納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています
投手で2年連続MVP
プロ野球史上、投手で2年連続最高殊勲選手(現在の最優秀選手)MVPになったのは昭和14・15年のスタルヒン投手(巨人)、昭和32・33年の稲尾投手(西鉄)、そして藤田元司投手の3人である。昭和32年に巨人に入団した藤田は1年目に17勝して、157票中156票を集め新人王に輝いた。しかし18試合に先発して完投は4試合のみでスタミナ不足を露呈していた。173㌢・64㌔の体型でいかにも体力不足を感じさせたが、翌年は " 2年目のジンクス " など問題にせず29勝を上げた。39試合に先発して24完投。1年目は出来なかった完封も7試合で、3年目も35試合先発して27勝・24完投だ。
この2年間で計74試合の先発の他に42試合の救援登板もあり、まさに大車輪の2年間でその結果が2年連続の勝率1位であり2年連続のMVPだった。それにしても惜しまれるのはこの2年間、僅かの差で防御率1位を逃したこと。藤田の防御率は例年ならタイトルを獲れるレベルのものだったが、昭和33年の防御率1.53は1位金田投手(国鉄)の1.30に及ばず、翌34年は1.33 と前年より良かったが、村山投手(阪神)が1.19という驚異的な数字を残した為にタイトルを逃した。ちなみにその前後の防御率1位は昭和32年は1.63(金田)、昭和35年は1.75(大洋・秋山投手)で、当該2年間だけ異常な防御率だったのだ。
悲劇の影はいつまでも
それでも二度のMVPで慶大、ノンプロの日本石油時代についてまわった " 悲劇のヒーロー " のイメージは一掃されたと思われた。だが悲劇の影からは逃れられなかった。日本シリーズにおける通算2勝6敗が最たる例だ。昭和33年は西鉄との日本シリーズ。第6戦に先発し野武士打線を相手に5安打・2失点で完投したが敗れた。翌34年の相手は南海。第3戦で8回まで2安打・2失点、第4戦でも8回まで6安打・3失点と好投したが敗戦投手に。第4戦の6回に死球で出塁した藤田は南海・杉浦投手を打ち崩せない味方打線に業を煮やして二盗を成功させた。日本シリーズで投手が盗塁を決めたのは藤田を含めて過去3人のみだ。
完封して引退
昭和36年からプレーイングコーチに就任。現役選手として下り坂なのかと思われたが翌37年には防御率第6位に。昭和39年には3位になったが、8勝11敗と負け越したのは不運な黒星が多かったせいだ。11敗のうち何と9敗までが味方打線の得点が3点以下だったのだ。9月12日の国鉄戦は巨人が初回と2回に1点ずつ加点し5回にも2点を追加。これで楽になった藤田は国鉄打線を6安打・無失点の完封勝利。これが藤田の現役最後の登板となり、オフに引退を表明し投手コーチに専任となった。あの400勝投手のカネやんでも現役最後の登板は5回途中・6失点でKOされた。完封で現役生活を締め括った投手は恐らく藤田だけではないか。
滅私奉公でMVP
日米交流が盛んになった戦後のプロ野球に来日した外人選手は多いが、プロ野球界で最高の名誉であるMVP(最優秀選手)に選ばれた " 青い眼の助っ人 " は後にも先にも昭和39年のジョー・スタンカ投手(南海)ただ一人である(日系2世では与那嶺選手が昭和32年に受賞している)。この年は同じ南海の広瀬選手も打率 .366 で首位打者になっていたが、3名連記制度のMVP投票でスタンカへの1位票が圧倒的であった。総投票数140票のうちスタンカを1位とするのが101票もあった。スタンカ抜きでは考えられなかった南海の優勝だったのである。
首位を走る阪急との8月4日からの直接対決3連戦に南海は初戦にスタンカを起用して勝利しゲーム差なしに追いついた。翌5日も勝利した南海が1厘差で首位に立った。すると6日の3戦目に休養1日のスタンカを先発させて3連勝して、そのまま最後まで首位を譲ることなく優勝した。とかく利己主義的な振る舞いが目立つ外人選手だが、この年のスタンカは日本人的感覚の " 滅私奉公 " に徹していた。だからこそプロ野球記者会の圧倒的支持を得てMVPに選出されたのである。
セ・リーグを制した阪神との昭和39年の日本シリーズでは第6戦に先発したスタンカは被安打2で完封勝利して対戦成績を3勝3敗のタイに持ち込んだ。しかも翌日の第7戦にもスタンカは先発してまたしても被安打5で完封勝利して南海を日本一に導いた。2日連続の完封勝利は日本シリーズ史上でスタンカが唯一である。第1戦にも完封勝利しているスタンカは「1シリーズ・3完封勝利」という離れ業を演じ南海の日本一に貢献したのである。
4回退場の大記録?
スタンカはまた外人選手の退場記録の持ち主でもある。合計四度の退場処分を受けているが、そのうち二度は選手同士の乱闘がきっかけというのは珍しい。昭和39年9月3日の対近鉄戦ではスタンカの投球がチャック選手の頭部をかすめたことから2人が取っ組み合いを演じ2人とも退場になった。当時のスタンカは他球団の外人選手への対抗意識が強く打たれるのを嫌っていた。事実、対戦成績は打撃10傑・7位のブルーム選手(近鉄)を打率 .190 に抑え込み、スペンサー選手(阪急)も打率 .200 。パ・リーグに在籍していた外人選手に対して184打数39安打・打率 .212 に抑えた。
外人投手最多勝記録
熱血漢も家に帰れば一人の子煩悩なパパだった。それだけに昭和40年末に愛児をガス中毒で亡くすと精神的に落ち込んで引退宣言をして早々に帰国してしまった。翌年に大洋から入団要請があり再来日をしたが6勝に終わった。5月24日の阪神戦では6回二死までノーヒットピッチングをしていたが、2者連続で四球を出したところで交代を命じられた。リリーフした投手がボークを犯したり野手の失策が重なって2失点。スタンカは被安打ゼロながら敗戦投手になる珍記録。
9月27日の巨人戦で7回まで投げて勝利投手になり通算100勝を達成した。この勝利が日本における最後の勝ち星となった。外人投手の通算100勝は初めての記録で、昭和43年にバッキー投手(阪神)に追いつかれたがバッキーも100勝目が最後で記録更新とはならなかった。日本における外人投手最多勝記録は未だにスタンカとバッキーの100勝のままだ。
あのヤクルト・松園オーナーが最近ソワソワしっ放しという。松園サンだけじゃない。女子職員に至るまで勇ましい「今年こそV1!」の掛け声。大健闘の前半戦、一昨年の赤ヘルの奇跡を思い出すまでもない。夢が現実に何となく近づいてくればその気になるのも当然。だがどうも選手たちコチコチになってきたのが心配だ。
熱心なオーナーにフロントはピリピリ
ヤクルト球団のフロント陣はこのところ神経が磨り減る思いをしているという。長いペナントレースだから勝った、負けたで一喜一憂する必要はない筈だったのだがワンマン経営者の松園オーナーが最近になってやたらとヤクルトの戦いぶりが気になって気になって仕方ないらしく、しきりにフロント陣に状況報告を催促するようになったのだ。東京の東新橋にあるヤクルト本社。松園オーナーは出社すると16階の社長室でありとあらゆる新聞に目を通す。以前はさほどスポーツ欄に関心はなったのだが、今ではヤクルトの記事が載っているのを見つけると隅から隅まで読んで球団事情に詳しくなった。
批判的な記事が書かれていようものなら「一体これはどういうことか」と秘書や球団フロントが詰問されて返答に困ることが度々あるそうだ。松園オーナーが熱くなるのも無理のないこと。昭和43年12月、サンケイ新聞から「アトムズ」を買収し、翌年3月に正式にオーナーに就任して以来、足かけ8年まだ一度も優勝経験がないのだ。そもそもは全国7万人いるヤクルト社員の娯楽の為にプロ球団を持った程度の認識しかなかった松園オーナーだったが、いざ球団オーナーになってみると会社のPRが出来れば安い買い物という当初の考えを改めるようになった。事業の鬼と呼ばれる松園オーナーは勝負事には勝たないと気が済まない。
「ここ2~3年は優勝するかも、みたいな記事を素人だから鵜吞みにしてきたが今年は違う。私なりに分析して本気で優勝できると思っている」と松園オーナーは力説し、早々と選手たちの目の前にニンジンをぶら下げた。「優勝すれば勿論、終盤まで優勝争いを演じれば来年のキャンプはブラジルで行なう。キャンプが終わり帰国する途中でアメリカに寄って大リーグのチームとオープン戦をする」という壮大なプランをオープン戦を観戦していた長崎市内で記者会見し発表した。ヤクルト担当記者によれば発表の翌日には球団フロントを呼んでブラジルについての下調べを命じたそうなので松園オーナーの本気度は相当なのもだ。
海外キャンプはこれまで巨人・阪神・ロッテ・中日がアメリカで、台湾でもクラウン(当時は太平洋クラブ)・巨人が行なっている。アメリカよりもっと遠い、地球の裏側までわざわざ大金をかけて行く必要もなさそうだが、松園オーナーは「なぁに、九州の湯之元でキャンプするのと大して変わらんよ」と太っ腹だ。しかも昭和43年に現地で創設された「ブラジルヤクルト」の業績はすこぶる好調でブラジルでのヤクルトの知名度は高く歓迎する声は多いそうだ。ヤクルトナインにとっては未知の土地で何かと不便なこともあろうが、ヤクルト本社にとっては更なる知名度アップのチャンスでもあり乗り気なのだ。
偉大な組織からの選手への報奨金
ご褒美はキャンプだけではない。松園オーナーが考え出した第2弾はチーム内で毎月選ばれるMVPに贈られる報奨金である。球団内に選考委員会を設けて試合ごとにMVPを選び、リーグが選ぶ月間MVP同様に表彰して士気を高めるプランだ。監督賞とかオーナーのポケットマネーによる報奨制度はどこの球団でも大なり小なりあるがヤクルトが出すこの種の賞金が今年はアップした。自らの腕一本が頼りでサラリーマンのように定期的に昇給したりはしない。勿論、ボーナスもない。あるとするなら各球場についているスポンサーからの勝利投手賞やホームラン賞の金一封くらいである。
しかしヤクルトでは後援会からという名目で月別、試合ごとに分けて報奨金が出ている。後援会とは名ばかりで本社のお偉いさんが音頭取りで後援会長は本社の山下専務であって実際はヤクルト本社からの報奨金である。報奨金は毎試合必要になるがどこからその資金を捻出しているかというと、ヤクルトはグループ会社がピラミッド型に組織され頂点に本社があってその下に原液工場、ポリ詰め工場、営業所、販売店があり、多岐多様に幅広く各所からお金を集めて後援会に納めている。初優勝の為の後援会費用などアッという間に集まるのだ。だが「ヤクルトの選手が競り合いに弱く精神的に甘いのは懐が温かくハングリー精神がないからだ」と指摘する声もあり痛し痒しだ。
今年から埼玉県戸田市の荒川河川敷に二軍専用の新球場が出来たが、これもヤクルトグループの総合運動場として建設した一部を球団が優先的に借りているシステム。また酒井投手ら若手が住む中野合宿所はグループ企業の一つである西東京ヤクルト販売所の社員用アパートの5・6階部分を球団が借り上げている。こうした組織だから前身である国鉄が鉄道弘済会を母体にして結成されたのと同じで必要な資金はグループ企業から集められるので潤沢で、月間のMVPなどに金一封を贈呈することなど造作ないことだ。
" 優勝チームのオーナー " が男の花道
球団経営に乗り出して満7年になりながら未だに優勝は皆無。12球団で唯一のV未経験とあれば松園オーナーが目の色を変えだしたのも当然だろう。「財界人の集まりで野球の事を聞かれる度にオレは恥をかきっ放しなんだ。球団は黒字経営で優等生かもしれんが堪らんよ」と松園オーナー。優勝貧乏という言葉がある。毎年チームが優勝争いをすれば必然的に選手の年俸は上がる。そのせいで球団の財政は苦しくなる。まさにヤクルトはその状態になりつつある。だが松園オーナーは「財政状態?そんなものはなんてことない。チームが勝つ、人気が出る、観客が増える、入場料収入が増える。簡単なことだよ」と優勝貧乏とやらを一笑に付す。
とにかく優勝の感激に浸りたい。赤ヘルの奇跡に広島県人が老いも若きも熱狂したあの優勝の興奮を味わっていないのは松園オーナーはじめ関係者やファンの人たちだけなのだ。大正11年、長崎県五島列島で生まれた松園オーナーは昭和18年に上京。法政大学に進学した後に一度長崎に帰り草履の行商までしたらしい。あらゆる商売をやり資金を貯めて改めて上京し、八王子で大八車で売り出したのがヤクルト飲料だった。いわば現代の立志出伝中のヒーローである。今里広記氏や五島昇氏、盛田昭夫ら財界の大物と肩を並べて交遊するようになった松園オーナーにとって次に欲しいのは勲章でもなく、プロ野球球団のオーナーの花道として " 優勝 " なのかもしれない。
「左翼ゴロ」…三遊間のド真ん中を抜く快打を放った打者が一塁でアウトになる。別にその打者が走らなかったのでも転んだのでもない。こんな馬鹿な話があるだろうか。ごくたまに「右翼ゴロ」ならある。しかし「左翼ゴロ」とはもはや世界記録といってよいだろう。そのとてつもないことをしでかした男こそ、現日ハム監督の大沢啓二である。
酒盛りの名残は生温かい一升瓶
「チームプレーなんて必要ない。秀でた個人プレーの集積が一番のチームプレーなんだ」現代でこのような発言をする監督はまずいない。日本ハムの監督である大沢啓二もチームプレーこそ勝つ為の必須条件だと今は言っている。そう、 " 今は " である。だが大沢の過去を追跡すると相手に勝つ為にチームプレーが本当に一番大切なものなのか、もっと大事なのは個人の天才的な勘ではないのかと考えてしまう。日本の野球史上、最も天才的な勘の持ち主は大沢だと思っている。世間では長嶋茂雄こそ天才だという声もあろうが個人的には大沢だと確信している。何しろ大沢は本場のアメリカ大リーグにも存在しない世界記録を持っているのだから。
昭和29年10月3日、神宮球場での東京六大学リーグ・東大対立大戦に大沢は出場していた。当時の立大野球部はサムライ揃いだった。余談になるがそのサムライぶりを紹介しよう。あの長嶋茂雄が1年生だった立教大学野球部合宿所は当然禁酒だ。だが上級生は隠れて酒盛りをしていた。一升瓶を片手に飲み会が始まる。深夜まで酒盛りが続けば生理現象として小便がしたくなる。だがいちいち便所に行くのも面倒になり、空になった一升瓶に用を足すようになる。一升瓶がいっぱいになると4年生が「おい長嶋、これを捨ててこい」、「ハイ、わかりました」と1年生の長嶋は生温かい一升瓶を抱えて便所に向かう。そんなサムライだらけの集団では個人プレーの集積がチームプレーだった。
三遊間を抜けたらそこに左翼手が…
話を試合に戻そう。立大が4対0とリードした4回表、東大の攻撃で先頭の五番・脇村春夫選手は立大・杉浦忠投手から死球を受け出塁、続く六番・坂上浩選手は三振、七番・南原晃選手は中飛に倒れた。そして原田靖男選手が左打席に入った。原田は投手で打率は低くバットを短く握っていた。これを見た立大左翼手の大沢は「チョコンと軽打する気だな」と勘を働かせて前進守備を敷いた。それも遊撃手の僅か15m程後方という極端な前進守備だった。大沢は「今日の杉浦はカーブよりシュートが決まっている。原田にもシュートで攻めるに違いない。原田の打力を考えれば前に守っても頭を越される心配はないだろう」と考えた。理屈を言えばキリがないが大沢の直感だった。
原田はボールカウント2-2から杉浦が投じた5球目のシュートを打った。打球は山田一夫三塁手と伊藤秀司遊撃手の間をライナーで抜いた。ワンバウンドして跳ね上がった所に大沢が待ち構えていた。捕球した大沢はすぐさま一塁に送球し、原田は一塁ベース2m手前でアウトになった。封殺狙いで二塁に送球していたら恐らくアウトにはできなかったであろう。大沢は迷わず一塁に送球した。何故か。大沢はこう言っている。「内野ゴロの場合、打者走者は一直線で一塁ベースを駆け抜ける。だが打球が外野まで達すると二塁を窺う為に一塁ベース手前で右に膨らむように走る。つまり一塁ベースに到達するまで余分に時間がかかり、その分アウトにできる可能性が高まる」と。
公式記録員がつけた記録は「左翼ゴロ」であった。大リーグ100年の歴史を見ても、大正14年秋以来の半世紀以上に渡る東京六大学野球の球跡を調査しても、そして42年間の日本プロ野球史を紐解いても「左翼ゴロ」という記録は唯一、大沢啓二しかいないのである。原田が打席に入った時に一塁でアウトにできると発想することが大沢の凄味である。自分の所に打球が飛んでくると想定して待ち構えるのは野球選手なら当たり前のことだ。だが飛んできたゴロを捕球して一塁でアウトにしようと考える選手は皆無だろう。この大沢を除いて。何という勘の鋭さ、何という細やかな計算、この2つが重なり合って世界記録は生まれたのだ。
遊撃手のすぐ後方、個性的な守備あり
今のプロ野球選手は個人的なアクの強さがない。チームプレーは大切だ。だがチームプレーに徹するあまり、個性が無くなってしまった。私は考えるのだ、もし大沢が今のプロ野球でプレーしていたとしたらどんなに楽しいかと。若い読者は若き日の大沢のプレーを知らないので教えてあげよう。昭和34年10月27日、後楽園球場での巨人対南海の日本シリーズ第3戦。2対2の同点で9回裏一死二三塁、巨人が一打サヨナラの場面だった。九番・藤田投手の代打に森選手が起用されボールカウント2-2から杉浦投手が投じた5球目を打った。バットの芯で捉えた打球は遊撃手の広瀬選手が差し出したグローブの僅か1m上をライナーで越えて行った。
サヨナラだ。巨人ベンチも球場内の巨人ファンも勝利を確信した。だが次の瞬間、一同は驚愕の光景を目にする。何と打球が落ちる筈である場所に大沢がいたのである。そう、あの神宮球場の東大戦と同じく大沢は極端な前進守備を敷いていたのである。広瀬の後方10数mの地上30cmの所で拝み取り。虚を突かれた三塁走者の広岡選手は一瞬遅れてタッチアップして本塁に向かったが憤死しサヨナラ勝ちとはならなかった。この時、広岡はスライディングせずに本塁突入をしてアウトになったが、この無抵抗とも言えるプレーも物議を醸すことになった。試合は延長戦に突入し10回表に寺田選手が勝ち越し打を放ち南海が勝利し日本一に王手を掛けた。
この日の大沢は中堅手だった。普段の定位置から捕球した場所までの距離は約30~40m。定位置近辺への平凡な飛球でも追いつくことはできずサヨナラ負けになる。余程の自信がなければ出来ない芸当だ。今のプロ野球界には福本豊(阪急)、高田繁(巨人)、広瀬叔功(南海)など守備の名人級がいるが、大沢のような異色な選手は見当たらない。大沢はまさに個性的な守備と言える。だから私は大沢の存在を今更ながら稀有で素晴らしいと思えるのだ。今も昔もプロ野球の世界で名外野手と呼ばれる選手は多い。だがこの先二度と現れない感性の持ち主だったと言えるのがこの大沢でないだろうか。