Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#114 ウチの秘密兵器 1980年編

2010年04月28日 | グラビア 
1軍で活躍出来なかった選手もいて、さすがに全員の名前は憶えていません。
秘密のままで終わった選手もいます。とりあえず名前の分かる選手は・・・




           屋鋪(大洋)         山村(近鉄)        佐藤(阪急)


           柳原(ヤクルト)    

阪急・佐藤はブラジル育ちでパワーは日本人離れでしたが確実性に欠け、大成できず
消えて行きました・・・





                        蓬莱(西武)

         山崎(中日)        香坂(巨人)     高(南海)


中日・山崎投手は活躍出来ませんでしたがスカウトによると球は速いがコントロールは
全然ダメ。ブルペンでも「捕手が捕れない投球を連発」が話題となった投手でした。南海
高投手は台湾出身で、確か一軍で勝ち投手になった事もあった筈です。





   大石(西武)                  北村(阪神)      名取(南海)

                高橋(日ハム)     藤原(阪神)     高沢(ロッテ)




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#113 巨人の「欲しい・欲しい」 病 は昔から・・・

2010年04月22日 | 1980 年 





最近の巨人は投打に山口や坂本など生え抜きの若手選手が台頭してきて、ひと頃の他球団から
主力選手を掻き集めるといったチーム作りを改めたようですが「欲しい病」は昔からでした。古くは
別所投手から始まり、南海入り直前に横取りした長嶋、ルール上は合法とはいえ強引だった金田
枚挙に暇は有りません。ドラフトが出来て日本人選手の獲得が思うようにならなくなると、他球団の
外国人選手に目をつけ始めました。

九連覇した頃は「純血」を掲げていましたが長嶋引退後は背に腹は代えられず次々と外国人選手を
獲得しましたが、その多くがハズレ助っ人でした。当時の外国人選手は統一契約書とは別に個別で
付帯条項が盛り込まれた契約も結んでいました。そこには選手からも契約を解除できる項目もあり、
より良い条件を出す球団に移籍する事も可能でしたが、当時 来日する外国人選手の多くが高齢で
全盛期を過ぎていて他球団が欲しがる事は稀でした。'70年代後半になると大洋・シピンやヤクルト・
マニエルなど移籍する選手が出始めるようになります(マニエルは交換トレードでしたが)。

そんな中、巨人が目を付けたのが '79年の首位打者 大洋・ミヤーン選手でした。 巨人は以前にも
大洋からシピン選手を獲得しましたが、衰えは隠せず今度はミヤーン獲得を考えました。大洋・中部
オーナーに巨人正力オーナーがゴルフ場でプレー中に譲渡を申し込みました。すると意外にも中部
オーナーは 「トレードならOK」との返事。大洋が要求した交換要員は、まだ頭角を現していなかった
篠塚でした。当時の巨人の若手野手には中畑や松本らがいましたが篠塚は非力ですぐには戦力に
ならないと判断されたのか松本を二塁にコンバートする案があったそうです。大洋が角投手も加えた
1対2のトレードを要求してきた為に、長嶋監督ら現場の首脳陣が反対し御破算になったそうです。
長嶋監督が角の放出に反対した為で、もし角ではなく浅野クラスであったなら篠塚は大洋入りして
いたかもしれません。



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#112 新人たちのキャンプ・イン 往年の名選手編

2010年04月14日 | グラビア 











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#111 新人たちのキャンプ・イン 1980年編

2010年04月06日 | グラビア 
香川(南海)              木田(日ハム)   田鎖(西武)








鴻野(西武)       木下(阪急)      岡田(阪神)
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#110 1980年当時のプロ野球 未来予想図

2010年04月02日 | 1980 年 





新年特大号の企画で将来のプロ野球界を空想しています。当時は「まぁ有り得ない」と思っていた
内容ですが 30年後の今、改めて読むと結構 言い当てています。

  ❶札幌オーロラドーム球場 ❷「東京ヤンキース」が殴りこみ ❸大リーグが日本の高校生を
  スカウト ❹王選手引退後、巨人に後継者誕生   が書かれています。


《札幌オーロラドーム》
  これまでのセ・パ2リーグが廃止され東西2地区制になる事を契機に東地区に組み込まれたロッテがフランチャイズを
  川崎から札幌に移転しました。他にも地元密着を掲げて南海が九州へ、阪急は四国へ移転し熱烈歓迎を受けました。
  札幌ドームは大通り公園に建設された開閉式の全天候型で、それまでウインタースポーツしか無かった北国に新たな
  娯楽として人気が定着するなど、ロッテの選択は大正解でした。

《東京ヤンキース》
  ビリー・マーチン監督率いる外国人チーム、東京ヤンキースは連戦連勝で首位を快走しますが野球観や文化の違いに
  よってマスコミとの間で軋轢が生じ、マスコミ主導の偏向報道によって東京ヤンキースは言われ無き批判に晒されます。
  江川問題で世間はマスコミの言う事は100%全てが真実ではないと学んだ筈でしたが「喉元すぎれば…」の諺とおりに
  世論誘導されて行きました。日本人はナショナリズムを焚き付けられ、まるで戦前のような排斥運動にまで発展しました。
  東京ヤンキースはシーズン終了を待たずに解散・帰国しました。空港出国ロビーでマーチン監督はポツリと一言 「野球と
  ベースボールは別のスポーツだった」

《大リーグが青田買い》
  江川投手が浪人中、南カリフォルニア大学で練習生としてプレーする姿を大リーグのスカウトが目にして、日本人選手の
  レベルの高さを再認識し日本の高校生を獲得する為に大挙してやって来ました。日米間には紳士協定があり双方の国で
  ドラフトされた選手を獲得することは出来ませんが、大リーグ側は江川の様に抜け穴を使いました。有望な高校生を直接
  獲得するのではなくアメリカの大学へ進学させます。勿論、奨学金名目で費用は球団が負担、アメリカの大学生は3年生に
  なるとドラフトの対象になるのでそこで獲得します。このような手法で、甲子園を沸かせた選手達が次々と海を渡って行き
  日本のプロ野球は人材不足に陥りました。

《王選手の後継者》
  長嶋監督の後を受けた王監督は、ONのいない巨人打線に苦労していました。すでに3年も優勝から遠ざかっていて来年が
  監督としての正念場、とオーナーからも言われていました。王監督が目をつけたのはライバル阪神の初代Mr.タイガース藤村
  富美男の孫でした。全くの無名選手でしたが、正力オーナーが阪神球団に頭を下げて入団に漕ぎ着けました。熱烈な虎党で
  筋金入りのアンチ巨人でしたが、巨人を内側からブッ壊すとやって来ました。背番号41の左打者は王監督直伝の日本刀での
  特訓を繰り返すうちに巨人に対するわだかまりが消えていき、王監督との師弟関係は強い絆で結ばれていきました。満を持し
  デビューすると師匠を越える活躍で低迷する巨人を救いました。



❶はチームこそ違いますが北海道と九州への移転は実現しました。リーグ再編は実現はしません
 でしたが交流戦によって新鮮な対戦カードが見られるようになりました。

➋は数年後、シーズン途中に現役バリバリのボブ・ホーナーがヤクルトに入団し、いきなり3連発を
 放つなど一大旋風を巻き起こしました。しかし背中を痛めて、すぐに帰国することに。「地球の裏側
 には全く異なるベースボールがあった」との言葉を残しました。 

❸は完全な夢物語でした。大リーグが日本人選手を欲しがるなど たとえプロ選手でも有り得ないと
 思われていましたが 一昨年田澤投手が日本のプロを拒否してレッドソックス入りしました。昨年は
 花巻東・菊池投手を巡り日米球団の思惑がぶつかるなど、この話も徐々に現実味帯びてきました。

❹は長嶋監督と熱烈阪神ファンであった松井選手との関係のようです。


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