Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#208 ビーンボール ②

2012年02月29日 | 1981 年 


            ~過去の出来事~

「日本の投手はなぜ堂々と勝負してこないのだろう。ブラッシングボールばかり投げてくる。アメリカなら間違いなく喧嘩になっちゃうよ」とロッテのリーは息巻く。ビーンボール騒動には外人選手が関っている事が多く、昨年のマニエルの死球は記憶に新しい。過去にはシピンが門田を突き飛ばし大騒ぎになった。昭和53年5月30日、後楽園での巨人vs大洋の首位攻防戦の3回裏2死でシピンを迎えた新人・門田は徹底した内角攻めをした。第1打席で死球を喰らっていたシピンは、カウント1-0から3球続けて胸元をえぐられて激怒しマウンドの門田へ突進、二塁ベース付近で突き倒して組み敷いた。

「コーチから内角高目を攻めろと言われてました。シピンが段々と後ろへ下がっていったので、こっちも追いかけて投げただけで・・」と度胸満点の新人も伏し目がち。代わりに古賀が「投手は内外角ギリギリからベースの外へ流れる球を常に投げようとしていて内角の場合は必然的に打者の体スレスレに行く。打ち取る為であって、ぶつける為ではない。好打者ほど避けるのが上手いし」と語った。ちなみに古賀も巨人時代にヤクルト・大杉の左腕に2度ぶつけて襲いかかられている。日ハム・大沢監督は「度胸のない投手に思い切って内角を突け」と自軍の投手にハッパをかけるが、再三に渡って「らしい」ボールを投げる阪急・竹村投手に逆上しマウンドまで行ってポカリと殴った事もあった。やはり、ぶつけられると腹が立つものらしい。

「(ビーンボールなんて)無いと信じたいけど・・」と言うのは現在セ・リーグの首位打者の阪神・藤田だ。6年前にヤクルト・松岡に頭部に死球を受け、2ヶ月近くも戦列を離れた経験があるだけに「故意に頭を狙う投手がいるとは思いたくない」と語る。同じ阪神では6月24日の広島戦で掛布が大野投手にぶつけられた。手で頭をかばったので直撃は逃れたが、一大事になりかねない1球だった。選手生命どころか本当の命にかかわる死球だったのが昭和45年8月26日の広島戦での田淵。1打席目に左ヒジに死球を受けていたが2打席目も思いっきり踏み込んだところ、外木場投手のシュートを避けきれず左耳付近に死球を喰らった。昏倒し耳から大量出血する姿を見た村山投手は「ブチは死ぬ」と本気で思ったそうだ。幸いな事に「逆行性健忘症」のせいで田淵はボールが当たった前後の記憶が無い為にボールに対する恐怖心も植えつけられずに復帰を果たした。



                   

    
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#207 ビーンボール ①

2012年02月22日 | 1981 年 



6月28日の巨人vs広島戦で広島の福士と小川投手が原に対して2度にわたって頭部付近へ、あわやという投球をした事が発端で不穏な空気が漂い始めた。「原に対する攻め方、これは既に春のオープン戦の時からあった。滝口という若い投手がいきなり頭を狙ってきて、そして今度だ。審判も明らかに不自然だと思われる投球には退場を宣告するくらいの厳しい処置をとって欲しいね(牧野ヘッド)」「28日の試合は雨が降って人工芝は濡れていたのに二塁手の三村はボールを投手に返球する時に故意にバウンドさせてた。当然ボールは滑るし、それはスッポ抜けの言い訳になるからね(藤田監督)」と巨人側は怒り心頭なのだ。

片や広島側は当然「内角攻めは投球術のひとつ。当てろなんて指示は絶対にしていないし実際ぶつけてないでしょ」と否定した上で、逆に王助監督を批判した。「一悶着あった後ベンチ内で王が自分の頭を3度指したのは『報復しろ』とバッテリーに指示したのではないか」と疑問を呈した。これに対し王は「とんでもない誤解だ。アレは阿南ベースコーチを通じて古葉監督へ 『今度頭部付近へ来たら3度目だから言い訳できませんよ』 と言うメッセージを送る為のジェスチャーだよ」と応酬するなど両球団の遺恨は当分の間は治まりそうにない。

何もビーンボール騒動は巨人戦だけではない。4月26日の阪急vs西武戦で島谷が東尾にぶつけられた。さらに続く小林にも頭上をかすめる投球に上田監督・長池コーチが 「危ないじゃないか」 とグラウンドへ飛び出したが審判に制され大事には至らなかった。そして5月19日の試合で、またしても東尾が島谷の頭部付近へ投げた為に島谷が激怒。バットを投げ捨て東尾へ突進して両軍入り乱れての乱闘となった。これでも分かるように必ず伏線があるのがビーンボール騒動だ。東尾は「ぶつけようと狙って投げる投手なんていない。でも胸元高目へ投げるのは一種の武器さ、俺は投球スタイルを変えるつもりはないよ」と今後も内角を突く投球を続けると宣言したが、実は西武首脳陣が東尾へ内角攻めを控えるように注意をしたとの情報が広まった。何故か?それには石毛の存在がある。新人では初の首位打者も夢ではない位置にいるが 「後期はかなり内角を攻められるでしょう」 と石毛自身も自分を取り巻く雰囲気の変化を感じとっている。東尾がぶつければ報復で石毛が狙われかねない。石毛が怪我をして離脱したら西武にとっても一大事なのだ。

当事者の選手達はどう考えているのだろうか。日ハムの柏原は「ボクの場合はきわどい球を避けるのが上手いのか死球は少ないけど首から上に当てられたら腹が立つでしょうね。体をのけぞらすのも投球術のひとつでしょうけど、同じ野球で飯を喰ってる者同士ですから頭だけは勘弁して欲しいよね」 また巨人の投手陣をリードする山倉は 「打者を打ち取る最も基本的な攻め方は外角低目。打者が外角低目だけに的を絞っていても、そこに球が来ればまず打たれない。ぶつけないだけのコントロールに自信があるなら外角低目に投げておけば内角攻めの必要は無い。ウチの西本はシュートピッチャーだから死球も多いけどほとんどがベルト付近で胸元から上はない。江川なんて外一辺倒だけど打者を抑えてる。要は首から上に当てるような投手はプロレベルではないという事」とバッサリ。

最後に江夏の言葉を紹介しよう。「セ・リーグにいた時は、ゲーム前の練習で相手選手と顔を合わせたら"今日は内角をビシビシ行くで"と言ってたな。実際には投げなくても腰を引いてる奴が結構いたな。でもねあれも投手の作戦のひとつだけど首脳陣がけしかけるのは論外だよ。あくまでも選手同士の信頼関係がある事が前提だからね、プロの世界は」 選手生命を断ちかねない故意の死球などは無いと信じたい。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#206 電撃引退の真相

2012年02月15日 | 1981 年 


巨人・王助監督が前年10月の引退について、自著『回想』の中で赤裸々に語っています。


「私が現役引退を決意したのは長嶋さんが監督を辞めたからではない。世の中には私が長嶋さんに殉じ引退したと言う説を信じている人もいるようだが、私の決意はそんな衝動的なものではなかった」 ・・・

8月14日の中日戦で中畑や篠塚が戸田投手の直球をベンチ内で「全然スピードが無い」と喋っていたのを聞いた王にはとてつもなく速く見えたそうで、その時初めて「引退」の文字がにわかに鮮明になったそうだ。以後、引退と否定を繰り返す毎日を過ごすようになったが最終的に引退を決意して10月15日 球団幹部に「全日程が終了する10月20日の翌日に引退を発表する」と伝えた。そう「10月20日の翌日」は長嶋監督の辞任が発表された日だ。ところがシナリオは翌16日の正力オーナーからの電話で大きく変わってしまった。

「長嶋君は辞める事になる。引退はせずに選手兼助監督として残って欲しい」 とオーナーの口から監督辞任を知らされた。「引退をしたら野球の事はしばらく忘れて1~2年はノンビリしたい。飽きるほど釣りやゴルフを思う存分して余暇を満喫したい」との願いが次々に瓦解していく現実と向き合う事となる。18日、読売新聞・務台社長に呼ばれ説得されるが決意は変わらない。広島での最終戦を終え帰京した20日に恭子夫人に引退すると打ち明け、これまでの感謝を込めて食事を共にし「目黒に改築中の家の完成後は家族水入らずの生活を楽しもう」と改めて引退の意思を固めた。食事を終えて仮住まい中のマンションへ帰宅すると「明日、長嶋監督の辞任会見が行なわれる」と球団幹部から電話が入る。「しばらく茫然としていた。先を越された俺はどうすればいいんだ。俺は8月から悩みに悩んで引退という結論を出したのに…」

長嶋監督の辞任会見を受けてのコメントを求めるマスコミに対して「残された我々は前向きに考えると言う他ありません。私自身について言えば来年は勝負の年で、現役一本で行きたいと思います」と発言した。「嘘をつく事に後ろめたさはあったが、その時点ではああ言うしかなかった」辞任騒ぎが収まるのを待って引退発表をするつもりでいたが一向に沈静化せず逆に拡大化しつつあった。そうこうしているうちに長嶋が辞めるのだから王も辞めるべきだとの声が起こり始めたが王は沈黙を続け発表のタイミングを図っていた。それは間もなく始まる日本シリーズに水を差したくないという王なりの配慮だった。

「決して他人に迷惑をかけるな、人の役に立つ事は進んででもやれ」が父・仕福さんの口癖だった。徐々に「首脳陣が大幅に変わって選手と新しい首脳陣たちとのパイプ役を務める人間が必要になる。自分こそが適任なのではないか、しばらく野球と離れて巨人に恩返しをするのは先の事と考えていたが、今がその時なのではないかと思うようになった」父の「人の役に立つ事…」の言葉を改めて思い出し、自分の我が儘で引退する事で迷惑をかける巨人を手助けする為に助監督の就任要請を受けたのだった。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#205 気になるアイツ

2012年02月08日 | 1981 年 



曽田康二(日通浦和→中日)…「ソタ」と読む。「何でソダと読まないの?」と聞くと「ハァ?知りませんよそんな事」つっけんどんな返事が返ってくる。味も素っ気もない「しゃぶしゃぶスープ」みたいな男、曽田はそんな選手だ。5月22日の前夜の天気予報は「雨」一色。しかし当日になってみると昼過ぎには晴れ間も見られ試合は予定通り開催されそうだった。ローテーションの谷間で先発に誰を起用するかで悩んでいた権藤投手コーチは「どうせ雨で中止になると思って決めてなかった」 そうで、苦し紛れで「無口で居るのか居ないのか分からない地味な男だが、こまっしゃくれた投球をする」曽田の起用を決断した。初登板ではない。20日の阪神戦で既に2イニングを投げてはいるが、2度目のマウンドがプロ初先発となる。上手投げから投じられる直球が低目に決まり、直球と同じ軌道でシンカーがストンと沈む。大洋打線を5回まで無得点、6回先頭の山下に6号ソロを喰らい失点するも7回4安打1失点で御役ご免。あっさりと初勝利を手にした。心臓に毛でも生えているのかと思われがちな曽田だが、日通浦和時代を知る人によれば実はノミの心臓だったそうだ。その克服方法がまたユニークだった。何と新宿の歌舞伎町へ麻雀を打ちに行ったのだ怖いお兄さん達相手の鉄火場修行を繰り返した。「勝っても負けてもエライ事になる。あの緊張感に比べたら野球なんて屁みたいなもんさ」と振り返る。そんな事とは露知らず、カモになっているのが中日ナインで雀卓を囲む毎に巻き上げられ続けている。
【 通算 11勝15敗 防4.24 】



大町定夫(新日鐵光→阪神)…中西監督は大町を救援投手のハマリ役とは思ってない。リリーフの必須条件である「三振を取れる直球と連投に耐えうるスタミナ」を持ち合わせていないからだ。大町の生命線は制球力であって決して球威ではない。開幕前の中西監督の構想ではリリーフ役は江本と池内の2本立てであったが、江本の度重なるリリーフ失敗と池内の調子が一向に上がらないため窮余の策で大町を起用せざるを得なかった。山口県柳井商を卒業後、新日鐵光での8年間の社会人野球生活が落ち着き払った投球を培った。表情に激しい気性をたぎらせる投球スタイルではなく、どんな局面でも冷静に立ち向かう落ち着きが大町にはある。一見大人しそうだが芯は強いのだ。「アイツは俺のようにカッとならない。逆に言えばそれだけ度胸があるのかも。大したモンだ」と小林は言う。「そりゃ誰だって先発完投が投手にとって理想。去年は最初の2ヶ月は二軍暮らし。あの苦しさを思えば今の苦しさは贅沢な悩みです」 プロ入りが29歳とこの世界では異色な存在の少々ヒネタ「2年目の若手」が今の阪神投手陣を支えている。
【 通算 11勝7敗 12S 防3.38 】


小野和幸(金足農高→西武)…中央球界では全く無名であった金足農高の小野に巨人・西武・近鉄などのスカウトが注目するようになったのは彼がまだ2年生の時だった。しかし小野の志望は社会人で各球団は次々に撤退していったが西武だけが最後まで諦めず本人や関係者を説得し、遂にドラフト外で獲得に成功した。186㌢81㌔と高校生離れの体格に冬の間はスキーの回転選手として活躍していただけあって足腰も充分に鍛えられていた。春野キャンプではランニングやダッシュをすれば常に先頭に立つなどプロの先輩に負けない体力を既に身に付けていた。当初、球団は石毛・岡村・杉本らの社会人とは一線を画した2~3年先の戦力と考えていたが、開幕してみると二軍ながらも7勝1敗と充分に戦力になる程の選手だった。プロ入り後に林バッテリーコーチから、腰の回転を改善されると直球の威力がさらに増しカーブ・シュート・スライダー・フォークボールなどの変化球も更に生きるようになった。今や西武の二軍の勝ち星の半分以上をあげている「エース」なのだ。しかし小野本人は「これからは、ただ速い球を投げてれば良いという訳にはいかない。常に同じフォームで投げないと癖を見破られてしまう」浮かれる事のない恐るべき1年生なのだ。小野の姉の裕美子さんは日立茂原のバレーボール選手で全日本候補にもなった有望株である。それを訊ねると「姉さんはアマチュアですから気楽なもんですよ。ボクは野球でメシを喰っていかなくちゃならない。24時間ずっと野球の事しか考えていません」「今年は二軍で最多勝を狙います。上で投げられるようになるのは2年、いや3年後かな…」しかし敢えて本誌は異を唱える。本人の予想に反して早ければ今季の後期遅くとも来年には一軍のマウンドで小野の姿を見られるようになるのは間違いない。    
【 通算 43勝39敗 防4.19 】



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#204 人工芝

2012年02月01日 | 1981 年 



大洋・高木嘉の腰痛や西武・石毛の人生初の肉離れ、巨人に至っては定岡・中畑・角・篠塚、そして遂に原までもが腰痛に襲われた。これら選手に共通しているのは人工芝球場を本拠地にしている事。来季は神宮球場も人工芝を採用する事が決まっているが、本当に人工芝は選手をダメにする元凶なのだろうか?目下のところ腰痛患者がいないのは中日・近鉄・南海と天然芝の球場を使っている球団だが、逆に言えば甲子園や広島市民球場など天然芝を採用していても腰痛を持つ選手がいる球団もあると言う事だ。

後楽園球場が人工芝を採用したのは昭和50年のオフ。天然芝は維持・管理の負担が大きいと言うのが第一の理由だった。人工芝は塩化ビニリデンという化学繊維で、芝の長さが12㍉のものを1万㎡に渡って敷き詰めた総工費3億円の一大工事だった。問題は人工芝よりも、その下の構造にある。人工芝のすぐ下には1㌢のスポンジパッドがあるだけで、スポンジの下はコンクリートの床だ。このコンクリートが選手の足腰に不快感を与えている原因だと言われている。人工芝を平らに敷く為にはコンクリートが必要であり土の上に直に人工芝を乗せる訳にはいかない。人工芝上で底が平らな靴で足踏みすると不快な反発が跳ね返って来る。人工芝は土と違って衝撃を吸収しないと言われている事を実感できる。しかし体育館のフロアやアスファルトの道で同じ事をすれば逆に人工芝の方が反発が少ない事が分かる。つまり我々は日常的に人工芝より硬いモノの上で生活をしているのだ。

本誌でお馴染みの樺島病院整形外科医・詫摩博信医師によれば 「そりゃあ土に比べたら人工芝の方が反発は大きい。でも人間が二本足で歩く以上、腰痛は宿命的なもの。その上、野球選手は一般人よりも体重があり足腰への負担は大きくなる」「また野球選手のトレーニングは野球の技術ばかりに偏っていて体幹、特に腰を強化する運動はやっていない。手に持つモノといったらバットとグローブくらいだけだから腰を鍛えるという発想が無いのでしょう」柔らかいベッド、カーライフ、椅子に座ったきりで一日中過ごして運動不足になる現代生活スタイルが腰痛の原因で人工芝は枝葉の要因のひとつに過ぎないというのが詫摩医師の見解だ。麻雀好きが多い野球選手には耳の痛い話である。

とは言うものの、今年はじめて人工芝を体験する新人の石毛や原が天然芝との明らかな違いを感じている「とにかく太モモに堪える。試合後も疲労感が抜けずイヤな感触ですよ(原)」「これまで足の怪我とは縁は無く、アマチュア時代の猛練習をした後でも疲れを感じることすらなかったのに、今年は3ヶ月足らずで足はパンパン。練習の量や質の違いだけでは片付けられないですよ(石毛)」と口にしている。2人だけに限らず多くの現役選手が人工芝の違和感を指摘しているが「今のところ天然芝に戻す考えはありません。腰痛も人工芝だけが原因とも思えませんし(後楽園球場副支配人)」 と同様に横浜・西宮・西武・平和台球場も現状を変える意志は無いようだ。見た目の美しさとホコリが立たない球場はファンの為にとっても魅力的でこれからも増える傾向にある。となると選手側が人工芝に対応せざるを得ない時代になった。ともすれば野球選手に限らず腰痛は一般人も関心を抱く病。現代生活の中に様々な要因が潜んでいるだけに単純に人工芝=腰痛と結びつけるのは無理がある。






当時は現在みたいに人工芝をメンテナンスするという概念は無く数年間も放置していました。人工芝は手入れする必要が無いのが利点と考えられていた為に、最初の人工芝は数年で選手のスパイクの歯が見えるほど磨耗するまで酷使された後にようやく交換されました。当時の人工芝が御土産として販売されていましたが芝自体の長さや下にあるスポンジも1㌢程しかなく足腰への負担は今以上だったでしょうね。現在では火傷防止にゴムチップを散りばめたり芝の下のスポンジを厚くしたりと改良していますが所詮は付け焼刃です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする