Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#261 1981年・珍記録集

2013年03月13日 | 1981 年 



連続打席無安打…さすがに記録の持ち主は打者ではなく投手。阪神・伊藤投手が昭和53年5月31日の広島戦以来の60打席連続打席無安打にピリオドを打った。1年目は4打数1安打、2年目は12打数0安打、3年目の昨年は24打数0安打と新人時代の1本きりだった。今年の奇しくも同じ5月31日の大洋戦で右前安打を放った。ただし1本出たからと言って打撃開眼した訳ではなく以後また無安打が続き10月4日の中日戦で打ったが、44打数2安打・打率は.045 で今季は終了。安打以外の42打数中26三振、中堅より左へ飛んだのは遊ゴロが1つと非力さが目立った。

0球セーブ…阪急・山田投手は5月15日の日ハム戦で1球投げただけでセーブをあげたが、それの上を行ったのが南海・三浦投手。6月4日の日ハム戦9回裏1点差の二死一塁で打者は古屋の場面で三浦投手が登板した。右前安打を放ったソレイタの代走・井上晃が大きくリードをしたのを見て牽制球を投げてアウト。0球セーブが成立した。セーブの規定が設けられて今年で8年目だが0球セーブは三浦で2人目で1人目はチームメイトの金城投手。なお三浦は5月6日の西武戦では2球でセーブをあげている。

負け越し…今年のセ・リーグは巨人の独走状態だった。序盤こそ中日が快進撃で首位に立ったが1ヶ月で息切れして6月に入ると巨人以外の5球団が揃って借金生活でセ・リーグでは昭和46年以来10年ぶりの出来事。この時は2日間だけの事だったが今年は7月になっても5球団は勝ったり負けたりで勝率5割前後をウロウロ。7月15日にも5球団が負け越し状態に陥った事からでも巨人の独走ぶりが分かる。

振り逃げで2点…6月23日の甲子園での阪神-広島戦、9回裏2点リードの広島は簡単に二死とした所で急に大野投手が制球を乱して死球、四球、四球で満塁のピンチを招いてしまった。打者の藤田平はカウント2-1からの4球目を空振りして三振。試合終了と思われた次の瞬間、ワイルドピッチで球は後方へ転々・・・三塁走者に続き二塁走者の吉竹も生還して同点に。続く佐野がボテボテの二塁内野安打でサヨナラ勝ち。広島には悪夢のような一戦だった。記録上は藤田は三振振り逃げで出塁、2点は大野投手の暴投であって藤田に打点は付かない。

三振で1打点…藤田と同じく三振だったのに打点が付いたケースがあった。三振した打者に打点が付くという日本プロ野球史上初の珍事が起きたのは4月14日のイースタンリーグ・日ハム-巨人戦での事。一死二・三塁で山崎は空振り三振したが田村捕手が捕球できず後逸して球を拾った田村が一塁へ送球して山崎を刺す間に三塁走者が生還。山崎はアウトになったが打点が付いた。上記の藤田の場合は「暴投」で山崎が「打点」となったのは打点が付く場合の定義があるからだ。ルールブックには打点の規定に【注】として「無死または一死で走者が一塁にある時を除いて捕手が第三ストライクを捕えないで一塁に送球して打者をアウトにする間に三塁走者が得点した場合は打者には得点打を記録する」とあり山崎に打点が付いた。

両打ち・リー…8月10日の西武-ロッテ戦4回表二死満塁で打者はリー。ここで西武は先発の山下に代えて永射を投入した。これを見たリーは右打席に入り左前に2点適時打を放った。次の7回の打席も右打席で対戦したが今度は遊ゴロに倒れた。実は高校時代のリーはスイッチヒッターだったのだがプロ入りしてからは左打席一本。しかし日本に来て2年目の昭和53年6月10日の近鉄戦で左腕・村田と対戦した際に右で打ったが結果は三ゴロ併殺打。ちなみに今季の対永射の成績は10打数1安打だった。

14年目で2号…中日・正岡選手は9月1日甲子園での阪神戦で今シーズン第1号を放った。これがプロ入り14年目で2本目の本塁打だった。初本塁打は昭和51年5月3日のヤクルト戦で会田投手から放った。第1号を打つまでに480打席を要したが、そこから第2号までには916打席を費やした。今季終了時点で1023試合に出場しているが主に守備固めで打席に立つ機会は少ない。1000試合以上の出場で本塁打が5本以下なのは正岡の他には島原輝夫(南海)の1096試合で3本があるだけ。

フリーパス…西武・吉本捕手は32機会連続で盗塁を許したまま今季を終えた。昨年の盗塁阻止率は3割1分9厘でパ・リーグ平均(3割1分6厘)に近く弱肩という訳ではなかった。今季の前期は2割7分3厘と若干落としたが特に悪さが目立つ成績ではなく阪急・福本の三盗を阻止した事もあった。しかし7月9日の南海戦で定岡に二盗されてからは走られ放っしのまま今季は終了。吉本以上に悲惨なのが日ハム・加藤だ。吉本は7人を刺しているが加藤は26機会で刺したのはゼロ、当然盗塁阻止率もゼロ。ちなみにパ・リーグの盗塁阻止率の最高は近鉄・梨田の4割1分3厘だ。






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#260 入団拒否

2013年03月06日 | 1981 年 



「あの時に入団をOKしていたら球団の、選手自身の今はどうなっていたのか?」と思われるケースが多々ある。昭和40年代の西鉄では入団拒否は珍しい事ではなかったが昭和40年は酷かった。指名した16人中13人が入団を拒否する事態に。その中の1人が江本孟紀(高知商)である。江本以上の大物も逃している。昭和42年には山田久志(富士鉄釜石)を11位で指名したが拒否された。彼らが入団し活躍していたら九州からライオンズが去る事態は避けられたかもしれない。

その山田が阪急に1位指名された翌43年は加藤秀司(松下電器)を2位、福本豊(松下電器)を7位で指名した当たり年だった。加藤はPL学園卒業時の昭和41年に東映、42年には南海にも指名されている。もしも東映に入団していれば張本や大杉と、南海なら門田とクリーンアップを組んでいたに違いない。その門田も昭和43年に山田や福本に続き阪急に12位で指名されていた。門田が阪急に入団していたら西本幸雄氏は「悲運の闘将」と呼ばれる事は無かったかもしれない。

昭和52年に中日入りした藤沢公也(日鉱佐賀関)は八幡浜高卒業時の昭和44年にロッテが3位、46年にヤクルトが11位、48年に近鉄が4位、51年には日ハムが2位で指名していたが拒否し続けていた。ヤクルトとロッテが特にビックネームを獲り損ねているが、一方で両球団の選手を見る目は確かだとも言える。




                               入団拒否した主な選手



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#259 予想は大外れ

2013年02月27日 | 1981 年 



ドラフト指名候補の将来性を評論家の関本四十四氏が予想していましたが見事に外しました。。。


今年の即戦力投手ビック3のうち一番楽しみなのは田中幸雄(電電関東)だ。1m89cmの長身から投げ下ろす直球は威力があり打者を捻じ伏せる。この田中は高校時代(流山高)は遊撃手で投手に転向したのは社会人入り後。投手歴は2年と浅いがその分、肩は使い減りしてなく長持ちしそうだ。世間の評価は津田恒美(協和発酵)が一番で田中や右田一彦(電電九州)が次いでいると言われているが、津田は精神面の弱さが克服されておらずプロでは苦戦するのではないか。高校時代から直球には定評があったがフォークボールを覚えてからは投球に荒々しさが消えて威圧感が無くなったと評価を落とした。その意味では50点の投球もするが時として手が付けられない100点以上の投球をする右田の未知数さの方が魅力的だ。

ドラフトが近づくにつれて松井智幸捕手(明治大)の評価が上がってきた。松井は捕手としてのセンスを全て備えている。インサイドワーク、小さく鋭い送球モーション、正確なスローイングコントロール。明大の投手陣が持ち堪えられたのは松井の存在があればこそだった。レベルの高いプロの投手とバッテリーを組ませれば今以上に捕手としてさらに成長して球史に残る選手になれる逸材だ。

その明大には平田勝男がいる。東都の主砲・尾上旭(中央大)と共に大学球界を代表する遊撃手だ。「どちらが上か」とよく聞かれるが要は好みの問題。2人は対照的で例えば三遊間の深い所に飛んだ打球を軽いフットワークで追いつき、さりげなく処理するのが平田。派手なリアクションで「どうだ見たか」とアピールするのが尾上。明大・島岡監督は平田を二番に据えたが三番を任せられても充分な能力を持ち合わせている。「奴ほどチームバッティングに徹する事が出来る選手はいない。併殺打を見た記憶はない(島岡監督)」一方の尾上は日米野球でのサヨナラ本塁打が象徴するように意外性のある打撃が魅力。玄人受けする平田か万人受けする尾上、どちらが上かは好みの問題だが個人的には尾上を推したい。玄人を唸らせるより素人を熱狂させるのが、よりプロらしいからだ。

高校生の将来性を判断するのは難しい。技術以前に最近は体力不足が特に顕著でプレーする前に故障して消えてしまうケースが多いからだ。あくまで体力が付くという前提で考えるとやはり一番手は金村義明(報徳学園)だろうが勿論、投手ではなく野手としてだが。プロでも速い部類に入る槙原寛己(大府高)の常時145km前後の球を捉える事が出来たのは金村だけ。不安材料は投手に未練を残す事だ。はっきり言おう「金村投手」ではプロで喰っていけない。あの程度の投手は二軍にゴロゴロいる、そして彼らの多くは一軍へ上がる事なく消えていく。「甲子園優勝投手」の看板に拘れば金村の将来に暗雲立ち込めると言っても過言ではない。

金村に次いで期待出来るのが加藤誉昭(都城商)だ。甲子園で3本塁打したのは勿論、「甲子園以後まだ3日しか練習していない」と言いながら出場した国体でもバックスクリーンへ打ち込んだ打力は本物。脚力も100mを11秒台と兼ね備えていて一軍へ上がれるのもそう時間はかからない。加藤よりは時間はかかるが楽しみな素材なのが月山栄珠(印旛高)と山本幸二(名電高)の両捕手。グイグイ前に出る月山、工藤投手の女房役に徹する山本と2人は対照的。タイプは違えども楽しみな選手だ。



あまり評価されなかった津田や平田らの方が活躍しました。この記事はドラフト前に出稿されたものらしくタイトルには『指名球団は決まった』とあり松井捕手(明大)も指名される前提で書かれていました。実際には松井は下位指名すらされずドラフト外も含めてその後プロ入り出来ませんでした。評論家とはお気楽な商売ですなぁ。。ついでに金村の運勢に関する記事を、こちらの予言は大当たり!

    


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#258 1981年・ドラフト会議

2013年02月20日 | 1981 年 



「無風」「平穏」「予定通り」・・・各スポーツ紙が今年のドラフトを表した見出しだ。それでも色々とドラマはあった。

テーブルに置かれたマイクが5本。事前の予想ではその場にはまばゆいライトを浴びた5人がいる筈だった。明治の五人衆…エースのサブマリン・森岡、松井は4年間で許した盗塁がゼロの強肩強打の捕手、堅守と勝負強い打撃が魅力の三塁手・大久保、平田は中大・尾上と大学球界一・二を争う遊撃手、そして栗山。ドラフト会議当日の合宿所食堂に用意された会見場には平田と松井が待機していた。しかし1位指名が終わった時点で5人の名前は呼ばれなかった。2巡目で平田が大洋と阪神が入札し阪神が交渉権を得たが3巡目が終わると松井はソッと席を外し自室へ籠もってしまった。予想もしなかった結末に食堂内に白けた空気が漂う中で「大洋に当たってくれたら良かった…」と平田がマイクの前でポツリと呟いた。

「ドラフト前は調子の良い事ばかり言っておきながらこれはないですよ・・」とマネジャーは肩を落としたが本当にそうなのだろうか?実は複数の球団が松井と大久保をリストアップしていたが明治大の場合は全ての決定権を島岡監督が握っている。社会人野球もプロ野球も事前交渉は島岡監督を通さなけらばならないのだ。あるスカウトがその間の事情をこう説明する。「平田や松井の話になると下位指名ではダメ。契約金は平田が8千万円、松井は5千万ですよ。昨年の原や石毛クラスなら球団もOKするけど正直そこまでの選手じゃない」島岡監督とすれば少しでも良い条件で教え子を送り出してやりたいという親心だろうが、少しばかりクスリが効き過ぎたようだ。今年は人材不足と言われていて少なくとも平田、松井、大久保の3選手は指名順位に拘らなければ指名する球団はあった。ドラフト外という道もあるが「本当に欲しいなら3位までに指名する筈。一流企業からの引き合いも多く頭を下げてまでしてプロへ行く必要はない」と話す島岡監督を説得するのは難しそうだ。

関西地区スポーツ紙の阪神1位指名予想は日刊とサンスポが右田(電電九州)、デイリーが槙原(大府)と書いた中でスポニチが『阪神、松本(秋田経付)を強行指名へ』と派手な見出しを打ってきた。「あいつはプロ入り拒否だろ」「阪神やで、江本もいなくなったしヤケクソで指名するんちゃうか」今シーズンは低迷続きで暗い話題ばかりだった阪神ファンにとって久々に明るいニュースであって、スポニチが売り切れたのは言うまでもない。当然この記事は東京九段のドラフト会議場まで届き小林チーフスカウトは記者に取り囲まれた。「スポニチが書いた事は本当ですか?」「ある時点まではスポニチさんが書いてる通りだったけど、もう断念しました。誰とは言えませんが松本君ではありません」と報道を否定した。ドラフト会議後のトイレで一緒になったスポニチの記者に小林スカウトは「惜しかったな、実は今日の朝まで迷いに迷ってた。でも松本家のガードが固くてね諦めたんだ」と肩を叩き「ご苦労さん」と一言。幻のスクープから3日後、同じスポニチに再び衝撃の見出しが躍った。

『松本に接触、西武がドラフト外で獲る』ドラフト会議の翌々日、降りしきる雪の中を西武・宮原スカウトが秋田県角館にある松本の実家を訪れた。他球団のスカウトが「やられた!」と臍を噛んだのは父親の善一郎さんが宮原スカウトを家に上げて3時間も交渉を行なったからだ。ドラフト前の挨拶に家を訪ねても「住友金属に入社する事が決まりましたから」と門前払いだった他の11球団のスカウトたちは地団駄を踏んだ。住友金属では法政大学の学閥が主流派で法政大出身の根本管理部長が深く食い込んでいて外堀から攻めていく作戦だ。西武はこれまでドラフトで指名した選手に一人として拒否された事のないチーム、さらにドラフト外でも駒崎や秋山など他球団が手を出せなかった選手も口説き落としている。善一郎さんの「プロ拒否宣言はしてみたものの、いざ指名されないのが分かると寂しいもんですね」とのコメントをどう読むか。6位で強行指名した名電高・工藤投手と共に今年のドラフトの目玉投手両獲りがあるかもしれない。







【金村義明 打率.258 127本塁打】               【右田一彦 12勝16敗5S】




【田中幸雄 25勝36敗16S】              【津田恒美 49勝41敗90S】

                                                  【槙原寛己 159勝128敗56S】



【宮本賢治 55勝71敗7S】    【山沖之彦 112勝101敗24S】     【金城信夫 32勝36敗5S】
【尾上 旭 .204 5本】      【伊東 勤 .247 156本】     【井辺康二 10勝12敗4S】   【源五郎丸 洋 一軍出場なし】



【藤高俊彦 入団拒否】       【高木宣宏 16勝18敗】      【加藤誉昭 .000 0本】     【田子譲治 2勝2敗】      【仁村 薫 .231 15本】

【山本幸二 .235 5本】      【月山栄珠 .125 0本】       【金森栄治 .270 27本】    【平田勝男 .258 23本】   【橋本敬司 5勝11敗】
【工藤公康 224勝142敗3S】
【中村 稔 .000 0本】
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#257 現役引退 in 1981

2013年02月13日 | 1981 年 

【 通算成績 3085安打 504本塁打 打率.319 】




【 通算成績 2452安打 465本塁打 打率.282 】




【 通算成績 93勝80敗17S 防御率 3.26 】




【 通算成績 2095安打 331本塁打 打率.276 】




【 通算成績 2018安打 194本塁打 打率.267 】


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#256 愛甲・ドカベン・柴田 

2013年02月06日 | 1981 年 



愛甲 猛(ロッテ)… ルーキーイヤーの今年、投手としての一軍成績は 0勝2敗、二軍では4勝3敗2S。打者としては二軍で13試合 24打数 6安打 打率.250 で投打ともにパッとしない数字である。二軍首脳陣の評価は「打者の方が非凡さを感じる」であるが、実際は投手失格が本音のようだ。だが愛甲は「バッティングも好きだが今は投手としての限界を感じるまで続けたい」と投手を諦めていない。「投手としては5勝するのが精一杯」「人気者なのだから打者として毎試合出る方が球団にとってありがたい」など周囲は打者転向を薦める。

しかし愛甲にはそれなりの計画があるようだ。打者に転向した所で今すぐボカスカ打てるレベルではない。投手として球速不足なのは自覚しているが自分にはカーブがある。一軍で投げてみてカーブはある程度通用する事が分かった。プロ野球の投手全員が150㌔の直球を投げている訳ではなく、130㌔台でも抑えてる投手は沢山いる。トレーニングを積んで体力をつけてカーブにさらに磨きをかければ一軍でも勝てると考えている。「少しばかりバッティングが巧いからといって、ハイ今日から打者転向なんて言うほど簡単なものじゃないし本人にも失礼だよ。あれだけの人気者だからこそ慎重に判断してやらんとね。素材が良ければ鍛え方を間違わなければ必ず大成するから焦りは禁物だよ」と語る秋季練習を指揮する高木二軍監督。山内前監督が置き土産で打撃指導したのはマスコミ向けのパフォーマンスだったようだ。

母子水いらずで暮らす家を建てて母親に楽をさせる為にもプロ野球で成功しなければならず、将来の為の貯金も怠っていない。「これからは自分が一家の主となって頑張らなければ」と責任感を背負っているからこそ一日も早く勝ち星をあげて自信を付けたいと願っているのだ。色々と物議を醸した1年目も間もなく終わる。連日秋季練習に明け暮れる日々を送る愛甲は来年も投手でいく決意を変えていない。






香川伸行(南海)… ドカベンが遂に100kgを切った。ブレイザー監督の減量命令に徹底抗戦を続けていた香川の体重が99.9kgになったと報じられた。「太っていても身体は動く」とこれまで一貫して減量する事を拒否していた香川に何が起きたのか?マスコミやファンは香川の事をドカベンの愛称で呼んでいるがチーム内では「殿下」と呼ぶ人達がいる。決して良い意味ではなく「増長し過ぎ」を揶揄する陰口である。実力があるならゴーイングマイウェーも構わないが、悲しいかな現在の香川に周囲の反発を押し返すだけの力は無い。さすがの「大物」も危機感を感じ取った末の心境の変化だったのだ。

あのドカベンもブレイザー監督の軍門に下ったのかというと、さにあらず。香川には香川なりの理由があったのだ。それはお年頃らしい結婚観が理由だった。香川も今年の12月で20歳、彼女の一人や二人がいても不思議ではないが「女友達は沢山いるけど彼女はいません。でもあと5年くらいしたら結婚したいなんて考えていたら練習にも身が入って、いつの間にか体重が減っていたんで食事制限をしたわけではないんです」と舌の回転も滑らかで発言内容も優等生に変身中だ。今までは減量を命じるブレーザー監督にも「僕はこれまで痩せて野球をやった経験がない。しばらくはこのままでやらせて欲しい」と屈しなかったが、今では「監督も僕の事を思って減量しろと言ってくれていたのだと思う。確かに今のままじゃダメだと思うようになりました」としおらしくなった。それでも食欲の方は相変わらずで母親のサダ子さんによれば食べる量は変わってないそうだ。ただ「水分は今まで摂り放題だったのが、一日一本のジュースで我慢しているようです」と明かしてくれた。そのお蔭なのか110cmあったウエストが100cmに縮まり2年前に買ったズボンがブカブカではけなくなった。

「正直に言うとプロ入りした時は4~5年で一軍に上がれればいいと思っていたけど周囲はそれを許してくれなかった。自分にも甘えがあったのは事実。今は1年目はテスト期間、2年目は勉強、そして3年目の来季は勝負の年だと思っている。だからこのオフは必死ですわ」昨オフは北海道から九州までお呼びがかかったサイン会の依頼も今オフは激減。「寂しい事なんかあれへん。その分、練習に取り組める」と決意も新たに秋季練習に汗を流す。「減量出来なければ罰金」とか「おだてて減量させよう」とあの手この手で必死だったブレーザー監督もお年頃のお蔭で減量が成功するとは海の向こうで苦笑いしているだろう。






柴田 猛(阪神)… 「ブレイザー監督との指導理念の違いを痛感し退団する事になりました」今季広島から古巣の南海にバッテリーコーチとして戻った柴田だったが僅か1年で辞任。これに最初に反応したのは阪急だった。上田監督が「是非ともウチに迎えたい」と早速アプローチするとすかさず前年まで在籍していた広島も名乗りを上げた。阪急か広島の選択に悩んでいた柴田に広島の球団上層部の一部に一軍コーチ復帰に反対する声がある事が伝わった。ならば阪急か、と決められなかったのは球界の不文律として翌年の同一リーグ球団への横滑りはナシとされていたからだ。その間隙を突いたのが阪神であった。阪神入りする事で全てが丸く収まった。

コーチとして引く手あまたな柴田猛とはどんな人間なのか?昭和38年和歌山県向陽高から南海へ入団した。ポジションが捕手だった柴田は運が悪かった。当時の南海には野村というとてつもない壁が立ちはだかっていて結局一軍で活躍する事なく引退した。柴田の運の悪さはプロ入り初本塁打を放った翌日が新聞休刊日で記事にならなかった事でも推し量れる。昭和51年広島へ移籍しそのオフに引退、コーチに就任した。相手投手の投球フォームを撮影して癖を見つけて攻略、読唇術で相手ベンチ内の会話から作戦を見破ったり古葉監督の作戦をサインで伝達する役目を担うなど広島カープ躍進の陰の立役者と評価された。

また心理面を突く野球を研究し、特に外人選手に対しては生まれ育った境遇や信仰する宗教まで分析して攻略の参考にした。しかし、こうした手法がブレイザー監督率いる外人スタッフ間で不評を買い、投手交代をめぐってシュルツ投手コーチと意見対立しベンチ内であわや乱闘という事件まで起こした。こうした強引とも言える手法が選手に対してコーチが遠慮して何も言えない風潮の阪神には必要なのだ。江本の舌禍事件の影響が収まらず若菜捕手の退団希望騒動が新たな火種となりそうな現在、柴田の豪腕が若菜の再教育に欠かせない。




やがて愛甲は失踪騒ぎ、香川は自己破産、柴田は審判暴行が刑事事件に発展し起訴されるなど波乱万丈の人生を送る事になります。
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#255 日米野球 

2013年01月30日 | 1981 年 



カンザスシティ・ロイヤルズが来日して日本各地で試合を行なっている。今シーズンはプレーオフで敗退したものの昨年はア・リーグ優勝を遂げた強豪チームだ。3Aチーム相手に日本のプロ野球が1勝も出来なかった昭和24年から32年が経った現在、改めて日米野球を振り返ってみる。

米国チームとの対戦の歴史は古く明治41年のオールアメリカンチームの来日に始まる。大正2年にはニューヨーク・ジャイアンツとシカゴ・ホワイトソックスが世界周遊旅行の途中に、大正9年にはコーストリーグの選抜軍が来日して対戦したが、ここまで日本は1勝も出来ないでいた。大正11年ハンター監督率いる大リーグ選抜軍との第7戦、三田倶楽部の小野三千麿投手の好投で日本が9対3で初勝利を飾った。昭和6年に再びハンター監督が大リーグ選抜を率いて来日。第2戦で対戦した早大が7回表に4点をあげて5対1とリードすると選抜軍のギアが入り、その裏に一気に7点を奪って逆転。8回表から速球投手のグローブが登板してあっさり片付けた。特に9回は三者三振、投じた11球にバットに当てる事すら出来なかった。

昭和7年に文部省は「学生野球統制令」を出して学生とプロ野球チームとの対戦を禁止した。その為、昭和9年に来日した大リーグ選抜軍の対戦相手用に組織された全日本軍が後の巨人軍となる。「世界最強」と銘打っていただけに全日本軍は全く太刀打ち出来なかった。引退する前年で衰えの見えるベーブ・ルースが打率.408 , 13本塁打を放つなど日本のレベルはまだまだ大リーグの足元にも及ばなかった。10対0、14対0、15対6、21対4と敗戦が続いていた11月20日の静岡・草薙球場で登板したのが京都商の沢村栄治投手だった。6回まで両軍ともに2安打無得点。7回の選抜軍は先頭打者ルースが投ゴロに倒れ、四番ゲーリックは初球のストライクを見送った後の2球目を右翼席上段へ叩き込み、これが決勝点となり1対0で選抜軍が辛勝した。選抜軍は18試合で打率.326 , 47本塁打と猛打を誇っただけに沢村の5安打・1失点は見事であった。その後の米国チーム訪日は第二次世界大戦の影響で昭和24年まで中断する事になる。

昭和24年にやって来たサンフランシスコ・シールズは3Aだったが歯が立たず全敗で日本のプロ野球チームは未だに1勝も出来ずにいた。6試合で打率.180 , 本塁打は無しと力の差は歴然だった。シーズン46本で本塁打王となった藤村冨美男(阪神)、打率.361 で首位打者となった小鶴誠(大映)も全く打てず連敗は続いた。日本チームが初勝利した大リーグ選抜軍相手の昭和26年も第1・2戦ともに完封負け、第5戦の9回裏に西沢道夫(名古屋)が放った本塁打が記念すべき日本プロ野球の第1号だったが敗戦。第6戦は4投手の継投で1点に抑えても得点が奪えず完封負け。第11戦は延長戦に持ち込むも2対2の引き分けと未勝利は続いた。そして迎えた11月13日の第14戦で全パが遂に勝利した。山本監督は相手打線が一回りする毎に投手を代えて選抜チームを1点に抑え3対1で勝った。昭和24年のシールズ戦から数えて20試合目で日本のプロ野球チームが米国相手に初めて勝った。

初勝利から30年後の今では米国相手に勝つ事も珍しくはなくなったが、それをもってして日米の差が縮んだと考えるのは早計である。今年もカンザスシティ・ロイヤルズ相手に第3戦で全日本チームは新人の原と石毛が本塁打を放ち、村田-小松-江川の継投で13三振を奪うなどして7対3で快勝している。それでも手放しで喜べないのは第2戦でバックスクリーン横へ飛び込む本塁打を放ったジョージ・ブレッドの痛烈な一言だ。「特大ホームランだって?アメリカだったらセンターフライ、良くてツーベースかな」と両手に本塁打の賞品を抱えながらウインク。米国相手に対等に戦うには野球の技術向上以前に箱庭球場を解消するなどやるべき課題が山積みの日本野球界なのである。
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#254 安打製造機 

2013年01月23日 | 1981 年 



「もう打席に入らなくていいと思うとホッとした気持ちの方が強い」と言い残し淡々と引退の言葉を口にした。漂泊の強打者~それが張本の全てなのだ。韓国人である事に誇りを持ち続けてきた張本にとって普通の日本人選手なら何気なく通り抜けられる道でも、時には風雨に叩かれ回り道をしなければならなかった。そんな苦難の道を彼は23年間も、いやプロ入り前も含めると30年以上の年月を独りぼっちで歩き続けた。昭和15年春、広島市大洲町に5人連れの韓国人家族が住みついた。韓国人であるというだけで異端視された時代に5人は麗らかな瀬戸内海に背を向けてひっそりと暮らしていた。やがて一家に新たな家族が加わった。張相禎・朴順分夫妻にとっては2人目となる男の子は「張勲」と名付けられた。

「おい、朝鮮人」蔑視と共に投げかけられた言葉に張本少年は戸惑った。朝鮮人である事の何が悪いのかと母に問うと「何も悪い事はない。そんな風に他人を馬鹿にする人間が一番恥ずかしいの」と教えたという。だが成長するうちに、この言葉の粘りつく重みの様なものを感じ始め「今に見返してやる」と子供ながら反逆の炎を燃え上がらせた。高校受験を前にして広島商には受験する事さえ断られ、広陵高は不合格。浪花商を受験する為に単身、大阪の地に降り立った時が張本勲の漂泊の第一歩だったのかもしれない。その日の食べ物にも事欠く日々から一家が抜け出す為には金を稼ぐしかない。「私が大金を稼ぐにはプロ野球選手になるしかなかった」と張本は後年に語っている。

昭和33年暮れ、遂に念願のプロ野球界へ第一歩を印した。東映で打撃コーチをしていた松木謙次郎と運命の出会いをする。この出会いは張本にとって生まれて初めての「幸運」だった。松木は張本のスイングを一目見て「こいつは将来球界を代表する打者になる」と直感したという。金を稼げる華やかな長距離砲に固執する張本に対してヒットを量産する広角打法を取り入れるよう説き伏せ一流打者に育て上げた。球を線で捉えるという松本の打撃理論を貪るように体に叩き込んだ。昭和34年からの17年間で7度首位打者に輝き、13度のベストナインに選出されるなど球界を代表する選手になった。だがこれ程の選手でありながら張本の周りにはマスコミも含めて白眼視する空気が漂っていた。「粗暴だ」というのが理由だった。子供の頃から売られた喧嘩は買ってきた。争い事は嫌いだが身に降りかかる火の粉は払う必要があり「やられる前にやれ」が少年時代に身に付けた自己防衛策だった。

ビーンボールまがいの投球に対してはバットを片手に肩をいからせて二歩、三歩とマウンドへ向かう。投手の顔に怯えの表情が見えれば充分で、内角に投げづらくなって外寄りの甘い球をすかさずヒットゾーンへ打ち返した。そうした行為がマスコミやファンの目にどう映っているか張本本人も分かっていた。「自分の身は自分で守らなければならない。君たちは一度でも私を救ってくれた事があるのか?」が張本の答えだった。水原監督は張本の心情を理解していた。守備交代を命じられ試合中にもかかわらず憤然とベンチを抜け出し合宿に帰ってしまった張本を水原は父親のように懇々と諭した。巨人を追われるように去ったばかりの水原には張本の屈折した怒りを何となく共感できたのかもしれない。以後、誰よりも水原を信頼して慕うようになる。恐らく張本にとって水原や松木はプロ野球選手になって初めて「見返してやる」必要性を感じなかった人達だろう。

昭和50年オフに高橋一、富田との2対1の交換トレードで巨人へ移籍した。巨人へ来てからの張本は人が変わったように粗暴さが消えた。プライドと世間体を気にする名門チームの中で安泰に生きる場所を求めるには決して肩をいからせてはならない事を張本は知っていた。それは身ひとつで山を越え、河を渡り異郷から異郷へと漂泊を続ける旅人の深い知恵に通じるものである。この頃から張本の心理に微妙な変化が起きる。周囲を威圧し「見下す」前に彼は「見上げられている」事を肌で感じ取っていた。巨人の選手を見るファンの目には憧れと畏敬の念が溢れていたのである。ひたすら金を稼ぐ事に固執していた張本に「名誉」という光が照らし始めたのだ。張本に求められていた役割は王の刺激剤という脇役であった。東映-日拓-日ハムと17年も打線の中心であった張本には役不足であった筈だが、その役割を甘んじて受け入れ巨人のリーグ優勝に貢献した。

昭和54年限りで巨人を退団しロッテへ移籍。ロッテに来てからの張本の打撃はパ・リーグ時代の荒々しさは影を潜め、巨人での4年間の生活が張本の目から獣のような光を奪っていた。長い漂泊の旅はようやく終わりを告げようとしていた。庄司や水上、そして落合といった若手の台頭で張本の居場所は徐々に狭くなっていった。かつての張本なら牙を剥き肩をいからせて若手を押しのけていただろうが晩年の張本にその力は残っていなかった。「よくやったと自分に言いたい」この言葉が全てを言い尽くしている。現役を退いた張本はこれから新たな旅に出ようとしている。その旅がこれまで通りの茨の道となるのか、違ったものになるのか今は未だ分からない。
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#253 逆指名 

2013年01月16日 | 1981 年 



物怖じしない現代っ子と言ってしまえばそれまでだが、昨今の逆指名の流行に拍車をかけたのが去年のドラフト結果だろう。原、石毛、竹本ら実力派揃いで「10年に一度の選手」を獲り合うと思われたが原は4球団、石毛と竹本は2球団と競合数は予想を下回った。当初は原に入札するのは8球団と言われていたが「逆指名」宣言が効いたのか撤退する球団が相次ぎ意中の巨人が当たりクジを引いた。石毛もプリンスホテルと西武の繋がりを前に他選手に乗り換えた球団が多かった。こうした先輩たちの戦術を使わない手はないと今年も逆指名は大流行なのだ。ただし今年はこれまでの巨人一辺倒から少々趣きが変わってきた。社会人投手は津田(協和発酵)、右田(電電九州)、田中(電電関東)らが人気なのだが彼らは巨人を意中の球団とはしていない。

「会社は僕が行きたい球団なら"仕方ないだろう"と送り出してくれますが、意中の球団以外なら会社に残って構わないと言われています。行きたいのは広島か阪神です。巨人?僕は天下の原さん相手に投げたい(津田)」つまり広島・阪神以外の球団が交渉権を得ても1位指名枠が無駄になると宣言した。右田も「もしも1位で指名してくれたらプロへ行きたいと思います。最下位のチームはやり甲斐がありますねぇ」と大洋を逆指名。「僕は何となくパ・リーグの方が向いていると思うんです。関東で育った人間だから西武か日ハムならプロでやってみたい」と最近のパ・リーグ人気が反映しているのか田中はパ派だ。彼らに共通しているのは「即一軍」だ。巨人投手陣の顔ぶれを見たら新人が割り込む余地が無いのは明白で、今の若いアマチュア選手はしっかりしている。人気よりもまずは一軍の試合に出る事を優先する選択は間違っていない。

逆指名の流れは高校生にも広がっている。人気・実力 No,1の金村(報徳学園)は週刊誌でその言動が面白おかしく取り上げられて以来マスコミ対応は両親が担っていてスカウトに会うのも両親なのだが、その対応を見れば金村本人の心中は推し量れる。阪急と近鉄とは3時間以上も話をするが、それ以外の球団は1時間もすると席を立つ。プロ入りすれば三塁手転向が噂される金村だが向こう10年は不動の原がいる巨人に隙いる余地は無い。センバツ準優勝キャプテンの月山(印旛)は「プロでやる以上は試合に出られないとお金にならない。出場出来るチャンスのある球団じゃないとね」と捕手の手薄な阪神・阪急・ロッテ・西武を逆指名する一方で、意中以外の球団に指名された場合は大学進学する両天秤作戦を決行中で毎晩猛勉強。こうした両天秤をしている選手は多く「巨人か在京セ以外は熊谷組へ(名電高・工藤)」「パ・リーグだったら本田技研鈴鹿(都城商・加藤)」「セ・リーグ以外なら進学(大府・槙原、榛原・片瀬)」「中日以外なら国鉄名古屋(名電高・中村、山本)」と逆指名が花盛りだ。

「まったく嫌な世の中になったね。困った流行だよ」と渋い表情なのがロッテ・三宅スカウト部長だ。ロッテはあまりアマチュア選手に好かれていなくて入団拒否も少なくない。しかも今年は山内前監督の後任が未だに決まらず補強方針も定まっていない。パ・リーグ贔屓の田中(電電関東)でさえロッテは意中球団に入っていない。実は田中はある人物を通じてロッテ・福田コーチとは顔見知りの間柄だという。その福田コーチも山内監督に殉じて退団する見込みだと言うから泣きっ面に蜂だ。「逆指名は今に始まった事ではないんだ。昔から事前交渉の段階で"お宅は遠慮して下さい"と言われる事はあった。これまでは内々で駆け引きをしていたのが最近の子はハッキリ自己主張をする、マスコミを使って我々に牽制球を投げているんだ。時代だよ」と三宅スカウトは半ば諦め顔だ。

一方で大人しいのが大学生だ。東都のサブマリン・宮本(亜大)は「僕なんか指名してくれる球団は有るんですかね?指名してもらえるだけでありがたくて好みなんて言っていられません」と殊勝だ。首都の速球王・井辺(東海大)も「どこでもいい。プロは入ってからが勝負、チームはこだわりません」とこちらも12球団OKだ。野手では「指名されたら考える。希望球団は無い(明大・松井)」「第一希望は中日だけど在京セ・リーグならOK(中大・尾上)」 六大学の盗塁記録を更新した慶大・小林も「条件さえ揃ったらプロでやってみたい」といずれも門戸は広い。明大・島岡監督の「就職口は幾らでもある。大した評価をしていない球団にわざわざ行く必要はない」に代表されるように大学生は球団よりも「評価」を重視しているのが共通でプロ野球を就職口の一つと見ている。
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#252 沢村賞 

2013年01月09日 | 1981 年 



現在の沢村賞は元プロ野球投手から構成される「沢村賞選考委員会」によって選出されていますが当時は日本新聞協会に加盟し東京で日刊紙を発行する新聞社・通信社、東京から映像や電波を送信するテレビ・ラジオ局の運動部長で構成される「東京運動記者クラブ部長会」の面々が選んでいました。普段は会社にいてグラウンドへは顔を見せない部長職のお偉いサンたちの選考結果が波紋を呼ぶ事になります。

「今年の沢村賞は西本」という一報を聞いた多摩川グラウンドで日本シリーズに備えて練習する巨人を取材中の各社の記者達は異口同音に「いったい部長さん達は何を考えているんだ?現場の取材をしていない お偉いさんは何も分かっていない」と唖然としていた。候補の一人でもあった角は「誰が見たって30番(江川)だろ?唯一の20勝投手で完封だって奪三振だって段トツじゃないか」と自分の事のように気色ばんだ。江夏(日ハム)に至っては「投手として最高の栄誉。数字・実力とも江川以外ありえんだろ。客観的事実を認めようとしない連中を許す事は出来ない」とまで言い切る。昭和22年に読売新聞社が制定した沢村賞には一応の選考基準がある。❶先発完投型❷20勝以上❸勝ち数と負け数の差が10以上❹防御率2点台以下❺三振奪取率❻優勝貢献度…等々。報知新聞・原口明運動部長は隣席の東京新聞・新山善一郎部長に「今日は何もないでしょう」と挨拶すると新山も「江川で決まりでしょ」と答えた。二人は共に長らく「大相撲担当」に属していた元記者で、彼らのように出席者全員が野球に精通している訳でなかった。


西本   34   14    3   18   12   .600   257 2/3  126    74     2.58
     登板  完投  完封  勝利  敗戦  勝率  投球回数  奪三振  自責点  防御率
江川   31   20    7   20    6   .769   240 1/3   221     61     2.29 


中華料理店で5つの円卓に分かれて食事を取りながら読売新聞社・星野敦男部長が進行役、三宅卓運動部長が質問に答える役として会は始まった。恒例で先ず数名の候補者が挙げられ、その中から小松(中日)が外され最後に西本と江川が残った。ここまでは特に例年と変わらず進行していたが微妙な空気が漂い始めたのは、日刊スポーツ・金井清一部長の「この賞には人格的な基準はあるのか」「今年だけの成績だけが対象なのか」といった質問が飛んでからだ。三宅部長は「これまで人格云々を加味した例はない。あくまで今年の成績が対象」と答えたが、このあたりから次第に西本を推す声があがり始めた。「前の日に部下たちの意見を聞いたらほとんどが『江川以外いない』だったので自分もそのつもりで出席したのだが、そのあたりからオヤオヤ?という空気になった」と語るのは日本経済新聞社・峪卓蔵部長。

朝日新聞社・田中康彦部長の「巨人の優勝は前半戦の快進撃で決まったと言っていい。開幕投手の重責を果たし独走態勢に入った時点の成績は西本が10勝2敗、江川は7勝3敗だった。江川の勝ち星は独走後にあげたものが多い。優勝への貢献度は西本の方が上」と発言すると、デイリースポーツ社・近藤敬部長が「数字で判断するのが客観的」と反論し江川を支持した。すると田中部長は「数字だけで決めるなら公式記録員に委嘱すればよく、こうした会を開く意味は無い」とあくまで西本支持を崩さない。しかし近藤部長も負けていない。「優勝への貢献度を評価するのはMVPではないのか?沢村賞はあくまでも投手としての力量を評価するべきだ」と。

「勘ぐれば企業戦争の煽りもあるんじゃないかな。読売新聞制定の賞をライバル社の部長さんが決めるというのにも違和感はあるね」と匿名を条件に某テレビ局の部長は語った。ともあれ結果は16票対13票、2白票で西本に決まり、これがニュースで流れると各マスコミの電話が鳴り始めた。「西本がダメだというんじゃない。むしろ西本の方が好きだが沢村賞はどう考えても江川だ」「江川は今でも大嫌いだが数字は数字として評価しなければ何を基準に決めるのかが曖昧になる。個人的な好き嫌いの感情で選ぶのは最悪」とアンチ江川派からも結果に対する異議は多かった。こうした世間の反応に驚いたのか翌日に改めて選考会に出席した31人に聞き直してみると14人が「私は江川に投票した」と答えた。誰かが世論の激昂ぶりに恐れをなして嘘を言ったと思われる。

日本シリーズを前にミソを付けられた格好の巨人・長谷川代表は「思えば3年前、誰一人として江川君の味方はいなかった。それが今では16対13と伯仲するくらいの味方を得たんだ。そう考えて頑張ろうよ、と江川君を慰めたよ」としみじみと語った。そして「こんな騒ぎになって素直に喜べない西本君も気の毒だよ。雑音に惑わされず堂々と胸を張って日本シリーズに臨んでもらいたい」と気遣った。
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#251 二軍の有望株

2013年01月02日 | 1981 年 



秋山幸二(西武)…同じく高卒ルーキーの小野和幸投手が「和製バレンズエラ」と騒がれていた頃、二軍関係者の間では「小野より遥かに将来性の有る選手がいる」と囁かれていたのが秋山だ。1㍍83㌢、80㌔の堂々たる体格で遠くへ飛ばす能力を持つのは勿論、長身選手に有りがちなノッソリとしたイメージは抱かせない。ベース1周を14秒で走る俊足も兼ね備えている。根本前監督、岡田二軍監督、毒島二軍打撃コーチらが揃って「今までのプロ野球界になかったタイプの大型選手になる可能性を秘めている」とゾッコン。56試合に出場し7本塁打の長打力は田淵二世と呼ばれる所以だが田淵には無い足を持つ。ならば長嶋タイプかと言うと長打力は秋山の方が上。とにかく過去の名選手には当てはまらない規格外の選手なのだ。

この秋山に一目惚れしたのはスカウトも兼ねる岡田二軍監督だった。昨年夏の熊本県予選決勝、投手で四番の秋山が孤軍奮闘して勝ち進んできた八代高と強肩強打の伊東(現西武練習生)率いる熊本工が対戦した。当初、岡田が注目していたのは対戦相手の伊東と速球派エース大津(現西武)だったが、その大津から広い藤崎台球場の左中間へ本塁打を放った秋山に心を奪われた。帰京するとすぐに「投手としての魅力は無いが野手に転向させたら凄い長距離砲になる」と根本監督に報告し、一計を案じた。というのも他球団も食指を伸ばしていて特に広島・阪急・日ハムが熱心に八代まで足を運んでいたからだ。岡田は父親の辰芳さんを説得して本人ではなく親として「プロ入りして欲しくない」とプロ拒否宣言をしてもらった。この発言を他球団が信じたのは常々、辰芳さんが九州産業大への進学希望をスカウトに話していたからだ。これが功を奏して秋山をドラフト指名した球団はなく、高校生としては破格の契約金4千万円で西武へドラフト外で入団した。

1年目から英才教育が始まった。二軍のキャンプは本球場から離れたサブグラウンドで行なわれるのだが、秋山は午後になると二軍の練習を離れて一軍に合流する事になる。しかし何をするのでもなく、ただ田淵、大田、土井、両外人らの打撃練習をケージの裏で見学した後に毎日1時間のノックを受ける日々が続いた。課題の守備練習以上に一流選手の日常を肌で感じるのが主な目的であった。シーズンに入ると開幕から二軍の四番を任されて、170打数42安打・打率.247・7本塁打・21打点。日ハムの後期優勝が決まった終盤に一軍に昇格し4試合に出場した。2試合目の近鉄戦でプロ初安打を記録した。左中間への三塁打を目の当たりにした根本監督は「一塁を回ってからのスピード溢れる躍動感こそ彼の真骨頂だ。きっと今までにない選手になる」と絶賛した。
    【 通算成績   2189試合  2157安打  437本塁打  打率.270 】


井上裕二(南海)…ドラフト2位で宮崎県都城高から入団した1年目は二軍で、8勝7敗 防 3.29 。8勝中の5試合は完投で、そのうちの3完封はチーム唯一の完封投手だ。井上は中学までは捕手で投手は高校に入ってから。「特に投手としての才能を感じた訳ではなくて、ただ体が大きかった(1㍍80㌢)ので投手に転向させました」と都城高・川野監督。投手転向は本人にしても大変だったようで「投手と捕手では投げ方一つをとっても全然違う。毎晩寮でシャドーピッチングをしてました。今でも昔のクセが抜けなくて苦労する事があります。捕手は機敏に送球する必要があるのに対して投手は大きくゆったりとしたフォームが理想ですから」と話す。

2年生の夏に甲子園出場を果たし3回戦まで勝ち進んだが「甲子園の後にヒジを痛めてしまって3年生の時はダメでした。プロには行きたかったが自信は無かったですね」と進学か社会人入りを考えていたが南海が2位指名。「同じ野球をするなら一番上、すなわちプロでやってみようと気持ちが変わったんです」と両親の反対を押し切ってプロ入りした。球種も直球とカーブだけだったが、この1年でスライダーとシュートを覚えて投球の幅も広がった。2~3年は二軍生活を覚悟していたが一軍の最終戦で勝ち投手になった。「正直言って1年目に勝てるとは思っていなかったので嬉しいです。好リリーフしてくれた金城さんに感謝、感謝です」

姉の英子さん(21歳)は東洋紡守口のバレー部に所属し活躍中だ。「姉さんも頑張っているし負けたくありません。この間、実家に帰ったら両親も初勝利を喜んでくれました。来年は常時一軍にいられるようになって、球場に両親を招待して白星をプレゼントしたいです」先発投手不足に悩む南海にとって何とも頼もしい若鷹の出現だ。来季の南海の浮沈はこの若き右腕に託される。

                           【 通算成績  487試合 54勝 68敗 77S  防 4.41 】

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#250 村田兆治

2012年12月26日 | 1981 年 


「今までは自己満足で投げていた。思いっきり投げて三振を取る、それがたまらなく嬉しかった」・・・昨年は右太腿の肉離れと右足親指付け根の痛みで大事な終盤に戦線離脱し、プレーオフはベンチ入りさえ出来ず9勝9敗に終わった。「投手なら誰でも変わらなければならない時が来る」 当時は聞き流していた4年前の鈴木啓示(近鉄)の言葉が心に沁みた。「いかに速い球を投げるか」ではなく「いかに速い球に見せるか」かが今年の村田のテーマだった。キャンプからオープン戦を経て村田が辿り着いた答えが開幕戦での投球にあった。6年連続の開幕投手、過去5年の開幕戦の初球は渾身のストレートだった。その村田が選択した今年の初球はシンカー・・過去の自分との決別だった。

自己満足…投手であるならば三振で打ち取る妙味を感じない者はいないはずだ。「去年までは新聞を見ても防御率と三振奪取欄ばかり気にしていた。勝ち星より三振数、いかに速い球を投げるかの方が自分には大事だった」それは自己満足だと諭された。そんなに速い球が投げたければ一日中ブルペンでスピードガンと競争してろと言われて目が覚めた。

16奪三振…昭和54年春、日生球場の近鉄戦で足立(現阪急コーチ)が持つ日本記録「17」にあと一歩の16個まで迫った。「最初から最後の1個までどんな三振だったか今でも全て鮮明に憶えている。逆に言えば三振を獲り損ねた場面も憶えている。つまり記録を破れなかった事がそれだけ悔しかったって事だよ」

曲がり角…「スピードの衰えを自覚した時の兆治は見るに忍びないほど落ち込んでいたが速球投手なら誰もが通る道。速球派から技巧派へ、これが平坦な道じゃない。鈴木(近鉄)でさえ3年近くかかったとアドバイスした(ロッテ・若生投手コーチ)」

甲子園…進学先は創立3年目の福山電波高。家の近くに尾道商があったが、電波高の校長が「ウチの野球部は絶対に甲子園に行く」との宣言につられて入学。2年生と3年生の時は優勝候補と言われながらも、甲子園出場は叶わなかった。

先輩…1学年上に浅野啓司(巨人)がいた。浅野が3年生の時に県予選準優勝してドラフト9位でヤクルト入りした。「浅野さんは1年目に8勝してね、あの時初めてプロを意識したんだ。俺もプロに行けるかもって」

オリオンズ入団…当時の評価は球は滅法速いが制球難。家族は大学進学、本人は社会人入りを考えていたが連日12球団のスカウトがやって来て話をするうちにプロ入りに気持ちが傾く。「親があんまり大学、大学とウルサク言うもんで『俺はプロへ行く』と、反抗したい年頃だったしね。でもプロなら広島カープ一本槍で他は考えてなかった・・ドラフトだから仕方なかったけど東京は頭になかった」

マサカリ投法…ヒップ投法とも言われるダイナミックな投球フォームは入団4年目くらいから。「プロ入りした頃から球は速いと言われていたけどフォームがバラバラで制球難だった。速い球を投げるには腕を強く振らなければと思っていたけど、腕に力を入れると下半身がついて来ない。先ずは下半身強化だと考えて行き着いたフォームがあの投げ方」

フォークボール…「フォークを投げたいと思ったのは村山さんのファンだったから。真っ直ぐしかなかったからマスターしようと必死だったけど投げ方すら分からなかったから全然ダメでね、ブルペンで俺が投げていたフォークを見たコーチに『あんな球じゃ試合では使えないからやめておけ』と言われていたけど試しに投げてみた。案の定ポカスカと打たれたけど『あれはカーブです』と言って誤魔化した。実際にカーブと大して変わらなかったね」

消える魔球…オープン戦で対戦した新人・原(巨人)が「村田さんの球スゴイんです。途中で消えちゃいました」と発言。これに対し「悪い気はしない。次までには必ず打てるように努力してぶつかって来るはず。でも感心したね、あれだけ騒がれてプロに入って来ても謙虚さがある。だからこっちも色々と教えてやろうという気になる。大きく育って欲しいね」

家族…妻・長男・長女の4人家族。取材中に小学校1年生の長男が西武ライオンズの帽子を被って遊びから帰って来た。「ロッテ? うん、好きだよ。でもロッテの試合を見たのは1回だけ、パパが投げてた試合。パパが毎日試合に出ないからつまらない。なんでバッターじゃないの?」 にはパパも苦笑い。

パ・リーグ…「優勝した時だけチヤホヤされて1年たつと忘れ去られる、これがパ・リーグでプレーする選手の辛いところ。控え選手でも周りに盛り上げてもらえる環境にある球団にいる選手には分からない苦悩がある。近年は西武人気もありパ・リーグに注目が集まりつつある。これを一時的なものにしないようリーグ全体で頑張りたい」


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#249 小川・山下・掛布

2012年12月19日 | 1981 年 



小川亨(近鉄)…前期終了時点で2割3分6厘、一時は2割を切ったこともあった。「俺にも遂に限界が来たのか」打撃センスは一級品と称された男が頭を抱え込み、もがき苦しんだシーズンだった。一度も優勝争いに加わること無く最下位に沈み最後は西本監督勇退。プロ入り最大のスランプを抜け出すには練習しかなかった。「あと何年野球を続けられるか分からないが1年でも長くやるには練習しかない」と自宅で行なう素振りの回数を若い頃の倍に増やした。周囲の励ましもあった。「チームの調子が悪い時こそムキになって自分の成績にこだわれ。各自がそうする事でチーム全体が上向きになる」「モーやんは元々打てる力を持っているのだから自分を信じろ」等々。

終わってみれば2割9分台まで上がったが「とても満足感からは程遠く、今年ほど寂しいシーズンはなかった。監督の花道に泥を塗ってしまったし・・。でもここまでやれたのだから来年もまだやれそうな気になれたのが救いかな。前期のままだったら真剣に引退を考えたかも」と振り返る。「先ずは体調を万全にする。3本ほど残っているムシ歯を治す事からやらなくちゃ」と気持ちは既に来季に向いている。来年はあと46本と迫っている1500安打達成という目標もあるが「でもなぁやっぱりチームの優勝の喜びに比べたら・・」とイブシ銀男の思いは個人成績よりも優勝なのである。




山下大輔(大洋)…突然の長嶋監督招聘表明で大揺れの大洋で山下大輔兼任監督説が浮上している。球団レベルを越えて大洋漁業本社・久野修慈総務部長兼秘書役が「これからは若い人の時代。広岡・野村氏ら既成の監督では新鮮味が無いでしょ。個人的には山下兼任監督は素晴らしいアイデアだと思います」と発言したのが発端。プロ8年目の29歳、早すぎる監督説だが球団内では意外とは受け止められてはいない。いずれは監督になるべき人間と考えられている選手だからだ。

沈みっぱなしの大洋で孤軍奮闘。巨人へ移籍した松原に代わって選手会長となりプレーでもチームを牽引した1年だった。開幕当初はそんな気持ちが空回りしたのか打撃不振に陥った。4月21日からの博多遠征の頃の打率は1割台まで落ち「お前の身長(174cm)より低いじゃないか」とOB解説者に冷やかされた。それに発奮したのか5月に入ると上昇気配を見せて6月には大爆発して、自身初の月間MVPを受賞しチームも4位まで順位を上げた。

「もう8年目だからね、誰だってこのくらいの歳の頃が一番良いんじゃないの。3割?う~ん、、まだ一度も打った事がないから分からない。一応、試合数プラス20本のヒットを心がけていますよ」と月間MVP受賞の際の会見で心境を述べた。打撃成績向上には怪我の功名もあった。4月末の中日戦で打球を追って左翼の長崎と交錯して突き指をしてしまったが「アレのお蔭でインパクトの瞬間に余計な力が入らなくなったのも好調の要因の一つ」らしい。

9月に入り土井監督が14試合を残して休養。その直前に山下は土井監督から直々に選手会長として積極的にナインの先頭に立って欲しいとチームの今後を託され、これまで以上にチーム全体の事を考えなくてはならなくなった。そのせい?なのか打率は下降し始めて初の3割は難しくなった。それでもプロ入り初の全試合出場は目前だ(10月1日現在)。昨年までは「大ちゃん」と呼ばれボンボン扱いされていたが今年ようやく一皮剥けて、来年の更なる飛躍を目指している。



掛布雅之(阪神)…先ずは下の表を見て頂こう。新人の年は別として、昨年の成績がいかに惨めなものであったかが一目瞭然である。

          年 度  試合数  安 打  本塁打  打 率
           49     83    33     3   .204
           50    106    78    11   .246
           51    122   132    27   .325
           52    103   126    23   .331
           53    129   148    32   .318
           54    122   153    48   .327
           55     70    59    11   .229
           56    123   145    22   .333 (10月2日現在)



「ゼロからの出発ですわ」 開幕前に掛布は自分に言い聞かせるように言っていた。習志野高からプロ入り以来順調に階段を駆け上がっていた成績が初めて転げ落ちた。昨年は何を聞かれても「別に何も無いっスよ」もともと口数の多い選手ではなかったが、さらに無愛想な1年だった。「去年は聞かれるのは怪我の事ばかり…。野球の話が出来るのがこんなに嬉しいとは思わなかった」と今年は表情も明るく別人だ。

昨年は左ヒザ半月板損傷、左太腿肉離れ、腰痛と次々と故障。期待が大きいだけにファンの失望も大きく、どこで調べてくるのか自宅マンションの電話は鳴りっ放しで安紀子夫人は心労で5kgも体重が落ちた。オフのサイン会やゴルフコンペは全て断り身体の手入れに努めた。藁をも掴む思いで千葉の実家にあった池を「敷地内に池があると不幸を招く」との進言に従い埋めてしまうなど一族郎党あげてバックアップをしたほどだった。

9月29日の中日戦8回表、三沢から21号を放った。タイトルを取った48本に比べたら半分にも満たないが「本塁打の数?ファンの皆さんには物足りない本数と言われそうですが今の僕には充分な数字。とにかく今年はここまで1試合も休まずに来れた事が一番嬉しい」今年の掛布を語る時についてまわるのが「休まず」なのだ。タイトル争いに加わる事は出来なかったがプロ入り初めて全試合に出場できた事が一番の収穫だった。
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#248 森・小松・松岡

2012年12月12日 | 1981 年 



森繁和(西武)…自分の事を「ワシ」と言う森と、森に「オッサン」と呼ばれる田淵の2人はウマが合う。歳は田淵の方が上だが物腰や言葉使いからは森の方が落ち着いて見える。その田淵が「将来の西武の屋台骨を支えるのは森」と断言する。力の松沼弟か技の森、つまりどちらがエース候補なのか?現エースの東尾はどう見ているのか。「チームを引っ張るという意味では森かな。勝っても負けても淡々としていて気分転換も上手い。あの勝負度胸は大したもん」と森に軍配を上げる。

着実に力をつけてきた。ドラフト1位で住友金属からプロ入りして初めてのキャンプで自ら野村(現解説者)に捕手役を求めるなど当時から度胸は折り紙付き。「ホワイトソックス戦で先発(2回無失点)した時はシュートのキレが抜群で"平松二世"だと思ったね」と野村氏は語る。そのシュートを武器に1年目は先発・リリーフの両投遣いで5勝16敗7Sと球団創設1年目で最下位に沈んだ西武で獅子奮迅の力投。「チームは断トツの最下位だったけど良い勉強になった。アマ時代は先発する事が多かったがリリーフを経験できた事が今に役立っている」と言う。

2年目のキャンプでパームボールを習得して一段と投球に幅が出来て10勝14敗7Sと成績も向上した。そして今季は目下14勝とチームの勝ち頭だ。エースの資格の一つが自己主張が出来る投手というのが東尾の持論だが、この点でも森は当てはまる。森は「我が道を行く」タイプで地元の高校から駒大付属高へ父親の反対を押し切って2年生の時に転校した。「野球でメシを喰っていく」と既にその当時から森は心に決めて、その為の最善の道を選択したのだ。しかし闇雲に、ただプロ野球選手になれればそれで良しとしないのも森らしい。

昭和51年のドラフトでは佐藤(現阪急)・斉藤(現大洋)と共に「大学ビック3」と称されロッテに1位指名されるも拒否。表向きの理由は「プロでやれる自信が無い」としていたが実際は「やる以上は組織のしっかりした球団で」と言う思いが強かったからである。駒大卒業後は住友金属に就職、配属先は人事労務部だった。この部署は社内的にはエリートコースと言われている所で過去のスポーツ選手で配属されたのは山中投手(法大出)ただ一人である。「サラリーマンとしても仕事が出来る人間だと見込まれていたのだろう。この3年間、彼と接してみて人間性が素晴らしい事を再認識した」と根本監督は言う。恵まれた体格から真っ向勝負を挑む本格派は人間的な成長も加えて、来季は20勝を狙うと早くも宣言した。




小松辰雄(中日)…「ウチにもやっと江川に力で対抗できる投手が出てきたよ」 近藤監督が嬉しそうに語る。ストッパーから先発へ転向した小松投手の事で、持論の投手分業制も小松に関しては不要だ。10月2日現在、12勝6敗11S。先発転向後は8勝4敗、そのうち完投は6試合。2日の阪神戦で敗れるまで6連勝と今やローテーションの柱で、もしも開幕から先発させていたら20勝も可能だったかもしれない。

投手を見る目に長けている近藤監督でも入団以来ストッパー専門で、いつも全力投球をする小松の限界は50球と踏んでいた。「あいつは何度言っても全球を全力投球してしまう。八分の力で投げてもスピードは変わらないと言っても信じないんだ」そこで近藤監督は一時的に先発で使う事にしたのだ。さすがの小松も先発させれば力をセーブして投げるだろうと、そして全力で投げなくてもスピードは落ちないと分かったら再びストッパーに戻せばいいと考えていた。

転向当初はやはり全力投球のままでスタミナ切れで5回もたない試合が続いたが次第に力を抜くコツを覚えて完投できるようになった。広島戦では延長12回を1人で投げきるなど9回を投げ終えても「あと2~3回なら大丈夫」とケロリと言ってのける程になった。「とにかく私の想像以上の能力、完全な認識不足でした」と近藤監督も脱帽する。怪我の功名だった先発転向がもう少し早かったらチームも小松本人も違った1年になっただろうが、後の祭りで既に視線は来季を見据えている。

小松の来季の目標は20勝。プロ入り時の目標「200勝して名球会入り」の為には是非とも達成しなければならない。巨人の連続得点試合を147試合でストップさせた豪腕と怪物・江川との対決が来季の目玉になる事は間違いない。



松岡弘(ヤクルト)…ここ数年オフを迎えると同じセリフの繰り返しだ。「俺個人はソコソコ満足できる数字だけど今年も若いヤツは出て来なかった。俺みたいなロートルが投手陣の柱じゃチームは強くならんよ」と伸び悩む若手投手たちに歯がゆさを感じているのだ。9度目の2桁勝利、チームの勝ち頭で巨人や広島を相手にする時はストッパーとして登板するなど34歳にしてなおフル回転だ。

「マツが凄すぎるのか若手が情けないのか、練習量ひとつとっても差は歴然だから当然か・・」と堀内投手コーチは深い溜め息をつく。試合前のランニングでも松岡の前に出る若手はいない。ダッシュを重ねれば重ねるほど松岡の健脚ぶりが目立つ。「若手が遠慮しているというより、ついて行けないんだ。走る事だけじゃなく投げる方でもマツが一番連投に耐えられる肩と体力を持っているんだ」 いつまでも松岡に頼らざるを得ない現状を根来コーチも嘆く。

肉体的な強さに加え精神面の支えは父・正男さんだ。「この歳になって言うのは照れくさいけど親父は凄い男、いまだに親父には勝てんよ。ヤクルトが万年Bクラスだった頃はチーム内にもクセ者が多くてね、あんまりイビリが酷いので何度も退団したいと思っていたんだ。でもその度に親父に怒鳴りつけられてね、お前は自分の事だけしか考えん人間なのかって」…正男さんは今年で70歳。終戦後満州から岡山に引き揚げて雑貨店を営み家族を養った。

「とにかく貧乏だった。子供心にも親父が音をあげないのが不思議なくらい貧しく、日々の食事にも困る状態だったけど親父の口癖は『死ぬまで諦めるな』だったな」 貧しさの中で自分たちを育ててくれた父親への敬意。時代の変遷の中で死語と化した父親への尊敬の気持ちをジッと持ち続ける男、派手さはカケラも無く単純で地味な努力だけが目立つ松岡だが、その考えが変わらない限り簡単には衰えないだろう。

岡山・倉敷商の1年先輩の星野(中日)も言う「アイツは間違いなく200勝するよ。あれだけ投げていて故障らしい故障をしないなんて奇跡に近い」と。どんなに食べても贅肉が付かない体質、ガタのこない足腰のバネは故障がちな平松や堀内ら同世代の連中からは羨望の的。強靭な躯体を武器に来年もまだまだ若手からの挑戦を受け続けるつもりだ。

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#247 稲葉・北別府・山内

2012年12月05日 | 1981 年 



稲葉光雄(阪急)…「あの怒鳴り方は凄かったな」「凄いと言うより酷かったよ」「アイツの顔を見てられなかったよ」・・ベテラン連中の会話である。3ヶ月前の6月20日の事で、稲葉は後楽園での日ハム戦に先発したが3回を2安打・4四死球でKO。ベンチに下がった稲葉を上田監督が怒鳴りつけたのだ。プロ11年目の投手を新人の如く叱った。本人もこの試合が今季で一番印象に残っていると振り返る。

「あの試合がボクの目を覚ましてくれた」後期は山田・今井と共に三本柱の一角としてローテーションを守り9月17日のロッテ戦で通算100勝を達成した。洒落たフレーム眼鏡に細見のスタイルで、銀行員と言われても誰も疑わない。一見ヤサ男だが秘めている思いは熱い。昭和45年、日本軽金属にいた稲葉に最初に接触してきたのは巨人だった。他球団が動かなかったのは体力に不安を感じたからだ。174㌢・67㌔・・野球選手としては線が細くてとてもプロの練習に耐えられそうもない身体だった。稲葉自身もプロでやっていく自信は無く巨人の誘いにも消極的だった。

しかし蓋を開けてみると中日が指名した。「相当迷いましたよ。家族は反対でしたしボクもプロへ行く気にはなれず断るつもりでいました」しかし同僚の一言で気持ちが変わった。「ちょうどオイルショックの頃でこれからは不景気になる、ウチの会社だってどうなるか分からないから勝負してみろと言われたんです」そしてその言葉通り数年後に日本軽金属野球部は解散したのだ。中日入団後は周囲の心配をよそに2年目には20勝をするなど活躍した。阪急に移籍後も3年連続2桁勝利をするなど順調だったが昨年は5勝8敗・防御率は6.36と低迷した。

トレードとは言え中日から放出された経験から不成績のシーズンオフは落ち着かない。「もしクビになったらもう拾ってくれる球団は無いだろう」それだけに昨年の契約更改の会見では「来年も野球が出来る」と喜んだ。だが今シーズン当初は結果が出ず「キャンプ、オープン戦とやれる事は全てやってきた。でも勝てない。そんな時に上田監督に喝を入れられて開き直った。あの試合が無かったら今頃はユニフォームを脱いでいたかもしれない」 終わってみれば11勝をあげ見事に復活した。「これでまた来年も野球をすることが出来る」と稲葉は心からそう思っている。





北別府学(広島)…6月16日の巨人戦で江川と投げ合い勝利した。これ以降、江川は広島相手に勝てなくなり広島戦を回避するようになった。鹿児島県と宮崎県の県境にある町で生まれ、都城農高時代には江川がいた作新学院と対戦した事もある。「ボクが1年生の時でしたけど凄い投手がいるんだと驚きでしたね」「でもプロ入りはボクの方が先だし負けられません」と気合が入る。

高橋慶、大野、北別府。この3人がカープ若手の人気を三分する。北別府の人気の秘密は赤いホッペの童顔と親孝行ぶりが母性本能をくすぐるらしい。昨年の東西対抗戦でMVPに選ばれ100万円を手にし、何に使うかを問われると「ここまで育ててくれた両親と祖母にあげたい。3人には今まで何もしてあげられなかったので、このお金で旅行にでも行って欲しい」と即座に答えた。母親のツユ子さんは「もったいない。学が命を懸けて得たお金を使うなんて・・神棚に飾って学の健康を祈ります」と涙ながらに語った。

「ボクには兄貴が2人いるけど2人とも普通のサラリーマン。給料もボクに比べたら少ない。けど2人とも幸せな生活をしています。ボクは兄貴らが一生かけて手にするお金を数年で稼げる。でもそれは周りの協力や助けがあればこそです。いくら野球が上手くても人間としてダメなら寂しい人生を送るようになってしまう。そうはなりたくないんです。周りの人達への感謝を忘れずにこれからもやっていきたい」 同じ合宿所暮らしの大野はいまだに自転車で球場まで通う。ドラフト1位で入団して常に陽の当たる恵まれた環境で過ごして来た北別府。勝負の厳しさを背負いながら野球に対する姿勢も前向きになってきた。 





山内新一(南海)…今季の目標を15勝と公言していた山内は開幕から3連勝。---気持ちに張りがあると良い仕事をする---今年の山内がそれだ。開幕前の新居への引越しと9月に誕生した次女の存在だ。「ローン返済があるし、家族が増えたからボヤボヤしてられんのや」 前期に8勝をあげて投手陣の屋台骨を支えていた山内に肩痛が襲ったのは次女が生まれる1ヶ月前だった。

2週間の安静を強いられて自宅で悶々としていた時と同じくして出産準備の為にれい子夫人が家を空ける事となった。自宅には長女と山内の2人。長女の遊び相手にとマルチーズを飼う事にしたが、気に入ったのは長女ではなく山内だった。「まさか・・と思いましたよ。あの神経質な主人が犬と一緒に寝るなんて」とれい子夫人は驚いた。と言うのも山内は部屋を真っ暗にしないと寝られない、しかも人の気配がすると寝られず寝室には必ず1人。そんな山内が犬と寝てる事が信じられないのだ。

それにはどうやら理由があるらしい。山内は自宅から大阪球場への行く道も負けると変えるくらいゲンを担ぐ性格。たまたま犬と寝た次の日に好投して以来、夜になると娘から奪うように自分のベッドへ連れて来るようになったのだ。「今じゃ生まれた次女よりも犬の方にベッタリで・・」とれい子夫人も苦笑い。

9月28日の近鉄戦に今季最後の登板をして負け投手になったが14勝10敗と目標に近い勝ち星をあげる事が出来た。14勝はチームの稼ぎ頭で、自身では昭和51年の20勝に次ぐ好成績。「怪我もあったけど順調なシーズンだった。家も建てたし次女も無事生まれて今年は良い事づくめだった。まだまだ頑張るよ、早く150勝したいね」とベテランの目は既に来シーズンに向けられている。
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