Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#320 創刊25周年企画 ③ センバツ大会 【前】

2014年04月30日 | 1983 年 



週刊ベースボールが創刊された昭和33年春、早実の王投手はセンバツ大会連覇を目指して甲子園に帰って来た。前年の第29回大会で王は寝屋川高、柳井高、久留米商をいずれも完封して決勝戦に進み高知商を5対3で破って紫紺の優勝旗が初めて箱根の関を越える立役者となった。この大会は出場20校中、主戦投手の半数以上が左腕投手だった特異な年だった。ちなみに柳井高のエースだったのが元阪神の遠井吾郎、高知商のエースが現巨人スコアラー・小松であった。

連覇を狙う早実は2回戦から登場し御所実に勝つには勝ったが王投手は本調子からはほど遠く、思いのほか苦戦をし4対3の辛勝だった。王投手の調子は3回戦でも戻らず濟々黌高に打ち込まれ3対7で敗れ連覇の夢は潰えた。ただし2本塁打を放ち打撃面では非凡な所を見せた。優勝候補の早実を敗り波に乗った濟々黌高はその後同じ熊本県勢の熊本工、中京商と強豪を次々と倒し遂に優勝旗を手にした。

岩戸景気が訪れた昭和34年は世の中が騒然となる出来事が相次いだ。5千人を超す死者・行方不明者を出した伊勢湾台風の襲来、沖縄(当時はまだ本土復帰前)の宮森小学校に米軍ジェット機が墜落し死者21人・負傷者100人を超す事故…等々。一方で皇太子殿下と美智子さんとの御成婚やIOC総会で東京五輪の招致が決まる慶事も。この年の入場行進曲は御成婚を祝って『皇太子のタンゴ』であったが、その御成婚当日の4月10日に決勝戦が中京商と岐阜商で行われ中京商が制した。

敗れた岐阜商の三番打者だったのが高木コーチ(中日)で「あともう1イニング欲しかった。9回に1点差にした時の勢いは凄かっただけに…今でも悔しい」と2対3の惜敗だった。余談だがこの決勝戦は当初の予定では前日に行われる筈だったが雨で順延。その為に決勝戦のテレビ中継は皇太子殿下御成婚関連ニュースに追いやられ全国中継されなかった。

昭和35年にヒットした『南国土佐を後にして』に合わせるように高松商が勝ち進み決勝戦で米子東と対戦した。両校が共に4回に1点をあげて以降ゼロ行進。迎えた9回裏、高松商の先頭打者・山口(立教大→阪急)が米子東・宮本(早大→巨人→広島→南海)から左翼ラッキーゾーンに史上初の決勝戦サヨナラ本塁打を放ち高松商が36年ぶり2回目の栄冠に輝いた。またこの年は初めて沖縄代表(那覇高)が甲子園に登場した記念すべき大会であった。那覇高主将・牧志清順選手が高らかに選手宣誓をした。「あの時の甲子園の空、薫風、そして行進曲の『誕生日』に感激したのを憶えています(牧志)」と懐かしむ。

昭和36年は連覇を目指して順調に勝ち進んだ高松商と前年夏の大会を制して今大会も浪商・尾崎行雄投手(東映)を倒した法政二高との決勝戦、結果は柴田勲投手(巨人)擁する法政二高が4対0でセンバツ大会初優勝を遂げた。翌37年の第34回大会の主役は作新学院。3回戦の八幡商戦は0対0のまま延長18回引き分け。再試合となった翌日もエース・八木沢壮六投手(ロッテ)が力投し通算27回を零封し2対0で勝った。その後は松山商、日大三高も下して優勝した。栃木県代表の優勝は過去最北の地の優勝であった。

昭和38年の第35回大会、PL学園の戸田善紀投手(阪急→中日)が沖縄・首里高相手に21奪三振で大会記録を33年ぶりに更新。1試合5盗塁の大会記録をマークした谷木恭平(立教大→中日)らの活躍で北海高が北海道勢初の決勝戦進出を果たした。決勝進出が決まった瞬間、チーム全員が声を上げて泣き崩れた姿は忘れられない。決勝戦を制したのは剛腕・池永投手擁する下関商で10対0の圧勝で、この大会から第1回大会から使われてきた優勝旗に変わって二代目となる新たな優勝旗を手にした。優勝旗を授与された下関商・佐野芳徳主将は昭和20年8月6日の原爆投下時、生後40日目に広島市観音本町にいて爆風で破壊されたガラス片で右側頭部をえぐられ大手術の末に一命を取りとめた被爆者だった。

東京五輪が開催された昭和39年・36回大会の開会式には五輪旗が入場行進に登場してセレモニーに花を添えた。大会前の下馬評ではノーマークだった徳島・海南高が快進撃を見せる。「ウチの実力は参加23校中23番目。1回戦で負けるでしょうから実は既に私も生徒も帰り支度を済まして来ました」と初戦の試合開始前に海南高・市川隆夫監督は言っていたがあれよあれよと言う間に勝ち進み、とうとう決勝戦で尾道商を破って優勝してしまった。この時のエースが後のプロゴルファー・ジャンボ尾崎こと尾崎将司投手。
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#319 創刊25周年企画 ②

2014年04月23日 | 1983 年 



昭和36年は投手が主役のシーズンだった。中日の権藤は新人ながら俗に言う「権藤・権藤・雨・権藤」の活躍で35勝。稲尾(西鉄)に至っては42勝の大車輪。別の意味で話題をさらった投手がスタンカ(南海)で巨人との日本シリーズ第4戦1点リードの9回裏、勝利目前で球史に残る「寺田のポロリ事件」でケチが付き一転して南海の優勢ムードに影が差す。二死満塁で四番・エンディ宮本への勝負球を円城寺球審に「ボール」と判定されてスタンカは赤鬼の如く球審に詰め寄るが判定は変わらず試合続行。次の球を右前に運ばれ逆転サヨナラ負け。スタンカはベースカバーに入る際に円城寺球審にタックルをかまして吹っ飛ばすオマケ付。

昭和37年になると長嶋の独壇場だったバットマンレースに一本足打法で遂に開花した王が登場する。その王に加えて柴田や城之内らが台頭しペナントレースを制するかと思いきや優勝したのは阪神だった。阪神の弱点は打線だったが、それを補いカバーしたのが小山・村山らの強力投手陣だった。藤本監督は先発投手ローテーションを開幕から6ヶ月の長丁場を意固地なまでに頑として守り通し栄冠を手にした。パ・リーグでは巨人を追われるように去った水原監督が率いる東映が怪童・尾崎投手の活躍も有って制し、日本シリーズで阪神を倒して日本一に。

この頃からプロ野球界は百花繚乱の時代に入って行く。金田投手(国鉄)はウォルター・ジョンソンが持つ奪三振記録を抜いた。南海には野村克也や韋駄天・広瀬叔功、西鉄には兼任監督の中西太を中心に豊田泰光や稲尾和久が元気に暴れ回り、ミサイル打線が健在の大毎には山内一弘、葛城隆雄、榎本喜八、田宮謙次郎。チームは低迷していたが近鉄には18歳の四番・土井正博が現れた。言わば現在の江川や掛布クラスの選手がゴロゴロしていた時代だった。

昭和38年に入ると東京五輪に向けて日本中が高度経済成長期に突き進んで行く。6月30日に金田投手が広島戦に勝ち通算311勝をあげて別所毅彦が持つ最多勝日本記録を更新した。8月11日の巨人-阪神戦で国友球審の判定に村山投手が「俺は1球に命をかけているんだ」と涙の抗議で退場。大阪球場では野村が第52号本塁打を放ってシーズン最多本塁打記録を達成。オフには山内⇔小山の「世紀のトレード」が実現し激動の一年を締めくくった。

東京五輪が開催された昭和39年になると王がもう手がつけられない大活躍。5月3日の阪神戦で4打席連続本塁打の離れ業。投手では金田が14年連続で20勝以上をマーク。海外ではSF・ジャイアンツのマイナーに留学していた村上雅則投手が大リーグに昇格し9月29日のカブス戦で日本人初勝利をあげて、当時は未だ肩身の狭い思いをしていた在留邦人の大喝采を浴びた。日本シリーズは南海-阪神の御堂筋シリーズだったがスタンカの力投もあって南海に軍配、阪神はまたも日本一に手が届かなかった。

珍事としては広島・白石監督が「王シフト」を考案。コンピューターを駆使して王の打球方向を解析し野手全員を右方向に移動させた。後年の王は変則シフトにお構いなく引っ張り打法に徹したが当初はガラ空きの左方向へ軽打し安打を稼いだ。その結果、本塁打数は減ったが打率は急上昇し江藤(中日)と激しい首位打者争いを繰り広げた。両者のデッドヒートはシーズン終盤まで続いたが首位打者は江藤、王は本塁打と打点の二冠に輝いた。ちなみに東京五輪の置き土産が長嶋と五輪コンパニオン・西村亜希子さんとの婚約だった。

東京五輪が終わると五輪景気の反動で公共料金の一斉値上げが実施されるなど一転して不況の波が襲って来た。そんな昭和40年に彗星の如く現れたのが池永投手だ。下関商から西鉄に入り、いきなり20勝10敗で堂々の新人王に。18歳とは思えぬプレート捌きで先輩選手を巧みに組み敷いた。また「投手は先発だけではない」と言わんばかりに登場したのが宮田(巨人)だ。今で言うセーブをあげる救援専門投手で、いつも試合の終盤になるとマウンドへ。それが8時半近くなので「8時半の男」との異名が。高度経済成長に陰りが見え始めたのを契機に高騰する契約金を抑える為、ドラフト制度を取り入れたのもこの年だった。

やや景気が持ち直してきた昭和41年は投手の快記録が続出した年だった。開幕13連勝という快挙を達成したのは甲府の小天狗・堀内投手(巨人)。5月には佐々木吉郎投手(大洋)が広島戦で史上8人目の完全試合、同じ5月に田中勉投手(西鉄)が南海戦でまたも完全試合を達成。更に翌6月には清俊彦投手(西鉄)が近鉄戦でノーヒットノーラン、その5日後に小山正明投手(大毎)が西鉄戦で通算58試合無四球試合をマークした。

どうにか景気が回復した昭和42年は監督受難の年となった。5月18日に西沢監督(中日)、23日には飯田監督(サンケイ)が相次いで休養に(西沢監督は30日に復帰した)。6月2日に三原監督(大洋)も休養へ。万年最下位の大洋を初優勝へ導いた三原マジックもネタ切れとなりジ・エンド。6月19日には戸倉監督(大毎)が休養に追い込まれてシーズン中にもかかわらず多くの監督のクビが切られた。一連の監督更迭の引き金となったのが前年オフに勃発した西本監督(阪急)の「信任投票事件」だった。
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#318 創刊25周年企画 ①

2014年04月16日 | 1983 年 



週刊ベースボールが世に出たのが今から25年前の1958年。その年はプロ野球界に長嶋茂雄が登場した年で日本のプロ野球の潮流が大きく変わり始めた転換期、新たなヒーロー出現で野球史そのものが塗り替えられようとしていた。この25年間でプロ野球界には長嶋以外にも多くの「時代の流れを変える男達」が現れた。


" 宿命のライバル " 長嶋と村山の2人にこれ以上にシックリくる形容詞は無い。現役を引退しグラウンドを離れても2人は永遠にライバルなのだ。例えそれがお遊びであっても…昭和57年12月15日、オーストラリアのシドニーで「名球会豪州ツアー」の最終日にテレビ用の打ち上げ会でジャンケン大会が行われて両者は対戦した。「あの時の屈辱を晴らしますよ」と村山。あの時とは勿論、昭和34年6月25日の天覧試合だ。「ウェルカム」と長嶋は受けて立ち、村山はパー・長嶋はチョキを出しまたもや長嶋に軍配が上がった。「人は緊張するとグーを出す確率が高い。だから…やっぱりチョーさんには敵わない」現在、野球解説の傍ら年商13億円にものぼるスポーツ用品代理店を経営し30人の社員を率いて人間観察に秀でた実業家でもある村山実のしたたかな読みも天才・長嶋茂雄には当てはまらなかった。

「あの時」もそうだった。ボールカウントが2-2となったところでマウンド上の村山は考えた。「次の球を絶対に狙ってくる。だから内角高目のシュートでのけ反らせてからフォークボールで勝負」と伏線を張った。村山が考え抜いた投球を長嶋はいとも簡単に左翼席上段に叩きこんだ。狙い通りのボール気味の厳しい球だったが「甘いシュートが来た。失投ですよ」と長嶋には絶好球に見えた。天才が持つ独自の反応が上回った結果だった。

その長嶋がプロ入りしたのは昭和32年12月7日、立教大学の学生服に身を包んで入団発表に臨んだ。キャンプイン前日の明石駅前にはゴールデンルーキーを一目見ようと早朝から約5千人の群衆が押し寄せた。長嶋のプロ入り前後、入れ替わりに川上哲治、藤村富美男、小鶴誠ら一時代を築いた名選手が引退。一方で中西太、稲尾和久、金田正一らが全盛期を迎えプロ野球界は新たな時代の到来を予感させた。長嶋が新人であわや三冠王か、と期待通りの活躍を見せ本塁打と打点の二冠に輝いた昭和33年は暮れた。

明けて昭和34年には巨人に王が阪神には村山が入団。パ・リーグは大毎のミサイル打線や西鉄の重爆打線を相手に杉浦(南海)が阿修羅の如き力投で38勝4敗・防御率 1.40 でリーグ制覇。日本シリーズでは宿敵・巨人を相手に杉浦の4連投&4連勝で悲願の日本一を達成して「涙の御堂筋パレード」…超人的な活躍をした杉浦は「一人にしてくれ、一人で泣きたいから」とポツリ。御堂筋パレードは皇太子御成婚パレードと共にこの年の東西二大セレモニーに。この年オフに大下弘、青田昇が現役を引退した。

カラーテレビの本放送が開始された昭和35年にはフラフープがやっと下火になったと思いきや今度はダッコちゃんなる「けったいなモノ」が流行した。いい歳をした大人が黒ん坊の人形を街中で持ち歩く姿は異様に見えた。けったいな事は球界でも起きた。7月19日、駒沢球場での東映-大毎戦8回二死満塁で大毎の四番・山内は空振り三振でチェンジと思った次の瞬間、捕手が後逸。しかし「三振だから」と捕手は球を拾いそのままベンチへ。誰も指摘しない間に3人の走者と打者走者の山内まで生還して一挙4失点の珍事が。

ある意味けったいと言えたのが名将・三原監督が万年最下位の大洋を優勝させてしまった事。更に日本シリーズでは大毎オリオンズを4連勝で圧倒。特に第2戦の8回一死満塁の場面でのスクイズを巡って大毎・永田オーナーと西本監督が衝突、パ・リーグ優勝監督がクビとなるけったいな結末に。三原監督の後塵を拝した巨人・水原監督が去り、後任に川上監督が誕生した激動の昭和35年だった。
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#317 コンバート

2014年04月09日 | 1983 年 



落合博満(ロッテ)…いつもは飄々としていて軽口を叩く落合が珍しく真顔でしばしば「今年は何としてもダイヤモンドグラブ賞が欲しいんだ」と口にする。しかし直ぐに「投票権の有る記者さんには愛想良くしなくちゃね」といつもの落合に戻るのだがそれは本音だろう。" 史上最年少(28歳)三冠王 " も守りの方は御世辞にも上手いとは言えない。投手陣の間に「あっち(二塁)方向にゴロが行くと目をつぶりたくなる」なんて声が有るのも事実。そんな落合に一塁コンバートが命じられたのはキャンプ出発直前に新助っ人・シャーリー投手の加入で外人枠から押し出される形で正一塁手だったレオン選手が横浜大洋へ移籍する事が正式に決まったから。  ダイヤモンドグラブ賞とは現在のゴールデングラブ賞の旧称

実は落合が一塁を守るのは初めてではない。昨年は3試合のみだったが、一昨年は怪我で欠場したレオンの代役で7月初旬から1ヶ月間一塁手を経験しているが本職と言うにはほど遠い。しかし久しぶりにファーストミットを手に一塁守備について千田コーチのノックを軽いフットワークで受け続ける姿に違和感はない。「ゴロの取り方は思ったより柔らかい。二塁の守備で見せたドタバタ感はない。左右の動きが二塁手と比べると少ない分、落ち着いているからかな」と千田コーチも先ずは合格点を与える。ただし実戦形式の紅白戦では強烈な当たりのゴロは無難なく捌いたが連携プレーではミスを犯して課題を残した。

慣れた二塁からのコンバートが裏目に出て打撃面に悪影響をもたらす可能性も有るかもしれないが落合は前向きに考えている。三冠を手にして次なる目標は何かと問われて「日本プロ野球史上初の4割打者を目指す」と公言した。その為には守備の負担が減る一塁手は好都合なのだ。しかし打率4割の壁はとてつもなく高い。打撃の神様・川上やONでさえ越えられなかった壁を越えようと言うのだ。「俺のバッティングなんて型があるようで実は無くてまだまだ発展途上なのよ。そんな中途半端な俺でも分かった事がある。800本も900本も本塁打を打てっこないし安打だって3000本なんて夢のまた夢。だって俺はもうすぐ30歳だぜ」「4割を打つ事ぐらいしないと名前は残らない。可能性はゼロに近いけどアメリカには前例があるわけだし挑戦する価値はあるでしょ」と本気なのだ。

負担が軽くなると言っても何も手抜きをするという訳ではない。練習後には特守を志願して千田コーチから1時間で約700本のノックの嵐を浴びた。一・二塁間のゴロは多少のミスが目立ったものの一塁線を含めて全体的に動きは機敏で「グラブ捌きは上手い、ゴロの取り方は合格。あとは連携プレーの練習あるのみ」と千田コーチは言い、本人も「一塁線側は心配ない。課題は逆シングルだな、でも心配いらないよ」と余裕たっぷり。その言葉通り2月27日の広島とのオープン戦の2回表一塁線ボテボテのゴロに軽いフットワークを見せベースカバーに入った三宅投手に絶妙のトス、5回にも一・二塁間の難しい打球を難なく処理した。

「今は特守のお蔭で身体中バリバリで打撃の仕上がりはまだ五分程度だけど、これは計算内。俺が本気で打席に入るのは例年ラスト3試合くらいだから心配していない」と本人が言う通り暫くは守備に主眼を置く腹づもり。「守備範囲で言うなら二塁手の2/3程度。しかもサインプレーで頭を悩ます事も二塁手に比べたら遥かに少ない。今の状態を維持出来ればオチが言うダイヤモンドグラブ賞も夢じゃないよ」と千田コーチが言うのもあながち嘘ではない。各チームの一塁手を見れば田淵(西武)・小川(近鉄)・門田(南海)・ブーマー(阪急)あたりは現状の落合と大差は無く、強いて挙げれば柏原(日ハム)がライバルとなりそうなくらい。「まぁ見てて下さいな。エへへ…」と不敵に笑う落合だった。



山本浩二(広島)…守備の負担を減らす為のコンバートでも山本と落合では意味合いは異なる。落合の場合は打撃の更なる向上の為のコンバートだが山本は選手寿命を延ばす為のコンバートなのだ。「浩二には主力打者としてまだまだやってもらわなければ困る。その為に守りの負担を減らすのも有効な手段」と古葉監督は明かす。野球を始めて初めて経験する左翼手。コンバートを命じられたのは昨年の秋季キャンプで、コンバートは法政大学入学後に投手から野手に転向して以来の事。

「左翼は初めてだけど同じ外野手だし内野を守る訳じゃないから不安はない」と本人は言うものの道のりは平坦ではない。中堅手なら打球に対してその方向へ走ればよかったのだが左翼手はそう単純ではない。左中間へ飛んだ打球は素直に追えばよいのだが右中間や右翼線への打球の場合は反対方向の三塁ベースカバーに走る必要がある。プロ入り以来14年間守り続けた中堅の習性を拭い去るのは容易ではない。

不安は的中する。2月20日の中日戦、走者を置いて川又の打球が右翼方向へ飛ぶと三塁カバーを忘れて打球を追ってしまった。幸い中継プレーに乱れはなく事なきを得たがもしも送球が逸れていたら失点ものだった。「途中で気が付いたけど間に合わなかった…習性とは恐ろしいもんだね」と本人も反省しきり。さらに2月26日のロッテ戦では左翼線に飛んだ打球を追ったが追い着けずクッションボールの処理を誤り無駄な進塁を許してしまった。「左右中間と違ってクッションボールの処理は難しいね。フェンスの角度は各球場で違うからこれからチェックしないと」と新たな難題出現に困惑を隠せない。

大学時代に「法政三羽ガラス」と呼ばれていた富田(元中日)に続いて星野仙一も引退し神宮を沸かせた仲間で残るは田淵(西武)だけとなり山本自身にも「引退」の文字が見え隠れする年齢となった。それでも今季の目標を「3割・40本塁打」に置きあわよくばタイトル奪取も視野に入れている。年齢的な事を言われるのを最も嫌う。「体力的にピークを過ぎたのは事実。だけど野球は年齢でやるモノでもないし絶対にあと3年はプレーするつもりでいる。その為にも今年は大事なシーズンでズルズル成績が下がると取り返しがつかなくなる」「昨年だって27本目を打った頃までは例年と同じ量産ペースだったのが右太腿の怪我をしてからは本塁打数が伸びなかった。改めて体調管理の重要性を思い知らされた」

左翼コンバート以上にやる気を起こさせているのが同年代の加藤の存在。阪急から移籍して来た2歳下の巧打者にライバル意識を剥き出しにする。「アイツの練習熱心さには頭が下がるよ。あの歳でこれでもかというくらい打ち込んでいる。サチ(衣笠)もよく練習するけどそれ以上かも。負けていられんよ、暮れには皆で美味い酒を飲みたいしね」 掛布や原が昨年以上の力をつけ、今季はスミス(巨人)などの新助っ人など本塁打王争いのライバルは多いが左翼コンバートを克服しバットマンレースに参戦するベテランが一泡吹かせるかもしれない。



門田博光(南海)…もう一人の「ヒロミツ」の門田の場合は前述の2人とは異なり自らコンバートを志願した。1979年にアキレス腱を断裂して以来、指名打者に専念し中心打者として恥ずかしくない成績を残してきたが心機一転、今年から守備につく決意をした。それは穴吹新監督との他愛のない会話から生まれた。昨年の11月東西対抗戦出場の為に東京まで出向いた帰路の新幹線の車中での事、穴吹監督と席を並べて雑談をしていた際に「監督、実は来季は守備につきたいと思っているのですがチームとしては迷惑ですか?」と問うと「エエやないか、足への負担を考えたら外野はキツイやろ。一塁がいいんじゃないか」とアッサリ了承された。

プロ生活14年の間、大男が当たり前の世界で身長170cm そこそこの小柄な門田が生き抜いて来られたのは飽くなきチャレンジ精神を持ち続けたお蔭。アキレス腱切断という選手生命の危機に直面しても「走れないなら走る必要の無い本塁打を打てばいいじゃないか」と前向きな精神を常に心掛けてきた。ただ守備につくと言う事はチーム全体に悪影響をもたらす可能性も出て来る。「こんな背の低い一塁手じゃ他の内野陣がやり難いんじゃないですか」「そんな事は気にするな、皆プロなんだ。一塁手が取れる所に送球するのがプロとして当たり前の事。取れない所に投げる方が悪いと思うくらい図々しくないとダメだゾ」と逆に励まされた。

2月4日から始まった呉キャンプ。ファーストミットではなく特大サイズの外野手用グローブを手に内野手として練習に参加したが正直言って動きはぎこちない。それでも大ベテランが真剣に取り組む姿勢を見て若手の多くが刺激を受けたのも事実。「あの門田さんが中学生のような基本練習を繰り返すのを見ていると胸が打たれます」と球場内にはピンと張りつめた空気が漂う。ベースカバーに入る投手へのトスやバントシフトなど未知の世界でもがき続けた1ヶ月で全てを習得出来た訳ではなく、紅白戦でミスを連発した際には思わずグローブをグラウンドへ叩きつけた。

「本当に下手糞な自分に腹が立つ。こんなんじゃチームの足を引っ張るに決まっている。一時の思いつきで守備につきたいなんて言い出したのを後悔し始めている。もし俺が監督だったらこんな一塁手なんて絶対に使わない」と弱気の虫が現れ始めた。だが周囲は「10数年やっても一人前になれない選手だっているんや。それを1ヶ月足らずでやり遂げようなんて思う方が間違い」と諌める。それでも本人は「これだけ動いたキャンプは初めて。身体中の筋肉が悲鳴を上げているけど心地良い疲れでキャンプの1ヶ月はアッと言う間に過ぎた。周りは無理だと言うけどオープン戦の期間で何とかモノにしてみせる」と自らを奮い立たせる。

自ら門田に一塁コンバートを進言した穴吹監督だが無条件に門田を起用する気はなく、守りの野球を標榜するだけに明らかに守備力の劣る選手は誰であれ使わないと公言している。しかし門田は「打撃と同じで最後まで球から目を離さない事が大切だと今更ながら気づいた。この調子なら100試合以上は守備につけるんじゃないかな、と言う淡い期待というか自信がついてきた。でも監督が使えないと判断したなら潔くDHに戻ります」「でも田淵さんより巧いんとちゃう?」と笑うベテランは例年とは違うシーズン前に静かに燃えている。


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#316 スプレー打法

2014年04月02日 | 1983 年 



辛口批評に定評がある野村克也氏にして「野球を知っている人間にとって篠塚ほど魅力のある選手はいない。篠塚は6個のミートポイントを持っている。苦手は外角低目と内角のベルト付近だがこれは稀代の大打者テッド・ウィリアムズ(レッドソックス)と一致する。ウィリアムズ同様に篠塚にも天才の匂いがプンプンしている」とベタ褒めなのだ。ちなみに昨年までの原のミートポイントは「真ん中の高目と低目の2個しかなく、今年になってどうにか内角低目にバットがついていくようになったレベル」と手厳しい。

「ずっと無我夢中で打席に立っていたんですが一昨年頃から球筋が見えるようになったんです。決して狙っていないのに外角に来たら手が自然と左方向へ弾き返す事が出来て『これだ ! 』と感じました」 一昨年と言えば藤田(阪神)と熾烈な首位打者争いをした年、「あの時初めてプロになって良かったと思った。今年こそ毎日充実していたあの時を再現したい」と意気込むが、一昨年にバッティングを開眼し昨年は「欲をかいたと言うか必要以上に究極を求めて空回りしてしまった(篠塚)」と反省し今年はしっかりと足元を見つめる事も忘れない。

小学校4年生の時、町の少年野球チームに参加した。最初は周りの少年たちと同じく本塁打の魅力に憑りつかれ大振りを繰り返していた。「練習では上級生に負けないくらい飛ばしていたけど試合になるとヒットすら打てなかった(篠塚)」 が 「ホームランを打つには難しい外角低目に球が来た。普段なら見送るのを何気なくバットを出したら綺麗にライナーでレフト前ヒットに。それ以来、流し打ちに魅了されて面白いようにヒットが打てるようになった(篠塚)」…現在のスプレー打法が誕生した瞬間だった。

長嶋前監督曰く「ハンドリングが天才的」と絶賛する柔らかい両手首の使い方は少年時代に培われたものだった。打撃のスタイルはプロ入り前には既に出来上がっていて、つまりプロとして成功する為の問題はタイミングの取り方だけだった。「プロの投手と対戦してみて特に驚きはしなかったですね。要はタイミングさえ掴めば対応出来ると感じました。凄い自信?いえいえ、これくらい自惚れが強くないとプロでやっていけません」「昨年の田尾(中日)さんと長崎(大洋)さん同様に首位打者の打率は.350 以上の争いになるでしょうね。でも.350 を打つには目標は.370 くらいにしないと。僕は本気で打つ気でいますよ」とスプレー打法を会得した天才はこう言って憚らない。

しかし不安材料もある。打順である。スミスやクルーズの加入で馴れ親しんだ「三番」から追いやられる可能性が出てきた。「三番は打ち易いですし好きですね。走者がいなければ自由に打てるし走者がいればより集中する事で安打の割合も増える」三番に座った一昨年と昨年の打率のトータルは.334 とセ・リーグではトップ。惜しくも首位打者のタイトルは逃したがリーグを代表する三番打者なのだ。「外人が好調なら篠塚を二番に据えるのが僕個人の理想なんだ。彼は小技も器用にこなせるからね」とは参謀・牧野ヘッドコーチ。

本人は「自由に好きな打順を選べと言われたら三番ですけどチームが必要とする場所でベストパフォーマンスをするのがプロとしての務め。二番は制約の多い打順ですけど命じられたら二番打者に徹します」と何が何でも三番に拘っている訳ではない。「ウチの最大の得点パターンは松本が塁に出て走力を活かして進塁し少ない安打で生還するというもの。要は篠塚と両外人との競争、名前ではなくオープン戦での結果が全て。篠塚の二番は決定事項ではない」と藤田監督は未だ考慮中。

天才は道具も大切にする。「グリップの感触、木目、バランス、それと一番大事にしているのがフィーリング」 920g のバットを年間に何百本と注文するが気に入るのは5~6本だと言う。一昨年は1シーズンを2本のバットで過ごした事が、いかにバットコントロールに秀でているかの証明だ。当然、長期間使っていると木目が裂けてくる。するとビール瓶でバットを擦って滑らかにして強度を増す手入れを怠らない。遠征時はバットを握りしめてベットに横たわる。「バットの感触を常に手の平にフィットさせていたいから。僕の身体の一部ですから」と道具への愛着は人一倍だ。

天才にも地道な努力は必要。今でこそビデオで自らの打席を録画して配球チェックをしているが、家庭用ビデオが普及する以前には政美夫人がテレビ中継を見ながら1球毎に球種やコースを書き留めて帰宅後に篠塚本人が確認していた。「やっぱり女房は素人ですから結構抜けてる球もあって僕が『こういう時はこう書くんだよ』と書き入れた事もあったけど、案外と役に立ちました」とまさに夫唱婦随。この夫婦が昨年の披露宴で現体制と反目する長嶋前監督に媒酌人を依頼した事は当時「常識外れ」と非難されたが篠塚本人が頑なに押し通した。

「色々と騒がれる事は覚悟していた。でも僕にとって長嶋さんはやっぱり恩人。雑音はグラウンドで活躍すればやがては消えていくと思っている。だからこそ今年はやらなければならない」 肋膜を患った身体じゃプロは無理だという周囲の声に「俺が責任を取る」と長嶋が強引にドラフト指名させた経緯もあって篠塚にとって長嶋は特別な存在なのだ。プロ入り8年目、決してパワーは無いが稀有な打者として今や巨人の中心選手。その男が悲願の首位打者のタイトルに照準を合わせている。
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