Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 407 田淵を超える男

2015年12月30日 | 1984 年 



15年間保ち続けた記録が塗り替えられようとしている。法大・田淵(現西武)がマークした通算最多本塁打記録「22本」にあと7本と迫っている明大・広沢克己。同じく田淵が持っていた年間最多本塁打記録「9本」を更新する「10本」を記録した実績からしても通算記録更新の可能性は大だ。1984年一番のアマ球界注目の男に迫る。


巨体に秘められたパワーには途轍もないものがある。茨城県・結城市の結城小学校時代には子供相撲大会に出場して中学生相手に勝ち続け優勝、中学生になると柔道部に入り二段を獲得したパワーが現在の「田淵越え」の原動力となっている。腕っぷしも強く昭和58年の日米大学野球で選抜されたメンバーで広沢に勝てた選手はいなかった。生涯で唯一負けた相手が小山高校の先輩でもあり重量挙げ全日本のホープである砂岡良治(日体大)というから恐れ入る。「去年は納得出来る成績でした。これまで苦しんできたカーブを練習で徹底的に打ち込んだのが良かったみたい。今じゃカーブの方が打ち易いくらい」と課題を一つ克服した。今年の目標は?と問われると「先ずは小早川さんの16本を抜く事。その後は当然、22本を目指します。僕はヒットよりホームランこそ打者の勲章だと思っています」と普段は大きな体に似合わず蚊の啼くような声で話す広沢がこの時ばかりは力強く言い放った。田淵が力強い手首と天性のミート感覚で本塁打を量産したのに対して広沢は重量挙げ選手並みの220kg の背筋力を生かしたパワーでスタンドへ打球を運ぶ。「アイツはホームランを打つ為に生まれてきたような男」とライバルの山崎(法大)も一目置いている。

広沢には田淵を抜く為の3つの好条件が揃っている。先ずは本塁打の生産ペースで田淵の3年時終了時と比べると広沢の方が2本多い。1年生からベンチ入りしていた田淵に比べ広沢がレギュラーになったのは2年生の春。スタート時のハンデを物ともせず現時点で田淵の上を行く。2つ目はスランプ期間が短い点だ。昨秋のシーズン当初は絶不調だった。「右方向を狙い過ぎてフォームを崩してしまった…」と。だが「常に自分のベストフォームが頭にある(広沢)」ので修正も早く出来てスランプを脱するのも早い。最後は決して本塁打ばかりを狙っていない点。本人は本塁打を意識していると言っているが数字を見る限り広沢はアベレージヒッターである。昨春が打率 .450 、秋が .484 で連続首位打者になっている。過去2季連続で首位打者になったのは半世紀を越える東京六大学リーグの歴史の中で長崎慶一(法大→大洋)だけで右打者では広沢が初めてであり、本人も打率に関しては並々ならぬ自信を持っている。好調を維持出来れば昭和56年秋の小早川(法大)以来の三冠王も夢ではない。

しかし当の本人は首位打者や三冠王には興味がないようで「とにかく僕はホームランを打つ事が第一目標」とあっさりしている。というのも彼なりの打撃哲学があるからだ。「打率はポテンヒットでも上がる。どんな当たりを打つかは運・不運がモノをいう。それは打点も同じで走者がいる時に打席が回ってくるかどうかは運次第。その点でホームランは掛け値なしでフェンスを越えるか否かで分かれる実力だけが数字に現れる。だから僕は打者の凄味はホームランに出ると思うんです」とキッパリ。「そもそも僕は器用な打者じゃないんで三冠王なんて夢のまた夢。大ボラを吹いたら御大に叱られます」ととぼけて見せる。だが3つの利点を考えると田淵の記録を塗り替える事は可能だと思える。考えられる障害を挙げるなら四球攻めであろうか。本人も「多分今年は去年以上にマークが厳しくなるでしょうね。昨春に5本打ったら秋季は外角一辺倒でしたからね。記録更新が目前となったら勝負してくれないんじゃないですかね…」と気にしている。

1㍍85㌢、85㌔ の巨体からは動きが鈍そうなイメージしか浮かばないが実際は100㍍を11秒8で走り遠投は125㍍と見た目と正反対の俊敏さと高い運動能力を持っている。「間違いなく今年のドラフトの目玉でしょう。ポジションが一塁なのはマイナス点だがそれを補って余りある打撃は1巡目で消える逸材。田淵の記録を抜いて契約金が増すのは痛手だけどね(巨人・堀江スカウト)」とプロ側の視線も俄然ヒートアップしてきている。広沢もプロ志向が強く「いずれはプロに行きたい。柔道をしていましたがずっと野球が好きで家に帰ればバットとグローブを持って走り回ってました。好きな球団は巨人ですが今はリーグ戦の事で頭が一杯です。とにかく去年の優勝に続き今年も優勝して大学4年間の有終の美を飾りたい。その為にもガンガン打ちまくるつもりで、田淵さんの本塁打記録を結果として抜ければ最高です」 15年間破られずにいた大記録がとうとう抜かれる瞬間がやって来るかもしれない。
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# 406 新監督四人衆

2015年12月23日 | 1984 年 



山内一弘(中日)…愛知県一宮市の出身。与侍子夫人も名古屋市生まれで親戚連中も地元だらけ。プロ野球人として初めて地元球団のユニフォームに袖を通す事になった。監督就任直後のコメントは " 御祝儀 " もあったのか「もちろん1年目から優勝を狙います」と威勢が良かった。しかし秋季練習を終えると「投手次第では優勝できる」と微妙に変化。更に正月年頭には「本当に強いチームにする為にはやるべき事が沢山ある」と当初よりトーンダウンした。それもこれも現状の中日の本質を把握したからだ。チーム作りや選手育成には定評がる人物で一見地味で正直だがいかにも堅実である。自分が不得意とする投手に関しては恥じる事なく外部に指導者を求める。監督としては勇気のいる行動だ。一時は追われるようにチームを去った中日OBの杉下茂氏を中山投手コーチの指導役として招いた。周囲の顔色を伺う事なく良いと思った事は何の躊躇もなく実行に移すというこの事例は山内という人物を知るに最適の材料である。

現役時代は球界を代表する強打者であった事もあり「中日を強打のチームにしたい」と自信を見せたかと思えば「打つ方は俺が見るから大丈夫。むしろバッテリーを含めた守備力の向上が1年目の課題」と不安を吐露する。自分の専門外の弱点が目について仕方ないという理由からか。裏を返せば打撃に関しては大いなる自信を持っているという事。「藤王?キャンプで実物を見てからだけど先ずは二軍でじっくり鍛えた方が長い目で見れば本人の為」と大物新人も子供扱い。秋季練習から精力的な指導を続け、体も動かすが口の方はもっと動かし付いた綽名は " かっぱえびせん "。やめられない止まらない、という事だ。時には怒鳴られる事もあるが選手は笑顔で納得している。つまり山内監督には政治的な裏や駆け引きが無いのを選手達は肌で感じ取ったのだ。先ずは地道な基本プレーの徹底、大向こうを唸らせる高度なプレーは要求しない。「基本の練習の先に優勝が待っていると選手が感じてくれればいい」 発展途上にある選手を一本立ちさせ本当の野武士集団を実現させるのが山内監督の描く夢だ。



植村義信(日ハム)…「タフ・ツー・ジエンド」これが植村監督が掲げたキャッチフレーズだ。つまりは最後まで諦めないゾ!という事。それは植村監督自身が歩んで来た野球人生のモットーでもある。とにかくキッチリした野球を標榜し徹底練習主義で就任直後の秋季練習からオフモードを一掃。年明け1月8日から始まる自主トレ、春季キャンプでも無休を宣言した。キャンプでは練習中の喫煙を禁止し、マシンや鳥かごも増やして息をもつかせぬ地獄のメニューを用意するという。更に食事や生活面にも立ち入る管理主義はヤクルト時代に仕えた広岡監督以上に厳しい厳格主義を打ち出している。「広岡さんとは個人的に親しいがやり方までを踏襲する気はない」と言うが意識しているのは間違いない。監督就任以来、選手達に言い続けている事がある。それは「来年の西武は今年より更に強くなる」「巨人と熾烈な日本シリーズを戦い、勝った事で西武の選手は一回りも二回りも逞しくなる」と。

投手出身である事から周りは守りの野球を目指すと見ていた。だが本人はそういった見方に不満気だ。「野球を守り型だとか攻撃型かに分類する事自体ナンセンス。例え投手でも時には攻撃的な精神で攻めなければ勝負に勝てない」 開幕まで正月三が日以外は休み無しで練習を続けるというその徹底ぶりはこれ迄チームの悪しき体質となってしまっている " スロースターター " という弱点を克服する為の絶対条件だとも言う。例年チームの「残塁数」はリーグでも群を抜き日ハムの代名詞となっている。今季のチーム方針「何が何でもチームバッティング」が敢えてリーグナンバーワンのパワーヒッターと言われていたソレイタ選手を解雇してまでシュアな打撃をするブラント選手の加入に繋がった。「とにかく1点を確実に取る野球をしたい(植村監督)」の思いは強い。投手陣の指導は昨季同様引き続き自らが率先垂範で行なうという。「投手交代の時も僕が直接マウンドに行って指示するしブルペンにも顔を出す。もしもだらしない投球をしたらドヤシつけ即降板させます」と息巻く。そうした姿勢に早くも付けられた綽名は " 鬼 " だった。



岡本伊三美(近鉄)…岡本監督は今でもその夢を見るという。10年前、阪神のヘッドコーチをしていた昭和48年の巨人との熾烈な優勝争い。勝てば優勝という中日戦に敗れ、甲子園での巨人との直接対決も負けて巨人の九連覇を許した場面を。「あの試合に勝っていればプロ野球界の歴史は変わっていた。優勝していれば江夏や田淵も阪神を去る事は無かったかもしれない。改めて1勝、1点の大切さを思い知らされた」その思いが監督就任に際して " 1点を大事にする野球 " を掲げた。「たかが1点されど1点」リーグ最多の13引き分けだった今季の近鉄は1点を守れず、或いは1点を取る事が出来ずBクラスに沈んだ。岡本監督は球界では異例の1年契約を結んだ。その狙いは「この世界にはテスト生で入った。いつクビになるか分からず必死で練習した気持ちを忘れない為に1年契約を願い出た。選手諸君にもそうした危機感を持って練習して欲しい」と。

ギリギリに追い詰められる事で「1点」に対する執念が生まれると岡本監督は考えている。「昨年の選手達は正直言って野球に対する取り組み方が甘かったと思う。一日中野球の事を考えているような選手を一人でも多く作る事が自分の役目だと思う」と力を出し惜しみしている選手がいる事が我慢出来なかった。「テスト生は手を抜いていたら直ぐにクビになる。持てる力を全部出して練習しなければ生き残れなかった」という気持ちを全選手に植え付けたかったのである。更に1点を大事にする野球から派生するのが「全員野球」であり「ベンチにいる選手全員が試合に参加している意識を持って欲しい」と。岡本監督に課せられた使命は近鉄の新たな伝統を作る事。9回二死になっても諦めない執念、それを先輩から後輩へ継承していく事。現役時代は勝負強く " 見出しの岡本 " と呼ばれていた自分の姿をチーム作りに反映させようとしている。



稲尾和久(ロッテ)…「優勝するなんて大きな事は言えんがパ・リーグを面白くしてみせる。その為には西武イジメに徹する」と就任早々高らかに宣言した稲尾監督。単なる景気づけの打倒西武宣言ではなくちゃんと土台作りを着々と準備していた。先ず醍醐バッテリーコーチの招聘。醍醐コーチは引退後ずっとテレビ埼玉の野球解説者として西武をじっくり見続けて分析済み。「作戦や送りバントをする・しない、エンドランのサインを出すタイミングなど広岡監督や森コーチの癖はある程度分かりました」と醍醐コーチ。稲尾監督は早くも醍醐コーチの㊙メモを参考に西武の逆手を取る作戦を考案中だ。加えて投手担当には " ハッタリ野球 " が信条の佐藤道郎をコーチに抜擢した事も見逃せない。「俺は打者にぶつけても構わないから内角高目ゾーンぎりぎりに投げてこの世界を生き残ってきた。逃げ回って四球を連発するような奴はブッ飛ばす(佐藤コーチ)」と息巻く威勢のいい男の加入は大人しい投手陣に喝を入れる事間違いなしだ。

稲尾監督は醍醐コーチや佐藤コーチとのトロイカ体制でチーム防御率 5.12 の弱体投手陣を立て直し「今の戦力でも充分2位は狙える」と言ってのける裏には三宅投手との交換トレードで巨人から獲得した山本功の存在がある。昨季のロッテは西武の高橋直や松沼兄らのアンダースロー投手に弱かったが今季は山本の加入で対策はバッチリ。「リー、落合、山本のジグザグのクリーンアップを組める打線は西武にも見劣りしない。今季のロッテは台風の目になる(稲尾監督)」と意気込む。太平洋クラブ時代の稲尾監督は4位が2回、最下位が3回と惨憺たる結果に終わったが「自分にとって今回が監督を務める最後のチャンスだと思って全力でぶつかりたい」と誓いを新たにしていた。
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# 405 流浪の一匹狼

2015年12月16日 | 1984 年 



「江夏西武入り」・・強いチームを倒す事を生き甲斐にしてきた男がチャンピオンチームに加わる事となる。その感想を聞かれると「もう苦しむ事に疲れた」と。トレードを言い渡されて25日間、江夏は何を苦しみ悩み続けていたのか?一匹狼の胸の内は・・・


東京・六本木にある球団事務所で小島球団代表、大沢管理部長(前監督)との会談を終えた時点では「正式に西武との契約を済ませた訳ではないけど」と前置きしながらも「次が自分の最後の働き場になるだろう」「17年間の財産を森投手ら若手に伝授する」と意欲を見せた。広島から帰京した12月13日の羽田空港で報道陣から「西武入りが決まった」と聞かされ不快感を露わにしていた表情はもう無くサッパリとした顔つきだった。それは小島代表が一連の手順ミスを認め江夏に謝罪したからだった。「何度でも言うがトレードはもっとドライに行なうべき。何か悪い事をしているかのようにコソコソされるのは御免だ」と江夏は1ヶ月近くに及ぶ騒動に苦言を呈した。

「植村監督がいらないと言うなら仕方ない。それがこの世界の掟。ワシは日ハムに拾われて自分なりに恩返ししてきたつもりだがそれにしては余りにも冷たい」江夏放出を日ハムが決めてから25日間ずっと「これ以上晒し者にするのは勘弁してくれ」と江夏は言い続けていた。優勝請負人と呼ばれ抑え投手の記録を次々と塗り替えて800試合登板を記録した投手がまるで欠陥投手のように扱われる寂しさと悔しさで納会を欠席しようとも考えたがケジメをつける意味もあって出席した。その席で江夏は小島代表に「今回のようなやり方をしていたら球団が世間から笑われますよ」と忠告した。広島から日ハムに移籍する際には大沢監督(当時)と広島の球団フロントが水面下で交渉を続けて江夏のプライドを傷つける事なくトレードを成立させた。

ところが今回はどうだ。日ハムはどの球団とも根回しをせず江夏が言う " 晒し者 " にしたまま放置してきた。いきなり「江夏はどうですか?」と言われて「ハイ、そうですか」と応じる球団がある筈がない。年俸や交換選手の問題もあり簡単に手を挙げるとは考えられない。江夏にしてみれば自他共に認めるセーブ王のプライドを傷つける行為に映った。その怒りが頂点に達したのが12月13日の出来事だった。広島時代に知り合った友人と愉快な時間を過ごし帰京した羽田空港で報道陣から西武へのトレードが球団から発表された事を知らされた。確かに広島市内のホテルに大沢管理部長から「西武に絞って交渉中である」との連絡はあった。だが正式発表は自分が東京へ戻ってからだと思っていた。

先ずは今回のトレードの経緯の説明があって然るべきで次に来季の契約更改を済ませてから正式に発表するものと考えていた。野球協約上は来季の契約更改は新旧どちらの球団で行なっても構わないとされているが旧球団で更改を済ませるのが球界の慣例とされてきた。ところが日ハムは自分が飛行機で雲の上を飛んでいる最中に一方的にトレードを発表し来季の年俸は「どうぞあちらで」と言わんばかり。これが3年間チームに尽してきた選手に対する扱いかと思うとハラワタが煮えくり返った。「犬や猫じゃあるまいしポ~ンと放り出されたみたいじゃないか。俺だって血も涙もある人間なんだぜ」とポツリ。

一連の騒動の中で江夏自身は筋を通してきたと自覚している。それは「自分の身柄は大沢前監督に一任する」という約束を守ってきたからだ。江夏は自分を拾ってくれた大沢管理部長を「恩人」として立ててきた(ちなみに江夏は今でも " 前監督 " と呼んでいる)。江夏には人情を大事にする一徹な所があり、こうと決めたら方針を貫く。今回もそうだった。江夏は球界内に様々なツテを持っており自分に有利な方向に動こうと思えば動ける強力な人脈がありながらしなかった。大沢管理部長に一任した以上、自分が動き回れば大沢管理部長を裏切る事になるからだ。自分は約束を守り筋を通しているのに球団は次から次へと江夏のプライドを傷つけるような言動に出る。それが許せなかった。

江夏にはグラウンド以外でも日ハムに貢献してきた自負がある。入団して初めての選手会に参加した時の事、球団に対する要望書を各自が書いていたが殆どの選手が「ユニフォームをもう1着作って欲しい」と記していたのを見て驚いた。当時の日ハムでは試合用と練習用のそれぞれ1着しか支給されていなかったのだ。オールスター戦に出場した選手は他球団の選手が着ている綺麗なユニフォームと自分の継ぎ接ぎだらけのそれを見比べて恥ずかしい思いをしていた。選手会長の柏原選手に意見を求められた江夏は「今の時代はノンプロのチームだって2~3着は持っている。プロ球団が今頃そんな事を言ってるなんて考えられん。それは要求以前の問題」と切り捨て選手会として球団と直談判するよう提言した。

これを機に江夏は球団に対して「いいチーム」「強いチーム」になる為にズバズバと進言し続けた。「だから球団から見るとうるさい野郎と煙たがられる存在だったかもしれん(江夏)」と苦笑いする。しかし、まがりなりにも日ハムはプロ球団に相応しくなり初のリーグ優勝を果たす事が出来た。微力ながらも球団に貢献出来たとの思いをフロント陣に踏みにじられたという無念さを感じるのだ。当初、球団は交換選手が豊富な巨人とトレードしようとしていたフシがある。しかし巨人側が江夏獲りに乗り気でなく話が進展しないと判断すると後は手当たり次第に各球団に交換トレードを打診した。取り敢えず江夏を放出したいとの思いからだった。

江夏を同じリーグの西武に放出するのを最後まで渋った日ハムだったがセ・リーグで交換トレードに応じる球団はなく西武入りが決まった。複数のセ・リーグ球団から「金銭トレードで」との申し込みはあったが大沢管理部長が「金銭では江夏に失礼」と断っていた。ただでさえ豊富な西武投手陣に更に強力ストッパーが加わる事となり「これで来季のパ・リーグの灯は消えたも同然」と指摘する評論家も現れた。今後の注目は広岡監督との関係である。広岡監督は「ウチに来る以上、ウチのやり方に従ってもらう。それが嫌なら辞めてもらって結構」と早くも牽制球を投じる一方で「ワンポイントで1試合1球でもいい。その1球を投げるのにどう考え選択したのかを若い投手達に教えてもらえればいい」とシビアな歓迎の弁も。対する江夏は「自分なりの調整法がある。それは広岡監督とじっくり話し合えば解決できる」と。今後の2人から目が離せない。
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# 404 ストーブリーグ座談会

2015年12月09日 | 1983 年 



ドラフト会議が終わるとプロ野球界の関心はトレードにまつわる話題に移る。今オフはスタート早々に大物・江夏を巡る各球団による丁々発止の駆け引きが始まり、それが刺激になったのかスポーツ紙を中心に大物交換のアドバルーンが次々に上がっている。そこで取材の最前線で日夜駆け回っている各スポーツ紙記者に集まってもらい現在の状況を聞いた。


:東京中日スポーツ / :日刊スポーツ / :サンケイスポーツ / :スポーツニッポン

…先ずは江夏の話から
…一時はもうヤクルトで決まりと言われていたけど御破算に
…いつもは威勢のいい大沢親分も「頭が痛いよ」とこぼしていた。八方塞がりだけど自由契約にする訳にもいかないって
…広岡監督が「巨人と出来レースじゃないのか」と意味深な発言をしてるよね
…ただ広岡さんは江夏の事は批判していない
…そう。あれだけの功労者は球界全体で救済してやらないといかんですよ、と言い続けている
…ヤクルトの関係者が「年俸が高すぎる」と言ったのを聞いて「それは彼に対して失礼な話。年俸に見合った働きをしている」と庇った
…敬意を示しつつ、実は自由契約になるのを待っているんじゃないかな?広岡さんは策士だし(笑)
…日ハムにしたらそうはいかない。江夏が西武入りしたら来季のペナントレースは始まる前から優勝は西武と決まってしまう
…広岡さんの意味深発言の巨人はどうなの?
…長谷川代表は「獲らない」と言い続けているけど本心はどうかな?
…" 王巨人 " の1年目だし打倒西武の為には江夏は欲しいでしょ。角の肘の状態も良くないしね
…でも球団関係者がソッと耳打ちしてくれた。「あの年俸がネック。江川や西本との釣り合いもあるし難しい」って
…そこでフロント陣はウルトラCの作戦を考えている。出来高のボーナス制を使う可能性もあるらしい
…特別待遇を嫌う王さんが納得するかなぁ?それに江夏本人が「ワシは巨人には馴染めん」と乗り気じゃない
…ただ現状は江夏に選択権はない。そこが辛い所だ
…ここにきてロッテがダークホースに。稲尾新監督が「使いづらいなんて監督たる者が言うもんじゃない。選手を操縦してこそ監督だ」と
…更に大洋・関根監督も「未知数の新人2人を獲得する事を考えたら安いもんだ」と、こちらも獲得レースに参戦ムード
…どちらにしろ年内決着は無理だね。年が明けてからが本番かも


…江夏の件では静かな巨人だけど他では結構マメに動いているらしいね
…新浦や山本功あたりを駒に打診に忙しい。山本なんかは年俸はアップしたのに浮かぬ顔をしてる
…既に阪神と成立した太田幸⇔鈴木は序の口。本命は三宅(ロッテ)と藤田学(南海)
…交換要員は例によって新浦や山本に加えて福嶋も候補
…話題になっているのが河埜と定岡(南海)の交換。それで双方のチームに兄弟選手が誕生する
…お宅(中スポ)は巨人の方の『定岡を南海へ』と書いたらギャルからの問い合わせが殺到したらしいね
…ウチに若いギャルから問い合わせが来るなんて前代未聞(笑)。改めて定岡の人気を思い知らされたよ
…巨人フロントは否定してるけど河埜と水上(ロッテ)の交換が最優先らしい。水上が獲れるなら新浦プラス福嶋でもOKだと
…ロッテは水上を出さないよ。あるとすれば三宅⇔新浦かな
…一説によるとトレード要員として名前をわざとマスコミに漏らして奮起させるのが狙いという話がある
…球宴休みの最中に骨折した河埜なんかいい例だ。お灸をすえる意味でね
…毎年恒例の " 大山鳴動して・・ " パターンかな?
…いやいや、新浦と森口(南海)が成立寸前だったのは事実。最後になって南海側が「森口は出せない」と御破算になった
…静かだと逆に不気味だね。王さんに恥をかかす訳にいかないから球団としても補強ゼロは有り得ない
…世間の目が江夏に集まっている間が要注意だね


…山田(阪急)の去就も何かと騒がしいね
…シーズン中から上田監督との確執が報じられていたけど山田クラスになると簡単には出せない
…阪神の山本和とのトレード話が伝えられたけど信憑性は?
…ないない。話を聞きに行ったら上田監督はカンカンに怒ってた。「エースを出す馬鹿がどこにいるか」ってね
…その阪神だけど江夏の件で揺れる球界のドサクサに紛れて地味に補強している
…阪急から稲葉投手と八木内野手、南海から山内新投手。獲れるもんなら何でも、みたいな感じ
…昨年の野村投手で味をしめたんだよ。使えそうな投手は幾らいてもいい。なんせエースの小林投手が電撃引退してしまったから
…アッと驚く話はないの?
…広島の高橋慶を中日の新監督に就任した山内さんが狙っている
…高橋が山内さんにゾッコンだからね。昨秋のキャンプで臨時打撃コーチに招かれ高橋を指導し再生させて今や師弟関係と言っていい
…でも古葉さんは出さないよ。それより本塁打王になった大島(中日)の周辺がキナ臭い
…去年の契約更改で揉めた経緯もあって球団は「売り頃」と考えている。本塁打王の箔も付いたしね
…トレードは球団同士の繋がりがないとなかなか成立しない。それと監督同士の関係も無視できない
…南海が広島の中尾選手を獲得したがこの両球団は昔から繋がりがある。ブレイザーが南海から広島へコーチとして移籍した事も
…現役時代に毎日オリオンズで一緒にプレーした中日・山内監督と日ハム・植村監督の繋がりにも注目しないと
…穿った見方をすれば稲尾監督の江夏に関する発言も名球会繋がりで王監督への援護射撃とも取れる
…いずれにしても江夏の行き先によって各球団の今後の補強に影響が出るのは間違いない
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# 403 黒い交際疑惑

2015年12月02日 | 1983 年 



昭和44年の暮れから球界を襲った " 黒い霧事件 " で多くの選手らが追放処分され、他人事ながら「馬鹿な事をするもんや」と思っていた。年が明け新たなシーズンが始まっても火種は燻り続けていた。この年は初めての開幕投手を務めたが4月は肘の状態が思わしくなく調子が上がり始めたのは5月に入ってからだった。あれは6月中旬の事、いつも親しくしていた大阪の新聞記者が「球場前の喫茶店で待ってるからちょっと話を聞かせて欲しい」と言ってきた。日頃から冗談を言い合っている仲でもあり何の疑いもなく会った。「去年、Aさんから時計を貰ったやろ?」と聞かれ「ああ。それがどないした?」ファンから三振奪取記録(昭和44年)のお祝いに貰ったもので何らやましい事は無かったから素直に答えた。これが生涯忘れられない屈辱を味わうきっかけだった。翌日の新聞の見出しは『江夏に黒い交際。暴力団から時計を貰う』だった。記事を読み進むうちに怒りがこみ上げてきた。まるでワシが時計を貰って八百長をしたかのような内容だった。

Aさんと初めて会ったのは姫路でのオープン戦の最中だった。阪神の先輩選手に連れられて食事に行った店で紹介された。先輩らとは顔馴染みだったがワシはAさんの人となりは全く知らず単なるファンの一人だと思った。「三振記録おめでとう」と言うと自分の腕に巻いていた時計を外して「お祝いや、とっておいてくれ」と渡された。自分のファンに『おめでとう』と言われソッポを向くのも失礼かと思い受け取った。正直言ってファンから貰う花束や折り鶴を貰う感覚だった。そのAさんが野球賭博を資金源にしている暴力団員でその人から時計を貰った江夏は八百長をしている、と周りが騒ぎ始めた。「天地神明に誓って八百長などしていない」と叫んでみても誰も取り合ってくれない。そのうちに怒りが悲しみに変わっていく。Aさんを知っている選手は他にも大勢いるのに知らん顔。親しくしていた記者連中も手の平を返すように傍に寄って来ない。この時ワシは22歳。「人間は信用出来ない」という思いに包まれるようになった。

警察とリーグ関係者が調べた結果「江夏はシロ」という結論が出た。当たり前の事だ。何をどう調べたって八百長なんてやってないのだから。そもそもAさんは暴力団員ではない。3人兄弟の末っ子で長兄が暴力団関係者というだけなのだ。しかしワシの傷ついた心は回復しなかった。無実の人間をあたかも犯罪者かのように仕立て上げておいて「あ、違ったの?」で済まされては堪らない。しかも追い討ちをかけるように球団から「世間を騒がせたから10日間の謹慎」を言い渡され怒りは頂点に達した。 " 騒がせた " のは一体どっちや!ワシは最初からやましい事は何も無いと言い続けていたではないか。 " ない " ものを " ある " と言って騒いでいたのはどこのどいつだ。ワシを喫茶店に呼び出し記事にした記者はその後ワシの傍に来る事はなくなった。球場で遠くから見ている事はあっても決して目を合わせる事はなかった。卑怯な奴や、ワシが人間嫌いになったのはそれからである。

怒りはピッチングに乗り移った。こうなったら肩や肘が壊れようがどうでもいい、と怒りを球に込めて半ばヤケになって投げ続けた。謹慎空けの登板でプロ入り通算1千奪三振を達成。940 イニングでの達成は日本記録だった。甲子園での巨人戦で延長11回を1安打に抑え長嶋さんから3三振を奪って完封したり、村山さんが9回に走者を溜めてONを迎える場面に登板し打ち取ったり投げまくった。鬼になっていた。心が破裂しそうだったが悔しさと悲しみを打者にぶつけていた。中2日、1日で投げた事もあった。巨人戦では連投して連勝もした。今のように短いイニングのリリーフではなく先発して完投した翌日にピンチに登板しそのまま4~5回を投げきった。結果この年は 337 回 2/3 投げた。今年の最多登板は山内孝投手(南海)の 242回だった事と比較すれば如何に常軌を逸した登板だったかが分かる。

しかし本格的な夏が訪れる頃になると身体がとうとう悲鳴を上げる。マウンド上で急に血の気が引いてふらつき息苦しくなる。暫くジッとして深呼吸をすると治ったので深刻な病気だとは考えず投げ続けた。9月末の中日戦、2回に高木守道さんに内野安打を許しただけで0点に抑えていた。この頃の阪神はとにかく打てなかった。この日も両チーム無得点のまま延長戦へ突入した。3回以降は一人の走者も出さず延長13回、一死を取った所で目まいがしてマウンド上で蹲った。顔面蒼白となり冷や汗まみれの顔を見た村山監督は「無理だ、交代しろ」と命じたが「少し休めば大丈夫」と続投を志願し後続を抑えた。試合は延長14回へ。流石に限界だった。木俣さんに左翼席へ運ばれ負けた。10月になり 0.5ゲーム差で迎えた首位・巨人との " 甲子園決戦 " でワシは初戦に先発したがKO。中1日で再び先発した後で遂にドクターストップがかかった。医者曰く「いつ心臓が破裂してもおかしくない」と。今、振り返っても嫌な思いしかない年だった。
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