Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#145 1980年 ドラフト会議

2010年11月24日 | 1980 年 



大方の予想通り新人王は石毛と原でしたが2人以外の選手も活躍し、前評判通りの
「当たり年」と呼んで差し支えないと思います。

中尾 ( プリンスH→中日1位指名  980試合  699安打 109本塁打  打率 .263 )
 「光栄です。満塁本塁打を放った気分」 ドラフト前夜は本人以上に父親が高ぶる気持ちを抑える為に近所の神社で
 「お百度」を踏んだとのこと。その甲斐あってか意中の中日が1位指名し気色満面の記者会見は、まるで入団会見のよう。
 近藤監督は「木俣の後継者。唯一の難点はスローイングだが、それを直せばすぐ使える。木俣と併用するのは勿体ない。
 外野手としての二本立ても考えている」  


中田 ( 日産自動車→阪神1位指名  226試合 33勝 23敗 14S )
 横浜高では愛甲の前代エースで亜細亜大進学後に家庭の事情で中退。その後に日産自動車に入社、スカウトの目に
 留まったのは今年夏の世界アマ野球日本代表との壮行試合で先発して、全日本を3回1安打に抑える好投がきっかけ。
 会社側は「都市対抗に出るまであと1年…」と慰留の姿勢を見せるも「本人の意思を尊重する」としている為、阪神入りに
 大きな支障にはならない。

石本 ( 滝川高→近鉄1位指名  267試合 35勝 19敗 48S )
 昨秋の近畿大会、石本は名門滝川高のエースナンバー「1」を付けながらも登板する事が無かった。兵庫県予選で露呈した
 ノーコン病のせいで一塁手で起用されたからだ。「名前だけのエース」から脱却する為に練習に明け暮れ遂にエースの座を
 取り戻したのだ。そして今春センバツ大会で四国の鳴門高戦で完封勝利し、プロの評価もAランクに一変した。愛甲投手と
 比べても完成品であり即戦力に近い投手である。

駒田 ( 桜井商→巨人2位指名  2063試合 2006安打 195本塁打 打率 .289 )
 高校通算本塁打はドカベン香川を超える。駒田を一躍有名にしたのが今年の奈良県春季大会の強豪天理高戦での出来事。
 無死満塁で駒田をむかえると何と敬遠したのだ。「本塁打で4点取られるより押し出しの1点の方が得策」とは相手の監督談。
 ただ香川が太り過ぎで論議を呼んだように「いい打撃センスを持っているのは認めるが果たしてあの巨体を使いこなせるのか
 (ヤクルト・片岡スカウト)」と体格を懸念する声も。球審の判定にクレームをつける異色選手が優等生そろいの巨人に馴染む
 ことが出来るのかどうかも注目のひとつ。
 


他に指名された選手の中にも、大石(近鉄)・高木(横浜)など結果を残せた選手がいた一方で
芽が出なかった選手もいましたが、その筆頭が竹本由紀夫投手でしょう。
竹本 ( 新日鉄室蘭→ヤクルト1位指名  37試合 0勝 5敗 0S 防 4.71 )
 「彼ひとりで成果は90%以上」と武上監督に言わしめる程の男なのだ。昨年のロッテ1位指名、ロッテの追い込みは一説には
 「契約金7千万、年俸6百万円」と破格だったが頑として拒否、「在京セ希望」を貫いた。近鉄との競合となったが見事ヤクルトが
 引き当て満願成就となった。ヤクルトが提示する条件は「契約金5千万、年俸5百万円」とロッテの条件を下回る予想だが本人は
 「条件は二の次」とのこと。今夏の世界アマ野球では4勝をあげるなど実績は木田(日ハム)に引けをとらず、新人王は原ではなく
 この竹本が本命である。



ドラフトで当たり・ハズレがあるのは当然ですが、この竹本くらい大ハズレだったのはあまり
記憶に有りません。社会人野球のエースとして全日本にも選ばれ国際試合でも結果を残し
ドラフトでも2度の1位指名。過去にもドラフトで複数回指名された選手がいましたが、その
多くがプロで結果を残しました。森繁和(ロッテ・西武)、小池(ロッテ・近鉄)、藤沢(計5回指名)
特に竹本の様に2年連続で1位指名された投手となると江川(クラウン・阪神)以来です。

















コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#144 王選手 突然の引退表明

2010年11月17日 | 1980 年 




前々週号の段階では現役続行するとし「来季に選手生命を賭ける」との記事を掲載してました
10月上旬に王は長嶋監督に「来年やれる自信は五分五分です」と心境を吐露していたので長嶋監督続投が決まった段階では
長嶋はもう1年務めるが王は引退する可能性が強い、と言われていたのだ。だが事態は一転、21日に長嶋監督辞任のコメントを
聞きに来た記者に対して「もちろん現役を続けますよ。僕にとっても来年は勝負の年になるんですから」と引退を明確に否定した
のだが翌22日のスポーツ紙には「王進退微妙」と出た。しかも それが報知新聞だったので王の身辺は再び騒がしくなったのだ。
これにはさすがの王も苦笑まじりに「なぜ僕の談話を素直に受け取ってくれないのかなぁ。改めて言いますが、今は100%来季も
現役でやると宣言します」と念を押した。巷間ウワサされている助監督兼任については 「藤田さんから相談を受けた事はある、
21日にね。だけど正式な助監督ではなく『助監督的』なポジションだよ」と あくまでも軸足は「選手」である事を強調していた。 
(11月10日号)


ここまでハッキリと否定されると「引退」と書けないでしょうね。報知が「微妙」と書いたのは
情報は得たものの球団からストップが出されたんでしょう。引退記事のスクープを各社とも
狙っていましたが結局、本人の会見までスッパ抜いた新聞社はありませんでした。


・・・王が引退するなら知っている親しい人間は必ずいる筈と人海作戦で、とりあえず電話しまくっていた。そこへA記者から
連絡が入る。Aは日ハム担当で日ハムの球団事務所が王の自宅近くだった為に行かされていたのだ「奥さんしか居ません」
「そんな事は分かっているワ」「でも奥さんが変な事を言うんですよ、何も言えないって。これって辞めるという事ですよね?」
系列テレビ局の文化部デスクに確認するが「まだ特番の連絡は無い。本当に引退するのか?」との事。巨人球団事務所に
張っている記者から「芝の東京グランドホテルに予約が入ったとの情報が有ります。確認して下さい」 すぐにホテルに確認を
取ると「5時から『桜の間』を予約されています。今朝9時半に巨人軍の紺野広報担当様からの予約です」・・・ これで引退は
決まりだ。これが午後2時半過ぎの事。引退は決まりだが長嶋に続いて王も退団するのでは?との情報が乱れ飛んで社内は
大混乱になった。午後3時、長谷川代表が慌てて球団事務所から出て行き 「やはり王は退団するらしい。オーナーと代表が
説得に向かった」と連絡が入る。午後3時15分、正式に巨人軍からマスコミに連絡 「午後5時から王選手が記者会見する。
出席者は、王・オーナー・代表・藤田監督」 ただ退団か助監督就任かどうかは未確認・・・



結局、各マスコミが大混乱の中「口はばったい様だが、王貞治としてのバッティングが
出来なくなった・・」として引退を発表した。退団はせず助監督に就任する事になったが
実は前々から引退後の退団は球団も了承していたらしい。ただ長嶋に続いて王にまで
退団されては球団の存亡にかかわると説得されて渋々助監督就任を受けたようです。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#143 1980年日本シリーズ 広島vs近鉄

2010年11月10日 | 1980 年 
ロッテvs近鉄のプレーオフは近鉄が勝ち、日本シリーズへ
















前年と同じ顔合わせでしたが広島の連覇となり、近鉄の悲願は達成出来ませんでした。
近鉄は一度も日本一になる事なく「球団合併・消滅」の道を辿る事となります・・・この頃の
カープはまさに黄金期でした。









プロ野球界最大のイベント「日本選手権シリーズ」も長嶋監督辞任騒動の余波で注目度は減り
メディアへの露出は例年以下で寂しいものでした。広島が連覇を達成して世間の眼が野球に
戻りかけたら、今度は「王選手引退」で再び蚊帳の外・・

恐らく最も印象が薄いであろう日本シリーズを少し振り返ってみると・・第1戦は山根-井本の
先発で始まり一進一退の展開で4対3 広島リードの9回、江夏から吹石が犠飛を放ち同点。
延長戦も江夏が続投するが疲れの見えた12回表羽田が決勝の2ランで近鉄が先勝。 続く
第2戦は雪辱を期す広島が2点をリードするが5回に吹石が逆転3ラン、6回にはマニエルが
3ランを放つなど結局、9対2で2連勝。悲願の日本一に向けて最高のスタートとなった。…が
3戦以降の詳細は分かりません・・・ちなみに「江夏の21球」は前年の出来事です。


















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#142 長嶋監督解任劇

2010年11月03日 | 1980 年 




当時は社会問題化するほどの大騒ぎでしたが 「6年間で2度のリーグ優勝・日本一は無し」
優勝を逃した4年は最下位・2位・5位・3位ですから解任は理不尽ではないでしょう。 特に
「常勝を義務付けられている(笑)」巨人なら尚更。1993年からの第二次就任時は多少マシに
なりましたが、FA制度を使って補強しまくりの優勝ですから大した価値は有りません。


いち早く報じた10月21日付 スポニチの見出しは『解任』、日刊スポーツは『辞表』、そして巨人の機関紙・報知は来季の開幕権を
得た事だけ報じていた。長嶋本人が 「讀賣上層部で長嶋をクビにし新しい監督を連れて来ることを決めた」 との情報を知ったのは
10月15日の夜半だったと言われている。その前日夜に長嶋は正力オーナーに会って「来季こそ…」と情熱を込めて自分の構想を
披瀝している。その時すでに球団を遥かに超えた讀賣グループ上層部で長嶋更迭を進めていた事を知って長嶋は大きなショックを
受けた。後に分かった事だが、その時点で既に藤田新監督は「内示」を受けていたのだ。

夏頃から流れていた更迭説は長嶋擁護派の巻き返しで一旦は消えたと思われたが、球団レベルを超える更迭派が留任をアッサリ
蹴散らした。この解任劇が完璧かつ、隠密裡に進められた証拠が鈴木セ・リーグ会長の発言である。巨人だけではなく球界内の
事案処理に長けて各球団の内情を誰よりも熟知していた筈の鈴木会長でさえ、スポーツ紙が解任を報じた10月21日午前11時に
リーグ事務所に顔を出した際つめかけた報道陣に「長嶋クンは辞めないよ、先日も讀賣の務台社長に話したんだ。"今の戦力じゃ
優勝は無理だよ、開幕権が取れれば御の字" とね。務台さんだって分かってくれてる筈、だから…」藤田氏がNHKに辞表を出した
との情報が入っても「藤田クンはヘッドコーチだよ」と留任説を引っ込めない。あまりの自信たっぷりの言葉に記者たちも 「会長が
言うのなら」と帰って行った。


その時の様子を鈴木会長が手記として回顧しています
長嶋君の退団は私にとって全く予想外の出来事だった。8月下旬、巨人は5位から4位に上がるかどうかというところであった。
パ・リーグの日ハムが後楽園で開幕するのも良いが、後楽園は大正力の時代から深いかかわりがある。その後楽園で巨人は
このところ開幕権を失っていて、3位になって開幕権を得れば大成功だと思っていたのである。優勝した広島を表彰する為に
18日は広島に滞在しセレモニー後も広島に留まり巨人戦を見物した。19日・20日の2試合とも巨人が勝ち3位が確定したのを
見届け帰路についた。同じ飛行機に搭乗した長谷川代表に「後楽園で開幕出来る、これで正力君も安心しただろう」と告げると
長谷川君も喜んでいる風だったので長嶋続投を信じて疑わなかった。一夜明けた21日、一部のスポーツ紙が「辞表を叩きつける」
「解任」と書き立てたが、その紙面は急に書いたものではなく、あらかじめ用意された予定稿に感じられたのでトバシだなと思った。
事実、長嶋君は「オーナーに報告してからですが来季もやりますよ」と言っていたのだ。辞任すると分かったのは記者会見が始まる
直前に、巨人の球団関係者から「秘密にして申し訳なかった・・」と連絡が入った時だね。実は長嶋君自身も自分がどうなるのか
分かってなかったそうだ。21日朝からマスコミにマークされ自宅から出られなくなり球団からの連絡を待ち続けたが「とりあえず
大手町の讀賣新聞社本社に来い」と言われ行くと解任を告げられた。あの記者会見の10分前だったそうだ。巨人にも色々と都合も
あるだろうが日本プロ野球最大の功労者に対して遇する道を誤ったと言えるのではないか。テレビに映る長嶋君の自分を抑え、
言葉を探して喋っているのを見た時、不覚にも涙が出たよ。



また今回の解任決定は正力オーナーの不在を狙ったクーデターとの見方がある。オーナーは
時には苦言を呈する川上前監督と違い、長嶋が可愛くて仕方ない。そのオーナーが長嶋監督を
切ることに賛成しないのは明らかだった。そこで8月に讀賣新聞社・社主として渡米中の留守を
ついて務台社長ら解任派が決起したというのだ。未だに正力オーナーは長嶋に球団常務取締役
就任を要請するなど未練タラタラだが讀賣新聞は「巨人を辞めた人間を特別扱いするのは…」と
既に「過去の人」扱いだった。こうした巨人の仕打ちに対して長嶋は記者会見でも「解任」との
表現は使わず、あくまで自らの意思で身を引いた「辞任」であるとの主張を貫いた。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする