Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#220 夢の球宴史 ⑦

2012年05月30日 | 1981 年 













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#219 夢の球宴史 ⑥

2012年05月23日 | 1981 年 



【球宴史上唯一の代打逆転サヨナラ本塁打】…阪急・高井保弘が放った代打本塁打26本は世界記録だ。そんな代打屋家業の男に球宴という桧舞台が巡ってきたのは昭和49年の第1戦(後楽園)9回裏・無死一塁の場面で代打に指名された。セの松岡(ヤクルト)は絶好調でパの打者は皆、振り遅れていた。0-1からの2球目「あれはスピンの効いた最高のストレート(松岡)」と振り返った快速球が内角低目を突いた。しかし高井は90㌔の巨体を柔らかく回転させると易々とこの球を掬い上げた。打球は綺麗な放物線を描き左中間スタンドに飛び込んだ。実は高井は球宴初出場に新人の様に緊張していて「俺みたいな日陰者がONや野村さんらと同じ舞台でプレーするなんて」と最高潮の緊張で臨んだ第1戦は雨で中止に。出鼻をくじかれた事が逆に高井の緊張を解いてくれたのだった。夢見心地でベースを一周し生還する高井を世界記録達成の御褒美で推薦してくれた全パ・野村監督が笑顔で迎えた。


【野球界初のガッツポーズ?】…今でも高校野球や大学野球においてガッツポーズは非紳士的行為として心証が良くないがプロ野球では頻繁に見られる光景。そんなガッツポーズの出現は意外と新しい。戦前の藤村(阪神)が本塁打を放ちベース一周する際に帽子を取って腕をグルグル回す光景は目にしたがガッツポーズを見た事はなかった。昭和31年7月3日・後楽園での第1戦。佃明忠(毎日)は捕手部門で初めてファン投票1位で球宴出場を果たした。8回裏、左中間に本塁打を打ち込んでベースを一周する間に4度もバンザイをした。右手で帽子を掴み何度も飛び上がりホームインした後もベンチ前で再びバンザイをした。この光景を目にしたNHKの志村正順アナウンサーは「佃選手は大変な喜びようです。両手を揚げ何度も何度も飛び跳ねています。そうです、これはバンザイホームランと名付けましょう」と絶叫した。新聞記者も「志村さん、そのフレーズ頂き」と飛びつき原稿を送ったが各社のデスクの反応はおしなべて「ウ~ン…」と悪かった。バンザイは戦時中の「バンザイ突撃」を連想させるからと却下されたのだ。終戦からまだ10年しか経っておらず戦争の傷跡はまだ消えていなかったのである。これといった成績は残さなかった佃だがこの一発で「元祖・ガッツポーズ男」として後世に銘記される事となった。


【勝ち星の荒稼ぎ】…昭和52年7月23日・26日の2試合で新人の梶間(ヤクルト)が2勝をあげる活躍を見せた。同じ投手が2勝するのも稀だが要した球数が僅か17球だったのも珍しい。第1戦6回裏、無死一塁で加藤(阪急)を迎えると全セ・長嶋監督は鈴木康(ヤクルト)を代えて梶間を起用した。加藤、門田(南海)と左打者が続くので左腕の安田(ヤクルト)の出番という大方の予想に反して長嶋監督は梶間を選択した。加藤、門田、島谷(阪急)を15球でいずれも外野フライに打ち取り涼しい顔でマウンドを降りた。試合は7回表にセが先制し勝利した事で梶間に球宴初勝利が転がり込んだ。第3戦では2対2の同点の5回表二死の場面に登板すると2球で打ち取った。その裏に若松(ヤクルト)の犠飛で勝ち越して逃げ切り勝ち投手は梶間で前代未聞の2勝の新人勝利投手が誕生した。これで運を使い果たしたのか後半戦に入ると1勝しか出来ず、斉藤明(大洋)に新人王をさらわれてしまった。


【球宴で活躍した助っ人】…過去30回の球宴に打者は41人、投手は5人が出場しMVPにも輝いた選手もいる。マーシャル(中日)は昭和38,39年と2年連続、スペンサー(南海)はペナントレース以上にハッスルし昭和40年にそれぞれMVPを獲得した。投手ではミケンズ(近鉄)とスタンカ(南海)が目立つ。ミケンズは通算3試合、8回1/3を無失点。昭和35年の第3戦では外人として初勝利投手になっている。スタンカは2試合、6回を1失点。昭和39年の第3戦でMVPになっている。過去の外人選手で最も強烈な印象を残したのはギャレット(広島)だろう。昭和53年の第1戦で、高橋直(日ハム)・藤田(南海)・柳田(近鉄)から3本塁打しMVPになっている。現役選手ではリー(ロッテ)が打率.350、4本塁打、6打点の好成績を残していて、特に本塁打・打点は歴代外人選手中トップである。
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#218 夢の球宴史 ⑤

2012年05月16日 | 1981 年 



停電事件(昭和44年7月22日・平和台球場)…3対1で迎えた9回表二死から王が起死回生の2ランを放ち同点となり延長戦へ。13回表に高田(巨人)の右中間二塁打で1点を入れ、続く王が打席に入った時に「ボンッ」という鈍い音と共に球場の照明が一斉に消えた。消えたのは照明だけでなく、球場全体の電気系統がダウンした為に売店なども含めて真っ暗闇に。当初は運営委も楽観視していたが10分が経ち20分が過ぎても点灯する気配が無くようやく慌て始めた。「ヤバイ」運営委が真っ先に心配したのはスタンドのファンの動向だった。博多っ子ファンの気の短さには定評があってライオンズ史におけるトラブルの陰には少なからずファンの存在があったからだ。

場内マイクが駄目ならとハンドマイクを持って球場内を説明して回る事になったが悪い事は重なるものでこちらも故障で使えない。そうこうしている内に痺れを切らしたファン数名がグラウンドへ降り始めたのだ。両軍ベンチへ向かって選手達にサインの強要である。幸いな事に真っ暗であった為に多くのファンには気付かれる事はなく追随するファンも出ず混乱は避けられた。選手達も逃げようにもベンチ裏は、さらに暗闇であった為にベンチ内から動けずサイン攻めに応じざるを得なかった。「打ち切って没収試合にしてしまおうか」「いや、セ・リーグがリードしたまま打ち切ったら博多のファンが騒ぎ出して大混乱に成りかねない」 "小田原評定" が延々と繰り返されたが結論は出ずにスタンドのイライラもピークに差し掛かった50分過ぎにやっと電気系統が復旧した。

試合は再開され13回裏に阪本(阪急)の同点打で目出度く午後11時半、引き分けで博多っ子も満足して帰宅の途についた。そもそもこの試合はこんなに縺れずに終わっていた筈だった。パの4番手で登板した成田文男(ロッテ)は快調に7・8回を抑え、9回も続投する予定だったが8回裏に登板した金田(巨人)を見て西本監督のサービス心が動き9回は金田留広(東映)を登板させ兄弟対決を演出しようとした。だがこれが裏目となって王に同点2ランを浴びて延長戦に突入したのだ。「あのまま成田が投げてれば今頃は中洲で美味い酒を飲めてたろうに・・・」 暗闇で西本監督を見つめる選手達の視線は冷たかった。



組織票事件(昭和53年・日ハム)…この件の詳細は 1978年7月31日号 を参照して下さい。


コーチ辞退事件(昭和39年・大洋)…大洋・三原監督が病気を理由にコーチとしての出場を辞退した。しかし、選手や球団関係者から「監督が病気だって !?」「元気そうに動き回っているのは双子の弟か?」などと冷やかされるくらい本人はピンピンしていた。後に別所ヘッドコーチの暴露で事の真相が明らかになった。「監督はハナから出たくないの一点張り。監督に出てもらわないとウチの選手がやり難くて困る選手を無茶な使い方されても知りませんよ、と説得しても嫌だと言って首を縦に振らない。何で嫌なのか尋ねると『俺がテツの下でコーチなんぞやれるか!』ですと。もうダダをこねる子供ですよ」と苦笑い。

要するに川上監督より下の立場が気に入らないという事で結局出場を辞退してしまった。ただ川上監督もしたたかで、この年は移動日無しで3試合を行なう強行日程だったが3戦全てに大洋の投手が登板した。これが尾を引いたのか大洋は球宴まで2位阪神に6.5ゲーム差をつけていたが後半戦はアッサリ引っくり返されて優勝を阪神に許す醜態を演じてしまう。監督の我が儘の代償は余りにも大きかったのである。
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#217 夢の球宴史 ④

2012年05月02日 | 1981 年 


【最多観客試合】…記念すべき第1回シリーズの第1戦。昭和26年7月4日、雨が降る甲子園球場に
48、671人が詰めかけた。歴史的試合だったが内容はお寒く両チーム合わせて7安打の貧打戦と
なり2対1でセ・リーグが初勝利をあげた。勝利投手は別所毅彦(巨人)、MVPは川上哲治(巨人)と
いたってオーソドックスな結果であった。


【最長時間試合】…昭和27年の第1戦(西宮)は延長21回の引き分け。試合時間は4時間30分と現在
では驚くほどではないが当時では異例の長さ。しかも日没が理由の打ち切りであったのでナイター設備が
ある現在ならば延長戦はさらに続いた筈。


【最多勝利監督】…鶴岡一人(南海)が17勝でトップ。次が水原茂と川上哲治が10勝で続く。「人気のセ実力のパ」は鶴岡がセ、特に巨人相手に異常なほどのファイトを燃やし、パの選手に「銭が欲しかったらセ・リーグに勝ってみぃ」と叱咤激励して勝利をもぎ取った事から言われ始めた。

【最年長選手】…ご存知の月見草・野村克也。昨年は西本監督の粋な計らいで西武から監督推薦で出場7月19日の第1戦で通算選出回数が21回となった時が45歳と20日。2打数無安打だったが6回の守りでラインバック(阪神)の二盗を見事に阻止した。ちなみに通算最多三振を喫したのも野村で1試合4三振を記録した事もある。

【最年少選手】…怪童・尾崎行雄(東映)が昭和37年の第1戦(平和台)で登板した時の17歳10ヶ月が記録。9回裏に登板して2奪三振、第2戦では8・9回を投げて初勝利をあげた。

【最多試合出場】…20回選出され58試合出場の王貞治。選出回数は野村に及ばないが、打撃部門の記録の多くを王が保持している。打数138・得点25・本塁打13・塁打数87・長打数21・打点31・犠飛3・四死球34、などの最多記録をマークしているが打率だけは2割1分3厘と低い。しかしMVPを2度獲得しているあたりは流石である。同僚の長嶋茂雄は通算打率 3割1分3厘、7本塁打、21打点と好成績を残してはいるものの、何故かMVPには縁がなかった。

【1試合最多安打】…高倉照幸(西鉄)・長池徳二(阪急)・マルカーノ(阪急)・門田博光(南海)の4本が最多。高倉とマルカーノは4打席連続安打であった。

【最高打率】…70打席以上に限定すると近藤和彦(大洋)の3割3分8厘 、30打席だと藤原満(南海)の4割1分2厘である。概して大打者と言われた選手は低打率で藤村富美男(阪神)1割6分7厘、大下弘(西鉄)2割0分4厘、中西太(西鉄)1割7分2厘、川上哲治(巨人)2割2分6厘であった。


明日から怒涛の家族サービスの日々が待ってますので次回の更新は 5月16日 です・・・
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