納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています
「今一番興味があるのは何?」との問いに「UFOですよ。空飛ぶ円盤」「世間の人はこの世には男と女しかいないと思っているけど僕はそうだとは思わない。第3の人間、つまり宇宙人は存在する。案外、江川も宇宙人かもよ」最初は冗談を言っていると思ったが本人はいたって真面目だ。「野球を見物しにUFOが来るんじゃないかと甲子園のマウンドで夜空を見上げる事もよくあるよ」プロ野球選手とUFOとは何とも奇妙な取り合わせだがこうした会話が山本という選手に興味を持たせるきっかけだった。
地味で無口。報道関係者との付き合いも深入りしない。「自分を飾るのが嫌いなんだ。人気商売だから注目されたい気持ちはある、あるけど無理をして目立ちたいとは思わないし、ちゃんとした成績を残せば自然と人は寄ってくる。成績より人気が先行するのは間違っていると思うよ、たとえ人気商売でも」人気球団の阪神では少し活躍しただけでマスコミによって大スターに祭り上げられる事がしばしばある。しかし、その「人気」がいかに儚いものかも阪神一筋11年の山本は知っている。
昭和47年のドラフトで山本は1位指名で阪神に入団した。広島商業2年時にエースとして夏の甲子園大会に出場して注目を浴び、高校卒業時は東京六大学や社会人野球の名門チームからの勧誘を受けたが選んだのは当時はマイナーとも言える亜細亜大学だった。「亜細亜大に行った第1の理由は弱小チームを強くしてやろうと言う反発心で第2は経済的な事。家は経済的に苦しかったから学費免除などの条件が魅力的だった。当時から六大学は学費が高かったからね」昔から強い者に対する反骨精神が旺盛だった。4年生の秋に大学野球選手権大会で優勝し亜細亜大を初の日本一の座につかせるなどプロも注目する投手に成長した。
従来の反骨精神ゆえ「巨人以外のセ球団ならOK」と宣言。最も熱心だったのは中日だったが結果は阪神が1位指名。打倒巨人の宣言通り7月5日の巨人戦でプロ初勝利を飾った。「当時はONが健在でV9真っ只中と強い巨人相手に勝てたのだから鼻高々だった。でもね本心は恐怖心でいっぱいだった。ON、特に打席の王さんに睨まれた時は本当に怖かった。あんな凍りつく様な視線を投手に浴びせる打者はもう現れないいんじゃないかな」
その王にベーブ・ルースを抜く715本目の本塁打を献上している。「あの時は逃げようと思えば幾らでも逃げられた。でも俺の腕が少しも言う事を聞いてくれなかった。馬鹿な奴だと思われるかもしれないけど真正面から立ち向かって打たれたんだから納得している。恥をかくのを恐れて逃げるよりベストを尽くして恥をかく方がマシ、投手は恥を売って生きているんだよ。でもねあの時の打球はライトポール直撃だったでしょ?ホームランになるかファールか、その辺が持ってる運の強さの差だね王さんと俺との」と語る。ちなみに山本がプロ入り後に浴びた本塁打は194本、球質が軽い事もあるが逃げる事を嫌う山本の気質が一番の要因だろう。
一昨年は15勝、昨年は12勝をあげ山本は2千万円プレーヤーの仲間入りを果たした。それでも小林との差は勝ち星・年俸ともにまだ大きい。「恐らく今年が本当の勝負の年になると思うな、コバとは。人間的には好感を持てる男だけどライバルだし今年こそ彼を上回る成績を残したい。そうすればマスコミも少しは俺に注目するでしょ」という言葉の裏には阪神一筋でプレーしながら必ずしも正当な評価を受けてきたとは言えない男の叫びがある。生え抜き選手の中では最古参で自分だけを見つめて来た男が自らの存在を周囲に強く訴え始め出した。久々に生え抜きの安藤監督が就任し新人の自分を鍛えてくれた小山投手コーチが復帰、これまでとはガラリと変わった環境が山本の意識に変化をもたらしたのかもしれない。少し風変わりなプロ野球選手に注目である。
山本投手も好きな選手の一人でした。飄々としたマウンド捌きと、細かい事ですが捕手からの返球を受取る仕草が格好良かったです。普通の投手は返球されるボールをグローブの網の部分か少し下のポケットで捕球するのですが、山本投手はグローブの土手に近い手の平部分でパチーンと音を立てて捕球していました。テレビで観ていても音が聞こえていましたねぇ。マニアック過ぎる話でスンマセン・・・
「パ・リーグを盛り上げる為に西武を勝たせているのでは?」などと球界雀がやっかむほど西武と対戦する5球団は自滅を繰り返している。勿論、そんな八百長試合が行われている筈はないが相手球団の自滅は「当たらずとも遠からず」なのだ。西武フロント幹部は「広岡さんは意図的に相手を挑発して冷静さを欠けさせて空回りさせた」と明かす。
昨年暮れの監督就任後からマスコミを巧みに利用するようになる。田淵の一塁コンバートをブチ揚げ話題を提供する。ある意味で指名打者制度の否定であり、つまりはパ・リーグ野球を否定する事になる。当然のように他球団の監督・コーチらは反発し「やれるもんならやってみろ」と息巻いた。次いで「肉を無闇に喰っていては体を壊し選手寿命を縮める」…これには日ハムの大沢監督が噛みついた。当然である、なにせ親会社は「ハム」を扱うのだから。「菜っ葉ばかり食べているヤギさんチームに負けられるか」と広岡監督の思うツボ。春季キャンプが始まると詰めかけた多くのファンを見渡しながら阪急をチクリ。西武がキャンプを張る春野の近くで阪急もキャンプをしていたが訪れるファンは西武と比べると遥かに少ない。頭に血が昇った上田監督は「西武を倒すには石毛を潰すに限る」とばかり「イシゲくん」なる人形を本人に見立てて強烈なスライディング練習を導入するなど大人げない対応をする始末。
一方で懐柔策も怠らない。「あまり知られていないけどブレイザー監督(南海)は僕の師匠とも言える存在なんですよ。昭和35年だったかな、日米親善野球で来日したブラッシングゲーム選手(ブレイザー監督)のプレーを見て多くを学んだ。当時の僕は守備で悩んでいて一種のノイローゼ状態だったけど彼のプレーをヒントに迷いから覚めたんだ」と語り、この話をマスコミが伝えるとブレイザー監督も悪い気はしない。すかさず「ヒロオカはグッドガイだ。彼の目指すスタイルは私がやろうとしているベースボールと同じ。共に良いマネージメントが出来るといいね」と応えた。前年度Aクラスの日ハムや阪急には挑発して火を付け自滅を狙い、Bクラスに低迷したものの対西武には勝ち越した南海の西武に対する敵愾心を弱めるべく懐柔するなど広岡は巧みだった。
開幕の日ハム戦を1勝2敗と負け越した後も波に乗れず5勝5敗で迎えた南海を3タテ、続く近鉄戦を1勝1敗で乗り切り当面のライバルとなる阪急戦に挑んだ。上田監督とは浅からぬ因縁がある。現西武管理部長の根本氏が広島カープの監督だった時に上田はコーチだったが「この監督のやり方にはついて行けない」と自ら申し出て退団したが、その後釜だったのが広岡。昭和53年の日本シリーズで大杉の左翼ポール際に放った「ホームラン」の判定に猛抗議をし試合後に退団する事態にまで発展したヤクルト戦の相手監督も広岡。阪急退団後の評論家時代に西武・堤オーナー直々に監督就任要請を受けるも固辞し阪急の監督に復帰すると西武の監督の座に収まったのも広岡。上田に広岡を意識するなと言うのは無理だろう。結局、この時は広岡に軍配が上がり、その後も対戦成績は西武の4勝1敗と両軍の対戦は西武が主導権を握る事となった。しかも4勝すべてが1点差勝利であった事も上田の血圧を上昇させた。
その後は下位に低迷するロッテや南海から確実に勝ち星を稼ぎV軌道に乗り5月18日に天王山となる日ハム戦を地元西武球場で迎えた。18日は序盤に日ハムが3点を奪いリードしたが6回裏に石毛・スティーブ・田淵の1イニング3本塁打で追いつき高橋一三投手をKOした。日ハムは何とか江夏に繋げようと高橋里や川原を投入するも8回には無死満塁のピンチを迎え、予定よりも早く江夏登板を余儀なくされた。江夏は山崎を三振に討ち取ったが続く片平が意表を突くスクイズを決め決勝点を奪い西武が勝利した。翌19日の試合も終盤までもつれたが大沢監督が連投となる江夏投入を一瞬躊躇した隙を西武が突きテリーの犠飛であげた1点を守りきり西武が連勝した。
これで1点差勝利は22勝中9勝と西武は接戦をものに出来るチームに変貌した。1点差勝利は相手が苛立てば苛立つほど相手はこちらの術中に嵌ると言える。相手チーム、特に監督が広岡監督の影に怯えるほど接戦を落とす事になるのだ。球団創設時は優勝など夢のまた夢と思われたが今や現実味を帯びてきた。
◎山沖之彦 ( 専修大→阪急・ドラフト1位指名 )
◆衝撃のデビュー…4月4日の開幕戦(対近鉄)でプロ初登板を果たす。それも8回一死一・二塁のピンチをピシャリと抑えてセーブポイントをあげた。新人の初登板・初セーブは史上初の事であった。
◆ジャンボサイズ…身長1m91cm、体重88kg は日本人選手の中ではヤクルト・宮城、中日・後藤に次ぐ第3位のノッポ。小学校5年から6年の1年間で30cm も伸びたという。
◆二十四の瞳…昭和52年春の甲子園選抜大会に出場した中村高校(高知)のエース。部員がベンチ入りの15人に満たない12人しかおらず「二十四の瞳」と話題となる。決勝で箕島高に破れたが日本中に旋風を巻き起こした。
◆東都の三冠王…高校卒業後は専修大学へ進学。1年生で4勝して優勝に貢献し最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインに選ばれて東都の投手三冠王と呼ばれた。通算成績は22勝22敗。
◆就職…ドラフト会議前には四国銀行への就職が内定していた。長男という事もあり両親は地元で安定した就職先に喜び本人もプロからの勧誘を固辞していたが阪急が1位で指名。四国銀行頭取が阪急ブレーブスの後援会会長という事もあって「阪急なら内定を辞退しても構わない」とのお墨付きで一転してプロ入りとなった。
◆契約金・年俸…1位入札は金村(近鉄)だったがクジを外してしまい山沖に。ただ契約金4500万円・年俸420万円は他球団の1位指名選手と遜色ない額。
◆ないないづくし…趣味はない。酒もタバコもやらない。ゲンかつぎもしない。何も興味を示さない退屈な人間なのかというとさにあらず、「何かを集め始めると際限なく世界中のモノを集めたくなる。だからやらない」と本人によれば根は凝り性なのだそうだ。
◆新人王…首脳陣も「新人王を狙わせる」と公言している。賞を取るには先発の方が望ましいが関口投手の故障というチーム事情で救援に回っている。「本当は先発をやりたいです。でも与えられた仕事をやり抜くのがプロだと思うので頑張ってます。やるからには新人王を狙いますが勝ち星と違ってセーブは幾つ稼げば良いのか今ひとつピンときません。それが不安材料ですかね…」
◆ライバル…「同期生というより自分以外のプロ野球選手なんて言ったら格好つけ過ぎですかね。リーグは違っても同じ東都リーグで一緒だった宮本(ヤクルト)にはやっぱり負けたくないです」
◎宮本賢治( 亜細亜大→ヤクルト・ドラフト1位指名 )
◆球歴…兵庫・鶴居中学で本格的に野球を始める。東洋大姫路高の2年春頃に投手転向するまでは主に遊撃手だった。昭和52年夏の甲子園大会で全国優勝を果たした時は背番号「10」の控え投手だった。亜大進学後は1年の春からベンチ入りし通算35勝は東都リーグ歴代4位。
◆涙の甲子園…昭和52年夏の甲子園大会2回戦の浜田高戦で登板したが先頭打者の打球を右手中指に受け7針を縫う怪我を負い、わずか5球で降板。「チームは全国優勝したけど個人的には甲子園に良い思い出は何ひとつ無い」と今でも慙愧の念がアリアリ。
◆裏切り者…東洋大姫路からの大学進学は通常なら東洋大学だが何故か同じ東都リーグのライバル校の亜細亜大へ。4年間、宮本は東洋大戦に登板すると当然のように「裏切り者!」の罵声を浴び続けた。このあたりの経緯については多くを語らない。
◆連続三冠…昭和55年秋~56年春の亜大連覇の立役者であり2シーズン連続で最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインの三冠に輝く。
◆おっちょこちょい…去年の夏休みに出かけた城ヶ崎海岸で水深を勘違いして頭から飛び込んで頚椎を痛めて2週間も入院する羽目に。4年生のラストシーズンに活躍出来なかったのはその時の後遺症のせいと言われている。
◆就職先…日本生命など5~6社から誘いがあったが本人は「プロ一本。通用しなかったら親父の仕事(建築業)を継ぐつもり。男なら一度はプロで試してみたかった」
◆契約金・年俸…「ドラフト1位に恥じない金額(塚本スカウト部長)」で契約金4000万円・年俸420万円。
◆妹?…ユマキャンプから帰国した成田空港に可愛いお嬢さんがお出迎え。「恋人?」との報道陣の問いに「いや、あの、別に…妹です」と大汗をタラタラ。
◆太鼓判…亜大・矢野総監督が「1年目から2ケタ勝てる投手。過去の教え子の中でも山本和(阪神)や古屋(日ハム)の1年目と同等の活躍は出来るはず」「もしも今年中に二軍落ちをするとしたら本人の怠慢。その時は私がユニフォームを脱がす」とキツ~イ送別の言葉を頂戴した。
神田武夫【京都商-南海】…京都商業時代の昭和14・15年と2年連続で夏の甲子園大会に出場し「中等球界 No,1 投手」の称号を得てプロ、ノンプロの10球団が勧誘に足繁く京都を訪れたが卒業間近に肋膜を患い各球団は潮が引くように去って行った。ただ南海だけは「負担の少ない野手ならば」と獲得した。神田はこの時に南海の為ならば…と心に決めたという。1年目は84試合中54試合に登板して25勝をあげ翌年も61試合登板で24勝した。当時の同僚だった別所毅彦が後に「高目は俺の方が速かったけど低目の伸びは敵わなかった」と語っている。
しかしベンチでは常にマスクをしなければならないほど病状は日々悪化していった。戦時下で食料事情は悪く栄養状態は最悪、しかも選手数も軍隊に召集されて減る一方で充分な休養も与えられず各球団の投手の多くが胸をやられた。神田は決して「ノー」と言わない男だった。三谷八郎監督の打倒巨人の号令の下、顔面蒼白で咳き込みながらもマウンドへ上がった。
昭和17年4月18日から25日までの8日間の5試合すべてに神田は登板し5連勝する獅子奮迅ぶりを発揮した。しかしこの活躍が病状をさらに悪化させ後半戦は9勝12敗と振るわなかった。翌18年は一度もマウンドに上がる事なく7月27日に京都の自宅で息を引き取った。2年間で718回を投げ抜いた天才投手は21歳で夭逝した。
【 通算成績 49勝35敗 防御率 1.36 】
清水秀雄【明治大-南海-近畿日本-グレートリング-中日-大洋】…昔の特に戦前のプロ野球の試合は観客が入らなかった。六大学をはじめとする学生野球や社会人野球が人気でプロ野球は「職業野球」と卑下されていたからだ。昭和15年の1試合平均観客数は僅か1,870人であった。その昭和15年の6月4日、甲子園で行なわれた南海-巨人戦は満員札止めになる程の観客が押しかけた。沢村栄治が復員しての復帰第一戦である事以上に南海の先発投手が清水である事が超満員の理由であった。それだけ清水の人気は凄かったのである。
先にも言った通り当時は学生野球人気が図抜けていて清水はその人気の中心にあった東京六大学リーグで活躍した花形選手だった。昭和12年春から13年秋にかけての明大四連覇の立役者で南海が大枚5千円の支度金で入団に漕ぎ着けた。ちなみに「支度金の上限は3千円」の申し合わせを南海は「申し合わせであり強制力は無い」と無視した。今で言うゴールデンルーキーがあの沢村と投げ合うとなって観客が詰め掛けたのだった。
涼しげな目元で手足が長く均整の取れた容姿は女性に大人気であった。また内面はストイックな部分を持ち合わせていた。学生時代から底なしの酒豪でプロ入り後も酒にまつわる逸話も残したが、登板の2日前からは一滴も口にしなかった。「学生の頃は二日酔いでも勝てたがプロは甘くない。まぁ登板後に倍の量を呑めば同じだし」と笑った。また試合当日のブルペンでの投球練習の内容が悪いと登板を回避した。周りからすれば単なる我がままだが本人曰く「こんな球じゃ観客からお金を取るのは失礼」との事。ちなみに沢村との投げ合いは味方のエラーもあって5回で降板、沢村が復帰戦を1失点の完投勝利で飾った。
【 通算成績 103勝100敗 防御率 2.69 】
寺内一隆【立教大-イーグルス-黒鷲-大和】…素晴らしい足腰のバネであたかもカモシカが岩場を難なく飛び跳ねるかのような華麗な外野守備を誇り、どんな打球でも難なく処理していたのが寺内だ。そんなカモシカが一度だけ岩場から滑り落ちた事があった。昭和12年7月13日東京の洲崎球場での金鯱-イーグルス戦、走者一塁で四番黒沢が放った打球は左中間へ。ここで落下地点で寺内と中根之外野手が激突して両者は失神してしまい、打者走者の黒沢まで生還しランニングホームランとなってしまった。
中根はしばらくして立ち上がったが寺内はそのまま担架で病院送りとなってしまった。「打球を追っていた事までは憶えているけど衝突した記憶は無いんだ。気が付いたらグラウンドに大の字で寝ていて、その横で寺内が泡を吹いていた」と中根は語り「とにかくスマートな選手で華麗な守備はプロが見ても素晴らしかった。同じ外野手として負けてたまるかという気持ちが無理なプレーをさせたのかも。でもあの打球は俺の守備範囲だったと思うよ」と懐述する。
戦前の立教大は「立教」よりも「セントポール」と呼ぶ方がピッタリのハイソでお洒落の代名詞だった。野球のプレーも私生活も垢抜けした選手達が多かったが寺内はその代表格だった。今も横浜で御健在の奥様とは結婚2年目に入営、初めは3ヶ月の教育召集だったが訓練が終了し奥様が丸亀の連隊へ新調した洋服を持って迎えに行くと、なんとその日に再召集され寺内は連隊へ逆戻り。その後二人が会う事は無くこれが最後の別れとなってしまった。
【 通算成績 283安打 13本塁打 打率.197 】