Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#311 球界地獄耳 ①

2014年02月26日 | 1983 年 



「あれはもう完全に出来上がっている親密さだぜ」「報知新聞も一面で『長嶋大洋監督へ』と書いてるからねぇ」」「イヤイヤ、騒ぎを楽しんでいるだけじゃないかな」…等々、マスコミの大騒ぎを他所に長嶋氏は久しぶりの球春を心底楽しんでいる。


何しろ大洋関係者が次から次へと思わせぶりな言動を見せる為、「大洋・長嶋監督」ムードはエスカレートするばかりだ。例えば衆人環視の状況で関根監督が「そうそう、あの帽子を被せなきゃ」と桜井球団取締役に声をかけると桜井氏が「TAIYO・90番」と書かれた帽子を取り出した。1日や2日でおいそれと作る事は出来ない代物でかなり以前から準備していた事を想像させる。またキャンプ地の静岡県・草薙の名産品のイチゴを箱詰めした長嶋氏への手土産を包んでいる風呂敷が結婚式の引出物用の朱色に鶴と来ては「目出度く縁組みが整いました」と言っているようなものだと想像を巡らす記者も。

明日(2月28日)長嶋氏がキャンプにやって来るという夕方、担当記者が「長嶋さんが…」と切り出すと関根監督は「ウン、ウン。だから部屋に戻ったら契約書作りをしなきゃね」とウィンク。ここまで言われるとむしろ「余りに何から何まで手の内を披露するなんて逆に変だゾ」と懐疑的になる者も現れた。しかし疑った記者も草薙入りした長嶋氏を前にして「ウ~ン、やっぱり…」と考え込んでしまうほど長嶋氏の言動は『大洋・LOVE 』だった。

案内役を買って出た関根監督が「いやぁ~、個々の選手を説明する必要なんて無かったよ。1年間監督をやった俺よりも詳しいかもしれない」と明かした。例えば昨年の首位打者・長崎はその頃、右太ももがパンパンに張っていたのだが「俺を含めて一部の首脳陣しか知らない事なのに長嶋君はバッティング練習を少し見ただけで『足の調子が悪いの?』と見抜いた。普段から長崎のフォームを注視している証拠だね(関根監督)」といった具合。6時間以上もグラウンドに立ちっ放しで屋鋪の特打ちに最後まで付き合い「よ~し、ラストもう一丁」と命じる姿は監督そのもの。グラウンドに降りたのが僅か10分程度だった巨人キャンプでの動きとは雲泥の差だ。

屋鋪を褒める時は巨人時代に自ら手塩をかけて育てた松本を引き合いに出したり、一時は巨人へのトレードが噂された高木由には「僕が監督時代の巨人を痛めつけた頃の調子に戻っている」とおだて、「屋鋪、高木の一・二番コンビが固定出来るかがポイントだ」と打線編成にも言及。ブルペンでは関根監督にお願いして大畑&関根の新人投手二人に並んで投げてもらい球筋を確認したりと広島・中日・巨人のキャンプ巡りとは比較にならない程の熱の入れようだった。

「やっぱり監督就任は既定路線なのか?」と周囲が感じ始めた頃と時を同じくして一部夕刊紙が『長嶋大洋入り決定』と書いた。この夕刊紙は派手な見出しが売りだが過去に大スクープも少なくない。それによれば昨年6月に仲介者を通じて既に長嶋氏の内諾を得て金銭的な条件は勿論、スタッフ人事もクリアしているという。残るは10社近いCM契約している企業との調整が終われば何時でも発表出来る段階にあるという。中日キャンプを訪問した際は堀田球団代表が直々に出迎えたのとは対照的に大洋は球団社長も代表も姿を見せなかったのはコメントを求められて言質を取られるのを防ぐ為で、コメントひとつにも細心の注意を払っている証拠で監督就任は確実と断言している。

「皆さん騒ぎ過ぎですよ。もう少し周りが静かにしてあげたら長嶋さんだってもっと気楽にグラウンドに出て来られるんじゃないかな」とは王助監督。オープン戦、公式戦とこれから毎日のようにグラウンドや球場の記者席に長嶋氏が姿を見せるようになれば、果たしてマスコミのアングラ情報や喧騒がどこまで静まるか。それは大洋と巨人の今年1年の戦いぶりにかかっていると言えよう。




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#310 プロデビュー ・ 投手編 

2014年02月19日 | 1983 年 



昭和49年のドラフト会議で巨人に1位指名された定岡投手は期待に反して第一線への道は険しかった。1年目は二軍で2勝3敗、2年目も同じく2勝3敗。奪三振よりも四死球の数が多いとあって一軍は遠く、初登板は3年目の昭和52年5月18日の大洋戦だった。前日まで5連敗の巨人はこの試合も2回に一挙9点を奪われ7回終了時で4対13と敗色濃厚、ここで定岡にデビューが巡ってきた。2回を投げて四球の走者を1人出しただけで無失点デビューだった。続く広島戦も敗戦処理だったが3回無失点と好投し、遂に5月23日のヤクルト戦で初先発に起用された。

しかし先発は荷が重かった。これ迄の気楽な敗戦処理とは違って緊張から制球を乱し初回から走者を溜めて適時打を浴び、2回には投手・松岡にまで適時打されて降板した。定岡に次の先発機会はなかなか与えられず、ようやく巡って来た9月24日の大洋戦でも1回2/3 で4失点と結果は残せず敗戦処理投手の域を抜け出せずにいた。3年目にして一軍定着のチャンスを逃した定岡の4年目は更に厳しくなり一軍での登板は僅か2試合に終わった。5年目になっても一軍と二軍を行ったり来たりの存在のまま。実は江川がプロ入り初登板した昭和54年6月3日の阪神戦の前日に2年ぶりに先発していた。キャンプにも参加出来ず、ろくに練習していなかった江川でさえ負けはしたが8回まで投げたのに対して定岡は二死を取っただけで1回もたず早々にKOされた。

高卒選手の目安と言われている5年目を過ぎても勝ち星を上げる事が出来ず、同期入団の幾人かが球界を去って「クビ」が脳裏にチラつき始めた6年目に入った4月17日の中日戦に7回裏から登板したが四球・左前打・四球と一死も取れずに降板。このまま二軍へ落ちて球界から消え去ると思われたが代わりに昇格する投手がおらず本当のラストチャンスが定岡に与えられた。5月14日の中日戦に先発して2回表に味方のエラーなどで一死満塁とされるも後続を退けてピンチを脱した。5回終了時点で巨人が2対1とリードしていて勝利投手の権利を得たが6回表に谷沢に本塁打を浴びて6年目の初勝利は泡と消えてしまったがこの好投で二軍降格は免れた。

遂にその時が訪れる。6月5日の中日戦で巨人は1回表に3点を先取し、定岡は5回まで無失点と好投。6回に井上に2ランを浴びて降板するも角→鹿取とリリーフ陣の助けを受け定岡はプロ入り6年目・通算25試合目でようやく初勝利を手にした。更にシーズン最後の登板となった10月15日の広島戦で初完封、後のカープキラーに相応しい広島相手の完封勝利だった。

新人、特に定岡のような高卒投手が初勝利を上げるのに時間を要するのは当たり前だが、あと18勝で300勝投手になる鈴木啓示投手(近鉄)は違った。昭和41年5月4日・東京球場での東京-近鉄戦、3点リードされていた近鉄は早くも3回裏から鈴木投手を投入した。兵庫育英高から入団した高卒1年目の鈴木は3・4回は無難に抑えたが打線が一回りした5回に捕まり3ランを浴びて降板、ホロ苦いデビューだった。次の登板5月17日の東映戦も敗戦処理だったが今度は6回1/3 を1点に抑えた。

徐々に首脳陣の信頼を得るようになり三度目の登板は5月24日の東映戦で1点リードの5回裏だった。鈴木は新人らしからぬ落ち着いた投球を見せ、徹底して低目を突いて5回を1安打しか許さず結局、最後まで投げぬいてプロ3試合目で初勝利を上げた。その2日後、今度はエース・徳久投手が最終回になって打ち込まれて1点差に追い上げられた場面で救援登板すると見事に後続を打ち取り勝利に貢献した。その後も先輩顔負けの投球を続けると早くも先発を命じられた。

6月3日の南海戦、さすがの鈴木も初先発の立ち上がりは緊張感から普段通りの投球が出来ず、いきなり一死二・三塁のピンチを迎えた。しかし後続の野村・広瀬を抑えて波に乗った。2回以降は速球を主体に小気味いい投球を見せてあれよあれよという間に初先発で完封勝利。プロ入り僅か6試合目での快挙であった。勿論、誰もが鈴木のような順調なスタートを切れる訳ではない。

苦労するのは高卒選手に限った事ではない。亜細亜大学からプロ入りして昨年のセ・リーグ最優秀救援投手にまで登りつめた山本和投手(阪神)のデビューも楽ではなかった。昭和47年4月12日、甲子園での巨人戦が山本の初登板だった。0対4と敗色濃厚の8回表、いきなり王と対戦するが右前打を許し、続く長嶋にも左越え二塁打されて失点すると即降板、僅か8球のプロデビューだった。二度目の登板は4月19日のヤクルト戦だったがこの試合も2回2失点と今一つ、「三度目の正直」を目指し4月29日の大洋戦に臨むも失点。ここまで3試合・2回1/3・自責点5・防御率22.50 と手厳しいプロの洗礼を受けた。

事ほど左様に投手のデビューには神経を使う必要がある。先ずは負担の軽い敗戦処理登板が常識となっている最近のプロ野球界だけに新人が開幕戦に中継ぎでさえ登板する事は少ない。ましてや開幕戦先発となると昭和37年の城之内邦雄投手(巨人)が最後。日本ビール(現・サッポロビール)から入団した城之内はオープン戦で4勝0敗、防御率 0. 27 と打者を寄せ付けなかったので開幕投手は寧ろ当然の選択であったが現実は厳しく開幕の阪神戦では5回2失点で降板し敗戦投手となった。しかし城之内の実力は本物でこの年は24勝12敗で文句なしの新人王に選ばれた。

新人の開幕戦登板は中継ぎ登板でさえ過去10年に限っても昭和48年の玉井(巨人)と井本(近鉄)、50年の中山(巨人)、52年の土居(広島)、54年の藤沢(中日)と鹿取(巨人)、55年の藤原(阪神)、57年の山沖(阪急)の僅か8人である。多くがリードを許した後の楽な場面だったが山沖の場合は違った。エース・山田が打ち込まれ7対6と1点差に追い上げられ降板し、二番手の宮本が四球を出して退いた8回表一死一・二塁の場面で新人・山沖投手に出番がやって来た。

このピンチを平野、大石を共に平凡な外野フライに仕留め、続く9回表は不運なテキサス安打などで一死二・三塁とされたがウルフ、梨田を連続三振に斬って取り見事なデビューを飾った。これで大きな自信を得たはずの山沖だがシーズンが終わってみれば7勝15敗とプロの厳しさを味わった。史上20人目となる初登板&初完封という山沖以上のデビューをした杉本正(西武)も1年目は7勝8敗、2年目も7勝12敗と苦戦が続いている。順調なデビューも大切だが「始め良ければ全て良し」という訳でもなさそうだ。
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#309 プロデビュー ・ 打者編

2014年02月12日 | 1983 年 



昨年、史上最年少で三冠王に輝いた落合(ロッテ)の初出場は昭和54年5月29日・川崎球場での南海戦。有藤が故障で先発した新井の代打で7回裏に登場したが右飛に倒れた。翌30日は七番で先発出場し6回裏、前日から数えて4打席目に二塁横への内野安打でプロ初安打を記録した。さらに31日には2回裏に三塁打、続く打席で初本塁打を放った。しかし好調さは続かず36試合に出場して打率.234 と低迷し二軍落ちして二度と一軍へ昇格する事なくシーズンを終え、翌昭和55年は再び二軍生活からのスタートとなった。

それでも落合は腐る事なく5月31日から6月7日にかけて5試合連続本塁打のイースタン新記録など結果を残し、後期になるとそのパンチ力を買われて一軍へ昇格した。7月12日の近鉄戦7回に代打で起用されると鈴木啓から本塁打、翌13日からは八番で先発起用されて4試合目の南海戦で2本塁打、6試合目の阪急戦では六番に上がり広い札幌・円山球場で2本塁打を放って一軍定着を果たした。一軍昇格後9試合目の7月29日の近鉄戦で五番に据えられて以降の活躍は改めて言うまでもない。昭和56年には初の開幕スタメンの座に着き首位打者、昭和57年には三冠王と初打席から僅か3年で打者としての最高峰に昇りつめた。

落合以上に派手なデビューを飾った選手も少なくなく、新井(南海)はデビュー戦で猛打賞を記録した。昭和50年にプロ入りした新井は前期は二軍暮らしだったがオールスター戦後に一軍に昇格し、7月25日の太平洋戦に一番・左翼手でデビューした。相手投手はエース・東尾。1回表に早速プロ初打席。初球はボールで見送った後、2球目を三塁前にセーフティーバントを転がしプロ初安打。第2・3打席は中飛、四球だったが第4・5打席は共に中前打を放って猛打賞。

その新井の上を行くのが石毛(西武)だ。その実力はオープン戦での打率.357 で実証済みだったが開幕スタメンを果たし見事3安打猛打賞。昭和56年4月4日のロッテ戦で相手はエース・村田投手。1回表、先頭打者で右前打、二番・山崎の初球に盗塁を鮮やかに決めた。2打席目は外角スライダーを右前打、そして再び盗塁。3打席目は外角の直球を捉えて右中間スタンドへ放り込んだ。新人が開幕戦で3安打以上を記録したのは昭和33年の古葉と森永(共に広島)以来23年ぶりの快挙だった。

石毛の開幕戦第3打席での初本塁打の上を行くのが山倉(巨人)だ。2打席目に左翼越えを放った。開幕戦ではないもののドカベン・香川(南海)のデビューも見事だった。昭和55年7月8日の近鉄戦で4回からマスクを被り5回表に回ってきた初打席、カウント0-3からの4球目を左翼場外へ初安打を初本塁打で飾った。公式戦での初打席・初本塁打は史上14人目と稀な出来事だったが、外人と2年目以上の選手を除く新人としては6人目で更に稀有なデビューだった。

角(ヤクルト)も負けていない。昭和50年のプロ入り当時は投手だったが2年目には野手に転向しデビューは三塁手。昭和51年7月23日の広島戦が初出場だったが守りについただけで打席は回って来なかった。初打席は8月4日の巨人戦7回裏、代打に起用され左前打で初安打。8回裏にも打席が回り今度は左越え二塁打。翌5日も代打で右越え二塁打、続く6日の大洋戦では同じく代打で三振に倒れたが7日はまたも代打で右前打。4打席回って来る先発とは違い難易度の高い1打席勝負の代打で結果を出し続けてようやく先発出場を勝ち取った。10日の中日戦に二番・三塁手で先発すると中越え二塁打、左前打、左越え本塁打と大活躍。ここまで9打数7安打と驚異的な数字を残した。

対照的にプロの厳しさに直面する選手も当然いる。今や原と巨人人気を二分する中畑もその一人。原はプロ3打席目に初安打、8打席目に初本塁打と順調なプロ生活をスタートさせたが中畑の1年目は二軍暮らし。2年目の昭和52年7月17日の広島戦に代走で初出場した。初打席は7月31日の阪神戦、この試合で中前打の初安打を記録したものの当時の巨人内野陣は王、ジョンソン、高田らレギュラーが健在で中畑に付け入る隙は無く一軍に定着出来なかった。3年目も3打数1安打と低迷する中畑に転機がやって来る。昭和53年のオフに来日したシンシナティ・レッズとの親善試合である。第1戦で逆転本塁打を放つなど26打数7安打 打率.269 と結果を出し注目されるようになった。昭和54年は開幕から一軍入りし5月1日の阪神戦でプロ4年目・30打席目にして初本塁打を記録した。

それ以上の苦労人なのが中沢(阪急)だ。記録上は1年目の昭和40年5月21日に六番・右翼手で初出場しているが、これはアテ馬。1年目は4試合に出場したが内野手1試合、外野手3試合と全てアテ馬だった。本職の捕手での出場は2年目の1試合のみで打席に立つ機会は無かった。初打席は3年目で初安打は通算3打席目、初本塁打は27打席目だった。その後8年経っても本塁打はこの1本のみで安打数も18本とレギュラーには程遠かった。プロ9年目にして113試合に出場してようやくレギュラーの座を手にした。しかし遅咲きの中沢が輝くのはさらに8年後の昭和57年。初めて規定打席に達し打率.301 で18年目にして3割打者となった。「8年間で18安打しか打てない選手でもここまでなれる」と陽の目を見ない選手達の希望の星となった。



この年の開幕2戦目に横浜大洋・右田投手から駒田(巨人)が初打席・初安打・初本塁打(満塁のオマケ付き)を記録する事に。残るは「サヨナラ」と「初球」付きくらいでしょうか?
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#308 高卒新人

2014年02月05日 | 1983 年 



今年も荒木、畠山、榎田ら多くの高卒新人がプロ入りしたが昨今の高校生は身体は大きいが中身が伴わず、すぐ故障を起こしシーズンを棒に振るケースも珍しくない。そこで遅ればせながら巨人は昨年から「三軍」を設けてプロの体力が出来ていない高卒新人をイチから鍛え直している。槙原投手はこの制度のお蔭で1年目を無事乗り切って今年のグアムキャンプで江川に負けないくらいの球を投げて一軍入りを猛アピールしている。惜しむらくはこの制度があと4~5年ほど早く行われていればもっと多くの好選手を輩出できたのではないだろうか。

敢えて名前をあげるなら鈴木伸投手(昭和53年入団)や林投手(昭和55年入団)の資質は槙原と同等かそれ以上だった。林投手は春季キャンプの紅白戦で王選手から三振を奪う活躍を見せたが5月を過ぎ、夏場になると調子を落としその雄姿はマウンドから消えた。不調に焦り過度な練習を行なって肩や肘を壊しキャンプでの球威は二度と戻る事はなく、やがて球界から去る事となった。鈴木投手は「マンモス」と呼ばれたくらいの大きな身体からオーバーハンドで投げ下ろすダイナミックな投手で将来を嘱望されたが伸び悩み野手に転向したが大成しなかった。

野手でも同様だ。藤本(昭和56年入団)は昨年腰痛で入退院を余儀なくされ、同期の安西も同じく腰痛を発症し国立長野病院で治療に専念して一時は快方に向かったが今春キャンプで再発してしまい今のところ完治の目途は立っていない。この手の話は何も巨人に限ったものではない。大久保(広島)と言えば今でこそ野手だが3年前のジュニアオールスター戦で好投して最優秀投手賞に選ばれた有望な投手だった。この年、大久保投手は二軍で19試合に登板し6勝6敗、シーズン後半には一軍へ昇格し6試合に登板するなど順調に見えた。しかし、基礎体力不足のせいで翌年には早くも肩を壊して僅か3試合の登板に終わり、肩痛は翌年になっても治らず投手生命は潰えた。

一方で昔の高校生は強かった。兵庫・高砂高から阪神入りした小山投手は背だけ高くいかにも頼りなさげにキャンプにやって来た。しかし、当時の松木監督はお構いなしに「潰れてもいいからバッティング投手で投げさせろ」と命じて午前中に1時間、午後にも1時間がノルマで先輩打者が特打ちを志願すると夕方まで延々と投げ続けさせられた。しかも先輩打者はストライクを投げないといつまでも打ってくれず、小山は肉体的にも精神的にも辛い経験をしたが故障する事なく大投手に成長した。

高校生が弱くなった要因として生活様式や食生活の変化を挙げる事が多い。インスタント食品の氾濫でリンを過剰摂取する事で骨が弱くなるらしい。しかし、そうした要因以上に指導者の問題が大きいと思われる。昔は教員が監督を兼ねている場合が殆どであったが、最近では「雇われ監督」も少なくない。彼らは部活動を教育の一環とは考えず、勝利至上主義で結果を出さなければクビが待っている。従って甲子園に出場する事で頭が一杯で目先の勝利に拘り選手の身体能力向上よりも小手先の技術向上に重きを置いている。個々の打撃向上よりもヒットエンドランの練習を繰り返したり、投手はやたらと変化球の習得を強いられる。

特に新興高校の場合、新入生獲得の為には甲子園に出場して学校名を広めるのが手っ取り早い。それ故に地方予選や本大会で勝てない監督は用無しで直ぐにクビをすげ替える。結果として甲子園に出場する高校の選手の多くが小粒で小器用なタイプになるのは必然。素質は有ってもプロの第一線でいきなり活躍するのは無理で二軍で身体作りからやらなければならないのが現状だ。最近では高校出は一人前になるのに5年かかるのが常識とされている。しかも二軍にちゃんとした指導者がいての話。設備を含めて昨今の二軍の状況を鑑みればプロ野球界の将来を担う若手選手を取り巻く環境は決して明るくないと言わざるを得ない。



使い捨てが当たり前だった時代の選手全てが頑丈であった訳ではなく、陽の目を見る事なく球界を去るケースも多々あった筈ですけどねぇ…
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