Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 785 ドラフト1位とドラフト外

2023年03月29日 | 1977 年 



あの脚光は今いずこ
3年前のドラフト会議で " イの一番 " を引き当てた近鉄が、あの山口高志投手(松下電器➡阪急)を差し置いて1位指名したのが松下電器で山口投手の同僚だった福井保夫投手。プロ入り後は阪急で大活躍する山口投手とは対照的に福井投手は伸び悩み今やすっかり忘れられた存在になっている。「3年後を見ていて下さい。ウチが福井を獲った訳が分かりますから」と当時の中島スカウト部長をはじめ球団関係者はこう言って胸を張っていた。体格に恵まれ思い切り投げ込むストレートは威力があり、スライダーをはじめ変化球も一級品だったが体の硬さが欠点だと指摘する声があった。

山口投手の2歳下の福井投手は「山口さんには負けたくないです。歳は下ですけどプロでは同期で横一線。実力・結果が全ての世界ですから頑張ります」と胸を躍らせてプロ入りした。実はこの発言は報道陣に誘導されてのもので普段の福井投手は控え目で大口は決して叩かない。松下電器時代はあくまでも山口投手の控え投手。それがドラフト会議から一夜明けたら " イの一番 " 選手として脚光を浴び、寧ろ戸惑いの方が強かったのではないか。次々に訪れる報道陣から抱負を聞かれれば「山口投手には負けない」と言わざるを得なかったのではないか。どんな時にも山口投手の名前が付いて回った。右も左も分からない新人にはさぞ辛かったであろう。

プロ入りして2年目の半ばになった頃「ホッとしています。もう山口さんと比較されることも少なくなりました」と吐露した。それは実感だったろう。地道に歩み始めたがやはりプロの壁は厚い。一軍では短いイニングでさえ痛い目にあい、やがて声がかからなくなった。「良いモノは持っているんだけどねぇ」と一軍首脳陣は結果を出せない福井投手に歯ぎしりしている。現在首位の近鉄の原動力は谷投手を筆頭に中野投手、打者なら藤瀬選手らハツラツとした若い芽だ。彼らの陰に隠れた福井投手がどう奮起するのか。 " イの一番 " の意地を期待しているのは首脳陣だけではない。


男の意地を賭けてます
東海大相模高から初めてプロ入りした日ハムの岡部憲章投手。大学進学組の原辰徳選手や村中秀人投手に負けまいと必死にプロの世界で戦っている。「(彼らがプロ入りするであろう)4年後が勝負です。堂々と実力で渡り合ってやります」と力強く宣言する。ドラフト外で日ハム入りして5カ月経った現在、ようやく一本立ちした投手になってきた。1㍍83㌢・79㌔という本格派投手だが高校時代は岡部投手よりひと回り小柄な村中投手の陰に隠れた控え投手だった。しかし大学進学を選ぶ同級生が多い中、小さい時から憧れていたプロで自分の可能性を試してみたいと敢然とプロ入りを決めた。

そんな岡部投手に目をかけているのが宮田投手コーチ。投球フォームの矯正から新たな球種の開発、投球術まで付きっきりで指導中。「あとはコントロールだけ。投球フォームも自分のモノにしたし、球威もグンと増している。将来の為にはあと2~3年は二軍でしっかり鍛えた方が良い。なかなか面白い投手になりますよ」と宮田コーチは言う。「タツ(原選手)は大学1年生で日米大学野球の全日本メンバーに選ばれた。でも僕も負けませんよ」と負けん気も。先日のイースタンリーグトーナメント大会で強打の大洋打線を3回・1失点に抑えた。陽の当たらない控えに甘んじてきた男の意地に期待して今後の成長ぶりに注目したい。
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# 784 暗雲中日

2023年03月22日 | 1977 年 



遂に爆発したドラゴンズ応援団。小山・与那嶺ラインはどう対処すべきか

未曾有の消えた応援団
ナゴヤ球場といえば広島市民球場と並んで地元一色の応援風景が有名なグラウンドである。一塁側から外野席にかけてそれぞれの私設応援団が場所を占め、数多くの応援旗が打ち振られる。そしてカネと太鼓の鳴り物で試合の初めから終わりまで勇ましい応援が続くのがいつもの風景だ。そのナゴヤ球場がウソのように静まりかえった。名物の応援団が姿を消してしまったのである。東京から単身乗り込んだ東京中日会の小高仙次さんだけが笛で「ピッ・ピッ・ピ~」と音頭を取っていただけ。小高さんは「チームが苦しい時こそ応援しなきゃ」と応援団同士の仲間割れを覚悟で奮闘したが虚無感は否めなかった。

対照的に三塁側スタンドではカープ応援団がここぞとばかりに派手な応援を繰り広げたので一塁側スタンドの寂しさが際立った。「ここは一体どこのホームグラウンドなんだ」「30年以上中日を応援してきたけど、こんな惨めな気持ちになったのは初めて」「球団フロント陣はこの状態をただ見ているだけ。情けない」など心ある中日ファンは怒りをぶちまけた。外野席の中段には『ガッツを見せろドラゴンズ』『ファンの皆様にお詫び・ドラゴンズ応援団休養中』の横断幕が。この異例ともいえる応援団の一時休養は6月末までの期限つきであったが、一体なにがこうした事態を招いてしまったのか。

6月19日、後楽園球場での対巨人9回戦の大敗後、在名の私設3応援団が会合を開き応援自粛を決め各マスコミに通知し、名古屋市内の中日球団事務所を訪れて宣言文を手渡した。その宣言文とは(原文ママ)


昭和49年年度の栄えあるペナントを奪取したわが愛すべき中日ドラゴンズに対し、われわれ応援団一同は、さらなる竜の躍進を願って、これまで熱い努力を続けてきました。しかるに昨年、今年と見守る中で、当のドラゴンズの試合内容に、応援団として、また一ファンとしても、満足しかねる点が多々見られます。これが本来の「実力」にそぐう結果であるならばともかく、われわれは必ずしも、そのように理解してはおりません。ここにわれわれは、監督、選手はもちろんのこと、すべての球団関係者に対する奮起を期待し、かつまた、われわれのこれまでの応援の反省と責任をとり、一時休養を宣言致します。 

   昭和52年6月23日  中日ドラゴンズ応援団  中日会・朝市応援団・中日狂団・浜松愛好会・関西中日会・大阪昇竜会


休養すべきは誰なのか?
応援団の話を聞いても宣言文に示された抽象的な内容を一歩も出ず、どことなく奥歯にモノが挟まった感じがする。それはこの宣言文の背後にもうここまで来たら何らかのアクションを起こすのが当然ではないか、つまり監督休養があって然るべきとの真意が隠されていると見るのが正しいのだろう。随分と手の込んだ手法だが応援団もチームを応援するという組織の立場から与那嶺監督退陣要求を出すのをためらったのではないか。それならというわけで自分たちが応援をやめることで腰の重い球団フロントや親会社の中日新聞社がこのまま傍観できないように仕向けたのではないか。

それだけ地元の中日ファンから与那嶺監督やそれを支持しようとする現体制が見放されている証拠だとも言えそうだ。在名各社のドラゴンズ担当記者たちの間では「遂に来るべきところまで事態が進展したという感じがする。ここまで外堀が埋められるとあとはその時期がいつか、監督交代だけで済むのか、フロント陣にもメスが入るのかが次の焦点だ」という声が強まった。こうなると何も手をつけないという選択肢はない。このまま放置すれば中日新聞社自体に火の粉が降りかかる事態も考えなければならなくなった。


親会社の英断へ火付け役
今のところ中日の選手たちは表立った反応は見せていないが内心は相当なショックを受けたに違いない。高木選手は「長いこと中日のユニフォームを着ているが、名古屋で応援団がいないなんて初めての経験。選手はただ頑張るしかないですね」と表情を曇らす。応援の後押しがない状況で対広島12回戦に先発したがKOされ降板した星野投手は「勝とうと力いっぱい投げたがダメだった。応援団の方に力いっぱい旗を振って喜んでもらうには、皆さんが納得できる試合をするしかない。選手は必死にやっている。キッカケさえ掴めば…頑張るしかない」と唇を噛んだ。

渦中の与那嶺監督は「ボクの進退がウワサにあがっているのは知っている。でもそれは球団が決めることで、ボクは最後までギブアップしないよ」とのこと。その与那嶺監督を絶対的に支持している小山球団社長は現在のところこの問題については一切ノーコメントを貫いている。ということは小山・与那嶺ラインはこの状況下でも依然として崩れていないと見てよさそうだ。しかし応援団の中止宣言という事態から親会社の中日新聞もこのまま放置しておくのは許されないと考えているのは確かだ。応援団の一時休養は中日球団に決断を迫る為の火付け役となったのは間違いない。


生え抜きで固い結束を…
中日ファンの間では早くも次の監督を巡って様々な名前が浮上している。候補に挙がるのは服部二軍監督、牧野茂氏、近藤貞夫氏だがファンの願いは生え抜き監督による復活劇を期待する声が強い。昭和44年に水原茂氏が監督に就任するまで中日は大物OBが監督を務めるのが通常だった。水原、与那嶺と外部からの招聘が続いたが昭和49年のセ・リーグ優勝を成し遂げたことで中日出身でなくとも波静かだったが、昨年や今年のような不振が続くとやはり " 生え抜き監督 " でという意見が出始める。

「ここまでチームが落ち込んだからにはもう『他人』には任せておけない。再建はゼニ・カネの損得を離れた中日OBたちの手で時間をかけてチームを根本から作り直さなければダメなんだ」と中日OB元投手は語気を強める。毎年シーズンオフにはOB総会が開催され、昨年も多くのOBが出席した。とある古参OBは「あの盛大な総会での顔ぶれを見たら人材はゴロゴロしているはずですよ。いつまでもドラゴンズを他人の手に任せておくのは残念ですね」とこちらも生え抜き監督誕生を切望した。


# 769 身内の造反 - Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

# 769 身内の造反 - Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

応援団にまで見放された中日の内情。遂にここまで落ちた中日ドラゴンズ。闘志なきゲームぶりに敗戦街道を転がり続ける…応援団から三くだり半尾張名古屋が冷めている。熱狂的...

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# 783 長嶋巨人

2023年03月15日 | 1977 年 



ペナントレースの折り返し地点を首位で通過した長嶋巨人。今季のセは戦国リーグだけに2位と5ゲーム差の首位は天っ晴れだろう。その長嶋巨人を知る担当記者や評論家にズバリ採点と中身を解剖してもらった。

末次、加藤初を欠いての貯金15は合格点
7月1日現在、巨人は39勝24敗2分けで2位のヤクルトに5ゲーム差の首位。一応、独走と言って構わない形でペナントレースを折り返した。昨季は同じく65試合消化時点で42勝20敗3分けで貯金22だった。それと比べると今季はやや見劣りするが、末次選手や加藤初投手といった投打の主軸を欠いてのシーズンなので仕方ないだろう。昨季は前半戦で2桁連勝(14連勝)があったが今季は8連勝が最多。長嶋監督は何とか連勝を伸ばしてスパートをかけたいと思っているが、セ・リーグ全体の力は均等化しており簡単には抜け出せない。

「今の戦力なら90点以上は付けていいでしょう。開幕直後は代打の成功率は低かったが長嶋監督は我慢をして若手選手を代打や代走に起用しゲームに慣れさせた。その成果は徐々にだが出始めている。ベテランが怪我をした時の穴埋めにも目途が立った。長嶋監督はそこまで考えて選手起用をしている(巨人担当M記者)」また長嶋監督が非常に監督らしくなったと評価する記者もいる。「とにかく野球一筋で朝から晩まで野球のことを考えていて、これまでの野球界では有り得なかったことが巨人戦では当たり前のように起こる。王選手のバントとか。川上哲治氏の『ボールが止まって見える』ではないが今の長嶋監督は試合がよく見えるのではないか(巨人担当K記者)」

長嶋監督のセオリー無視は野球評論家諸氏を驚かせたが「近代野球とは何か」に取り組んでいる長嶋監督は以前、こう発言している。「俺ほどセオリーに忠実な人間はいないよ」と。ぞれが試合に如実に表れるのが代打を起用する時。右投手には左打者、左投手には右打者と決めつけているきらいがある。「左対左でも苦にしない打者はいるが躊躇なく交代させる。それは投手起用でも同じ。ある意味とても頑固だと言える(巨人担当H記者)」。また長嶋采配についてセオリー無視の " 奇略家 " と批評をする野球評論家も少なくない。

敢えて名前は伏すが某巨人OBは「論より証拠で実際に勝てているので悪い点数は付けられないが奇想天外な作戦はどうかと思う。例えば張本にスクイズのサインを出したり。問題は選手がそれを納得し理解しているかですよね。監督の独りよがりや奇策はいずれメッキが剥がれて長続きはしませんよ。今のところは長嶋のミスを選手がカバーしていると見た方がよいです」と手厳しい。確かにミスもあるだろう。長嶋監督特有のヒラメキによって動き過ぎて選手が駒不足になる場面が何度かあった。

だが他人が何と言おうと意地を貫くのが長嶋監督だ。「あのリンド選手を一人前にした。来日後の評価はガタ落ちだったが我慢して使っていくうちに日本の野球に慣れて今では立派な戦力になった。若手の西本投手・小俣投手を辛抱強く育てあげた。コイツを育てると決めたらとことん使う。最下位に沈んだ昭和50年のシーズンで打たれても打たれても交代させず使い続けて育てた新浦投手が良い例だ。周囲から反対意見をされると方向転換するのが普通だが長嶋監督は意に介さない。それが今のところ『吉』と出ている(前出H記者)」


若い投手の使い方と捨てゲーム
投手陣の先発ローテーションは杉下投手コーチに一任している。はた目には1戦1戦苦しい戦いを強いられている巨人だが、こと先発投手陣に限っては非常に長期的な視点でローテーションを考えている。またリリーフ陣に関しても杉下コーチの意見を取り入れながら適度な休養を与えている。若くスタミナがある西本投手の7連投を除いては。開幕前の投手陣全体の評価は低かった。もともと打高投低と言われていたのに加えて今季は加藤初投手が出遅れたり、浅野投手が再度のヒジ痛で離脱するなど苦しかったのも事実。

そんな中、新浦投手が調子を崩すとミニキャンプで鍛え直したり肩やヒジに痛みを発症した投手は無理をさせず休ませる。投手起用が非常に苦しくても長嶋監督は我慢し立ち直るまでジッと待った。これはもの凄く勇気がいることで他球団は真似は出来ないだろう。ネット裏では西本投手の起用法について批判は多い。6月29日の阪神戦で藤田選手に決勝打を浴び負け投手になった西本投手だが、得たものは多いはず。つまり西本投手に一本立ちの目途がついたということだ。

こうして若い選手を頑固なまでに育てたが、一方で負けを覚悟で若手を起用した " 捨てゲーム " が話題となった。長嶋監督は捨てゲームなどないと言うが巨人OBの別所毅彦氏は「少なくとも4試合はあった。川上さんの時代も捨てゲームはあった。だが川上さんのそれは一方的な試合展開になった時の終盤だったが、長嶋君の場合は試合の序盤からベテランを引っ込めて明らかに勝ちを諦めたのが分かった。捨てゲームをしちゃイカンとは言わないがファンの人たちに分からないようにやらないと。若手だけでなくベテランも使うとかね」
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# 782 5打数5安打

2023年03月08日 | 1977 年 



奇人で名高いアスレチックスのオーナー、 C・フィンリーがまたまた爆弾発言をした。4打数4安打した選手に賞金1,000ドル(約270,000円)、5打数5安打の場合は2,000ドル(約540,000円)を出すというものだ。実際はこうした報奨金は禁止されているのだが5打数5安打はボーナスを貰ってもいいくらい価値のある記録なのは確かである。

"243分の1" しかない確率!
6月19日、後楽園球場での巨人対中日戦で柳田選手(巨人)は5打数5安打と打ちまくった。第1打席で左中間適時二塁打、第2打席は中前打、第3打席は右翼線二塁打、第4打席は中前適時打、そして第5打席も中前打。これだけ打つと打率も跳ね上がる。一気に1分6厘アップして打率.367 で首位打者に躍り出た。昨季は得津選手(ロッテ)、ホプキンス選手(広島)、若松選手(ヤクルト)、衣笠選手(広島)、清水選手(大洋)セ・パ両リーグで僅か5人しか記録していない5打数5安打。4打数4安打までいく選手はかなりいる。今季も柳田選手の他に11人いたのだが5安打目は放てなかった。

シピン選手(大洋)は4月20日のヤクルト戦、5月24日の阪神戦で4打数4安打したが5安打はならなかった。5月15日の南海戦で福本選手(阪急)は5安打を達成しているが、5打席目ではなく6打席目に三遊間を抜く左前打で達成した5安打だった。3打数3安打の選手が4打席目に安打する確率は81分の1だが、これが5安打となると243分の1と僅か1安打の違いではるかに低い確率になる。それくらい5打数5安打というものは達成が難しいものだけに、その価値がもっと見直されてもよいのではないか。


ONはただ一度、張本は未経験
現役時代の長嶋監督(巨人)は3安打以上の固め打ちは多く、4安打以上は28回あったが5打数5安打は昭和38年6月19日の大洋戦が唯一。それも4安打まではバットの芯で捉えた快打だったが5安打目は当たり損ねのゴロを快足を飛ばしての内野安打という際どい記録達成だった。王選手(巨人)の場合は敬遠で歩かされることが多く、5打数5安打は昭和48年5月26日の大洋戦のみである。張本選手(巨人)は5安打の経験は複数回あるがいずれも6打数だ。3安打以上の固め打ちはこれまで219回あるが5打数5安打は未経験。

プロ野球史上最多安打は2761安打の野村監督(南海)で、4安打は22回あるが5安打はない。昭和38年9月19日の大毎戦と22日の近鉄戦で連続して5打数4安打したが5安打目は2試合とも達成ならず、昭和48年8月16日のロッテ戦を最後に4安打とも縁がなくなった。そんな野村監督も今年の6月29日で満42歳となり選手としてのピークは過ぎ現在は打率 205 と低迷している。今季は4安打どころか3安打すら開幕間もない4月5日の日ハム戦と4月22日のクラウン戦の2試合だけとあって、5打数5安打は夢のまた夢の話だ。


日本では空前大下の7打数7安打
5打数5安打の上をいく記録はある。最近では昭和49年5月10日の中日戦(ナゴヤ球場)で高田選手(巨人)の6打数6安打が記憶に新しい。1回表に先頭打者本塁打を放つと勢いに乗り、2打席目に中前打、3打席目は左前打。4打席目も左前打すると5打席目は左中間二塁打。9回表の最終打席で左前打して仰木選手(西鉄)以来19年ぶりに6打数6安打の偉業を達成した。こうした記録は打線が爆発し打席が回って来ることが前提でチームメイトの協力なしには達成できない。この試合の巨人打線は19安打の16得点と猛威をふるった。

延長戦を除く1試合最多安打は大下選手(東急)の7打数7安打。昭和24年11月19日の太陽戦(甲子園)に三番打者で出場した大下選手は第1打席に右前打。第2打席は右翼線二塁打、第3打席は一塁強襲打、第4打席は右翼線二塁打、第5打席は投手強襲打、第6打席は左中間二塁打。そして9回に7打席目が回って来た。井筒投手が投じた3球目を打つと打球は一塁コーチャーズボックス付近に上がった飛球。万事休すと思われたがこの日の甲子園球場は通常の浜風とは逆向きで、吹き流された球はファールグラウンドにポトリと落ちた。

命拾いした大下選手はボールカウント2-3まで粘った後に打つと三遊間への深いゴロ。松本遊撃手の送球と一塁に駆け込んだ大下選手の足は際どいタイミングだったが一塁塁審の両手はサッと開いて「セーフ」となり7打数7安打が達成された。ちなみにこの試合は東急は22対2と大量得点で快勝した。昭和28年8月30日に古川選手(阪急)が南海戦で7安打を放ったが試合は延長18回で9打数だった為、参考記録となっている。7打数7安打は日本より歴史がある大リーグでも過去2回しか記録されていない。
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# 781 中継ぎ投手 ❹

2023年03月01日 | 1977 年 



100球で自信へ
日本のプロ野球が全ての面で目標にしているアメリカ大リーグ。この中で実際にプレーした唯一の日本人が村上雅則投手。他の日本人選手にとって羨望の的の " 元大リーガー " としての誇りと自信を村上投手は長い間ホコリまみれのまま放置し忘れていた。その忘れ物を思い起こしたのが6月1日のロッテ戦だ。3回一死一・二塁で得津選手、リー選手と左打者が続く場面で登板した。対左のツーポイント用の予想に反して村上投手は9回まで投げ切った。「ヤツはいつも60球が限度でそれ以上投げるとヒジや肩が痛くなるというので無理はさせなかったが、今日は自分で『行ける』と言ったからね」と大沢監督もビックリの快投だった。

投球数 100球 ・6回 2/3 を1失点。「こんなに投げたのは3年前の阪急戦の完封勝利以来かな」と本人も頬をつねってニッコリ。今季初勝利の興奮に震える村上投手は「自分で60球が限度だと決めつけていたけど、まだ力は残っていたみたい。俺もまだまだやれる」と自信あふれる話を続けた。球数だけではない。猛烈な勢いで本塁打を量産していたリー選手を3打席3三振。記者から「リー選手は大リーグでは打ててない。元大リーガー投手に怖気づいた?」という誘い水に「まさか!」と笑い飛ばしたが満更でもなさそう。

昭和38年に法政二高から南海に入団した村上投手は翌39年にSF・ジャイアンツに留学した。ところが契約書の手違いからトレードの形式になっていた村上投手は公式戦にも登板して1A・フレズノから9月1日にメジャーに昇格した。地元は日系人も多く客寄せの意味合いもあっただろうが、9試合に登板し1勝1S・防御率 1.89 の好成績を残した。翌年は早くも抑えの切り札に。ハーマン・フォックス監督(現カブス監督)の下で45試合に登板し、4勝1敗8S・防御率 3.75 ・74回1/3 で85奪三振と投球回数を上回った。余談になるが当時の左腕ナンバーワン投手のコーファックス投手(LA・ドジャース)からヒットを打ったのが自慢だそうだ。

諦めていた投球数100球が戻ってきた。「自分の限界と可能性に挑戦した勝った。 " やれる " 自信が出来ました」と言い切る笑顔の爽やかさは本物だ。限界と可能性への挑戦は最後の賭けだった。一昨年の暮れ、大沢監督は東田選手を放出し阪神から村上投手を獲得した。大沢監督の狙いは一つ。「投手が欲しい。特に左投手。とはいってもどこもエース級を出してはくれない。それなら一層のことかつての栄光がありながら断崖に立たされている男の最後の踏ん張りに賭けてみようと思ったのさ」


勝ち星を気にする歳でもないよ
SF・ジャイアンツから帰国した昭和41年は6勝、翌42年は3勝と期待に応えられなかったが昭和43年は18勝4敗で勝率1位投手に輝いた。以降、コンスタントに10勝前後だったが昭和50年に阪神に移籍した。だが阪神での登板は19回1/3 に終わり、在籍わずか1年で日ハムに移籍した。「初めての東京で生まれ変わったつもりで頑張る」と決意したがキャンプイン直前の自主トレ中に腹痛を発症した。断腸の思いとは洒落にもならなかったが、盲腸の手術を行いキャンプは不参加となり多摩川グラウンドでランニングを開始したのはオープン戦が始まる頃だった。当然開幕には間に合わず昨季は32試合登板に終わった。

しかも起用されたのは対左打者専門のワンポイントばかりで長いイニングを任されることはなかった。それどころか左打者不足のチーム事情もあって長打力がある村上投手に野手転向の案が浮上し、実際に転向の準備を命じられて試合前は投手の練習が終わると他の野手と同じだけの打ち込みの練習を行っていた。投手と野手のかけもちはシーズン終了まで続けられた。だが今年は開幕から好調で投手に専念している。「(高橋)一三・野村・佐伯と揃って、(高橋)直樹だけじゃなくなったからオレの出番が無くなっちゃった。オマンマの食い上げだよ」と笑う。先発陣の完投ペースが増えて中継ぎ陣の登板する機会が減ったのだ。

中継ぎだから勝ち星やセーブポイントには縁が無い。現在1勝1敗1S(6月25日現在)だがチームへの貢献度は高い。シーズン前半戦、日ハム投手陣で頼りになるのは高橋直投手だけだった。野村、佐伯、杉田投手らが登板するとピンチの連続だった。ほとんどのチームは左打者がクリーンアップであり村上投手が救援するケースが多かった。「でもいいじゃないですか。表に現れる数字に目の色を変える歳でもいないし、チームが勝利すればそれで良しですよ」と投手陣で最年長の村上投手は淡々と話す。
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