納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています
以前に 『 #195 スポーツジャーナリズム(笑)』 でスポーツ新聞の記事について触れましたが相変わらずのようです。
5月22日の在阪スポーツ紙の大半が阪神・竹之内の引退を一面で扱っていたが、A紙のみが『若菜ロッテに移籍』と書いた。その概要は植松精一外野手をプラスしてロッテから安木祥二投手と入沢淳捕手を獲得するというもの。若菜放出の理由は左胸に死球を受けて以来、首脳陣は常時出場が難しいと判断して笠間捕手との併用を決めたが本人はこれに納得しておらず怠慢プレーが目立つようになった。首脳陣との話し合いの場が何度か設けられたが両者の溝は埋まらず若菜はチーム内で浮いた存在になってしまった。チームの結束を第一と考える安藤監督は「放出やむなし」の決断をし、若菜本人も移籍に納得していて最近では親しい関係者に「移籍先はロッテらしいよ」と話しているという。
この記事が一面を飾った当日の朝、他紙の記者達は安藤監督宅に詰めかけ問い質したが「根も葉もない話で悪意すら感じる」と一蹴した。「多少なりとも可能性がある話ならそれなりの答え方をする。100%いや200%無い話で書いた新聞社の神経を疑う」「こんなデタラメな記事を書かれるのならもう他紙の記者さん相手でも何も喋らない」とけんもほろろ。記者は念の為に小津球団社長と国内トレード担当の西山調査部長にも確認を取ったが二人の答えも「有り得ない話」だった。
では何故この様な記事が出たのか?周辺を取材すると「状況証拠」を元に書かれたようだ。❶笠間と併用とは言うものの若菜は控え扱いに不満を募らせている➋去年痛めた左肩痛が再発した事で動きが緩慢になり周囲の目には怠慢プレーと映りチーム内で孤立➌私生活では「子供を静かな環境で育てたい」として妻子を福岡に残したままの単身生活を送っていて球団幹部の耳に良からぬ醜聞話が入って来る➍投手陣の立て直しが急務で過日、西山調査部長が大阪球場内でロッテ関係者とヒソヒソ話をしているのが目撃された❺ロッテとは昨年にもシーズン中に福間⇔深沢のトレードを成立させている…と憶測の域を出てはいない。
阪神サイドの否定で若菜のトレード話は鎮静化したが阪神絡みではもう一つのトレードが噂さてれいる。つい先日、巨人・中司得三外野手との交換トレードが御破算になった南海・上田次朗投手の阪神復帰だ。左腕エースの山本和を救援に回さざるを得ないほど阪神投手陣は駒が足りていない。使える中継ぎ投手が欲しい阪神が背中を痛めて二軍で燻っている上田に目をつけた。上田は元々阪神から金銭トレードで南海へ移籍したとあって阪神サイドは金銭での譲渡を南海へ打診した所、南海フロントは了承したがビジネスライクな「外人」のブレイザー監督が難色を示した。上田は西武に強く後期での巻き返しの為にも「西武に相性の良い上田を出すなら交換トレードでなければ」と言い出した。それなりの見返り…として益山投手か加藤外野手の名前が上がっているが阪神サイドは到底飲めず、今の所はこの話は自然消滅状態だが「貧すれば鈍する」となった阪神がブレイザー監督の要求を受け入れて急転直下トレードが成立する可能性もゼロではない。
移籍1年目の昨年は結果を残せず「今年こそ」と復活を期しながらも低迷を続ける広島・高橋直投手の周辺もキナ臭い。かつては日ハムと言うよりパ・リーグを代表する投手が江夏との交換で広島へやって来たが僅か2勝(5敗)と期待を裏切った。今季も早々と古葉監督の構想から外れて二軍暮らしが続いている。二軍を視察した古葉監督の前で打撃投手を務めたが「素晴らしい球。何故あの投球が一軍相手だと出来ないのか。セ・リーグの水に合わないとしか考えられない…」と古葉監督もお手上げ。熱狂的なカープファンの度重なる嫌がらせに転居を余儀なくされた経緯もあり夫人は「東京に帰りたい」とこぼしていると言われている。
トレードの相手はここでもロッテで三井雅晴投手と倉持明投手との2対1の交換が有力とB紙が書いた。若菜の時の阪神と同じく広島サイドもこのトレード話を否定したが、その内容は阪神とは少し違っていた。広島の球団幹部は「確かに今のウチは投手が欲しいよ。でもロッテさんには失礼だが現在の三井と倉持は満足に投げられる状態じゃないでしょ?肩とヒジに爆弾を持つ投手と交換する程バカじゃない。いい加減な事を書いてもらっちゃ困る」「B紙が今後も推測で記事を書くなら取材拒否だ。出直しに一生懸命な高橋君が気の毒だよ」と凄い剣幕で記事を書いたB紙を名指しで批判した。
実は投手難にあえぐ球団にとって広島の二軍は垂涎の的なのである。高橋直の他にも渡辺、金田、佐伯、新美など一世を風靡した投手の溜り場となっているのだ。確かに投手としての峠は越してはいるが勝ち星の合計は507勝と実績は充分で使い方次第では未知数の若手よりチームに貢献できる。広島にしても上位に食い込むには左の先発投手や右の代打が不足しているのが現状であり相手次第では交換トレードに応じる用意はあるはず。そうなるとトレード候補の筆頭としてはやはり高橋直の名前が出て来る。「高給取りを二軍で眠らせておくよりは働く場を与えてあげる方が本人にも球団にもプラスになる」と明言する球団幹部がいるのも事実だ。言ってみれば今回のトレード話は一種の打ち上げ花火で様子見に過ぎず、トレードの期限である6月30日まで目が離せない。
結局、若菜はこの年オフに阪神を退団。メジャーを目指して渡米しますが結果は3A止まりで昇格はならず、1年も経たぬ間に臆面も無く日本球界に復帰する事になります。
セ・パ12球団に「コーチ」の肩書を持つ者は数多くいるが背番号のないコーチは竹之内だけだ。シーズン途中に引退しコーチに就任した際の手続上の都合で正式な肩書は「阪神球団管理部付」で、いわば通訳と同じく球団職員扱いの為に背番号は無い。現在の竹之内は公式には存在しない背番号「2」のユニフォームを着て練習の手伝いにグラウンドで忙しく動き回っている。
神奈川県の公郷小学校入学後に野球を始め池上中学校に進む頃には竹之内の名前は県下に知れ渡っていた。高校は鎌倉学園のセレクションに合格して入学。昭和37年のセンバツ大会に五番・二塁手として出場しベスト8まで勝ち進んだ。高校卒業時には法政大学から勧誘されたが社会人野球の西濃運輸浦和に就職した。「高校生の時に親父が亡くなって貧しかったから働く道を選んだ」と。
昭和42年のドラフト会議で西鉄から3位で指名されたが「家で男は自分だけ。母親と妹を残して九州には行けない」と竹之内はなかなか首を縦に振らなかった。西鉄も簡単には諦めず翌年の春季キャンプが目前に迫った頃にようやく口説き落とした。西鉄幹部も家庭の事情を考慮して最初に提示した契約金に「結構な額(本人談)」の上積みを申し出たが「今まで入団を渋っていた理由はお金じゃなく家の事。金に目がくらんでプロ入りしたと思われたくない」として最初の提示額で契約した。
しかし入団した竹之内を待っていたのは厳しい現実だった。いわゆる黒い霧事件や身売りに次ぐ身売りで毎年のように変わるユニフォームを屈辱に耐えて着て、他球団の選手が生き生きとプレーしているのを九州の地から唇を噛み締めて見つめていた。密かに引退を決意した時に真っ先に伝えたのは大洋の基選手だった。年齢は竹之内が1つ上だがプロ入りは基が1年先輩の間柄で辛い九州時代を過ごした良き戦友。「俺なぁ引退するわ。そっちは俺の分まで頑張ってくれや」 基は「そうか…」とだけで多くを尋ねなかった。口に出さなくてもお互い分かり合える、そんな仲なのだ。
「入団当初の西鉄はまだ黄金期の名残もあって雰囲気は良かったけど徐々に転落していった感じだった」「1年目の夏には1軍に上れて初安打(昭和43年8月10日の阪急戦で梶本投手から)も打てたし恵まれたスタートだったよ」黒い霧事件で主力が抜けた為に若手にもチャンスが与えられ1軍に定着したが阪神とのトレード話が決まった頃は常々「他球団に移籍したいと思っていただけに『しめたッ』と思った」そうだ。阪神の狙いは若手の真弓や若菜であり既に峠を過ぎたと見られていた竹之内は人数合わせの付け足し要員だったが当初の予想を裏切る活躍を見せ、特に昭和55年にはサヨナラ本塁打2本、サヨナラ安打2本と4度のサヨナラ劇を演じ「サヨナラ男」の称号を得た。
内角球を恐れず踏み込んで打つスタイルで15年間の現役生活で166個の死球を受けて「死球王」の代名詞とも言われたが結果的にはその死球が引退への引き金となってしまった。昭和56年5月10日のヤクルト戦で右手首に死球を受けて尺骨を骨折。ボルトを埋め込む手術をし8月9日の中日戦から復帰したが復調しないままシーズンを終了した。この年は33試合出場で打率.173、3打点とプロ入り初めて本塁打ゼロとなってしまった。オフになりボルトを外す再手術をしたが、この時に初めて竹之内の頭に「引退」の2文字がよぎったと言う。翌年に再起を賭けるも気持ちに体はついて行けなくなっていた。先発・代打も含め14試合に起用されたが16打数2安打にとどまり遂に引退を決意した。「実を言うと去年も女房に辞めてくれと懇願されたんだ。『落ちぶれた姿を見たくない』ってね」
1371試合出場・4357打数・1085安打・157二塁打・10三塁打・216本塁打・606打点・599三振・476四死球・通算打率 .249…3割を打ったシーズンは一度もなくタイトルにも縁は無かった。それでも竹之内は実績以上に大きく見え、ファンの数が多い選手だった。さっぱりした気性と思いっきりの良いスイングでここ一発の長打がファンの胸を打ったからだ。「不器用な自分がプロの世界でやってこられたのは "なにくそ!やれば出来る "という気持ちを持ち続けてきたから。今度はその気持ちを若い選手達に注入していきたい」と新たなポジションで熱く燃えている。
1980年代後半から90年代にかけて常勝球団となる西武ライオンズも球団創設当初は下位に低迷していましたが、広岡新監督招聘1年目にいきなり前期優勝を成し遂げました。
阪急の敗戦で前期優勝が決定したのは6月25日。思い返せば3年前のこの日は球団創設1年目の前期日程最終日のロッテ戦で、代打・田淵の逆転満塁本塁打で勝ったが18勝40敗7分で首位・近鉄に21ゲーム差の断トツの最下位に沈んだ。あれからまさに「石の上にも3年」となった今年の前期成績は36勝27敗2分で貯金は「9」だが、そのうち南海から「7(10勝3敗)」を稼いだ。南海以外には26勝24敗2分とほぼ互角だっただけに優勝の大きな要因はカモを作ったおかげと言ってよい。しかし、昨年の対南海戦は7勝16敗3分と苦手としていた。今年の西武は何が変わったのか?
それは投手陣の奮闘である。加えて南海から移籍して来た黒田捕手の存在が大きい。南海の打者について隅から隅まで知り尽くしている黒田の加入で主砲・門田封じに成功した。昨年の西武投手陣は南海打線相手に32本塁打を許したが特に門田一人に12本も打たれた。12本塁打を含め打率.345 、35打点と打ちまくった門田を少なくとも前期は抑える事が出来た。打率は.292 をマークされたが3本塁打、7打点なら御の字。細かく見てみると「2本塁打・4打点」は5対12で大敗した10回戦の1試合で打たれたもので、残りの12試合では「1本塁打・3打点」に抑えた。
打撃10傑には大田が4位につけているだけだが、投手10傑には東尾(2位)、杉本(3位)、松沼弟(6位)、松沼兄(8位)の4人が入っている。この投手力で1点差試合は14勝7敗と勝ち越した。たとえ西武打線が3得点以下に抑えられても投手陣が相手打線を2得点以下に抑えて、8勝21敗・勝率.276 と敗戦を最小限に留める事が出来た。ちなみに投手陣が壊滅状態のロッテだと3得点以下の勝率は.156 しかない。チーム打率は昨年前期は.274 だったが今年は.256 とダウンし、1試合平均得点は1点以上も減っている。それだけに前期優勝の原動力は投手陣と言える。
広岡監督は当然の如く後期も制して完全優勝を目指すと公言しているが容易な事ではない。昭和48年の前後期制導入以来、前後期優勝を遂げたのは昭和51年と53年の阪急だけ。西武も昨年前期は2位と健闘したものの後期は5位と息切れしてしまった。後期も投手力を中心とした守りの野球を展開していくしかなく、一朝一夕に打線が活発になるとは考え難い。少ないチャンスを生かす為にも今の西武に欠けているのが走力である。盗塁数は阪急の65個、近鉄の60個に比べて西武は僅か33個である。しかも盗塁失敗も30機会と多くパ・リーグ全体平均の盗塁成功率.650 に対して西武は.524 と低い。開幕前に「50盗塁」と高らかに宣言していた石毛の盗塁数は「7個」と伸び悩んでいる。足の怪我が盗塁数が伸びない原因だが、その石毛がチームの盗塁王とは情けない。足にスランプは無いと言われているだけに走力が打撃力の劣る西武のキーポイントとなりそうだ。
山田久志(阪急)や江夏豊(日ハム)が200勝目前となり、最近再び名球会の名前を新聞紙上で目にする機会が増えてきた。名球会とは一体どんな組織なのだろうか?
「別に名球会に入りたいが為に野球をやっている訳ではないけど、一つの区切りとして早いとこ200勝を達成したいね」と山田投手は淡々と語った。名球会とは「昭和名球会」が正式名称で昭和生まれのプロ野球選手で投手は200勝、打者は2000本安打以上を記録した者が入会できる親睦団体だ。金田、長嶋、王、張本、野村、村山、稲尾…錚々たるスター選手が名を連ねており球界で確固たるステータスを得ていて名球会入りは現役選手はもとよりプロ野球選手を目指すアマチュア選手らの目標となっている。
「単なる親睦団体だから事業展開をして儲けようなんて気はない」と金田正一会長は言う。名球会が現在行なっている活動は主に営利を求めない慈善活動でオークションやサイン会などで得たお金を福祉施設へ寄付している。だが名球会メンバーの意志に反してマスコミの多くは名球会を野球殿堂よりも尊いものであるかのように宣伝しているが、そこには名球会を利用して儲けようとするマスコミ側の思惑が透けて見える。果たして名球会なる組織にそれ程の「権威」があるのだろうか?
ある大正生まれの元スター選手は「大正生まれの僻み」と前置きした上で「200勝&2000本とは上手い所に目をつけたと思うよ。100勝&1000本だと人数が多すぎるし『昭和』を入れる事でウルサイ年寄連中も排除できるからね。でも昭和生まれ以前の選手にも凄い奴らがいた事も忘れないで欲しい」と語った。スタルヒン(303勝)、中上英雄(200勝)、川上哲治(2351本)、別所毅彦(310勝)、杉下茂(215勝)…彼らは生まれるのが早すぎた。勿論、長老の中にも「そんなに目くじらを立てる程の事じゃないさ。若いモンが集まってワーワー楽しくやってるだけだろ。会を作るには何かしらの資格が必要だし200勝&2000本の基準に他意は無いと思うけどな」と語る千葉茂のような寛容派もいる。
その一方でやっぱりどこか変だという声が付きまとうのも事実で入会資格を記録だけで線引きする事に無理があるのではないか。プロ野球とは記録が全ての世界ではなく、個々の思い入れ・憧れ・昔話などが積み重なったものがプロ野球が醸し出す「味」じゃないのか。そうした面から見ても名球会の入会資格はナンセンスと言わざるを得ない。昭和生まれでも入会資格のない面々の中西太・豊田康光・吉田義男・杉浦忠・広岡達朗・権藤博・藤田元司などの名前が我々の頭から消え去る事はないだろう。
そもそも入会基準に勝利数と安打数だけを用いる事に疑問を呈する球界関係者もいる。例えば福本豊(阪急)は昨シーズン終了時点の安打数は1746本だから、およそ2年で2000本はクリアするだろう。しかし福本の球界における存在価値は安打数よりも「盗塁」にあるのではないか?福本以上に安打を放った選手は多いが盗塁数で上を行く選手は日本球界には存在しない。同じ事は江夏豊(日ハム)にも言える。現在の江夏はセーブ王として球界にも確固たる地位を築いているが名球会では「セーブ数」は入会基準の対象ではない。江夏はあと4勝で200勝を達成するが仮にこの先、200セーブを記録しても勝ち星が今のままなら名球会入りはならない。先発完投型だったかつての江夏ならまだしも今の江夏に勝ち星は勲章ではない。自分に勝ちが付くという事はセーブに失敗し他の投手から勝ち星を奪う事を意味するからだ。
名球会側はこうした意見に「そんな事は会を作った側の勝手じゃないか」と反論してくるだろうし、確かに入会資格などは作る側が自由に定めて構わない。問題はやはりマスコミを含めた周囲の意識にある。生涯記録は名球会入りには程遠いあるOBは「私は名球会には何の文句もないし言う資格もない。言いたいのはマスコミに対してだよ。名球会の本質を追及する事なく、さも大したものとして大々的に持ち上げて記事を書く。そうした見識の無さに呆れているのさ」と手厳しい。本誌も含めてマスコミはもう一度精査する必要があるかもしれない。