Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 404 ストーブリーグ座談会

2015年12月09日 | 1983 年 



ドラフト会議が終わるとプロ野球界の関心はトレードにまつわる話題に移る。今オフはスタート早々に大物・江夏を巡る各球団による丁々発止の駆け引きが始まり、それが刺激になったのかスポーツ紙を中心に大物交換のアドバルーンが次々に上がっている。そこで取材の最前線で日夜駆け回っている各スポーツ紙記者に集まってもらい現在の状況を聞いた。


:東京中日スポーツ / :日刊スポーツ / :サンケイスポーツ / :スポーツニッポン

…先ずは江夏の話から
…一時はもうヤクルトで決まりと言われていたけど御破算に
…いつもは威勢のいい大沢親分も「頭が痛いよ」とこぼしていた。八方塞がりだけど自由契約にする訳にもいかないって
…広岡監督が「巨人と出来レースじゃないのか」と意味深な発言をしてるよね
…ただ広岡さんは江夏の事は批判していない
…そう。あれだけの功労者は球界全体で救済してやらないといかんですよ、と言い続けている
…ヤクルトの関係者が「年俸が高すぎる」と言ったのを聞いて「それは彼に対して失礼な話。年俸に見合った働きをしている」と庇った
…敬意を示しつつ、実は自由契約になるのを待っているんじゃないかな?広岡さんは策士だし(笑)
…日ハムにしたらそうはいかない。江夏が西武入りしたら来季のペナントレースは始まる前から優勝は西武と決まってしまう
…広岡さんの意味深発言の巨人はどうなの?
…長谷川代表は「獲らない」と言い続けているけど本心はどうかな?
…" 王巨人 " の1年目だし打倒西武の為には江夏は欲しいでしょ。角の肘の状態も良くないしね
…でも球団関係者がソッと耳打ちしてくれた。「あの年俸がネック。江川や西本との釣り合いもあるし難しい」って
…そこでフロント陣はウルトラCの作戦を考えている。出来高のボーナス制を使う可能性もあるらしい
…特別待遇を嫌う王さんが納得するかなぁ?それに江夏本人が「ワシは巨人には馴染めん」と乗り気じゃない
…ただ現状は江夏に選択権はない。そこが辛い所だ
…ここにきてロッテがダークホースに。稲尾新監督が「使いづらいなんて監督たる者が言うもんじゃない。選手を操縦してこそ監督だ」と
…更に大洋・関根監督も「未知数の新人2人を獲得する事を考えたら安いもんだ」と、こちらも獲得レースに参戦ムード
…どちらにしろ年内決着は無理だね。年が明けてからが本番かも


…江夏の件では静かな巨人だけど他では結構マメに動いているらしいね
…新浦や山本功あたりを駒に打診に忙しい。山本なんかは年俸はアップしたのに浮かぬ顔をしてる
…既に阪神と成立した太田幸⇔鈴木は序の口。本命は三宅(ロッテ)と藤田学(南海)
…交換要員は例によって新浦や山本に加えて福嶋も候補
…話題になっているのが河埜と定岡(南海)の交換。それで双方のチームに兄弟選手が誕生する
…お宅(中スポ)は巨人の方の『定岡を南海へ』と書いたらギャルからの問い合わせが殺到したらしいね
…ウチに若いギャルから問い合わせが来るなんて前代未聞(笑)。改めて定岡の人気を思い知らされたよ
…巨人フロントは否定してるけど河埜と水上(ロッテ)の交換が最優先らしい。水上が獲れるなら新浦プラス福嶋でもOKだと
…ロッテは水上を出さないよ。あるとすれば三宅⇔新浦かな
…一説によるとトレード要員として名前をわざとマスコミに漏らして奮起させるのが狙いという話がある
…球宴休みの最中に骨折した河埜なんかいい例だ。お灸をすえる意味でね
…毎年恒例の " 大山鳴動して・・ " パターンかな?
…いやいや、新浦と森口(南海)が成立寸前だったのは事実。最後になって南海側が「森口は出せない」と御破算になった
…静かだと逆に不気味だね。王さんに恥をかかす訳にいかないから球団としても補強ゼロは有り得ない
…世間の目が江夏に集まっている間が要注意だね


…山田(阪急)の去就も何かと騒がしいね
…シーズン中から上田監督との確執が報じられていたけど山田クラスになると簡単には出せない
…阪神の山本和とのトレード話が伝えられたけど信憑性は?
…ないない。話を聞きに行ったら上田監督はカンカンに怒ってた。「エースを出す馬鹿がどこにいるか」ってね
…その阪神だけど江夏の件で揺れる球界のドサクサに紛れて地味に補強している
…阪急から稲葉投手と八木内野手、南海から山内新投手。獲れるもんなら何でも、みたいな感じ
…昨年の野村投手で味をしめたんだよ。使えそうな投手は幾らいてもいい。なんせエースの小林投手が電撃引退してしまったから
…アッと驚く話はないの?
…広島の高橋慶を中日の新監督に就任した山内さんが狙っている
…高橋が山内さんにゾッコンだからね。昨秋のキャンプで臨時打撃コーチに招かれ高橋を指導し再生させて今や師弟関係と言っていい
…でも古葉さんは出さないよ。それより本塁打王になった大島(中日)の周辺がキナ臭い
…去年の契約更改で揉めた経緯もあって球団は「売り頃」と考えている。本塁打王の箔も付いたしね
…トレードは球団同士の繋がりがないとなかなか成立しない。それと監督同士の関係も無視できない
…南海が広島の中尾選手を獲得したがこの両球団は昔から繋がりがある。ブレイザーが南海から広島へコーチとして移籍した事も
…現役時代に毎日オリオンズで一緒にプレーした中日・山内監督と日ハム・植村監督の繋がりにも注目しないと
…穿った見方をすれば稲尾監督の江夏に関する発言も名球会繋がりで王監督への援護射撃とも取れる
…いずれにしても江夏の行き先によって各球団の今後の補強に影響が出るのは間違いない
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# 403 黒い交際疑惑

2015年12月02日 | 1983 年 



昭和44年の暮れから球界を襲った " 黒い霧事件 " で多くの選手らが追放処分され、他人事ながら「馬鹿な事をするもんや」と思っていた。年が明け新たなシーズンが始まっても火種は燻り続けていた。この年は初めての開幕投手を務めたが4月は肘の状態が思わしくなく調子が上がり始めたのは5月に入ってからだった。あれは6月中旬の事、いつも親しくしていた大阪の新聞記者が「球場前の喫茶店で待ってるからちょっと話を聞かせて欲しい」と言ってきた。日頃から冗談を言い合っている仲でもあり何の疑いもなく会った。「去年、Aさんから時計を貰ったやろ?」と聞かれ「ああ。それがどないした?」ファンから三振奪取記録(昭和44年)のお祝いに貰ったもので何らやましい事は無かったから素直に答えた。これが生涯忘れられない屈辱を味わうきっかけだった。翌日の新聞の見出しは『江夏に黒い交際。暴力団から時計を貰う』だった。記事を読み進むうちに怒りがこみ上げてきた。まるでワシが時計を貰って八百長をしたかのような内容だった。

Aさんと初めて会ったのは姫路でのオープン戦の最中だった。阪神の先輩選手に連れられて食事に行った店で紹介された。先輩らとは顔馴染みだったがワシはAさんの人となりは全く知らず単なるファンの一人だと思った。「三振記録おめでとう」と言うと自分の腕に巻いていた時計を外して「お祝いや、とっておいてくれ」と渡された。自分のファンに『おめでとう』と言われソッポを向くのも失礼かと思い受け取った。正直言ってファンから貰う花束や折り鶴を貰う感覚だった。そのAさんが野球賭博を資金源にしている暴力団員でその人から時計を貰った江夏は八百長をしている、と周りが騒ぎ始めた。「天地神明に誓って八百長などしていない」と叫んでみても誰も取り合ってくれない。そのうちに怒りが悲しみに変わっていく。Aさんを知っている選手は他にも大勢いるのに知らん顔。親しくしていた記者連中も手の平を返すように傍に寄って来ない。この時ワシは22歳。「人間は信用出来ない」という思いに包まれるようになった。

警察とリーグ関係者が調べた結果「江夏はシロ」という結論が出た。当たり前の事だ。何をどう調べたって八百長なんてやってないのだから。そもそもAさんは暴力団員ではない。3人兄弟の末っ子で長兄が暴力団関係者というだけなのだ。しかしワシの傷ついた心は回復しなかった。無実の人間をあたかも犯罪者かのように仕立て上げておいて「あ、違ったの?」で済まされては堪らない。しかも追い討ちをかけるように球団から「世間を騒がせたから10日間の謹慎」を言い渡され怒りは頂点に達した。 " 騒がせた " のは一体どっちや!ワシは最初からやましい事は何も無いと言い続けていたではないか。 " ない " ものを " ある " と言って騒いでいたのはどこのどいつだ。ワシを喫茶店に呼び出し記事にした記者はその後ワシの傍に来る事はなくなった。球場で遠くから見ている事はあっても決して目を合わせる事はなかった。卑怯な奴や、ワシが人間嫌いになったのはそれからである。

怒りはピッチングに乗り移った。こうなったら肩や肘が壊れようがどうでもいい、と怒りを球に込めて半ばヤケになって投げ続けた。謹慎空けの登板でプロ入り通算1千奪三振を達成。940 イニングでの達成は日本記録だった。甲子園での巨人戦で延長11回を1安打に抑え長嶋さんから3三振を奪って完封したり、村山さんが9回に走者を溜めてONを迎える場面に登板し打ち取ったり投げまくった。鬼になっていた。心が破裂しそうだったが悔しさと悲しみを打者にぶつけていた。中2日、1日で投げた事もあった。巨人戦では連投して連勝もした。今のように短いイニングのリリーフではなく先発して完投した翌日にピンチに登板しそのまま4~5回を投げきった。結果この年は 337 回 2/3 投げた。今年の最多登板は山内孝投手(南海)の 242回だった事と比較すれば如何に常軌を逸した登板だったかが分かる。

しかし本格的な夏が訪れる頃になると身体がとうとう悲鳴を上げる。マウンド上で急に血の気が引いてふらつき息苦しくなる。暫くジッとして深呼吸をすると治ったので深刻な病気だとは考えず投げ続けた。9月末の中日戦、2回に高木守道さんに内野安打を許しただけで0点に抑えていた。この頃の阪神はとにかく打てなかった。この日も両チーム無得点のまま延長戦へ突入した。3回以降は一人の走者も出さず延長13回、一死を取った所で目まいがしてマウンド上で蹲った。顔面蒼白となり冷や汗まみれの顔を見た村山監督は「無理だ、交代しろ」と命じたが「少し休めば大丈夫」と続投を志願し後続を抑えた。試合は延長14回へ。流石に限界だった。木俣さんに左翼席へ運ばれ負けた。10月になり 0.5ゲーム差で迎えた首位・巨人との " 甲子園決戦 " でワシは初戦に先発したがKO。中1日で再び先発した後で遂にドクターストップがかかった。医者曰く「いつ心臓が破裂してもおかしくない」と。今、振り返っても嫌な思いしかない年だった。
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# 402 私説・長嶋巨人軍 ⑤

2015年11月25日 | 1983 年 


巨人はドラフト会議をボイコットしただけでなくドラフト会議そのものを「無効」であるとして提訴し反撃が始まる。今回はボイコットから金子コミッショナーの所謂 " 強い要望 " が出るまでの1ヶ月を巨人及び讀賣グループの動きを内側から振り返る。



S53.11.21 … 巨人が江川と契約したと発表。鈴木セ・リーグ会長が選手登録申請を却下すると巨人は翌日のドラフト会議ボイコットを表明
    11.22 … ドラフト会議当日午前中にセ・リーグ連盟が江川との契約を却下した事に対し巨人が異議申立書を提出
         南海・ロッテ・近鉄・阪神の4球団が江川を1位指名入札し抽選の結果、阪神が交渉権を獲得
         会議終了後に巨人がドラフト会議無効の提訴状提出
   11.23 … 巨人はドラフト会議で指名されなかった鹿取投手(明大)らをドラフト外で獲得へ
         後楽園球場ではファン感謝デーが開催。入場者は4万7千人余り
   11.24 … セ・リーグのオーナー懇談会終了後に松園(ヤクルト)、中部(大洋)、松田(広島)オーナーが正力オーナーを訪ねる
   11.25 … 金子コミッショナー、鈴木セ・リーグ会長、工藤パ・リーグ会長が会談
   11.26 … 熱海で巨人軍納会
   11.28 … 江川の契約却下に反論する書類を提出。江川が栃木県小山市の自宅付近でトレーニング開始
   11.29 … 巨人がホテルニューオータニに報道関係者を招き1年間の慰労会を開く
   11.30 … 工藤パ・リーグ会長が大阪で南海、阪急、近鉄の首脳と会談
   12. 1 … 江川が日本テレビ「野球教室」のインタビュー収録。巨人がドラフト会議無効に関する書類を提出
   12. 2 … 金子コミッショナー、鈴木セ・リーグ会長、工藤パ・リーグ会長が会談
   12. 3 … 熱海後楽園で巨人OB会。日本テレビ「野球教室」にて江川のインタビュー放映
   12. 4 … パ・リーグ理事会開催。NHKの「NC9」に江川が生出演しインタビューを受ける
   12. 5 … 東京グランドホテルで開催されたセ・リーグオーナー会議に正力オーナーが出席しドラフト廃止論を提唱
         讀賣新聞紙上で星野運動部長の署名入りの「今日の断面」を掲載
   12. 6 … 5日付け「今日の断面」を関係各位3千箇所に郵送
   12. 7 … セ・リーグ理事会開催
   12. 9 … パ・リーグ理事会及びパリーグオーナー懇談会開催
   12.11 … 江川がフジテレビ「ニュースレポート6:30」のインタビュー収録
   12.12 … 金子コミッショナーが大阪で阪神・田中オーナーと会談
   12.13 … 長谷川代表をコミッショナー事務局に呼び出し事情聴取
   12.14 … 江川がフジテレビ「3時のあなた」に出演しインタビューを受ける。金子コミッショナーと工藤パ・リーグ会長が会談
   12.15 … セ・リーグ理事会開催
   12.21 … 金子コミッショナーが「江川との契約を認めなかったセ・リーグの決定は正しい」 「ドラフト会議は有効」と裁定を下す
   12.22 … コミッショナー事務局が緊急実行委員会を開催し金子コミッショナーが「強い要望」を表明




ドラフト会議ボイコットからコミッショナー裁定が下される1ヶ月間、巨人及び讀賣グループの動きを内部から見ていくと・・・11月20日を契機に江川盗りへの徹底抗戦の軌道を我武者羅に突っ走るしかなかった。讀賣新聞社内での会議は連日行われ巨人がとった行動を正当化する為に次々と異議申し立てや提訴を行なった。また新聞やテレビを使ってドラフト制度の非を鳴らし巨人の合法性を訴えた。11月22日、ドラフト会議を欠席した午前中に「江川との契約却下」に対する異議申立書を長谷川代表が提出、午後には「巨人の欠席により構成要件が欠けているドラフト会議の効力は発生せず会議そのものが無効である」として提訴した。

同じ頃、讀賣新聞社の編集・販売・広告・出版の各部門の責任者が集まり情勢分析が行われた。販売部数の落ち込みが当初の予想より少ない4~5万部に留まった事に力を得て系列の報知新聞と共にドラフト制度批判や巨人がとった行動の正当性を紙面上で展開した。讀賣新聞一面のコラム「編集手帳」にドラフト制度がもたらす悲劇を載せたり、極めつけが12月5日付け朝刊の「今日の断面」に星野敦志運動部長の署名入りで480行に及ぶ『江川問題これが本質だ』の大論文を掲載した。「巨人はあくまでも正当であり巨人や江川への批判・暴言は巨人を悪者にしようとする意図的なモノだ」とする擁護論を繰り広げた。

また読売出版局発行の「週刊読売・12月10日号」に " 正力オーナーに聞く " と 江川の手記 " ボクはあくまで巨人で戦いたい " を掲載した。更に活字媒体だけに留まらずテレビにも進出した。江川の実際の姿や話を一人でも多くの人に聞いてもらいマスコミによって作られた虚像を打ち消そうとした。先ずは同じ讀賣グループの日本テレビ「野球教室」に出演し世間の反応を見た後に、より公共性の高いNHKのニュース番組「NC9」にてインタビューに答えた。その後も主婦向けのフジテレビ「3時のあなた」や夕方の「ニュースレポート6:30」など様々な番組に出演した。

外部への対策を立てる一方で讀賣内での意思統一を図る必要もあった。巨人は納会や家族親睦会を開催した際には正力オーナーが直々に「巨人軍がとった行動は正しい」と強調し続け、OB会では長谷川代表が「どうか巨人軍を助けて欲しい」と訴えた。また讀賣新聞に掲載された「今日の断面」を讀賣関係者は勿論、巨人軍後援会である「無名会」の主要メンバーの野村証券・波川美能留会長をはじめとした財界大御所十二名、「フェニックス会」の東洋曹建工業・森嶋東三社長ら中堅クラス十九名、「ホームランクラブ」のパイオニア・松本誠也社長ら若手財界人など合わせて3千余人にも郵送した。

もっとも受け取った財界人の反応は様々で批判的な声も多く週刊誌の格好のエサとなったりもした。巨人軍の果てしなき抵抗は続けられ矢面に立つ長谷川代表のゲッソリと痩せこけた顔は今でもハッキリ憶えている。しかし12月21日に巨人と江川が交わした契約を無効とした鈴木セ・リーグ会長の判断は正しく、無効を訴えていたドラフト会議も有効であるとし巨人軍の主張を全面的に却下したコミッショナー裁定により巨人軍は撤退するしかなかった。が、翌日の所謂、「阪神は江川と契約した後に江川を巨人へトレードすべし」との金子コミッショナーによる「強い要望」によって巨人軍は一夜にして地獄から天国へ駆け上がる事となり1ヶ月に及ぶ激動の幕は降ろされた。





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# 401 私説・長嶋巨人軍 ④

2015年11月18日 | 1983 年 



第十五章 ~ 新人選手の選択 ~ 
第138条:球団が選択した選手と翌年の選択会議開催の前々日までに選手契約を締結し支配下選手の公示をする事が出来なかった場合、当該球団はその選手に対する選手契約締結交渉権を喪失すると共に以後の選択会議でその選手の同意なしに選択する事は出来ない



文字通りに解釈するとドラフトの前々日までは交渉権があるが前日なら交渉権を失った球団以外の他球団が交渉する事が可能となる、巨人側はそう判断した。江川側が交渉を一任していた自民党副総裁・船田中代議士はかつて法制局長官も務めており法曹界にも知人も多く各方面に確認した結果、その解釈は法律的に間違いないとのお墨付きを得ていた。だがその " 空白の一日 " はコミッショナー事務局に言わせればあくまでも事務的手続き、準備の為の一日であった。そういう点で野球協約には法的不備が数多く見られた。空白の一日について文言通り解釈するか、或いはコミッショナー事務局が主張する球界内部の取り決めである慣習を取るかによって解釈も大きく変わってくる。

江川を取り巻く環境は激変していた。前年に交渉権を得ていたクラウンライターが西武に買収され江川の交渉権も西武に移った。江川攻略に西武が動き出す。新任の宮内巌球団社長は10月17日に江川側に交渉を申し入れると20日に渡米し直接交渉に臨んだ。だが江川本人の意志は変わらず滞在するロスで会見を開き「西武さんにはお断りを入れました。巨人入りの気持ちは変わっていません」と公言した。慌ただしさが増して船田事務所は遂に伝家の宝刀を抜く決意をし、蓮実秘書を通じて長谷川代表に強行突破しかないと持ち掛けたのが10月末だった。船田事務所に長谷川代表と山本栄則顧問弁護士が出向き法律的な確認を終えると正力オーナーに「江川獲得にはこの方法しかない」と決断を迫った。

これを機にこの事案は巨人軍の手を離れて讀賣新聞編集局内の専門グループに委ねる事となった。渡辺恒雄政治部長(現専務取締役)が中心となり法的理論武装を確立していった。ちなみに野球協約の不備を指摘し空白の一日を見つけたのもこのグループだった。この時点まで巨人側は鈴木セ・リーグ会長は味方になってくれると考えていた。球界内部のルールを破り道義的な問題が発生する事は覚悟の上だった。仮にこれが事破れればリーグ脱退もやむなし、と腹を括り新リーグを結成した場合に参画してくれそうな球団をリストアップしていた。11月18日、長谷川代表と山本弁護士は紀尾井町のホテルニューオータニで鈴木会長と会い空白の一日を指摘し江川と契約したい旨を打診した。鈴木会長は「そんな暴挙は世間が許さない」と認めなかった。

11月20日午後5時過ぎ、江川がロスから緊急帰国する。殺到するマスコミの問いかけにも「分かりません」「お答えできません」を繰り返した。成田空港から船田事務所へ直行した後に南青山の蓮実秘書宅に身を寄せた。その頃、讀賣新聞社7階にある社長室で正力オーナーと長谷川代表が最終的な打ち合わせをしていた。日付が11月21日に変わった午前零時半、長谷川代表は社長室を出てホテルニューオータニへ。そこには蓮実・大嶋両秘書が待っていた。記者発表用の書類に目を通し不備がない事を確認すると大嶋秘書がアマチュア野球担当の幹事である産経新聞運動部の名取和美記者宅に電話を入れた。前夜から船田事務所を通じて「21日に江川選手に関する会見を行う。時間や場所は改めて」と連絡を受けて会社で待機していたが夜10時を過ぎても連絡がなかった為、帰宅していた。

既に風呂にも入ってくつろいでいた時に電話が鳴った。「21日午前9時半から船田事務所がある全共連ビル6階で江川選手の件で会見を行う」と告げられたが彼女にも会見の内容は伏せられた。それから名取記者は各マスコミの担当者に電話を入れた。「最後の社に連絡し終わったのは午前4時過ぎ。すっかり風邪を引いてしまった(名取記者)」と後日愚痴をこぼしていた。21日午前6時を過ぎるとホテルニューオータニから長谷川代表、山本弁護士、蓮実・大嶋秘書も駆けつけやがて江川父子も来た。午前7時に正力オーナー、8時に船田代議士が現れ全員が揃った所で長谷川代表が用意してきた統一契約書に江川がサイン。正力オーナーと江川が握手し大騒動劇の幕が切って落とされた。昭和53年11月21日午前8時50分だった。

午前9時33分、全共連ビル6階の会議室「オークルーム」に殺到した報道陣を前に正力オーナーが用意した声明文を読み上げた。「本日午前9時、読売巨人軍は江川卓君と契約いたしました。ご承知の通り江川君は昨年の・・・中略・・・従って江川君は今日11月21日現在、ドラフトにかけなければならない資格条件はないものと判断いたします。以上の観点に立ち野球協約に従い契約を終了した次第です」と一気に捲し立てた。騒然とする記者達を尻目に「江川君の巨人入団が決まりこの1年に渡り身を預かっていた私としては喜びにたえません。この上は1日も早く立派に成長して欲しいと願っています」と船田代議士が続いた。記者からの質問を遮り江川が立ち上がり「子供の頃からの夢が実現して大変嬉しく思います…」と型どおりのコメントをした。

「一体いつから巨人と話し合っていたのか?」「明らかな協約違反ではないか」など次々に記者から質問が飛ぶ。それに対し江川は「僕自身はこのような方法があるとは思っていませんでした。話は今日の朝に初めて聞かされました。しかし巨人軍に入りたいという思いは変わりなく、それが今日なら協約上可能であると聞かされ納得してサインしました」と淀みなく答えた。質問は長谷川代表にも飛ぶ。「球界の盟主を自任している巨人がこんなドラフト破りをしていいと思っているのか?」それに対し「協約に従った正しい契約だ。法律的に問題ないと確認している」と長谷川代表は撥ねつけた。会見場は混乱する一方だったが長谷川代表は「これにて会見を終了します。本日は朝から御苦労様でした」と会見を打ち切った。抗議する記者も幾人かはいたが多くの記者は電話にすっ飛んで行った。「江川、巨人と契約」のニュースは瞬く間に日本中を駆け巡った。
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# 400 私説・長嶋巨人軍 ③

2015年11月11日 | 1983 年 



長年の新聞記者生活で筆者は独自のアンテナ網を球界に張り巡らせていた。その網にかかったのが「阪神は江夏を出したがっている」と「野村が巨人入りを望んでいる」のビックな情報だった。もしこれらが本当なら球界地図が塗り替えられるような天変動が起きる・・


昭和50年の12月初旬の事だった。自宅の電話がけたたましく鳴った。昔の新聞記者仲間で大阪の球界事情通として一目置かれているK氏からだった。「阪神が江夏を放出しますよ。巨人で獲りませんか?」 にわかには信じられない情報だった。K氏を疑う訳ではないが一応は自分の情報網を駆使して確認した所、確かに阪神球団のトップレベルで交換トレードを画策していた。私は直ぐに佐伯常務に報告し「獲る価値は有りますよ」と進言したが佐伯常務は「阪神がウチに出すかね」と余り乗り気ではなかった。とにかく今はこちらから動かず状況を見守ろうという事に落ち着いた。

佐伯常務が今一つ乗り気でなかった理由がいわゆる「黒い霧事件」に江夏が関与しているのでは、という当時の世間の声だった。個人的には江夏の潔白を信じたかったが球団上層部を納得させるには確証が必要だった。そこで讀賣新聞を通じて関西地方の組織暴力団について事細かに把握している大阪府警、兵庫県警に情報を求めた。しかし年末で忙しかったのも手伝い回答はなかなか得られなかった。そうこうしていると12月24日付のスポーツ紙が『江夏(阪神) ⇔ 江本(南海)の交換トレード成立』と報じて愕然としたが直ぐに阪神の長田球団代表が「数球団から打診があるのは事実だが江夏は来季の構想に入っている」と否定した事でまだ脈アリと判断し情報収集を続行した。

間もなくK氏から「長田代表の話は嘘。26日に契約更改予定と言っていたが本人には連絡していない」と情報が入った。その時点で未だ警察からの返事は無かったが私の独断で江夏に接触する事を決めて電話をかけた。「一度お会いして話をしたいのですが」「暮れに東京へ行きますからその時に」「では29日に是非」など会いたい理由は告げなかったがお互い阿吽の呼吸だった。29日夜、場所はホテルニューオータニ


     「巨人に来る気はないですか?」

     「やはりその話でしたか。私も早くスッキリしたいと思っています」

     「是非とも来て頂きたい。長嶋監督も賛同しています」

     「巨人軍が本気で私を欲しいと思っているなら異存はありません」
 
     「あなたの気持ちは分かりました。上層部と相談して話を進めます」


江夏は阪神球団や吉田監督の事を批判する事なく終始折り目正しい口調で応対し、巷間伝えられているような人間でない事を確信した。年が明け昭和51年の仕事始めとなった日に大阪府警、翌日には兵庫県警から相次いで回答があった。共に「江夏の身辺は全くのシロ」だった。その結果を持って讀賣新聞本社9階のオーナー室で正力オーナー、長谷川球団代表、佐伯常務と私の4人で会議が開かれた。江夏獲得で意見は一致したが肝心の交換要員の目途が立たず阪神球団にトレードの申し込みすら出来ずに時間ばかりが過ぎて行った。やがて1月19日のスポーツ紙に南海と「3対5」の交換トレードが成立と報じられるに至り、残された時間は少ないと判断した上層部がようやくトレード申し込みに動いた。

1月22日、私はオーナー室から阪神球団へ電話をかけ、長田代表が電話に出ると長谷川代表に代わった。「巨人軍の長谷川です。お宅の江夏君をトレードして頂きたいのですが…」私は固唾を飲んで次の言葉を待った。「そうですか。それは残念ですが縁が無かったという事でしょうな。失礼しました」と言うと電話を切った。「きょう決めたそうだ。やはり南海だ。遅かったな」と一息入れて答えた。トレードは確かに難しい。だがタイミングさえ良ければ成立もする。そんな教訓を得た江夏のトレード話だった。幻に終わったトレード話は幾つかある。野村監督の場合もその一つだ。

昭和50年8月の阪神戦で大阪に遠征した際に当時の毎日放送アナウンサーM氏が宿舎を訪れ「その辺で一杯やりながら…」と誘われ近くのバーでグラスを傾けた。他愛もない雑談の後「巨人でノムさんを獲らんかな」とポツリ。「ノムさんて、あの野村監督?」と聞き返すと「そう。色々と球団と揉めていて本人から相談されたんだ」と一連の愛人騒動で南海を出たいと言っているらしかった。当時の巨人は32勝48敗4分で最下位に低迷していたが投手陣の不調に加えて捕手陣のリードにも低迷の原因があると批判されていた。そんな状況下で野村捕手の卓越した頭脳とリードは魅力的だった。ただ懸念は長嶋監督の存在。道程は違っても共に大スターの道を歩んできた者同士、ぶつかり合う可能性もあった。野村監督は「気にしない」と言ったが長嶋監督は「どうかなぁ…」その一言でこの話は消えた。野村監督の南海残留が発表されたのは数日後だった。
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# 399 私説・長嶋巨人軍 ②

2015年11月04日 | 1983 年 



最下位の屈辱を晴らすべく長嶋巨人のトレード攻勢は続いた。加藤という大魚を首尾よく釣り上げる事には成功したが持ち駒は少なくそうそう旨い話は転がっていない。にべもなく断られるケースが殆どだった。筆者はアテもなく大阪へと出発する・・


昭和50年10月22日、私は一通のリストを懐に忍ばせ球団事務所を後にし新幹線に飛び乗った。行き先は新大阪。マスコミの目を避けての移動だったが車中で顔見知りの記者(共同通信社)と鉢合わせした。「おや、張江さんどちらに?」 まさかトレードの交渉に行くとは言えずドキリとしたが平静を装い「以前から故郷のお袋の具合が悪くてね。日本シリーズ開始までは暇なのでちょっと見舞いに」と誤魔化すと記者は「それは大変ですね。故郷は金沢でしたよね、お大事に」と挨拶し別れ座席に腰を下ろしホッとした。しかしよく考えればその列車は「ひかり」で金沢方面へ乗り換える米原駅には停車しない。まずいかなとも思ったが記者は国体が開かれている三重県に向かうと言っていたし米原駅より手前で下車するから大丈夫だとタカをくくっていた。しかし敵もさる者、米原駅に停車しない事は先刻承知で名古屋駅で下車すると直ぐに大阪の支社へ連絡したという。

最初の交渉相手は近鉄だった。しかし私が手にしていた相手のリストには魅力を感じる選手の名前は無かった。事前に交渉に伺うと連絡をしていたのは近鉄の他に南海と阪急。失礼のないように近鉄側に断りの挨拶を済ませ次に向かったのが大阪・ロイヤルホテル。そこには野村監督(南海)が待っていた。南海で白羽の矢を立てたのは柏原選手。以前に野村監督と何度か会った際に「アイツは内野ならどこでもこなすし外野も出来る。打撃もどんどん良くなる筈や」と聞かされていた、いわば秘蔵っ子。なのに「出してもいい」と予想外の答え。今思い返せば当時の野村監督は愛人騒動で球団と揉めていて半ばヤケになっていたのかもしれない。

「張江さんの気持ちは分かった。その情熱に敬意を払う。ただ私としては長嶋監督の気持ちが知りたい。本当に柏原を欲しいのか、どのように育ててくれるのかを聞きたい。会えずとも電話で構わない」と最後に注文をつけた。私は「分かりました。必ず長嶋監督から電話なり連絡させます」と答え別れた。翌日の夕方、今度は阪急の梶本投手コーチ宅を訪問した。日本シリーズを2日後に控え忙しかった筈だが快く迎え入れてくれた。梶本夫妻とは家族ぐるみの付き合いで新聞記者時代には海外旅行を共にした仲だ。だが商売の話となるとなかなか切り出せず、どうにか「実は阪急の選手が欲しい」と幾人かの選手の名前を挙げたが梶本コーチは「投手はともかく野手の事は分からない。日本シリーズが終わったら上田監督とも相談して回答したい」としながらも個人的意見として水谷投手を推薦してくれた。

梶本宅を後にし宝塚市内のホテルに戻り球団にこれまでの経緯を電話で報告した。その際に野村監督の伝言を長嶋監督に伝えるよう頼んだ。東京へ戻る前に西本監督に直接会って非礼を詫びる事にした。形通りの挨拶を済ませて帰ろうとすると西本監督の方からリストには載っていなかった選手を挙げて改めてトレードの話となった。神部投手、梨田捕手、有田捕手、羽田選手の名前が有り興味をそそられたが交換相手に高田選手を要求された為に近鉄とのトレード話は断念した。トレード話とは別に西本監督には長嶋監督の野球、采配など有意義なアドバイスを頂いた。本当に野球を愛し立教大学の後輩でもある長嶋監督へ寄せる期待には頭が下がる思いだった。このトレード行脚で成立したのは水谷投手(阪急)と島野投手(阪急)だけに終わったが返す返す残念だったのが野村監督への電話がいつも不在で繋がらず柏原の獲得が成らなかった事だ。
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# 398 私説・長嶋巨人軍 ① 

2015年10月28日 | 1983 年 



筆者は昭和50年、長嶋巨人誕生と同時に球団広報担当に就任した。空前の長嶋人気、最下位とV1、王の本塁打世界新記録、そして江川の空白の一日・・巨人史上かつてない程の激動の時期にフロントと現場のパイプ役として様々な場面の目撃者となってきた。その筆者の貴重な証言の記録であり、それはそのまま長嶋巨人の裏歴史となる筈である。


長嶋巨人がスタートした昭和50年は屈辱の日々が続いた。シーズン半ばで最下位が事実上決まったと言って構わない程の負けっぷりだった。8月初旬の大阪遠征中の事、私は芦屋にある竹園旅館の長嶋監督の部屋を訪れた。そこでは遠征に同行していた佐伯球団常務も交えて来季の補強について話し合い「とにかく投手陣の立て直しが必須(長嶋監督)」との結論に至った。この年の巨人は1試合平均2.8人の投手を起用していた。完投したのは26試合(23勝3敗)だけで長嶋監督の投手起用に批判が集中していたが監督も好きで投手を交代していた訳ではない。エースの堀内投手をはじめ信頼出来る投手が皆無だったせいだ。そこで投手陣の軸となる投手が必要となった。

先ずターゲットを絞った。狙いは太平洋クラブの東尾・加藤投手のどちらか、と考えた。9月9日の阪神戦は6回表までリードしていたが先発の高橋一投手が池田選手に逆転満塁本塁打を浴びてKO。私は高橋投手のコメントを記者席まで伝えに行った。負けに慣れてしまっていたとは言え、俯きながらトボトボと薄暗い通路を歩いていた時だった。「今日も厳しいな」と声を掛けられた。声の主は太平洋クラブの青木一三球団代表だった。私は周りの記者達に気取られないよう青木代表に目配せした。青木代表とは青木さんが阪神のスカウト時代からの知り合いでその後、毎日や太平洋に移った後も交友は続いていた。私の目配せに直ぐに「分かった」と素知らぬ顔で合図を送ってくれた青木さんはやはり只者ではない。

関係者入口を出てすぐ向かいの喫茶店に入った。試合中だけに周りに記者の姿はない。私は単刀直入に「お宅の東尾くんか加藤くんを頂けませんか?そりゃ二人揃ってなら万々歳ですが、せめて一人を譲って下さい。交換選手は出来るだけ要望に沿えるよう努力しますので」と頭を下げた。東尾と加藤は太平洋クラブの主力投手であり、自分でも厚かましさで顔が引きつるのが分かった。即座に「ノー」と断られてもおかしくない話だが青木さんは「ゆっくり考えてみましょう」と言ってくれた。試合後、宿舎に戻った私は長嶋・佐伯の両氏に報告した。ちなみにこの大阪遠征は3連敗、その後のヤクルト、広島戦にも負け続けて泥沼の11連敗を喫したが私には来季への微かな光明が見えた遠征だった。

自宅が大阪にあった青木さんは博多のグランドホテルを常宿にしていた。私は幾度となく連絡を入れていたがシーズン終了間近になって「東尾は無理だが加藤ならいい。見返りは投手、左右二人欲しい」と回答があった。早速にフロント陣に報告すると「2人も出して1人しか獲れないのか」と難色を示した。だが「先方がそう言うなら仕方ないでしょう。ウチから頭を下げて申し込んだのですから」と長嶋監督の一言で佐伯常務や長谷川球団代表も納得し交渉を続ける事となった。しかし太平洋クラブが望む左腕投手が新浦投手と判明すると今度は長嶋監督がウンと言わなかった。打たれても打たれても新浦を使い続けたのは「必ず化ける(長嶋監督)」と信じて起用し続けた投手だけに新浦だけは出せないと言った。

そうこうしているうちに10月15日の後楽園球場での広島戦に完封負けしカープが球団初のリーグ優勝を遂げ古葉監督の胴上げを見る屈辱を味わった。世間の目が日本シリーズに集中する間隙を縫って私は博多へ飛んだ。ホテルを訪ね「関本投手と玉井投手を出します。新浦は長嶋監督がどうしても勘弁して欲しいとの事でした」「ウチは投手2人を出すのでそちらも加藤ともう1人つけて欲しい」と畳みかけた。私なりの情報分析では若菜(現大洋)、真弓(現阪神)、山村(現南海)らが放出可能と見ていた。ところが青木さんは片岡(現阪急)を推して譲らない。押し問答は深夜まで続き「若菜なら考えていい」とまで譲ったものの「もう1人については中村オーナーの了承が必要。返事は暫く待ってほしい」と決着しなかった。

後日「オーナーの了承を得た。加藤と若菜でOK」と返事を貰い意気揚々と長嶋監督に報告すると「ワカナ?知らないなぁ」の一言で若菜は見送られ再交渉する事に。赤坂にあった中村オーナーのマンションを訪ねたのは11月10日の夜だったと記憶している。中村オーナーは若菜じゃないなら片岡か西沢の両捕手を候補に挙げたが私は真弓と山村の内野手を希望した。午後8時頃から始まった交渉は午前零時を過ぎても決着せず、業を煮やした私は電話を借りて自宅で待機していた佐伯常務に難航している旨を伝えた。「他に出せる選手は誰か聞いてみろ(佐伯常務)」「真弓や山村じゃなくても構わないのですか(私)」と確認して席に戻り中村オーナーに放出できる選手は他にいるかと尋ねた。

「伊原なら出せる」それが中村オーナーの答えだった。それを佐伯常務に報告し正力オーナーの了承を得てようやく交渉が決着した。11月27日のスポーツ紙の一面にこのトレードが載った。紙面を見た私は思わず笑みがもれた。当時の様子を加藤投手は「実家は静岡で周りは巨人ファンばかりでしたから自然と自分も巨人ファンだった。だからこのトレードは願ったりだった。ただ女房は福岡生まれでちょうど二番目の子を身ごもっていたから不安だったかもね」と述懐する。巨人に移籍した年の広島戦でノーヒット・ノーランを達成し、15勝をあげて長嶋巨人のV1に大いに貢献した。その後は血行障害など二度の大病を克服し不死鳥の如く蘇った加藤を見ると昔を思い出して感慨深い。
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# 397 ドラフト会議 

2015年10月21日 | 1983 年 



逆指名あり、断り状ありと本番前から色々と賑やかだった今年のドラフト会議。高野投手(東海大)に西武・阪急・大洋・ヤクルトの4球団、小野投手(創価高)に日ハム・近鉄・南海の3球団、川端投手(東芝)に広島・ロッテの2球団が1位指名入札して重複した。抽選に当たったヤクルト、外した横浜大洋、片や単独指名の中日や阪神の思惑に迫る。


中日ドラゴンズ…念願の藤王(享栄)を単独指名出来て意気上がる中日フロントを横目に現場サイドからは「はてさて」との声がチラホラ。「10年に一人の逸材。ワシがじっくり鍛えて王以上の打者にしてみせる」と新任の山内監督は言うが何処を守らせるのかが問題。藤王は過去に4つのポジションを経験している。中学時代の捕手はともかく高校に入学してからは一塁手を主に三塁、右翼も守っていた。要するに守備が安定せずポジションを固定出来ずにいたのである。中日指名が決まった後のインタビューで本人は「三塁を守りたい」と言ったがそれは多分に中日のチーム事情を彼なりに考えての発言であろう。と言うのも中日の一塁には谷沢がいる。36歳のベテランで選手として峠は越えているがまだまだルーキーに負けはしない。まして " ポスト谷沢 " に新鋭の川又選手がいる。今季、江川や槙原から本塁打を放った期待の若手である。いくら藤王でも彼らとポジションを争って勝てる可能性は低い。

そこへいくと三塁手は人材不足である。モッカは解雇、新外人も外野手が内定していてレギュラー不在である。そこで「掛布さんを育てた山内さんに打撃は勿論サードの守備も鍛えてもらいたい(藤王)」と早くも本人は三塁手になった気分でいる。久々に獲得したスター選手候補に「なるべくファンに近い位置がいいね」と鈴木球団代表は述べるに留め、球団として未だ一塁か三塁かは決めていない。ただ藤王の守備はお世辞にも上手いとは言えない。一塁を守り始めの頃、野手からの送球を顔面に受け片目に眼帯をして練習をしていたらもう片方の目にも送球を受けてしまったエピソードがあるくらいだ。そんな藤王が強烈な打球が飛んで来る三塁を守れるのか?「とにかく実際に見てから判断したい。最初は希望通り三塁で、ダメなら一塁。一塁には谷沢がいるけど他のポジションはどうかな?(山内監督)」 それにしてもこの悩みは他球団から見れば何とも贅沢な悩みだ。


横浜大洋ホエールズ…関根監督が抱くコンバート構想が銚子(法政大)の加入で大きく前進した。田代選手の一塁、レオン選手の外野へのコンバートが可能になった。そもそもレオンは外野手希望で今季終盤は左翼でプレーしており「うん、あの動きなら大丈夫。肩もウチでは No,1 だよ」と関根監督は外野手に合格点を与えていた。もう一人の田代に関しては遊撃・山下選手を含めた土井前監督時代からの懸案事項だった。名手・山下にも年齢による衰えは隠せず年々守備範囲は狭くなっていた。田代には山下の守備範囲をカバーする役目もあったが「田代は見かけによらずデリケートで打撃の不振が守備にも影響する(松原打撃コーチ)」と自分の事で精一杯。そこで一塁手のレオンを外野へ、田代を一塁へ移して空いた三塁に銚子を起用しようという案だ。

もっとも関根監督は就任したばかりの頃は「田代のコンバート?考えていない。田代は三塁しか守れない」と否定的だった。しかし今季になって山下の腰痛が酷くなり人工芝が多くなった昨今では選手生命を脅かしかねない。だが田代がここ1~2年、打率.250 台に低迷しているとはいえ新人の銚子に代役が務まるとは思えない。事実「いきなりは無理。六大学のベストナインとは言ってもプロは甘くない。でも素材は間違いなく良いし使い続ければ2~3年でモノになると思う」と湊スカウト部長も即戦力とは考えてはいない。来季は取り敢えず守備要員としての起用が多くなるだろう。関根監督は「かなりのセンスの持ち主と聞いている。先ずは適正を見てから」と来季すぐにコンバートに着手する気はないようだが視線の先には三塁・銚子、一塁・田代があるのは間違いない。


ヤクルトスワローズ…「また引いちゃった」と相馬球団代表がニコリと笑った。4球団が入札した高野投手(東海大)を見事引き当てた。昨年の荒木に続きほとんど神憑りである。ところがヤクルトには「1位指名投手は育たない」という有り難くないジンクスがある。酒井、原田、片岡、竹本などなどで一軍で活躍しているのは宮本投手ぐらい。原田は全く戦力にならず既に退団し片岡も今季限りで引退し来季は打撃投手に転身。竹本に至っては原(巨人)に見向きもせず指名したが未だ0勝、挙げ句に右親指が痺れる障害に見舞われ手術するべきか苦慮している有様。松岡や安田、井原や尾花など1位指名以外の投手は活躍しているのでスカウト達の眼力に問題は無い筈なのに1位指名だと何故か大成しない。

悪い評判というのはアッと言う間に世間に広まる。特にアマチュア球界は敏感だ。高野を送り出す事になる岩井監督(東海大)は「高野自身には何も心配はしていません。ただ武上監督の投手起用を見ていると潰されてしまうんじゃないかと不安です」と公言し、指名の挨拶に訪れたスカウトに向かって「ひとつ宜しく」と注文を付けた。 " なぜ " の正体が分かっていればこれほど続けて育成に失敗しない筈。「1位」ゆえ甘やかす指導、場当たり的な起用、海外キャンプでの外人コーチによる指導、チームのぬるま湯体質、など考えられるが決定打は見つかっていない。今季の荒木に関しても現場は二軍でじっくり鍛えたい意向だったが松園オーナーを始めフロント陣による人気優先の起用は荒木本人の為には決してならない。高野にはこのジンクスを是非とも破ってほしい。


阪神タイガース…「百点満点。文句の付けようがない大勝利」と阪神フロント陣が自画自賛する今年のドラフトだった。会議終了後の安藤監督は「作戦がまんまと当たった。何も言う事はない」とこれで弱投よサラバと言わんばかりの上機嫌だった。❶中西(リッカー)❷池田(日産自動車)❸仲田幸(興南)❹川原(大商大)と1位から4位まで全て投手を指名した。「中西と池田の両方がどうしても欲しかった。どちらを1位にするか他球団の動き次第では中西と池田の順番を逆にしようかギリギリまで悩んだ。ただ中西は2位まで残らないと判断し中西の1位指名を決めた」と安藤監督はドラフト前日のスカウト会議を振り返る。左腕不足解消に小野投手(創価)も上位候補だったが来季は勝負の3年目となる安藤監督としてはどうしても即戦力投手が必要だった。

「即戦力に一番近いと判断して中西に落ち着いたが競合する可能性もあったし池田が2位まで残っているかずっと不安だった」 スカウト達の不安をよそに中西は単独指名、池田も無事指名出来た。実は阪神が中西を1位で指名すると阪急のテーブルから落胆の声が漏れた。ひょっとしたら中西を2位あたりで狙っていたのかもしれない。仮に「1位・池田」、「2位・中西」でいったら両獲り出来なかった可能性が大だ。先ずはめでたし・めでたしのドラフト会議だったが小林投手の抜けた来季の投手陣はこれで盤石かと言うとそうではない。プロの世界で1球も投げた事のない投手に過大な期待は禁物だ。安藤監督に残された仕事は実績のある投手をトレードで獲得する事である。




        
         
     
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# 396 色々ありました ヤクルトスワローズ編

2015年10月14日 | 1983 年 
昨季は最下位に沈んだヤクルトだったが荒木の入団、井本らトレードによる戦力補強などで今季は大きな期待が寄せられ開幕したもののシーズンが終わって見ればまたしても最下位。来季こそ…飛躍の年に出来るだろうか?


絞首刑宣言…全ての面で昨季を下回ってしまった投手陣。武上監督に散々酷評されたが特に秀逸だったのが5月31日の大洋戦で井本、松岡、島原の3投手が揃って3失点づつの体たらくで敗戦。頭に血が昇った武上監督が「揃いも揃って情けない。3人まとめて絞首刑だ!」と。だがシーズンが終わっても3人の首は繋がったままでどうやら刑の執行は無い模様。外野席からは「刑が執行されるのは監督の方じゃないの?」との声がチラホラ。

二転三転した骨折騒動…低迷の後を低迷が追いかけてきたシーズンだったが一度だけ勝率を5割に戻す機会があった。6月25日からの大洋戦に勝てば借金が「1」となり連勝すれば5割だった。勢い込んだ武上監督は「ここが勝負」と尾花投手を中3日で先発起用した。ところが尾花は打球を右膝に受けて途中退場の憂き目に。病院で診察を受けた結果は骨折で本人も周りも真っ青に。念には念をで別の病院で再検査すると今度は単なる打撲と言われ一安心した。しかし痛みがなかなか引かなかったので慶応大学附属病院で精密検査を受けた。すると骨には異常はなかったが新たに半月板の損傷が判明し手術を受けた。エースの怪我はあっちへ、こっちへと揺れ動き結局は後味の悪い幕切れとなった。

石ころ事件…体力の限界を理由に今季限りで19年間の選手生活にピリオドを打った大杉選手。ひょうきんな人柄を物語るエピソードを置き土産に引退した。4月27日の広島戦の1打席目で今季第1号を放った後の2打席目に入ろうとした時、達川捕手がマウンドの津田投手に向かって「怖がらんでエエよ。石ころだと思って投げてこい」と檄を飛ばした。それを聞いた大杉は「何を小癪な」と怒りを込めてバットを一閃すると打球は左翼スタンドへ突き刺さった。ベースを一周してホームインするや達川の頭をポカリ。「スンマセン…津田を励ますつもりで…」と達川は頭をポリポリ。

トンネルを抜けると…試合後のファン攻勢、特にギャルによるそれは時として身の危険を感じる程に激しい。荒木投手が入団した今季は更に激しさを増すであろうと考えた球団側が思いついたのがトンネルだった。何と球場内出口からクラブハウス駐車場まで地下通路を掘ったのだ。相馬球団代表によれば「以前から計画していた」との事だが荒木の存在が実行させたのは想像に難くない。直ぐに「荒木トンネル」と命名されたが肝心の活用する回数がチームの低迷と比例するように減って、シーズン半ばには無用の長物となってしまった。負けが増えて荒木の出番も無くなると群がるファンも激減しトンネルを使わずとも楽に移動出来たのである。

隣り組の助け合い…同じマンションの上下同士なのが角選手と渡辺選手。チームが遠征の時などは角夫人の恵理さんと渡辺夫人の晃子さんはお互いの部屋を行ったり来たりしてお喋りをして過ごしている。4月30日の試合で角がイレギュラーした打球をまともに受けて右頭頂部陥没骨折の大怪我を負った。恵理夫人は入院先の慶応大学病院に付きっきりで看病しなければならなくなった。実家が遠い恵理夫人を助けたのが晃子夫人で二歳になる沙也香ちゃんを預り面倒を見たのだ。「あの時は本当に涙が出るほど嬉しかった」と恵理夫人。渡辺家の支援はそれだけに留まらずグラウンドでは渡辺が角の抜けた三塁の穴を埋めたのである。

助っ人の専属運転手…若松選手が横浜スタジアムへ球場入りする時は必ず寄り道をしていた。浮いた話?いえいえ、そうではなくマルカーノとブリッグスの両外人を車に同乗させる為に遠回りしていたのだ。「外人専用のお抱え運転手という訳よ。いやぁ気を使ったね」と若松運転手。無事故・無違反・無遅刻は運転技術の巧みさがなせる業。ところでこの貢献は年俸査定の対象となるか否かは定かではない。
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# 395 色々ありました 中日ドラゴンズ編

2015年10月07日 | 1983 年 
昨季のセ・リーグ制覇から最下位ヤクルトと0.5差のブービー賞だった今季の中日。近藤中日は1年で余りにも激しい変化を経験し近藤監督はクビに。そんな激動の年に相応しい珍しい記録が続出したシーズンだった。


史上初の無捕殺試合…例えば三ゴロで打者走者を一塁でアウトにした場合は三塁手に捕殺、一塁手に刺殺がつく。つまり無捕殺とは1人の野手でアウトを取る事。5月25日の阪神戦に先発した高橋投手は血行障害の手術を乗り越え2年ぶりの登板を被安打3、与四死球2で27個のアウトのうち内野飛球11、外野飛球12、奪三振4と無捕殺のオマケ付きでプロ入り初の完封で勝利した。試合が終盤に差し掛かると記者席では過去の記録を調べてこれまでの最少捕殺が「1」と分かると両軍ベンチに伝えられた。球界史上初の珍記録誕生にノーヒット・ノーラン試合ばりに両軍選手はガチガチに。阪神最後の打者となった岡田選手は安打を狙わず何とかゴロを打とうと必死になるがあえなく右飛に倒れて記録達成。一方の飛球を捕った田尾選手は「足が震えた」とホッとした表情だった。ちなみに今季の高橋投手の勝ち星はこれだけだった。

本塁打王…1年を通じて不振だった打線の中で大島が本塁打王に輝いた。トップの山本浩選手を1本差で追う129試合目の阪神戦で36号本塁打を放ち並んだ。翌々日の広島市民球場での広島戦は中日、広島ともに今季最終戦で案の定「四球合戦」となり両者揃って本塁打王が確定した。試合後に2人は顔を合わせると「よう追いついたな。大したもんやわ(山本)」「コージさんは追いつけそうでなかなか追いつけなかった。流石です」と健闘を讃え合った。

隠し球恐怖症…ダメダメシーズンを象徴するかのように三度も隠し球の罠に嵌った。最初は5月の阪神戦で宇野選手が岡田選手の餌食に。次は8月の広島戦で谷沢選手がアイルランド選手に。そして最後も広島戦でまたもやアイルランド選手にカモにされた。流石に三度となると選手だけでなく一・三塁コーチも批判の対象となった。高木・黒江・井出の3コーチは「何の弁解もない。自分を恥じるだけです」と平身低頭。最初と最後は地元のナゴヤ球場だっただけに大勢のファンの前で赤っ恥をかかされた。

魔の仙台…仙台に同行した伊藤球団代表代理は冗談半分で「二度と仙台には来ません」と言ったが無理もない。5月22日の大洋戦の8回表終了時点のスコアは4対1で3点リードしていた。抑えの牛島投手投入で勝利は確実と思った矢先、高木豊選手に逆転満塁本塁打を浴び敗戦。中日にとって仙台は鬼門である。昨年も同じ大洋戦で長崎選手に鈴木孝投手が逆転満塁サヨナラ本塁打を喰らっている。また一昨年には藤沢投手がまたまた大洋戦で高木由選手に満塁本塁打を打たれた。ここまで続くと伊藤代表代理の気持ちも理解出来る?

中尾は●、金山は○…開幕から中尾選手がマスクを被ると勝てない試合が続いた。開幕2連敗を喫し2試合目の終盤に中尾が右手中指に打球を受けて途中退場して3試合目から金山が先発マスクを被った途端に3連勝。中尾の怪我が治りスタメンに復帰すると3連敗…単なる偶然か否か。中尾の打撃不振もあって金山が先発マスクを被るとまたも2連勝。こうなると近藤監督もゲンを担いて4月27日の巨人戦に金山を起用したがそうは問屋が卸さず初めて黒星がついた。ここでようやく中尾が専従する事に落ち着き巨人戦に勝利し開幕12試合目にしてようやく中尾に笑顔が戻る。「長かった…勝てなくてノイローゼになりました(中尾)」 一方の金山は晴れてプロ入り初の「月間シルバー賞」を受賞して終始ニコニコ顔。

前代未聞…衆人環視の下、監督と選手があわや掴み合いの大喧嘩?6月29日のヤクルト戦、立て続けにエラーをした宇野選手に対して近藤監督の堪忍袋の緒が切れた。マウンドで「お前、何やってんだ!」これに宇野が「好きでエラーしてる訳じゃない」と反抗的な態度をすると近藤監督の怒りが頂点に達して掴みかかろうとした。慌てた谷沢選手らが割って入り事なきを得た。こんなチーム過去にあった??
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# 394 色々ありました 阪神タイガース編

2015年09月30日 | 1983 年 
3年ぶりにBクラスに落ちて熱狂的な虎ファンの期待を裏切った今季の阪神。しかし低迷するチームから真弓の首位打者、福間の最優秀防御率賞など明るいニュースもあった。


父親譲り…この頃めっきり白くなった髪の毛を撫でながら「苦労が多かった?いやいや白髪は父親譲りでね」とやんわり否定する安藤監督。昭和14年生まれだからまだ44歳にしては少々早過ぎる?やはり人気チームを預かる気苦労のせいなのか。遠方に住む知人がスポーツ紙に載った写真を見て「髪の毛だけ老人病にでも罹ったのか?」と心配の電話をして来たくらいこの1年でめっきり増えたのは間違いない。監督就任2年目、少しでも負けが混むと嫌がらせの電話やゴキブリの死骸入り手紙が自宅に届く。「ロマンスグレーなどと気楽な世界じゃない」とは御尤も。

悲劇?&愛された助っ人…7月を過ぎた頃、スローター選手は球団事務所に呼び出された。応対した岡崎球団代表は開口一番「君を解雇したい。今すぐに」とクビを告げた。スローターが理由を問うと「投手不足が酷く投手の助っ人が必要になった(岡崎代表)」との答えだった。1年契約の途中で解雇だったが給料は全額支払われた。「半年も働かずに1年分の給料を貰った俺はラッキー」と笑顔で帰国の途に就いた。もう一人の助っ人・アレン選手も今季限りで解雇となった。安打すれば「神様のお蔭」、アウトになれば「神様からの試練」と実に熱心なキリスト教徒だった。常にハッスルプレーをするアレンはファンからの支持も多かったがバース選手と途中加入のオルセン投手の2人で外人枠が埋まった事で出番が無くなった。「これも神様のおぼしめし…」と言ったかどうかは定かではない。

丈夫で長持ち…人間なんでも長生きが一番。大洋→ロッテ→日ハム→阪神と4球団を渡り歩いた野村投手が稀有な記録を達成した。全12球団から勝ち星を挙げたのだ。古賀投手(大洋)も野村に次いで同記録を達成したがやはり一番乗りに価値がある。昭和21年8月生まれの37歳のオジサンは今季何度も阪神を救った。「俺はマウンドに上がると歳を忘れるのさ」とサラリと言ってのけるがこの言葉を伊藤や福家に聞かせてやりたい?

怪我は怖い…「無事是名馬」を実践している野村投手。一方、怪我に泣いたのが「チーム一のタフガイ」と言われていた岡田選手だ。7月の広島戦でアイルランド選手が放った打球を捕球した際に右足太腿二頭筋部分断裂の大怪我を負ってしまった。それまでの岡田は17本塁打を放ち順調に本塁打数を伸ばしタイトル奪取も視野に入れていたが水泡に帰した。「今年の本塁打王(山本と大島の36本)は30本台だったでしょ。僕にも充分チャンスがあったのに残念」と悔やむが後の祭り。先ずは怪我を一日も早く治さないと。

小林2世誕生…まさに青天の霹靂。エース・小林投手が電撃的に引退を表明して退団した。突然の出来事にチーム内は大混乱となったが嘆いてばかりいられない。ポスト小林は小林の身近にいた。御子柴投手である。憧れの小林が投球練習を始めると目を皿の様にして凝視し自分の参考にした。結果、小林そっくりの投球フォームになった。「御子柴を見てると昔の自分を思い出しちゃって」と小林本人に言わしめる程。早速マスコミは " 小林2世 " と名付けた。まだまだ細かい制球は本家には及ばないが球威は負けていない。地の底から腕を出すような下手投げで打者の手元で変化する球に「なかなか打ちづらいよ」と掛布も驚く。二軍の勝ち頭で今季最終戦でヤクルト相手にプロ初勝利も得た。「ポスト小林と言うには早いが来季の希望の星だよ」と安藤監督の期待も大きい。
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# 393 色々ありました 横浜大洋ホエールズ編

2015年09月23日 | 1983 年 
シーズン前の「今季は若手中心でいく」の関根監督の構想は早々に崩れたがベテランと2人の新助っ人の活躍で4年ぶりのAクラス入りを果たした。悲願の長嶋氏の監督招聘は成らなかったが弱体と言われた投手陣から遠藤と斎藤明の2人がタイトルを獲得した。懸案の機動力も充実し来季への期待は大きい。


マジナイが効いた?…最多勝・沢村賞・ベストナイン・etc...プロ入り6年目にして初めて華々しい賞にとり囲まれたクジラ軍団のエース・遠藤投手。しかし開幕当初はドン底状態にもがいていた。初めての開幕投手を務めたが巨人打線の打ち込まれてあえなくKO。以降1ヶ月間まったく勝てなかった。加えて足の怪我もあって前半戦は6勝9敗と黒星が先行していた。ところが8月9日の巨人戦での敗戦を最後に負け知らずの12連勝で終わって見れば18勝9敗で最多勝のタイトルを獲得した。負けても負けても「今日の負けが最後」と自分にマジナイのように言い聞かせて気持ちが折れないように奮い立たせた効果か?

派手な事が苦手な男…「派手な事は苦手ですね」と謙虚に話すのは高木豊選手。言葉とは裏腹にやる事は派手だ。5月22日の中日戦で終盤に逆転満塁本塁打を放ったかと思えば6月5日の阪神戦では同点で迎えた9回裏二死満塁の場面で意表を突くセーフティバントを決めサヨナラ勝ちしヒーローに。一方ではヤクルト戦で助っ人のブリッグスと大立ち回りを演じた熱血漢でもある。そんな張り切り振りが関根監督の目に留まり遂に基選手から二塁の定位置を奪った。チームトップの打率.314 に加えて果敢な盗塁も増え今やチームに欠かせぬ核弾頭に成長した。その裏には敵チームのコーチすら呼び止めて助言を求める貪欲さが高木を支えている。

妻のお蔭で大爆発…どこぞのスーパーの宣伝文句ではないがまさに " 安くて良い品 " が売りなのが新助っ人のトレーシー選手。セ・リーグの外人の中で年俸は格安の2千3百万円ながら打率はトップ。守りでも強肩が光り、その活躍は首脳陣の予想を遥かに越えた。しかしキャンプでは今の活躍が想像出来ないほど精彩を欠いていた。理由は本人曰く「ワイフがいないから寂しい」との事。キャンプ中の休日に静岡市内に繰り出した際に日本人形を購入し「ワイフに会えない寂しさをこれを見て紛らわすよ」という程の愛妻家。デボラ夫人が来日してからは元気一杯でオープン戦では三冠王の大活躍。アップするであろう年俸はデボラ夫人の分も込みかも?

汚名返上…今季も巨人キラーは健在だった。8勝を挙げた平松投手だったが半分の4勝はお得意様の巨人からだった。右足内転筋痛で開幕から1ヶ月は二軍暮らし。5月に一軍復帰して19日の巨人戦で今季初勝利を完封で飾った。この勝利まで対巨人6連敗とチーム内に漂っていた巨人アレルギーが払拭されシーズンが終わって見ればセ・リーグで唯一巨人に勝ち越した。" 横浜銀行 " と揶揄された汚名を返上する事が出来たのも平松のお蔭と言える。平松は一時は今季中は難しいと思われた200勝も達成したがその相手も巨人だった。

冬があるから春も来る…それは4月29日の巨人戦だった。守護神・斎藤明投手はマウンド上で項垂れながらダイアモンドを飛び跳ねながら駆け抜ける男を虚ろな目で眺めていた。厳しい場面での登板が多いだけに打たれる事も無くはない。しかしこの時に打たれた相手は同じ抑え役の角投手だった。前半戦まではセ・リーグを代表する2人の守護神の対決はこの本塁打が示す通り角に軍配が上がっていた。しかし夏場に角が故障でリタイアすると斎藤の独壇場となり10勝8敗22Sで最多セーブ王のタイトルを獲得した。ただし心残りがある。「昨年にセーブ記録を作ったのに、あっさり江夏さんに抜かれちゃったから…」こんな言葉が出るのも球界を代表する抑え投手に成長した証である。
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# 392 色々ありました 広島東洋カープ編

2015年09月16日 | 1983 年 
スタートはドン尻。中盤過ぎから先頭に立ってラストスパート…とくれば三冠を賭けたミスターシービーの菊花賞。広島は途中まで同じようなレース展開だったが最後のラストスパートで失速してしまい巨人の後塵を拝した今季のペナントレースだった。


塩の使用料は6kg…ホームゲームの際、広島ベンチ前は盛り塩で真っ白だ。更にロッカールームやベンチ入口に至るまで塩が盛ってある。いわゆる " 清めの塩 " だが何時頃から始まったかは定かではない。1日最低100g は撒くので年間使用量は6kg を優に超える。実はこの塩は一般家庭用ではなく大相撲の土俵で使われている代物で仕入れ値は30kg入りで1730円也と意外と安い。しかし効果の程は余りなく今季は故障者が続出した。加藤は急性肝炎、津田は右肩痛、高橋慶と山崎はヒザ痛、山本浩は背筋を痛め連続試合出場の記録が途絶えた。衣笠は連続試合出場の記録こそ続いてはいるが左手親指の骨折で打率が急降下し悲願の3割を逃してしまった。これでは来季は何をすれば良いものか、と球団も頭を悩ませている。

押し出しの大安売り…開幕直後の投手陣は大乱調だった。制球難で四球のオンパレードで押し出しで易々と点を献上していた。先陣を切ったのが川口投手。開幕2戦目に先発し初回は三者凡退に退けたが2回表に早々に崩れた。掛布、岡田、藤田、真弓に連続四球。一死を取るも押し出しで失点すると早くも交代。しかし継投した白武投手も更に押し出し。4月24日の大洋戦では古沢投手が3四球で満塁にすると白武に交代。ここでも白武は2連続押し出し。開幕10試合で押し出しが5回、内訳は白武が「3」、川口と大野がそれぞれ「1」。ただ出番がいずれも満塁の場面だった白武は気の毒で新人には厳し過ぎた。

奇人・アイルランド…アイルランドのハッスルプレーはファンに大好評だった。アンダーシャツは着ずユニフォームだけなのは「試合になると燃えて熱くなるから」とは憎い。それが熱くなり過ぎて二度の退場処分を受けたのはご愛嬌。頭に血が昇り易く周囲が見えなくなるタイプかと言うとそうではない。実は三度も隠し球をやっている。ご承知の通り隠し球は相手の様子を冷静に見極めないと簡単に見破られてしまう。アイルランドの隠し球は少々違う。普通は球をグローブの中に隠すのだがアイルランドはユニフォームの袖の中に隠すのだ。ご丁寧にわざとグローブをヒラヒラさせて相手を油断させる。この奇想天外な隠し球に面白いように引っかかり、三度試みて全て成功し百発百中だった。

珍記録…ウエスタンリーグで高橋俊投手が面白い事をやった。21球連続ボール球なし、だ。先発して先頭打者をストレートの四球で歩かせると次打者から9人に対して1球もボール球を投げなかった。ただ22球目がボールになると次の球を本塁打された。阿南二軍監督は「調子に乗り過ぎ」とオカンムリだった。またしても3割の壁に泣いたのは衣笠。2千本安打以上打ちながら3割をクリアしていないのは柴田(巨人)と2人だけ。三村はとうとう150本塁打にリーチを掛けながら達成出来ずに引退する事となった。今季で足かけ3年に渡り挑んだがあと1本が打てなかった。
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# 391 色々ありました 読売ジャイアンツ編

2015年09月09日 | 1983 年 
日本一奪回は成らなかったが2年ぶりのリーグ制覇を果たした。松本のセ・リーグ新記録となる盗塁王や原の100打点突破など記録も生まれたが、その陰には様々な喜びや苦しみがあった。


熱投の原因は霊感少女?…頑張り屋の西本投手。とにかく今季はセ・リーグで只一人、1000人を超える打者と対戦した。また投球回数も 239回 1/3 イニングで1位だった。「丈夫なのが僕の取り柄。行けと言われれば何時でも投げるつもりでいる」とケロリ。そんな西本が唯ひたすら無心で投げ続けられる原因の一つに「ある女性」の存在がある。別にスキャンダラスな関係ではなく広島在住の小学4年生の少女である。知人の紹介で会ったのだが、この少女は西本が登板する試合の勝敗をピタリと当てるのだ。「怖いくらい当たるんだ。だからどんなに打ち込まれた試合でも彼女が勝つと予言した日は投げやりにならず丁寧に投球したんだ(西本)」と。いつの世も栄光の陰に女あり、である。

盗塁王は既製品愛好家…残念ながら打率3割には届かなかったがリーグ新記録の76盗塁は立派の一語に尽きる今季の松本選手。「来季は100盗塁を目指したい」と話す松本のユニフォームは上下が繋がっている特注品のツナギ型なのは有名な話だが、それ以外の用具には全く無頓着である。1㌘でも軽いスパイクを求めて改良を繰り返す福本(阪急)とは対照的に「サイズさえ合えば何でもいい(松本)」と。提携する用具メーカーの担当者も「何も要望がなく拍子抜けしちゃいます」と話す。既製品のスパイクで記録を塗り替えた韋駄天男が来季どこまで盗塁数を増やすか注目だ。

3年連続の3割達成も・・…名実ともに巨人の主力打者になった篠塚。「彼の打撃には細かい注文をつける事はもう無い」と王新監督に言わしめる程だ。しかしそんな篠塚にも弱点はある。「シノが1年を通じてフル出場出来るようになったら大変な選手になるんだが」と末次コーチが言うように体力不足克服が入団以来の懸念材料。そもそも銚子商の頃から打撃センスは折り紙つきだったが他球団が獲得に二の足を踏んだのも高校時代に患った肋膜炎の再発を懸念した為だ。徐々に体力は付いてきたが今季も115試合出場に留まるなど克服は出来ていない。契約更改でもその点をつかれ大幅アップとはいかなかった。常時出場が叶った時こそ大打者・篠塚の誕生である。

親子鷹でMVPだ…王新監督をして「こんな効率の良い成績の上げ方をする選手は珍しい」と唸らせた原選手。何の効率かと言うと昇給の事。年俸を嫌でも上げざるを得ないような成績の残し方だ。1年目より2年目、2年目より3年目と巨人の厳しい査定をもってしてもアップは確実だ。しかも今季は打点王のタイトルも獲得し大幅アップも夢ではない。原がプロで順調に成長している秘訣は父親・貢さんとの常日頃の対話にある。原がナイターで遅く帰って一人で食事を摂る時にも相手をしながら野球談議を欠かさない。交わした会話の中からヒントを幾つも貰ったと原自身が話している。「後楽園MVP」の賞金100万円の使い途を問われると間髪いれず「両親にプレゼントします」と即答したのも頷ける。

打率の次は全試合出場…「俺も捨てたもんじゃない」とニコニコ顔のオフを迎えた山倉選手。昨季の限りなく身長に近い打率から今季は打率.254 と6分も上げた。もともと素質が無かった訳ではないのだから当り前かもしれないが一念発起した理由が山倉らしい。一昨年オフの契約更改の席で「リードを先ず良くしろ」と言われて頑張ったけど今度は「打撃が物足りない」と言われて昨年の更改で大してアップしなかった。山倉は「それが悔しくて…じゃ打ってやろうじゃないか」と奮起したそうで意気揚々と今年の契約更改に臨んだら「出場試合が少ない(115試合)」と言われてそれなりのアップに涙を飲んでサインした。「面白いじゃないか、やってやるよ。来季は全試合出場して文句は言わせね~よ」と。意外と熱い男なのである。
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# 390 色々ありました ロッテオリオンズ編

2015年09月02日 | 1983 年 
球団史上初の最下位。しかも43勝76敗11分で勝率 .361 のダントツのビリ。明るい話題と言えば落合の3年連続首位打者くらいだ。


石の上にも3年ならず… " 石の上 " で3年頑張ってみたものの我慢は続かず愛甲投手は遂にそこから飛び降りてしまった。今季終了と同時に投手に見切りをつけて野手転向に踏み切った。愛甲にとって今季は投手生命を賭けた大事なシーズンだった。キャンプ中から左打者専用のワンポイントに活路を見い出そうと必死に練習に励んだ。開幕当初は練習の成果もあり好調を維持し5月1日の日ハム戦では二死一・二塁で打者ソレイタの場面に登板し見事三振に仕留めたのを皮切りに5試合連続でピンチを絶ち存在をアピール出来た。しかし直球とカーブだけと球種が少ない上に制球も乱す事がままあり、後半戦に入ると打ち込まれるケースが増えた。結局3年間で1勝も挙げられず投手を諦めた。

それでも夢は捨てず…昨季史上最年少で三冠王に輝き年俸5千4百万円を勝ち取った時の会見で「次は4割を打って年俸1億円だ」と豪語したが今季は終わってみたら冷や汗タラタラの首位打者の1冠のみで打率は3割3分2厘。それでも凡人と比べたら大したもんだが落合にしてはもの足りないのも事実。キャンプ中は苦手の内角打ちの練習に明け暮れているうちに、何時しか得意の外角打ちが影を潜めてしまった。過去3年で最悪の開幕スタートとなり6月になっても2割7分台をウロチョロする始末で4割どころか3年連続首位打者さえ危うかったが最終的には121試合目でトップに立ち逃げ切った。それでも落合は「4割は永遠の夢。4割を狙うと宣言して誰に迷惑がかかる訳じゃなし、俺は言い続けるよ」と来季も挑戦は続く。

火消し転じて油を投入…英語に「痩せ馬の先走り」の格言が有るかは知らないが鳴り物入りで入団した新助っ人・シャーリー投手はまさに格言通り持てる力の99%を球宴前に使い果たしてしまったようだ。150㌔の速球にカーブ、スクリューボール、フォークボールが武器で打者を捻じ伏せるとの前評判通り4月12日の南海戦で初セーブを挙げて以降、7月7日までに3勝1敗10Sと文句なしの活躍だった。ところが7月10日の阪急戦で救援に失敗すると、後は出れば打たれるの繰り返しで火消しならぬ火付け役になってしまった。各チームは対戦が一回りすると制球に難がある事を見抜き、早打ちせず持久戦に持ち込まれたシャーリーが自滅を繰り返したのだ。敵将の広岡監督に「シャーリーが出れば勝てる」とまで言われる始末だった。

落馬したダークホース…「終わり良ければ全て良し」の諺が当てにならない事を体験したのが中居投手。4月23日、プロ4年目にして日ハム戦で初先発した。本人も首脳陣も3回持てば御の字と思って試合に挑んだがあれよあれよと言う間に1失点で完投してしまった。プロ入り初登板・初先発・初勝利・初完投のおまけ付きの快挙だった。一躍新人王レースのダークホースと持て囃されたが5月7日の西武戦の初回に、山崎・スティーブ・田淵・テリーに4者連続本塁打を喫しKOされると坂道を転げ落ちていき、とどめは8月31日の阪急戦で松永に逆転満塁サヨナラ本塁打を喰らい7連敗。10月21日の今季最終登板で2勝目を挙げたが「最初と最後で勝っただけのシーズンでした…」

火縄銃…誰が呼んだか火縄銃。実は井上選手自身が自虐的にそう自分に命名したのだ。開幕から別人のように打ちまくり5月中旬までフル出場し打率は4割を越えていた。ところが化けの皮が剥がれたのか梅雨に入る頃から打棒は鳴りを潜め打率も下がり続けて最終的には2割2分といつもの井上らしい成績に落ち着いた。「梅雨どきに湿ってからは導火線に火が点きにくくなってね」と力なく笑う井上だった。
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