタンドからオラが町の英雄に大声援を送る風景は甲子園球場の高校野球のような大騒ぎだった。結果は完投勝ち。スタンド以上に欠端も興奮し、花束を格好よくスタンドへ投げ入れて渾身のガッツポーズを決めた姿は今季印象度ナンバーワンに相応しい。時は過ぎ、いま欠端は球団と来季の年俸を巡って熱き戦いの真っ最中だ。希望は倍増の一千四百万円。「球団には倍増は難しいと言われました。 " 難しい " けど可能性はゼロですか?と聞いたら、そういう言葉尻を取るのはヤメロと怒られました。でも諦めませんよ(欠端)」と今度は粘投宣言だ。



主砲・谷沢を慌てさせた実力者。今季大活躍した川又の背中には努力の文字がキラリと輝く
12月3日、川又選手の結婚披露宴の会場で挨拶に立った谷沢選手は「今シーズンの川又君の活躍は二度も怪我をして欠場した僕のお蔭です」と自嘲気味に笑った。同様の言葉は同じく怪我に悩まされた大島選手からも出た。鈴木球団代表は昨年の契約更改でチーム唯一の減俸となった川又を引き合いに出し「給料を下げられた川又君が意地と努力で今季の好成績を残した。感無量です」と思わず絶句した。開幕前は川又に注目する人は少なかった。一塁には谷沢がデンと鎮座し、西武へ移籍した田尾選手の後釜には藤王選手が事実上決まっていた。" 王二世 " と呼ばれていた川又だったが、多くの二世候補選手のように川又もいつの間にか騒がれなくなっていた。

そんな川又が一気にブレークした。確かに谷沢の故障欠場や藤王の伸び悩みなど外部の要因に助けられた印象もあるが、本人に活躍できる実力があったことは間違いない。6月頃から右翼の定位置を確保し7月に谷沢が倒れると一塁も兼任した。怪我で定位置を明け渡した谷沢は「一時の好調さでレギュラーが務まるほどこの世界は甘くない。必ず試合に出続ける苦しさを味わうことになる。まぁ俺が戻って来るまで頑張って欲しいね」と当初は余裕を見せていた。山内監督も「(川又の)課題は持続力」と3割2分を超す打率がいずれは落ちてくると考えていた。好調さは長くは持たないと思っていたのは現場首脳や同僚、更にはフロント陣にもあっただけに、披露宴で賞賛祝辞が続出したのだ。

周囲の懸念をよそに9月4日にはプロ入り初めて規定打席に到達し打率.314 で打撃10傑の7位にランクインした。遅れて来た " 王二世 " はその後も好調を維持しシーズン終盤まで打率3割台をキープしたが最終的に2割9分台に落としてしまいシーズン終了。最後の最後にプロの厳しさ、悔しさを痛感することになる。当初は余裕を見せていた谷沢だが「来年は川又を追い抜かなければレギュラーに戻れないと覚悟している。プロ野球とはそういう世界」と今では川又をライバルと認識している。昨年の契約更改で唯ひとり減俸となった川又は見事に蘇った。絵に描いたような復活劇の裏には、月並みだが川又自身の努力が存在していたのは間違いない。



男は黙って勝負した八っちゃん。ベストナインを手土産に故郷に錦を飾ります
プロ入り16年目にして金字塔を打ち建てた男がいる。プロ入り初の打率3割、ベストナインにも選ばれた八重樫幸雄・38歳。12月4日の契約更改で一千八百万円から二千九百五十万円にアップ。控え選手以外のレギュラークラスでは上昇率はトップだった。打率.302・13本塁打に相応しい金額だった。春先の4・5月は右肩痛に悩まされたが誰にも言わず身体にムチ打って出場し続けた。その甲斐あって2年連続で球宴出場も果たした。「古葉監督が推薦してくれて出場できた。やっと16年目にして僕の力が認められた気がする」と八重樫は訥々と振り返った。東北・宮城の出身で朴訥とした喋り方で派手な仕種もない。地味だが一歩一歩、牛歩の如く着実に力を付けてきた。

お馴染みのバッターボックスで体を思いっきり開く変則打法は近視性乱視という左右両眼のハンデを克服する為に自身で考えた末の苦肉の策だったが、今ではそのユーモラスな打撃フォーム姿を見に来る多くのファンを楽しませている。オープンスタンスで大きなお尻をブルンッと振って相手投手を威嚇する八重樫を土橋監督は「ハチは勝負強い。一発もあるし頼もしい」と絶賛する。広島遠征の時、連敗中とあって誰一人として夜の街に出かける選手はいなかった。そんな暗いムードを一掃するのはいつも八重樫だった。「さぁクヨクヨしたって仕方ない。パァ~と呑みに行こうぜ」と仲間を誘い、選手会長としてチームの気分転換に一役買った。

苦節16年。大矢明彦氏の陰に隠れてなかなか活躍できずにいたが一気に開花した。本人は「今がピークだと思うよ。でもね俺は40歳まで現役を続けるつもりだよ。若い連中には負けんよ」と分厚い胸板を叩く。正捕手の座を争う芦沢選手や秦選手は「八重樫さんは若い。気迫も凄くて…」とお手上げ状態。ヤクルト捕手陣で審判に注文をつけるのも八重樫が一番多い。大声で「おいっアンパイア、どこに目がついてるんだ!」「◆◆(相手打者)に気を使ってるのか!」など毒つく事もしばしば。気性も激しいが優しい家族思いな所も勿論ある。家に帰れば2人の娘の優しいパパだ。また今でも宮城の実家への仕送りも欠かさない心優しい八っちゃんである。
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# 588 印象度バツグン男 ➊

2019年06月19日 | 1985 年 



「巨人戦は僕の生き甲斐」派手な舞台で完全燃焼するタイガーマスク
木戸選手の活躍はバース選手や掛布選手ほどの派手さはなかったが、とにかくチームへの貢献度は大きかった。プロローグは4月10日の対巨人1回戦。4回裏に阪神は一挙7点を奪う猛攻をみせ巨人を粉砕した。この回の木戸の1号2ランが効いた。河埜選手が何でもないフライを落球し気落ちした加藤投手から一発。木戸は更に8回裏にも2ランと大暴れだった。ちなみに河埜はその後二軍落ちしてオフの契約更改では五百万円の減俸の憂き目に。「あの時、木戸に打たれなかったら俺も違ったシーズンだったかも…(河埜)」と更改後の会見で嘆いた。とにかく木戸は巨人戦になると打ちまくる。1・2号の後も5月19日(後楽園)に加藤投手から3号、6月4日(甲子園)に江川投手から4号、翌5日には西本投手から5号。何と6月5日時点で5本塁打全てを巨人戦で放っていた。

そのせいでこの頃の木戸は「巨人戦以外じゃサッパリなのに全国放送がある巨人戦だけ張り切りおって目立ちたがり屋が」と同僚の平田選手に盛んに冷やかされていた。それに対して木戸は「俺は働き所を心得ているんじゃ」と阪神の漫才コンビの掛け合いはチームのムードを盛り上げていた。打撃以外でも巨人戦でハッスルしていた。ある試合で頭部近辺にビーンボールまがいの投球をされると山倉捕手とあわや取っ組み合いの場面となり、両軍ベンチから選手が飛び出し乱闘寸前となった際も主役を演じた。首脳陣からの信頼も厚い。8月にファールチップを右手小指に当てて登録抹消になったが当時を振り返って吉田監督は「アイツが怪我をした時は拙いと思った」と。攻守ともに印象度はNo,1だ。



多忙のオフが今季の川端の活躍度を象徴している
選手がどれくらい活躍したか分かるのがシーズンオフ。色々な所からお声が掛かるのだ。その点で昨季の1勝から今季は11勝7敗7Sと活躍し、引っ張りダコなのが2年目の川端投手で暮れの12月末までスケジュールがビッシリ。昨年のオフはプロ野球選手の歌合戦に呼ばれたのが唯一の仕事。しかも本人によれば「お情け」の出演だったそうで、家にいてもやることがなく暇を持て余したので友人たちと長野県にスキーをしに行ったら貸しスキー店で「29cm」の靴は無いと言われ、仕方がないので子供用のソリで遊んでいたとか。ところが今年は一転してまるで別人のような忙しさで東奔西走の毎日を送っている。

「忙しいということは本当に素晴らしいことですねぇ(川端)」充実した1年だった。入団時は即戦力と言われて10勝は出来ると期待されたが僅か1勝に終わり、大学もプロ入りも同期で「負けたくない(川端)」とライバル視していた池田投手(阪神)に大きく水を開けられた。今季も必ずしも平坦な道のりではなかった。シーズン序盤は二軍落ちし、一軍昇格は5月になってからだった。二軍にいた間にカムストック投手(巨人)のスクリューボールを自分なりに研究して体得したり、同僚の小林投手のパームボールを軸にした投球を参考に " バタボール " を開発して5月6日の大洋戦でプロ初完投勝利に繋げた。以降はトントン拍子で11勝7Sの働きで古葉監督に「200%の働き」と評価された。

昨年、法大の後輩でもある小早川選手が新人王に選ばれた時は「彼には華があるけど僕にはない。新人王なんてとてもとても(川端)」と言っていたが見事に新人王を掌中にした。「今日(新人王発表日)はゴルフをしていましたけど正直、気になってプレーに集中できず散々なスコアでした」と発表当日のコメントは川端の一見穏やかそうな表情の裏にある秘めたる闘志を表していた。今季の広島の重大ニュースのトップが古葉監督の勇退ならば2位は川端の躍進だろう。12月27日に故郷の徳島にある新聞社が主催するパーティーが仕事納めとなる予定だったが急遽30日にも仕事が入るお忙氏ぶり。「年俸がグンとアップするんだから何か奢れって言ったら『OK任せとけ』だって」と川端と同期入団の伊藤選手は明かした。



来季へパワーアップ!吉村の成長こそがカド番王巨人のカギを握る
公約の130試合出場こそ逃したが初の規定打席に到達し打撃10傑入りの3位(3割2分8厘)、出塁率も最後の最後でバース選手(阪神)に抜かれたものの2位になるなど文句なしのシーズンだった吉村選手。来季の年俸も87%アップの二千八百五十万円で更改し、後楽園MVPに選ばれ百万円のボーナスをゲットするなどバラ色のオフを送っている。実績を残せば朗報も付いてくる。合宿所からの独立が球団史上最速で認められて世田谷区内にマンションを購入し、愛車もベンツに乗り換えた。更には来季から背番号が『7』になる。「来季こそ130試合出場を果たしたい。そして夢はでっかく首位打者です(吉村)」と早くも目標を掲げるあたりは自信の表れだろう。

その自信にはしっかりとした裏付けがある。今季の吉村は時間の許す限り後楽園球場で早出の特打ちをしてきた。勿論、合宿組の若手選手に課せられたノルマやよみうりランド室内練習場での打ち込みを終えてから更に自分に課した練習だ。また神宮や横浜などビジター試合の時は多摩川の室内練習場でチームメイトも呆れるほどの打ち込みをしてきた。それらが今日の吉村を支えている。「入団した頃は手のひらから血が噴き出して風呂に入れない時もあった(吉村)」そうで手のひらにテーピングをして入浴した逸話も残っている。高卒4年目にして巨人のレギュラーを確保した裏にはそれだけの努力があったのだ。

来季はPL学園の後輩の桑田投手も同じ巨人のユニフォームを着る。「彼は彼。僕は僕です」と一見突き放しているようだがそうではない。巨人のみならず球界の最高峰を目指す吉村にとってこれからが正念場であることを自覚しての言葉である。「課題だった左投手に対しても段々自信がついてきた。体が開かないように、ボールに向かっていけるようになってきた(吉村)」と頼もしい。原選手の伸び悩み、中畑選手の限界、そしてクロマティ選手も来季で契約が切れる。いよいよ吉村の時代がやって来る。「ホームランは最低20本は打ちたい」とパワーアップも自分自身への課題として挙げる吉村に欲は尽きない。吉村の成長こそがカド番・王巨人のカギを握る。
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# 587 男たちの収支決算 ➋

2019年06月12日 | 1985 年 



3年間の大赤字を一気に解消した " サンデー兆治 " 株は今や特定銘柄
奇跡の復活を果たした村田投手(ロッテ)にとって1985年のシーズンは生涯忘れられない年となったに違いない。「実はオールスターまでに1勝も出来なかったらユニフォームを脱ぐつもりだった。今ごろ職探しをしてたかもね(村田)」と今となってはジョーク交じりの笑い話に。村田投手から " 村田氏 " になっていたかもしれないピンチから脱したのは4月14日の対西武戦だった。今季初先発した村田は西武打線相手に155球を投げ抜き2失点ながら完投勝利で復活した。主治医のジョーブ博士から「君の右肘はまだベイビーだ。もしもあと1球でパーフェクトゲームを達成できる場面でも球数が100球を超えたらマウンドを降りなさい」と忠告を受けていた。それを無視しての復活勝利だった。

しかしその代償は直ぐに現れた。試合後から3日間は右肘の張りが取れず球を投げられなかった。幸いなことに大事には至らず、中6日の間隔があれば投げられる目途が立った。また復活勝利はこれまで頑固一徹だった村田の考え方も変えた。「以前なら点を取られると頭に血がカァッと昇ってムキになって墓穴を掘ることが多かったけど今は冷静に最少失点に抑えようと思うようになった。少しは大人になったのかな。気づくのが少々遅かった気もするけどね(笑)」と。この1勝で村田は速球派短気型から軟投派我慢型へ方向転換した。35歳という年齢から考えても力投一辺倒では通用しなくなりつつあり、今回の方向転換はまさに怪我の功名であった。

その後の村田は毎週日曜日にマウンドへ上がり7連勝をマークした。どんなに頑張っても中6日の間隔が必須で日曜日ごとに勝ち星を重ねる村田はいつからか " サンデー兆治 " と呼ばれるようになる。稲尾監督が命名したサンデー兆治を村田自身も「良い呼び名だよね、気に入ってるよ」と満足げ。ところがこの呼び名が定着し始めると村田は「いつまでも週1回の登板じゃ情けない。早く中4日くらいで投げられるようにならないと本当の完全復活にはならない」と複雑な表情も見せる。なにせチビっ子のファンからも「頑張れサンデー兆治」と応援コールが起きるなど、売れっ子芸能人並みのモテようだ。結局、6月12日(水)の南海戦からサンデー兆治とはサヨナラしたが連勝は自己最高の『11』まで伸ばした。

連勝は7月14日の西武戦で5回途中6失点で降板し途切れた。しかしその後もコンスタントに勝ち続けて今季は17勝5敗で見事にカムバック賞に輝いた。これで父親の威厳も回復した。昭和57年5月17日の近鉄戦で右肘痛を発症し、以降はマウンドから遠ざかり息子にとっては毎日家にいるパパはプロ野球のスター選手ではなかったが周りの声で自分の父親の凄さを改めて認識したようだ。ただ村田にとっての心残りは二度目のファン投票で選ばれたオールスター戦で思い描いていたような活躍を見せられなかった事。とはいえ今季の村田の収支決算はプラスばかり。「今年はプラスだらけだって?この3年間はマイナスばかりだったからトータルすればトントンじゃないの(村田)」と控え目。念願の200勝まであと27勝。村田の視線は既に来季に向けられている。



前半、酷使に耐えたのは何の為だったのか…公傷か否かで球団と対立
12月6日の契約更改の席を蹴って報道陣の前に姿を現した遠藤投手(大洋)は「僕の怪我は公傷とは明確に認められませんでした。必死にプレーした結果がこれですよ。これじゃあ野球選手は怪我を恐れるあまり思い切ったプレーでファンにアピールすることも出来なくなる」と主張した。このコメントには怪我をした経緯を説明する必要がある。8月11日の広島戦の7回裏、走者を一・二塁に置いて長嶋選手の打球は一・二塁間へ。一塁手の田代選手が飛び出して捕球しベースカバーに入った遠藤にトス。何の変哲もないプレーだったが一塁ベースカバーに入った遠藤が右足大腿屈筋挫傷で全治10日の怪我をしてしまった。

それでも遠藤は8月23日の中日戦に再度先発するが僅か10球を投げて同じ箇所を痛めて降板した。話は契約更改の日に戻る。「球団が公傷と認めない理由は怪我は僕の体調管理に問題があるからと言うんです。野球選手として当たり前のプレーをして怪我をするのは選手に問題があると」と遠藤は口を尖らせる。球団の提示額は現状維持。今季の遠藤は前半戦は7連勝や6試合連続完投などチームに貢献したが後半戦は怪我の影響もあって尻つぼみで1年をトータルすると現状維持が精一杯で年俸アップは厳しいと判断した。しかし遠藤は納得しない。遠藤の言い分は8月11日の怪我はその試合だけのプレーが原因ではなく、その試合までに蓄積された疲労が原因であると主張する。

7月9日の広島戦に遠藤は中3日で先発し延長10回・134球も投げたが味方の拙攻で惜しくもドロー。次の登板は中4日で中日戦(仙台)。真夏を思わせる東北遠征は炎天下のデーゲームだったが138球を投げて11勝目をあげた。「バテました・・疲れました(遠藤)」マウンドを降りた遠藤に勝者の面影は微塵も見られなかった。更に中3日で巨人戦に先発。遠征帰りでまだ疲労が残る身体にムチ打って投げたが5回・6失点で降板した。これで自身の連勝も「7」でストップしてしまった。オールスター戦を前にした前半戦の終盤に何故こんな登板過多とも思える酷使を強いられたのか?そこには近藤監督のオールスター戦までに借金をゼロにしておきたいという思惑があった。

投手陣に最大の弱点がある大洋にとって最後の切り札が遠藤。傍から見たら無謀としか思えないローテーションは結果を残したい新監督としての思惑と、遠藤自身の何としても史上初となる3年連続最多勝を獲りたいという思惑が合致した所産だ。その結果、大洋は28勝29敗5分けとほぼ勝率5割でペナントレースを折り返すことが出来た。しかしその代償は大きかった。8月11日の怪我にはこうした伏線があったのだ。10月14日のヤクルト戦で遠藤は14勝目をあげて小松投手(中日)と北別府投手(広島)と肩を並べハーラーダービーのトップに立った。しかしこのヤクルト戦の前も中3日で中日戦に先発して延長13回・今季最多の169球を投げており遠藤の右肘は限界を越えていた。

たて続けての中3日登板、8月11日の右足大腿屈筋挫傷の遠因とも言える7月9日の広島戦も中3日で延長戦ドロー。味方の援護もなく孤軍奮闘で投げ抜いた後の疲労感は心身ともに想像を絶するものだったに違いない。14勝目をあげた後も遠藤は「チャンスがあればこれからもドンドン投げる」と意欲を見せ、近藤監督も最多勝獲得へ協力を惜しまないと援護を表明したが、とうとう遠藤の右肘はパンクした。前半戦は新監督の星勘定。後半戦は遠藤自身の最多勝への執念が異常とも言える登板過多を生んだ。公傷の解釈を巡って遠藤と球団側の溝は大きく今年中の契約更改は難しく越年は必至である。両者の対立は収まりそうもないが、ただ一つ遠藤の奮闘がなかったら大洋の4位は有り得なかった事だけは確かである。



悪夢の8連敗が爽やか男を信念の男に変えた。収支は大黒字!
日ハム・高田新監督にとってこんなに長く辛い1年はなかったに違いない。前年最下位球団を引き受けたとはいえ、想像を超えた苦しみだったろう。開幕のロッテ戦こそ勝利したものの、2戦目からドン底の8連敗。現役時代から午後10時には寝てしまう男が深夜2時、3時まで寝つけなかった。この11日間が高田監督が抱く監督像なるものを決定づけたのではないだろうか。4月28日のロッテ戦では打撃不振の柏原選手を四番から外して一番に置いた。「気分転換もあるが一番の方が積極的になるだろう(高田)」と判断したからだ。しかしこの試合でも4打数無安打に終わったことで遂に翌29日から柏原をスタメンから外す決断を下した。

チームの主砲をベンチに下げるのは生易しいことではない。柏原の打撃不振は数年前からだが植村前監督も大沢元監督も決断できなかった。後に「高田監督は1年生ながら大したもんだ。今までの監督には出来なかった決断で勇気がいっただろう」と小島球団代表を唸らせたのがこの柏原の処遇だった。高田監督の厳しい決断には続きがある。スタメンこそ外れた柏原だったが途中出場して717試合連続出場の記録は続いたが遂に5月10日の西武戦で途切れた。足掛け7年かけて広島の衣笠選手に次ぐ現役選手最多記録だったが「1点差ゲームで使うチャンスが無かったから仕方ない(高田)」と個人記録よりチームの勝利を優先した。これを機に高田監督と柏原の亀裂は決定的となり「監督は何を考えているか分からない(柏原)」とトレード志願へと繋がっていく。

結局、柏原は阪神と金銭トレードが成立して移籍したが小島代表は「交換トレードは成立せず戦力ダウンにはなるが監督にはいい勉強となった筈」と高田監督を責めることはなかった。高田監督は今回の一連の動きについて「大前提として選手を好き嫌いで起用するわけない。監督も選手も誰だって試合に勝ちたい。勝つ為に力のある選手を使うのは当たり前。柏原も最初から外したわけではなく、起用し続けても結果を出せないから外しただけ(高田)」と信念で動いていた。良い例が古屋選手だ。古屋も足掛け6年で646試合連続出場を続けていたが8月14日の南海戦で右足かかとを痛め、以降の3試合はスタメンから外れて代打として途中出場していた。

そして8月18日の近鉄戦、3対4とリードされた9回裏一死の場面で柏原が四球で歩き打者は二村選手。もし柏原が倒れていたら古屋を代打に送る予定だった。二村が打席に入ると古屋がネクストバッターズサークルで素振りを繰り返していた。結果は二村がサヨナラ本塁打を放ちゲームセット。古屋の連続出場は途切れた。本塁打はともかくゲッツーを考えたら二村の場面で古屋を代打に出すべきだろうが高田監督はチームの勝利を優先した。監督として至極当然の采配だった。レギュラーを外された選手が反発するのは高田監督が人心掌握が出来ていないのでは、との声があるがそれは違う。無風状態だったレギュラー争いに選手が甘えていたに過ぎない。そこにメスを入れた高田監督はなかなかの人物だ。
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# 586 男たちの収支決算 ➊

2019年06月05日 | 1985 年 



'85年シーズン、順調に乗り切った人もあればまるで不本意な成績に終わった人もいる。それぞれの収支決算は直接的には来季の年俸となって現れるわけだが、ここに登場の5人はその決算が非常に難しい男たち。見方の違いによってプラスにもマイナスにもなる厄介な人々だ。ということは山あり谷ありのシーズンだったことを意味する。あなたはこの男たちの収支決算をどう見る?

野球以外の " ヘディング " で散々の1年。それでもファンは喜んだ
その昔、空白の1日という言葉があった。宇野選手(中日)は「空白の1年なんて言葉はありませんかね」と溜め息交じりに話す。今季、こと野球だけをを見れば41本塁打、フルイニング出場など充実した1年であり空白とするにはもったいないシーズンだった筈。しかし野球以外で世間を騒がしトータルすると本人としては「空白」にしたいようだ。野球以外・・今年は女性とお金にまつわる話が多かった。開幕前の4月に3年間連れ添った栄子夫人と協議離婚。「離婚すれば普通なら問題解決ですよね。ところが宇野の場合はここから問題を背負うことになったから気の毒だったよね」と事情を知る大越球団総務は当時を振り返る。

離婚した宇野の元には前夫人が残した三千万円もの借金が残った。仲人を務め離婚の調停にも一役かった大越総務は残務整理も手伝い最後は呆れた。「だってそうでしょう、宇野といえば曲がりなりにも年俸三千九百万円のプロ野球選手。それが奥さんの借金を肩代わりして今年は月二十万円で生活してきたわけだから」と。少しでも足しになればと11月には『ヘディング男のハチャメチャ人生』という告白本まで出した。「今シーズン41本塁打できたのは打つと貰える賞金があったから」と宇野は著書の中でも書いているくらい懐具合は寂しかった。これで一件落着しないのがウ~やんらしい。これも本に書かれているが「離婚してからはモテモテだった(宇野)」だそうで身軽で自由な独身になると、ついつい脇も甘くなる。

9月中旬、後楽園球場での巨人戦を終えると知り合いの女性が待つマンションへ足を運んだ。部屋でくつろいでいると突然ドカドカと恐ろしげな数人が乱入してきた。彼らは部屋に入ると「そのまま動かない!」と一喝。なんと麻薬捜査官だった。知り合いの女性は覚醒剤常習者だったのだ。状況を把握できず茫然とする宇野は身元確認を終えると解放された。宿舎に戻るとようやく事の重大さに気がついた。後の捜査で身の潔白は証明されたが、一つ間違えれば野球生命どころか日常生活をも断たれかねない重大事件で「もう女性はこりごり」と著書で告白している。「なんかね野球をしたのは30試合くらいで100試合は女性とお金と戦った1年だったような気がする」と宇野は今季を振り返った。

その野球でもやっぱりウ~やんはやってくれた。9月下旬の甲子園球場での阪神戦、「あんなジャッジが許せるか!」と審判の判定に激怒した山内監督が「おい、選手はベンチから出るな」と言って抗議に向かい放棄試合も辞さない構えだ。ところが監督が抗議の真っ最中にもかかわらず三塁側ベンチから一人の選手が自分のポジションに向かって俯きながら小走りしている。宇野である。遊撃付近の土を足で均し、ようやく顔を上げて周りをキョロキョロ。そして状況を察したのか顔を真っ赤にしてベンチに戻って来た。「監督が抗議してるなんて全然気がつかなかったよ。誰も注意してくれないし、ベンチの皆は大笑いしてるし参ったよ」と頭をポリポリ。

10月の大洋戦ではアウトカウントを間違えるチョンボも。一死一・三塁の場面で中尾選手は三振。その間に一塁走者の川又選手が一・二塁間に飛び出して挟まれた。それを見た宇野は何故か離塁して今度は宇野が挟まれた。その間、宇野は一塁走者の川又に向かって二塁へ行けと合図を送る。タッチアウトとなった宇野は井出三塁コーチに「井出さん川又を叱ってよ。せっかく俺が挟まれているのに奴はボーと見てるだけだった」と不満を漏らした。井出コーチは呆れて「中尾の三振でツーアウトだぞ。ウ~やんがアウトになったらチェンジだよ。そもそも二塁走者が残っても三塁走者が挟殺されたら意味ないだろ」と。宇野勝27歳。確かに今季を「空白の1年」にしたい気持ちは理解できる。



「オレ、今年1年すごい人生送っちゃったもんな」この人の場合決算不能です
ちゃんと分かっている。「オレ自身も今季の成績は内容が薄いなぁと自分でも知ってるよ。けどオレなりに精一杯やったつもりだけどね。まぁ来年やり返すよ」と中畑選手(巨人)は今季を振り返る。490打数144安打・打率.294・18本塁打。可もなく不可もなく、そんな数字だ。中畑は常日頃から " 三・三 が 九 " が目標だと公言している。つまり3割・30本・90打点を最低ノルマとし、特に打撃三部門うち打点を最も重視している。「打点は確実にチームにプラスになる。だから打点王が俺の目標(中畑)」と話す。その打点が今季は62打点に終わりクロマティ選手の112打点はもとより、チャンスに弱いと酷評された原選手の92打点にも遠く及ばない。

野球評論家の野村克也氏が中畑に関してあるデータを示した。今季セ・リーグで5勝以上あげた投手に対して中畑は打率2割そこそこしか打ててない。他方でいわゆる " 二線級 " 相手だと3割5分以上。「う~ん、いい投手を打ててない・・また一つ克服すべき来年の課題が増えたね(中畑)」と渋い顔。そう、中畑は自身のウイークポイントを素直に認める前向きな性格なのだ。その性格は多くのファンに支持されている。後楽園球場のライトスタンドでは歌番組のスクールメイツみたい、と言われるくらい歓喜・狂喜の大騒ぎなのだが、最高潮に達するのは中畑の打席の時。「あの応援は震えるほど嬉しい。でも今季は空回りしちゃったみたい(中畑)」と。

そして来年を見据える。「チャンスに弱い。データに表れている。俺なりに考えるとその瞬間にカァーと熱くなって力んじゃう癖が抜けない。熱くなるのは俺の長所でもあり短所でもある。良い投手に対してもそうで負けてたまるか、と力が入っちゃう。来年は意識的に力を抜くことが課題だな」と語った。今季は125試合に出場した。欠場した5試合は怪我が原因。7月16日の大洋戦で本塁突入した際に右足股関節を痛めた。「今年こそフル出場を狙っていたけどダメだった。これも来年の目標だね(中畑)」。ただし来季は自身の体調だけでなく若手の台頭というハードルも。駒田選手の成長が著しく、中畑が欠場していた間は一塁手として無難に代役を果たした。

中畑にはもう一つ別の顔がある。野球機構側が最も恐れていた選手会の労働組合結成に関して中心人物としての顔だ。単なる親睦団体だった選手会をストライキも辞さない強力な組織に変えた。数年来に渡り東京地方労働委員会に申請したが遂に労働組合として認定された。中畑はその初代委員長に就任した。「本音を言えば労働組合の委員長として目立つのは嫌。俺はグラウンドで " 中畑選手 " として目立っていたい。それにしても今年1年は個人的にもすごい人生だった。阪神の優勝を見て来年はジャイアンツの一員として心から優勝したいと思った。是非とも王監督を胴上げしたいね」と。駒田の成長で一時はトレード候補に挙げられ今オフは騒がしかったがそれも一段落。来季の捲土重来を誓う中畑だった。
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