長嶋と村山、王と江夏など両チームには多くのライバルが存在するが広岡達朗と吉田義男もライバル関係にある。年齢は広岡が1歳上だが先にプロ入りしたのは立命館大学を中退した吉田だった。そもそも吉田は阪急に入団するつもりでいたが当時の浜崎監督が「あんなチビ助じゃプロでは通用しない」と認めなかった為に入団できず仕方なく阪神に入団した。そうした経緯から阪神では冷遇されていたせいもあって2年後に早稲田大学からプロ入りした「エリート」広岡に対して敵愾心を剥き出しにしていた。
2人の初顔合わせは昭和29年5月2日の後楽園球場。2回表に打席に立った吉田の打球は火を噴くような遊ゴロ。その裏の広岡が放った打球も同じく地を這うような遊ゴロ。共にヒット性の当たりだったが両者は難なく処理した。この2回表裏の遊ゴロはお互いが意識的に放った「牽制」だと後々まで語り草となった。
昭和43年9月19日の甲子園球場。阪神は前日に江夏が巨人相手に完封勝ちして首位巨人との差を1ゲームとし、この日のダブルヘッダーでの首位奪回を狙っていた。第1試合は村山が完封勝利を収め遂にゲーム差なしの首位に並び第2試合を迎えた。阪神の先発はバッキー。試合は巨人が1点リードの4回、4点を加えてなおも二死二塁で打席には王が入った。味方のエラーにイラついていたバッキーの初球は顔のあたりを通過し続く2球目も同じく頭部近辺に。普段は温厚な王が珍しくマウンドのバッキーに詰め寄る。三塁コーチボックスからは荒川コーチが愛弟子の助太刀とばかりバッキーに跳び蹴りをするとバッキーもボクサーよろしくパンチで応酬した。
両軍ベンチから選手が飛び出して乱闘となり荒川コーチは4針縫う前頭部裂傷、バッキーは利き腕の右手親指の複雑骨折を負い2人は退場処分となり試合再開。リリーフした権藤投手はカウント1-3とし次の投球が王の後頭部を直撃して王はその場に昏倒、再び両軍が詰め寄り不穏な空気が漂い始めた。一触即発の雰囲気の中、次打者の長嶋が試合を決めるダメ押しの3ランを放ち、利き腕を負傷したバッキーは投手生命を絶たれる事となった。
昭和48年10月11日・後楽園球場
阪神 4 3 0 0 0 0 2 1 0 : 10
巨人 0 0 0 4 0 5 0 1 0 : 10
阪神は江夏・古沢・上田・権藤・谷村の5投手、巨人は堀内・玉井・関本・倉田・高橋善・小林の6投手をつぎ込み野手を含めると阪神が17人、巨人が21人を動員する総力戦を両軍は引き分けた。試合は序盤から波乱含みだった。2回表一・三塁に走者を置いて後藤が放った三ゴロは長嶋の前でイレギュラーバウンドした。「痛ッ」長嶋が右手を抑えてうずくまる。血が滴り落ちる中指は折れていた。長嶋を欠いた巨人は2回を終えた時点で7点のビハインド、しかも相手先発は江夏である。ベンチもファンの多くも敗戦を覚悟したが4回裏の4点で「もしや…」と感じ始め、6回裏には萩原の逆転3ランと高田のソロで一気にひっくり返した。球場内の興奮は最高潮に達したが今度は阪神が7回表に藤田の本塁打などで2点、8回表には望月の適時打で再びリードした。
この試合を落とすと優勝の望みが限りなく低くなる巨人は死にもの狂いで反撃し8回裏に柳田の右翼ポール直撃の本塁打で追いつき引き分けに持ち込んだ。普段は泰然自若で落ち着き払っている川上監督をもってして「これこそまさに激闘だ」と興奮を隠せないほどの一戦だった。残り2試合で1つ勝てば優勝の阪神に対し長嶋を欠いた巨人では阪神に分があると思われたが優勝を目前にした阪神ナインは極度のプレッシャーに押し潰され2連敗を喫して巨人が前人未到の九連覇を達成したのはこの試合の10日後だった。
世界の本塁打王の王に肉薄した唯一の選手が田淵だ。昭和45年の頭部への死球による影響も解消されつつあった昭和48年には5月に入っても田淵は王に9本差をつけて本塁打王争いを独走していて「ひょっとすると」と世間がザワつき始めるた。すると途端に田淵はプレッシャーで動きがぎこちなくなり打撃フォームを崩して量産ペースはガタ落ちとなってしまう。そんな田淵を横目に王は1ヶ月も経つ頃にはアッサリと追い抜き去り以降は田淵を含め他の選手を寄せ付けなかった。
自らの未熟さを反省し翌49年は精神的にも成長した田淵は10月に入っても王と抜きつ抜かれつのデットヒートを繰り広げた。王が42本、田淵が43本で迎えた10月2日からの巨人阪神4連戦で王は19打席中14四球、田淵は18打席中12四球と醜い四球合戦となった。まともな投球は無くワンバウンドや捕手も捕球できないような球ばかりで世間からも「やり過ぎ」との批判の声も多かったが両チームは馬耳東風だった。終わってみれば王は49本、田淵は45本で「例年通り」王が本塁打王のタイトルを獲得した。