Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#104 1979年 ドラフト会議  注目は岡田 (早大) と 木田 (日本鋼管)  

2010年02月22日 | 1979 年 





この年のドラフト候補選手は開催前から不作と言われていましたが、いま振り返って見ても不作と
言うより凶作でした。指名人数が1球団4人までと限定された為、即戦力を確保するのが優先されて
高校生の指名は26人に留まりました。高校生を1位指名したのは5球団でしたが成功と言えるのは
中日・牛島投手くらいです。一方、大学・社会人も人材は豊富とは言えませんでしたが、前評判通り
阪神・岡田、日ハム・木田は新人王に相応しい成績を残しました。 指名人数枠が少なかった為に
ドラフト外で選手を取り合いをする事もあり、 ドラフト下位指名選手よりも契約金が高くなる現象も
起きました。また目玉の岡田・木田は指名後も話題に事欠きませんでた。

岡田は子供の頃から阪神ファンで阪神入りには何の障害もありませんでした。1億円とも言われた
契約金についても 「片手くらいやったみたいですよ」 と金銭条件は二の次といった口ぶりでした。
大阪で事業を営み阪神のタニマチ的存在だった父親・勇郎氏は指名の挨拶に来た小林スカウトに
入団する為に二つの条件を出しました。➊三塁手として起用すること ➋合宿には入れず自宅から
甲子園球場へ通わせること、の二つです。球団側はこの条件をアッサリと認めてしまいましたが、
チーム内やOB連中からは批判の声が上がりました。➊は掛布という この年 本塁打王のタイトルを
獲得したレギュラーがいます。掛布は大人の対応をしましたが、波乱を期待するマスコミのヤジ馬
連中は早くも「掛布vs岡田」を煽り、➋については「子離れしろ」と世間からも批判されました。

前年の広島指名を拒否し、「在京のセ」を希望していた木田勇投手は日ハムに指名されましたが
こちらでも父親が交渉の場へ登場しました。指名の挨拶に訪れた三沢スカウトに対して 「本人が
嫌だと言っているのに何故指名したのですか」と気色ばんで抗議しました。当初は拒否の姿勢を
見せていましたが時間が経つと徐々に軟化していきました。最後は条件面の駆け引きとなり木田は
「都内に両親と住める土地が欲しい」と要求しましたが、日ハム側が意図的 ? にその事を外部へ
漏らした為、木田側は世間からの批判に晒されました。予想以上のバッシングに慌てた木田側は
土地の要求は取り下げて契約し入団しました。







日ハム・木田          阪神・岡田

ロッテ・竹本        中日・牛島   南海・香川(2位指名)



近鉄・藤原     巨人・林      大洋・杉永

南海・名取    広島・片岡    西武・鴻野   ヤクルト・片岡   阪急・木下





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# 103 " 巨人寄りの審判員 " で 朝日 vs 讀賣 の場外乱闘  

2010年02月15日 | 1979 年 




1979年10月4日、テレビ朝日の「溝口泰男モーニングショー」で野球ファンを名乗る人物が
一昨年、セ・リーグのある審判員 (後に平光氏と明かす) から巨人戦入場券を1枚2万円の
ヤミ値で6枚購入したと告白しました。'79年当時 マスコミは 「巨人寄りの審判員」 検証を
行なっていて、この件は巨人との癒着をあらわす一例としてテレビ朝日は番組で取り上げました。
「モーニングショー」という番組は芸能ネタ専門のワイドショーではなく、時事・社会問題も扱う
硬派番組でした。それだけに反響も大きくセ・リーグ連盟も調査に乗り出しました。



「巨人寄りの審判員」の放送を見た視聴者から「私はA審判から巨人戦のヤミチケットを買った」というタレ込みが番組にあり
さっそくインタビューし放送しました。「2年前にA審判から1枚2千円のチケットを2万円で6枚買った」 「最初は知人を通して
その後はA審判の自宅で直接買いました」と証言。ところが番組を見た告発者の知人がテレ朝ではなく産経新聞社に連絡し
新聞社から告発者の身元を知らされたたセ・リーグは鈴木会長が直々に、この告発者と対面しました。この会談で放送された
以上のモノは出てこず、後日あらためて会うとの約束をしてこの日の会談は終わりました。

平光審判員は「事実無根」と反論しましたが、告発者の発言が確認されるまで自宅待機となり世間から疑惑の目で見られる
ようになりました。2日後、約束の場所に告発者X氏は現れませんでした。昼過ぎにX氏からセ・リーグ事務所に電話が入り
夜7時に東京・芝のグランドホテルで会うことになりました。ところが7時を過ぎてもX氏は来ません。マスコミがX氏の居所を
探索したところテレビ朝日にいるらしいと分かり、記者が局に押しかけました。報道陣はX氏の会見を要求しましたがテレ朝の
広報担当者は「局にはいない」の一点張り。しかし やがて それも嘘と分かり、午後9時過ぎになって番組プロデューサーに
付き添われてX氏が会見場に現れました。

会見ではX氏が番組で語った内容について質問が相次ぎ、買ったとされる席は年間予約席で定価は設定せれておらず
2千円との根拠は?との問いに、「2千円が相場だと思った」とあっさり前言を撤回。買った場所や回数もくるくる変わり、
平光審判員の自宅の場所も知らないと白状しました。追求は番組プロデューサーにも向けられ、訂正と謝罪を繰り返して
とうとう最後に「X氏の言い分を全て信じて何の裏付けも取らずに放送した」と驚き発言。



一人の人間が社会的に抹殺されかねない問題の事実関係を、何ひとつ検証する事なく放送して
しまったテレビ朝日は、X氏以上に批判の的となりました。朝日vs讀賣の対立構図が透けて見え
ますが今回は朝日側の完全な勇み足でした。現在では定価を上回る闇値どころかチケット屋で
叩き売り状態な巨人戦チケットですが当時は入手困難なプラチナチケットだったようです。この後
しばらく讀賣は新聞・テレビを使って朝日批判キャンペーンを大々的に繰り広げたそうです。 何の
確認もせず放送してしまうモラルを欠いた朝日と、そんな溺れかけの同業者をコレ幸いと執拗に
攻撃する讀賣。情けないですが、我が国の主要メディアは目糞・ハナ糞状態という事でしょうか…
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#102 球団初の日本一を成し遂げた監督の解任劇 ②

2010年02月10日 | 1979 年 





今回の退団劇の背景を広岡自身が手記として発表しました。それによるとヤクルトというチームは
万年Bクラスの環境にドップリ浸かり、「甘え」 「なぁなぁ精神」の巣窟だったそうです。4年をかけて
チーム改革を断行しましたが長年かけて築き上げられた「ぬるま湯」体質を変える事は出来ません
でした。



「会社の事情もありますが適当に強く、適当に弱いのが丁度いいというのがオーナーの考えです。去年、巨人と凌ぎを削って
いた時、 "優勝は巨人でいい、ウチは2位で充分" との発言には怒りを通り越して体中のチカラが抜けました。勝つ為に妥協を
排し徹底的な基礎練習とストイックなまでの精神生活をチームの基盤にしようとしたが、一部のコーチや選手にはケムったくて
しょうがない。チーム内情をフロント幹部に、御丁寧に逐一報告する忠臣者もいて、球団全体が甘えの巣窟になっていました」



「甘え」の具体例として潰れたトレード話を紹介しています。ロッテの山崎裕之選手とのトレードが
両球団間で合意し、広岡ら首脳陣が米・ウインターミーティングから帰国後に新外国人選手入団の
紹介と同時発表する予定でしたが、帰国してみると話は御破算になっていました。ロッテは山崎に
通告し、山崎も移籍を了承。しかしヤクルトから出される選手が移籍を拒否、野球協約上 選手には
移籍を拒否する権利はありませんが、この選手はフロント幹部のお気に入りで泣きつかれた幹部が
独断でこのトレードを潰しました。

山崎は結局、新球団 西武ライオンズへ移籍しました。広岡によるとフロントに潰されたトレード話は
これだけではなく、南海・野村監督解任騒動で宙に浮いた柏原選手の場合は球団間で 「正式に」
決定したそうです。南海から森本球団代表・広瀬監督、ヤクルトからは相馬球団代表・広岡監督・
森ヘッドコーチの五者会談で合意し、さらに柏原とは別に交換要員次第では江夏投手のトレードも
検討するとまで話は進展しました。しかし3日後、江夏投手だけでなく決定した筈の柏原選手まで
御破算になってしまいました。やはりヤクルトから出される選手がフロントに泣きついたからでした。

「規律の緩み」の具体例は、当時ヤクルト投手陣は全員、試合後 対戦した打者とのデータを各自が
取って次の試合に投手陣全体で活用する方式をとっていましたが、遠征先の宿舎で森コーチがある
主力投手の部屋を訪ねてデータ分析をしようとしたところ、部屋のテーブルにはウイスキーが置いて
ありました。チーム内の規律で飲酒は外食時のみ許され、宿舎内では禁じられていました。 聞けば
遠征には常にウイスキーを携帯しているとの事。当然、その主力投手は規律違反で罰金処分を受け
ましたがフロントから注意を受けたのは、その投手ではなく森コーチの方でした。「大人だから」「気分
転換も必要」として、以後 チーム内で決めた規律は次第に有名無実化していき、チームの雰囲気は
元の万年Bクラスに戻ってしまったそうです。




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#101 球団初の日本一を成し遂げた監督の解任劇 ①

2010年02月04日 | 1979 年 





前年、球団創設29年目にして初のリーグ優勝と日本一を成し遂げた広岡監督が事実上、シーズン
途中で解任されました。ヤクルトは昨オフに広岡監督と3年契約を結びましたが、実は一部新聞で
広岡監督が退団を申し入れていたと報道されました。記事を書いたのが報知新聞でしたので当時は
巨人側の嫌がらせと考える向きが多く、12月に行なわれた「ヤクルト日本一祝賀パーティ」の会場に
取材に来た報知新聞の記者とヤクルト側とに一悶着ありました。しかし後日 広岡自身が発表した
手記によると、チームの有り方について球団との相違は大きく退団を申し入れたが「猛烈な慰留」が
あり監督続投を決めたそうです。

'79年のシーズンは開幕から低迷し続け、6月には球団から「コーチ陣の手直し」が提案されましたが
広岡は「成績不振の責任を取るのは監督である」としてオーナーに直接会い今季は「現状のまま」で
行く事で了承を取り付けました。しかし、8月7日に再び佐藤球団社長がコーチ刷新を提言。広岡は
オーナーの「了承」をたてに拒否しますが球団社長も引かず、広岡が「誰の意見か?」と問い質すと
「信頼すべき外部の第三者だ」 「球団内の人物でないからこそ冷静な判断が出来る」 として広岡の
意見を無視して森ヘッドコーチ・植村投手コーチの更迭を断行しました。

球団の独断人事に対して広岡は辞めざるを得ず、異例とも言える声明文を発表して退団しました。


  先般来、チームの成績不振を理由に佐藤球団社長から、森・植村両コーチを戦列から外し休養させるという方針が
  伝えられました。しかしチームの不振の責任はあくまで監督にあります。二人のコーチを外しチームの体制を崩すことは
  出来ないことを佐藤球団社長に力説してまいりました。ところが本日、私の強い要望を無視して両コーチの休養を直接
  本人たちに申し渡すという事態に至りました。私は球団社長に対し球団側の対応は遺憾であり、こうした状況下では
  指揮は執れないと申し上げたところ球団社長から直接「ならば、君は辞表を出したまえ」という発言がありました。  以下、略



しかし佐藤球団社長は広岡に対して「解任ではなく辞表を出せとも言っていない」と反論し、あくまで
広岡が自主的に辞表を出し球団がそれを受理しただけだと言い張りました。広岡は「解任された」と
言い、球団は「自ら辞任した」と平行線のままでした。コーチは解任でも監督は、あくまで "辞任" に
球団側がこだわったのは荒川前監督をシーズン途中で解任し広岡コーチを監督代行ではなく監督に
昇格させる際に広岡から契約金を要求された事がトラウマになっていたのかも知れません。広岡の
後釜に佐藤打撃コーチの監督代行を発表した際に記者から「解任していないなら広岡が再び指揮を
執りたいと言い出したらOKするのか?」との問いに答えられませんでした。   …つづく
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#100 打者顔負けの打撃センスを魅せた投手たち

2010年01月28日 | 1979 年 





プロで活躍している投手の高校時代はエースで四番だった場合も多くプロ入り後も打撃センスの良い
投手も沢山いました。古くは3打席連続本塁打を放った堀内や、高校時代 甲子園大会では清原に
次ぐ本塁打数を記録した桑田などが代表例ですが、さらに昔には2人を凌ぐ投手達がいました。


         勝利数   打席   安打  本塁打  打点   打率
金田正一    400    2054   406    38    177   .198
米田哲也    350    1556   266    33    112   .171
小山正明    320    1555   244     9     76   .157
別所毅彦    310    1972   499    35    248   .253
スタルヒン    303    1880   446    19    252   .237
稲尾和久    276    1161   220    17     98   .189
梶本隆夫    254    1466   299    13    130   .204


長池(阪急)が保持していた連続試合安打の日本記録は、1979年 高橋(広島)に破られましたが
長池以前は、投手の野口二郎(阪急)が記録保持者でした。記録を達成した年の野口は投手
として13勝14敗。 登板しない日は四番で右翼を守り、2割9分8厘で9位の打撃成績でした。 

金田の38本塁打には2本の代打本塁打が含まれていますし、別所の通算499安打などは打者
顔負けです。パ・リーグは昭和50年からDH制を採用した為、投手は打席に立つことが無くなり
ましたが、現役にもよく打つ投手はいました。

鈴木啓示(近鉄)は昭和43年から2・2・3・3・2本と昭和47年まで毎年 本塁打を打ち、昭和45年は
打率 .277 を記録しました。山田久志(阪急)は昭和52年の日本シリーズ第1戦で適時二塁打を打ち
第4戦では8回に右前打、同点の9回には右中間2塁打で決勝点を叩き出す殊勲者になりました。
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#99 スピードガンの信憑性

2010年01月22日 | 1979 年 





今では当たり前のスピード表示ですがテレビに出始めの頃は、さして注目されていませんでした。
"135km・140km" などと表示されても、それがどれ位の速さなのか比較対象が無かった為でした。
今では高校野球中継でも表示するNHKは他の民放局がスピード表示を始めても「数字に客観性が
無い」として頑なに採用しませんでした。NHKの言い分も尤もで '79年のオールスター戦では2つの
新聞社が同じスピードガンを使用して球速を測定しました。


              初速      終速
       A社    146km     141km               140km    135km
江夏(左腕)                           山内(右腕)
       B社    145km     141km               136km    131km


       A社     132km     127km               144km    139km
梶間(左腕)                           江本(右腕)
       B社     131km     126km               141km    136km


機械の設置場所や右投げ・左投げの違いでも測定したスピードは異なりました。A・B両新聞社共
左腕投手の測定値の差は僅かでしたが右腕投手は差が出ました。また当時の快速球投手 中日
鈴木孝政投手と全盛期を過ぎた江夏投手のスピード表示が大差ない事に少々落胆するファンも
いて、スピードガン自体に懐疑的になりかけていた時に、彗星の如く現れたのが中日・小松辰雄
投手でした。小松はそれまでは未知の領域だった時速150km の扉を抉じ開けました。

「投手の生命線はコントロール」「投球に緩急をつけるのが大事」「球のキレこそ第一」 それぞれ
もっともでしたが、小松の時速150kmの快速球はそれらを一蹴しました。 「少々速くてもコースが
甘ければプロの打者は打ち返す」との定番な意見は小松には当てはまりませんでした。 小松の
速球は "少々" ではなかったのです。野球ファンは贔屓チームに関係なく小松のスピードに熱狂
しました。小松によって速球投手=150km が定着しましたが小松の出現が無ければ、ひっそりと
消えていったストロボアクション同様、スピード表示も廃れていったかもしれません。



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#98 危険球で顎の骨を粉砕

2010年01月18日 | 1979 年 






現在は頭部への死球は、危険球で一発退場となる為、所謂 ビーンボール or ブラッシュボールの
類は少なくなりました。'79年パ・リーグの前期を独走し、マジックナンバー点灯の最大の貢献者は
マニエル選手でした。 50試合で打率 .370(2位) 本塁打 24(1位) 打点 60(1位) の成績を残し
5月の月間MVPも決まった直後のロッテ戦で八木沢投手から顎に死球を受けました。

下顎複雑骨折、顔面挫傷、口内挫傷、奥歯の根元も粉砕されているという凄まじさでした。口から
血がしたたり落ちているにも拘らず、ロッテベンチから「死球ぐらいで騒ぐなよ」のヤジをきっかけに
両軍の遺恨が始まりました。骨折部分を接合し退院したマニエルは「あの死球は故意だった。私は
八木沢を許さない」と発言。一方の八木沢は「初球をカーブでストライクを取り、2球目はインコース
ぎりぎりを突くつもりで投げた。それが指のかかりが悪くてスッポ抜け、そこに踏み込んできた彼の
上体が前傾した瞬間に当たってしまった。本当に悪いことをした」と場面を振り返りました。

概ね他の投手は八木沢に同情的で、頭を狙って投げるなんて有り得ないとしていましたが、中には
「スッポ抜けて右打者に当たるのなら理解できるが左打者の頭部に当たるのは考えられん。左打者
に当たる場合は、スッポ抜けるのではなく指先が引っかかった時だけど、その時は足元に行くはず」
「八木沢は完全試合を達成した投手だろ、コントロールには定評がある」「コーチ兼任だから投手陣を
代表してマニエルを潰しにかかったんじゃないの?」と発言する投手もいました。

事態に油を注いだのはロッテ側の対応の不味さでした。のたうち回るマニエルを前にしてベンチから
「死球ぐらい…」と言ったり、翌日 グラウンドでロッテ・山内監督が近鉄・西本監督に言葉を掛けたが
「中身は言えないが、かなり酷いことを言われた」と西本監督は激怒しました。入院中のマニエルに
花すら送らないと言われると八木沢本人でも球団フロント幹部でもない、全く無関係の高見沢選手を
見舞いに送り出しました。その後、両球団が報復合戦に至らなかったことが唯一の救いでした。
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#96 プロ野球 トレード騒動史

2010年01月08日 | 1979 年 
最近でこそトレードは活躍の場を求めてのチャンスと考えるようになりましたが、以前のトレードは
"放出"であり、チームに不要な選手であるとの烙印を押されたと思うことが多かったのでした。


 ◆大下弘 (東急→西鉄)
   戦後の本塁打ブームを作った「青バット」の大下の移籍は決着するまでに4ヶ月を要しました。当時は統一契約書が
   確立されておらず、またリーグ分裂騒動の余波で選手の引き抜きが横行しており混乱していました。昭和26年11月 
   東急は大下に契約更新を申し入れ交渉しましたが、途中でこじれて大下は退団を決意。東急も移籍先を近鉄・西鉄
   大映・毎日に絞り天秤に掛けて最終的に西鉄に決め大下の代理人がサインしました。しかし大下本人が西鉄入りを
   拒否、近鉄を希望しサイン。両球団とも一歩も引かず膠着状態が続いている状況を見て今度は毎日が「どちらに決定
   しても遺恨が残るだろうからウチが引き受ける」と登場してきてさらに混乱。だが毎日の球団社長は実はパ・リーグの
   会長を兼務していたので「公平・公正でない」として毎日入りも暗礁に。最後はコミッショナーが乗り出してきて翌年の
   ようやく4月になって西鉄入りが決まりました。

 ◆田宮謙次郎 (阪神→大毎)
   投手として入団しましたが肩を痛めて打者に転向後3年目には打撃ベスト10に入るなど阪神打線の主軸に成長しました。
   その後もベスト10 の常連で、特にルーキー長嶋との首位打者争いを制し初の首位打者となり長嶋の新人での三冠王を
   阻止しました。しかし球団内での田宮の評価は低く給料はチーム内で10番目以下 人気者の吉田義男の半額以下でした。
   首位打者のタイトルを獲得した年はちょうど「A級10年選手」の資格を得たこともあり田宮は強気に交渉しましたが、阪神は
   あっさり交渉打ち切り。給料アップも10年目のボーナス支給も拒否する阪神に見切りをつけ大毎に移籍しました。

 ◆江藤慎一 (中日→ロッテ)
   中日で"燃える男"と言えば星野仙一ですが、星野の先代は江藤でした。昭和39-40年と2年連続で首位打者となるなど
   押しも押されぬ中日の主軸でしたが、昭和44年 低迷するチームの建て直しに球団OBではなく初めて外部から招聘した
   水原監督の構想から江藤は外れました。「オレは中日の江藤なんだ、他のチームなんぞに行ってたまるか」と反発。江藤も
   球団も折れることはなく、遂に江藤は任意引退を選びました。時間が経ち冷静になった江藤はユニフォームを脱ぐことへの
   寂しさに苦しみ、単身 東京の水原宅を訪ね玄関口で土下座し「すみませんでした。ボクを中日に残して下さい」と懇願します。
   しかし水原は「球団の方針で決まった話だからオレには何とも出来ないよ」と冷たく言い放ちました。それまでにも過去何度も
   江藤は歴代監督と衝突してきましたが切られるのは、いつも監督の方でした。しかし今回ばかりは相手が大物過ぎました。
   春のキャンプが始まっても江藤は自宅に籠もったまま、そんな江藤が気持ちを切り替えてトレードを受け入れたのが6月に
   入ってからでした。この移籍によって翌年 江藤は初の両リーグでの首位打者を成し遂げることになります。
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#93 名投手列伝 ④ 板東英二 編

2009年12月25日 | 1979 年 





現在ではプロ野球選手OBというよりテレビタレントとして有名ですが、あの江川や松坂でも
破れなかった甲子園大会の奪三振記録保持者・板東英二投手です。名門 徳島商のエース
として夏の大会準優勝をひっさげプロ入りしました。直球は速い、度胸も申し分ない。ただ
170cmに満たない身長を不安視する声も多くありました。中日に入団後、首脳陣は投手に
見切りをつけ捕手転向を告げましたが板東は涙ながらに拒否したこともありました。

それでも1年目 4勝、2年目 10勝、3年目 12勝をあげましたが球団が期待する「エース」に
値する投手にはなれませんでした。現在なら充分な成績ですが当時はエースなら20勝以上が
当たり前の時代でした。入団4年目に肩を痛めた板東は、球団からトレードに出すと通告され
ましたが引き取り手が無く、球団は仕方なく規定限度いっぱいの25%減の年俸で契約しました。
当然キャンプから2軍で燻ってましたが近藤貞雄コーチが抑えで使うことを進言し、当時としては
珍しい「火消し役」として板東は蘇えりました。

通算77勝のうち14勝目はあわや完全試合という勝ち星でした。プロ2年目の昭和35年8月2日
中日球場の対巨人戦、板東は初の2桁勝利を目指して登板しました。巨人の先発は藤田元司
中日は初回に2点を先行した後は藤田に抑えられ、投手戦となりました。7回表も3人で退けると
球場もザワついてきます。7回裏 本塁打で1点追加し 3 - 0、8回表は三・四・五番を難なく退け
あとは9回表を残すのみ。下位打線相手に気が緩んだのか代打のエンディ・宮本に三塁打を許し
ノーヒット・ノーランまでも消え、続く国松の二ゴロで1失点し完封も逃しました。
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#91 江川のプロ初登板

2009年12月17日 | 1979 年 




江川の1軍デビューは阪神戦でラインバックに逆転3ランを打たれて黒星だったことは知られているので、今回はプロの打者と初めて対戦した 「イースタンリーグ6球団拡大記念トーナメント大会」 の模様をとりあげる。


6月の1軍デビューより遡ること2ヶ月、春季キャンプも不参加で 心・技・体のいずれもアマチュアの
ままの状態にも拘らず半ば強制的にプロのマウンドへ送り出されました。試合の3日前「どうも球が
行かない、左腰も重いし肩の芯も出来上がってない…」と江川は現状をコーチに告げました。普通の
選手なら登板は回避されるでしょうが当時の江川の立場はそれが許される状況にありませんでした。

トーナメントの第2試合、対ロッテ戦は全民放各局が夕方のニュースで生中継しました。後楽園球場
には2軍戦では異例の3万2千人がつめかけ試合開始。ロッテの先頭打者・剣持は敵意ムキ出しで
打席に入り中前安打、2アウト後 四番落合が中堅越2塁打。五番新谷も左越2塁打で、いきなりの
2失点。続く2回は三者凡退でかたずけるも3回は一死後から4連打で3失点。結局 投球回数 3回・
投球数 65・打者 17人・被安打 8・奪三振 1・失点 5・自責点 4 がプロ初登板の結果でした。

江川は明らかに調整不足で全力投球からは程遠く、六~七分程度の力で投げているのが素人の目
でも分かりました。恐らく この時点で既に6月の阪神戦デビューが決まっていて、それに向けての
調整段階だったのでしょう。江川にとっては単なる顔見せ登板だったでしょうが相手のロッテは真剣
勝負でした。「国民的悪役」 を倒した高揚感からかロッテの各打者は、興奮気味に「高目は確かに
速いけど あれ位の投手は2軍にもいる(矢野)」「フォームが大人しいから怖さがない。カーブにキレは
無いしベルトから下の球は速くないよ(剣持)」「別に速くなかった(新谷)」など饒舌に語っていました。
しかし2安打した落合は「いい投手だよ」と一言だけ。やはり一流は一流を知るとでも言うのか何かを
感じ取ったのでしょう。






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#89 大学時代の岡田彰布と原辰徳

2009年12月09日 | 1979 年 





後年 阪神と巨人の監督として凌ぎを削った両雄は大学時代からライバル同士でした。2人は
競い合うように、そして互いの存在を意識しあって大学時代を過ごしました。大学の通算成績は

  岡田 打率 .379 81打点 20本塁打
                             と遜色なく、両者 好成績を残しプロへ進みます。
  原  打率 .398 105打点 21本塁打






岡田彰布は大阪で生まれ育ち子供の頃から甲子園球場に通うなど熱烈な阪神ファンでした。
父は大阪・玉造町で紙工業を営み、従業員で野球チームを結成して、大阪軟式野球協会の
天王寺支部に所属していました。岡田少年は小学校4年生の時、大人に混じりエースとして
投げてましたが10歳の少年に公式大会出場の資格は有りませんでした。その後 中学1年生で
関西選抜軍に選ばれ海外遠征に参加するなど将来を嘱望されていました。北陽高校に進学を
決めた3月、春の選抜大会に出場した北陽高を中学3年の岡田は甲子園のスタンドで応援して
いました。結果は北陽打線は17三振を喫っする完敗、その時の相手が作新学院の江川でした。
この時 岡田少年の目標 「甲子園出場」「早稲田大進学」「阪神入団」 に新たに「打倒・江川」が
加わりました。

原辰徳は甲子園のアイドル球児から卒業し、首都大学リーグの連続試合安打記録を塗り替え
長打力もついて2年秋には三冠王を達成するなど着実に成長していました。岡田が打倒・江川を
掲げていたのと同様、原はハワイ大のタツノ投手をライバル視していました。タツノとの出会いは
原がまだ高校生の時で、ハワイに遠征した時に対戦して全く歯が立ちませんでした。大学進学後
日米大学選手権大会で再び対戦するも完敗。「プロに行きます。希望は在京球団です」と進路を
ハッキリと口にする原ですが、プロ入りの前に「早くタツノ投手の球を打てる打者になりたい」との
新たな目標を掲げて練習に励み、3年時の日米大学選手権でタツノから本塁打を放ちました。

2人ともドラフトでは複数球団が入札し抽選となりましたが共に希望球団が引き当て入団しました。
プロ入り後は共に新人王を受賞し中心打者へとなっていきましたが 晩年 岡田はオリックスに放出
原は専門外の外野を守らされるなど共に冷遇を受けました。引退後は自軍の監督に就任するなど
ここ迄の2人の野球人生は似ていますが、この先どうなるか注目です。









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#86 1979年 期待の若手

2009年11月28日 | 1979 年 
金石(広島)





香川(近鉄)・豊田(中日)・鹿取(巨人)・伊藤(巨人)

登記(近鉄)・高柳(中日)
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#85 小林⇔江川 強い要望トレード ③

2009年11月24日 | 1979 年 
  

"巨人・小林" と "阪神・江川" の交換トレードが成立し巨人・長谷川代表、阪神・小津社長が揃って
巨人球団事務所で会見しました。既に日付けも変わった深夜にも拘らず会見場は異様な熱気に満ちて
いました。


記 者 … トレードの話は無かったのに急に態度を変えたのは何故か?
小 津 … 登録手続きを済ませた後、長谷川代表から会いたいという連絡を受けてきた
記 者 … その時初めて小林投手の名前が出たのか?
長谷川 … はい
記 者 … エースを江川君の犠牲にするのか?
長谷川 … 小林君は巨人の3エースの1人。もちろん大きな犠牲だが阪神との40年来の友情を考え、納得してもらった
記 者 … トレードの話は夜、ここに来てから話し合われたと言うが、阪神と江川投手が契約する前に小林投手は羽田空港から
        連れ出されてホテルで説得を受けている。前後関係がおかしくないか?
長谷川 … 小津社長が急に上京して鈴木会長に会うというニュースを聞いて、1月31日がコミッショナーの要望の期限日でもあり
        情勢の変化を直感し、交渉が始まれば小林君に白羽の矢が当たるのではないかと考えた
記 者 … 代表はいつからそんな "超能力" を身に付けたのか?
長谷川 … お答えできません(苦笑)
記 者 … 阪神はこれまでずっと "筋を通す" "ルールは守る" と言ってきたが?
小 津 … 人間は顔・形が違うように色々の解釈が出来るという事だ


2人の会見終了後、同じ巨人球団事務所で小林投手が会見に臨みました。

阪神へ行きます。僕は巨人が好き、阪神も好き、そして野球が大好きだ。嫌だが阪神へ行くのではない、阪神に強く要望されて
行くのだから、キッパリと割り切ってチカラいっぱいやるつもりだ。皆さん、僕がかわいそうだとか同情してくれるかもしれませんが
僕は同情なんかされたくない。江川君の犠牲で阪神へ行くのではないのだから。阪神へ行ってからの僕の仕事ぶりを見てほしい。
江川君はこれからが大変だろうが、巨人軍の一員として頑張ってほしい。6年間 お世話になりました、ありがとうございました。


当時の巨人は王・張本・柳田選手など打線の中心は左打者でした。なので対戦する事を考えて左腕の
新浦投手ではなく右サイドスローの小林投手を交換相手に決めたそうです。この年は小林投手に全敗
したせいで小林を放出したのが間違いと思われがちですが2年目以降の対小林の結果だけを見れば
正しかったと言えます。ただし、多くのファンは失いましたが・・・






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#84 小林⇔江川 強い要望トレード ②

2009年11月20日 | 1979 年 
 前回のつづき   「阪神・江川」 誕生の1月31日 ドキュメント

1月30日 
   22:00  阪神の小津球団社長から鈴木セ・リーグ会長宅へ電話 「31日、江川との交渉をまとめる」
1月31日
    1:00  鈴木会長が金子事務局長宅へ連絡 「31日の横浜行きはキャンセル、事務局に早く出るよう」と指示
    4:30  江川が栃木県小山市の自宅を車で出て東京へ向かう
    9:30  小津球団社長・小林チーフスカウトが大阪から全日空機で東京へ
   11:30  宮崎キャンプへ向かう巨人の選手らが羽田空港に集まり始める。小林の到着が遅れて一時騒然となる
   11:50  小林が到着後しばらくして穂満球団職員が小林を連れ出し、車でホテルニューオータニへ向かう
   11:55  セ・リーグ事務局で小津球団社長・小林スカウトと鈴木会長の会談が始まる
   12:15  上京した江川は蓮実秘書と合流し船田代議士事務所へ 
   12:35  小林がホテルニューオータニに到着、5710号室に入る
   13:15  セ・リーグ事務局で中座した金子事務局長が「午後2時から小津-江川会談」と発表するも後に延期と訂正
   14:40  小津-鈴木会談が終了 小津は江川と会う為に東京グランドホテルへ向かう
         「阪神はコミッショナーの "強い要望" 通りにするそうだ」と鈴木会長が明かす
   15:20  東京グランドホテル3階 「菊の間」 で江川と阪神の交渉が始まる
   16:10  小津球団社長と江川が並んで記者会見 「色々ご迷惑、ご心配をおかけしましたが、本日 江川君の阪神入団の
          契約が終わりました」 その後の記者との質疑応答で紛糾します
          トレードの話は出て無いとの発言に「小林投手は空港から連れ出されて説得されている、変ではないか?」の
          問いに小津・江川ともに「知りません」 「分かりません」 「阪神の選手なら、いつ安芸へ行くのか」の問いには
          「まだそこまで相談していません」と江川 記者らの「おかしいじゃないか」「ちゃんと答えろ」の怒号が飛び交う中
          小津球団社長が「もうこのへんで…」と会見を強引に打ち切り、江川に「早く帰れ」と指示を出す
   16:40  小津球団社長が江川の入団契約書をセ・リーグ事務局へ提出、鈴木会長が受理し 「阪神・江川」 が正式に誕生
          書類上の江川の背番号は「3」だった
   17:25  巨人・長谷川代表がホテルニューオータニを出て大手町の読売新聞本社へ
   18:30  小津球団社長が読売新聞本社7階にある社主室で正力オーナーと会談
   20:20  小林がホテルニューオータニを出て読売新聞本社へ 小林・正力オーナー・長谷川代表・佐伯常務・小津社長ら
          関係者一同が初めて顔を揃える
   23:25  小林が社主室から退室し別部屋で待機
2月1日
    0:18  会談が終了し、長谷川代表、小津球団社長が並んで記者会見
      …つづく
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#83 小林⇔江川 強い要望トレード ①

2009年11月16日 | 1979 年 
遂に江川問題が解決に動き始めました。昭和54年1月31日 翌日のキャンプインに向けて
各球団はそれぞれキャンプ地入りします。巨人の選手も次々と羽田空港にやって来ました。
集合時刻は正午でしたが30分前には殆んどの選手が顔を揃えました。しかし江川の交換
要員の本命と見られていた小林投手は姿を現しません。選手の間でも 「小林が来ないぞ」
「昨日の練習には来てたし、心配ないさ」と少し場がざわつき始めた頃、小林が現れました。
ワッと報道陣に囲まれると「どうした?」と笑顔で切り返しその場の緊張感は無くなりました。
しかし次の瞬間、巨人軍球団総務・穂満氏が現れ小林の腕を取り連れ去りました。その時の
様子を小林本人がインタビューで答えています。


聞き手 羽田空港ではどんな状況だったのですか?
小林  集合時間の10分ぐらい前かな、空港に着いたのは。記者の人たちと雑談しながら出発を待っていたら
     球団の人が「こっちへ来い」と手招きするから、「あぁ、出発か」と近づくと腕を取られて出発ロビーから
     どんどん離れて行った。その時になって初めて「アッ、そうか」と気がついたんです。 車に乗ってから
     「昨夜、大阪と東京で話し合いがあって…」 と言われホテルニューオータニへ向かいました。部屋には
     正力オーナー・佐伯常務・長谷川代表がいて「阪神へ行って欲しい」 ただそれだけですよ。


小林が連れ去られた空港ロビーは騒然となりました。公衆電話に飛びつく記者、見送りの知人と
談笑していた選手らも一様に厳しい表情に。「恐ろしい事になった(堀内)」 「あまりにもやり方が
酷いじゃないか(柳田)」と重苦しい雰囲気のまま宮崎に飛び立ちました。宿舎のホテルの廊下に
「19 小林繁」のネーム入りのバッグが2つポツンと置かれていました。 …つづく



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