Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#302 後のプロ野球選手

2013年12月25日 | 1983 年 



仲田幸司(興南高→阪神)…「また甲子園のマウンドが踏めるのは嬉しいです。今度こそ自分の力を出し切りたい」とセンバツ大会出場が決まり、浮かれる周囲とは対照的に仲田は冷静に答えた。昨夏の大会3回戦、2対4で広島商に敗れて以降仲田が課題としてきたのは制球力だ。3連続四球をきっかけに広島商に逆転を許したシーンが頭から消えなった。その屈辱を胸に仲田は制球力向上の為にひたすら走り続けた。秋季大会後から現在に至るまで1日13kmのロードワークを続けて下半身が逞しくなり体重も3kg増えた。

年が明けると投げ込みがメニューに加わった。「直球だけで三振を取れるようになってきた」と比屋根監督が語るように140kmを超す直球は今センバツ大会に出場する主戦投手の中でもトップクラス。センバツ大会出場が決定した日も黙々と練習メニューをこなす仲田の信頼度は絶大で、比屋根監督は「全国制覇を狙います」とキッパリ。食べ物の好き嫌いは無く「大好きな肉を腹いっぱい食べてスタミナをつけてます」と仲田は屈託がない。2月半ばからは全力投球を解禁し、練習にも熱がこもってきた。「今度こそ、今度こそ持てる力を全部出し切ります」と既に仲田の魂は甲子園のマウンドにある。
 【 57勝99敗4S 防御率 4.06 】


三浦将明(横浜商→中日)…昨春のセンバツ大会ではベスト4進出、期待された夏の大会は右肩背筋痛を発症し神奈川県予選で敗退。そんな三浦が秋季大会後に自らに課したのが1日平均30~40kmという途方もない走り込みだった。学校では投球練習もそこそこに約20km、帰宅後は近所の川崎市河原町公園の周辺を約20kmを走った。時には足腰の負担が大きい砂浜を10kmも走る過酷なメニューが加わる事もあったがやり遂げた。

安定したフォームで投げる事で故障した上半身にかかる負担を減らす事が出来る。その為の下半身強化であったが成果は制球力の安定と変化球のキレの向上という副産物も得た。早実との練習試合に先発して高校球界屈指のスラッガーで昨夏の甲子園大会で3本塁打した板倉を完璧に抑え込んだ。「今年は最上級生になって自覚が出てきた。今迄は人の後ろについて行くだけだったが最近は先頭に立って牽引するようになった。頼もしい限り」と古屋監督の顔もほころぶ。三浦が甲子園で躍動するのはもうすぐだ。
 【 0勝0敗0S 防御率 4.94 】


秋村謙宏(宇部商→法政大学→日本石油→広島)…"津田2世"と呼ばれている中国路の速球王が宇部商・秋村謙宏だ。秋村の魅力は何と言っても140kmを優に超す速球で剛腕と呼ぶに相応しい本格派である。「去年夏の高岡商戦に負けた原因は自分の暴投や押し出し四球で、絵に描いたような一人相撲でした。今度こそチーム全体の力で優勝を目指します」と精神面の成長が見える。秋の中国大会では4試合・36回を投げて防御率1. 25 、1試合平均奪三振は8. 5個と好投したように見えたが本人は「もう一つだった」と納得していなかった。

何が不満だったのか?実は甲子園大会後に肩を痛めてしまい思ったような投球が出来ず「直球は7割程度の力でしか投げられなかった」からだ。その肩痛も温泉治療が功を奏して既に完治。本格的な投げ込みは2月中旬以降になるが今は何の不安もなく2度目の甲子園に向けて準備万端だ。「去年の敗戦と肩痛を乗り越えた事で自分では精神的に粘りが出てきたように感じます。球速?去年以上の数字を出す自信は有ります」中国地方では津田(南陽工→広島カープ)以来の逸材が一回りスケールアップして甲子園に戻って来る。
 【 9勝11敗3S 防御率 4.37 】


藤王康晴(享栄高→中日)…「チャンスに得点をあげるのが僕の役割。甲子園でも本塁打を狙います」 センバツ大会出場が決まると "尾張の大砲"は晴れの舞台での炸裂を高らかに宣言した。昨夏の愛知県予選大会から藤王の名前は日本中に知れ渡った。圧巻は一宮球場での一発。弾丸ライナーで右中間フェンスを楽々と越え、スタンド後方の競輪場内に飛び込んだ。183cm,76kgの身体から放たれる超高校級の打球は甲子園でも相手校の脅威となるに違いない。

ただ昨夏までは肝心な所で打てなかった。「無闇に遠くへ飛ばす事ばかり考えて力みが目立っていたが秋以降は力を抜く事を覚えて、コンパクトなスイングが出来るようになった」と柴垣監督。掛布に憧れるスラッガーは今センバツ大会を自らの真価を問う場と考え「20年ぶりの出場ですからデカイ事をやってみせますよ。是非とも池田高の水野君から本塁打を打って優勝したい」と活躍を誓った。
 【 92安打 10本塁打 打率.220 】


山田武史(久留米商→本田技研熊本→巨人)…「ホッとしました」山田がそう語る意味は2つある。一つは勿論、4年ぶりの甲子園出場が決まった事。もう一つは投げられる喜びの安堵感。昨秋の九州大会直前に軸足である右足付け根の股関節を痛めて歩く事さえ不自由していた。大会には痛み止めの注射を打ち万全とは言えない体調で臨み準優勝、それがセンバツ大会出場につながった。年を越しても体調は戻らず「仮にセンバツ大会に出場できても投げられないのでは…」との不安が常に山田には付きまとっていた。故障の箇所が下半身だけに投球は勿論、走り込みも出来ずウェートトレーニングに努めるのみであった。

センバツ大会出場校の発表が間近に迫っても山田は「投球する際に軸足で踏ん張る事が怖くてマウンドに立てなかった」そんな山田を見かねた森監督が「いつまでもビクビクしていたって埒が開かない。軽目でいいから投げてみろ」と命じたのが1月22日の事。恐る恐るマウンドに上がり投げ始めた。最初は二分の力で、次は五分、七分…痛みは感じなかった。「良かったぁ」山田に笑顔が戻った。

177cm、66kgが公称の体格だが走り込み不足からくる体重増加で今は70kgを超えている。「今迄さんざん心配をかけたチームメイトの為にも甲子園では思いっきり頑張りたい」大会本番まで残された時間は少ないが「ここまで我慢してきたので慌てる事なくやっていきます。毎年、投げ込みは今くらいから始めていたので間に合います」と本人に焦りはない。森監督も「実力、センスは申し分のない男ですからきっとやってくれます」とエースで四番の山田を信頼しきっている。
 【 0勝1敗0S 防御率 4.89 】
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#301 羽ばたけルーキー ④

2013年12月18日 | 1983 年 


荒木大輔(ヤクルト)




橋本敬司 & 岡本光(巨人) /  木戸克彦(阪神) /  堀場秀孝(広島)




鹿島忠 & 市村則紀(中日)  /  谷真一(近鉄)




田中富生 & 佐藤誠一(日ハム) /  石井毅(西武)




ふと思ったのですが今の若い人達は彼らの写真を見せられても「誰?」って感じなんでしょうね。活躍して引退後も球界に残れた人は少ないですから…でも堀場や石井のアマチュア時代の活躍は凄かったですし、谷は元阪神監督・吉田義男氏の甥っ子ですから今の菅野投手みたいなもんです
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#300 羽ばたけルーキー ③

2013年12月11日 | 1983 年 



石井 毅(西武)…右に小野、左にはドラ1の野口の大柄投手に挟まれても172cm,70kg の小柄な石井は2人に負けないくらい活きの良い球を投げている。サイドスローから直球、カーブ、スライダー、シュート、シンカーを丁寧にコーナーに投げ分ける。「う~ん、小林(阪神)に似ているフォームだね。特に足の上げ方がソックリ」と見つめる八木沢投手コーチ。時折、クイックでズバッと速球を投げ込むかと思えば小林のように左足をゆっくり上げてタメを作りバックスイングで「くの字」に上半身を畳みホップする直球も投げるマウンド上の姿は実際よりも大きく見える。

「住金に入って1年目の夏場に調子を崩したんです。何をやってもダメで落ち込んでいた時にテレビで小林投手を見てピンと来て左足のタイミングの取り方を変えたらガラリと復調したんです」 参考にした小林投手と同じく社会人経由でエースに登りつめる覚悟だ。高校時代は箕島高のエースとして春夏連覇。社会人野球では昨夏の都市対抗大会で優勝し橋戸賞を手にした輝かしい経歴は今年の新人では他を寄せ付けない。安定して大崩しない投球は「完成品。即戦力です」と八木沢投手コーチも既に一軍切符を与えている。

2月6日にはフリー打撃ながら初めてプロの打者と対決した。相手は片平。昭和54年には3割打った事もある打者相手にホップする球と沈むシンカーで40打数8安打と翻弄した。内野ゴロと詰まった飛球が多く、柵越えはゼロだった。「エエ球を放りよる。好調時の仁科(ロッテ)のようだ」とベテラン打者も舌を巻いた。「西武には松沼兄さん、高橋直さん、小林さんと手本となる下手投げの先輩が多いですが負けるつもりはありません。一軍で10勝して新人王を狙います」と色黒の顔からは負けん気がほとばしる。小学生の時には「1等賞」、高校の時は「全国制覇」、社会人でも「日本一」を周囲に高らかに宣言して実現させた。プロでも有言実行となるか注目である。
 【 8勝4敗4S 防御率 3.63 】


黒田真二中本茂樹(ヤクルト)…荒木人気の陰に隠れているが首脳陣の間で確実に評価が高まって来ているのが黒田と中本の社会人出身の2人だ。黒田は昭和51年のセンバツ大会で広島・崇徳高校のエースとして全国制覇、その年の夏の甲子園大会では3回戦で怪物・酒井投手擁する長崎海星高に0対1で惜敗したもののドラフト会議で日ハムから1位指名される程の逸材だった。プロ入りはせず日本鋼管福山に就職し、更なる飛躍を期待されたが心臓病や気管支炎などを発症して入退院を繰り返し結局、昭和53年の春に退職した。

一旦は野球を諦めたが「もう一度マウンドに上りたい」と同年秋にリッカーに入社し復活を期す事となった。病み上がりの身体をイチから鍛え直して4年間で35勝をあげ、「社会人野球の顔」と評される存在にまで復活した。既に結婚し二女をもうけているだけに自分の夢だけを追う訳にもいかず幾つかのプロ球団から高い評価を受けていたがプロ入りに踏み込めずにいた。そうした事情を考慮して今回のドラフト会議でも指名する球団は無かったがヤクルトがドラフト外での入団を打診すると一念発起で遂にプロ入りを決意した。

二人一組の練習では荒木とペアを組む事が多く何かと比較されるが「荒木よりしっかりしてる?そりゃそうでしょ、6年間もサラリーマンで飯を喰ってきましたから。親子4人の生活がかかってますから必死です」 キレの良い速球に抜群の制球力は文句なしの即戦力。"人気の荒木・実力の黒田" のキャッチフレーズ通りの動きに武上監督も「先発ローテーション入りを計算している」と期待を寄せている。
 【 0勝7敗2S 防御率 5.07 】

そして中本は四国の名門・徳島商から同志社大を通じてずっとエースの座を保ち大学3年生の時には明治神宮野球大会で優勝し大学選抜にも選ばれ、また日本生命入社後には全日本社会人にも選出されるなど黒田とは対照的に陽の当たる道を歩んで来た。年齢は黒田より1歳上とあって中本の覚悟も強く「歳を喰ってますから最初から一軍でバリバリ働かないとプロ入りした意味が無い。新人王を狙っています」と負けていない。

契約金のうちから100万円を友達との飲み代に一気に使った豪傑の武器はブレーキの効いたカーブ。100 m を11秒05 で走れるバネの効いた強靭な肉体は先輩選手らの中にいても目立つ。武上監督は中本を中継ぎで起用する腹づもりだ。「現代の野球は先発以上に中継ぎ・抑えの重要性が高い。試合を左右する中継ぎには中本のような試合を壊さないタイプが適任」と黒田以上の期待をかける。

ドラフト外でこの2人のヤクルト入りが決まった時には他球団のスカウト連中が「してやられた。荒木や新谷(入団拒否)より、こちらの方が真の1位&2位だ」と歯ぎしりしたのは有名な話だ。2人の実力を既に認めている首脳陣は投内連携練習では松岡や梶間といったエースと同じ組に入れている。見逃せないのは2人の加入で中堅・主力クラスが刺激を受けてチーム内に競争意識が芽生えて来た事。仲良しグループでぬるま湯的だったチームに変化が現れ始めている。即戦力はかく有りたい、という見本のような黒田や中本の加入がヤクルトを変えつつある。
 
【 21勝26敗33S 防御率 3.94 】


鹿島 忠市村則紀(中日)…1月11日、ナゴヤ球場で始まった若手中心の自主トレ。しかし「若手」とは名ばかりで谷沢を筆頭に田尾や中尾も参加した。選手会の公用で初日こそ不参加だった三沢も2日目から合流して早くも全員が揃った。これまでの中日と言えば1月のこの時期はまだ御屠蘇気分が残り主力選手が身体を動かす事は皆無に等しかった。皆をその気にさせる要因は「連覇」である。過去2度の優勝、昭和29年・49年の翌年はいずれも下位に低迷している。それだけに「今度こそ連覇を」との意気込みの他に、鹿島と市村両投手の加入によるチーム内の競争意識の増大がある。鹿児島実業~鹿児島鉄道局を経てドラフト1位で中日入りした鹿島、片や30歳というドラフト史上最高齢で3位入団の市村。いずれも連覇の為に補強された即戦力だけにチーム内に与えたインパクトは強烈。実際に2人は自主トレ初日から飛ばしに飛ばしてつられるように他の選手たちの正月ムードは払拭され一気にピリピリとした雰囲気に包まれた。

鹿島は昭和53・54年の夏の甲子園に出場したが、いずれも初戦敗退。今は同僚となった牛島の雄姿をスタンドから眺める悔しさを味わい「プロでは先輩だけど絶対に負けたくない」と闘志を剥き出しにする。鹿島にはプロでの成功には不可欠と言われている根性とハングリー精神に関しても筋金入りの過去がある。父親・忠行さんは仕事で建築現場を転々とする間でも鹿島をプロ野球選手にする為のスパルタ教育を欠かさなかった。なんと鹿島は幼稚園児だった頃から毎朝自宅周辺のランニングやウサギ跳びのノルマを課せられ、やり終えないと食事を与えないマンガ『巨人の星』の星一徹ばりの親父に鍛えられた。「何をしているのか分からなかった。ただ朝御飯を食べたい一心で走り続けた」と鹿島は述懐する。建築現場を転々とする生活は決して豊かではなかった。「甘い事は言っていられない。今すぐ働いて稼がないと何の為にプロ入りしたか分からない」父親からのノルマからは解放されたが今度は1年目からのベンチ入りという新たなノルマが課せられる。
 【 36勝28敗14S 防御率 3.95 】

もう1人、30歳というハンデを乗り越えてプロの道を選んだ市村の場合は鹿島以上に切実かもしれない。早い話、電電関東時代は家賃5千円の社宅住まいだったが名古屋での部屋探しで厳しい現実に直面する。安い家賃の所を探したが中々見つからず、年が明けて自主トレ目前になってようやく公団住宅の部屋を借りる事が出来た。それでも家賃は社宅時代の15倍の7万5千円と懐には厳しい。確かにプロは大金を稼げるチャンスを与えてくれるが恵子夫人と2人の娘を抱えた子連れルーキーには安定したサラリーマン生活を捨ててのプロ入りは掛け値なしの人生最大の挑戦なのだ。「女房もプロ入りに賛成くれたし思いきって勝負できる。歳は喰ってますけど身体年齢は24歳ですよ」と胸を張る。
【 5勝2敗1S 防御率 3.95 】

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#299 羽ばたけルーキー ②

2013年12月04日 | 1983 年 



入団当時は期待されたものの、ここで紹介された選手たちは残念ながら投打の中心選手にはなれませんでした…


岡本 光 (巨人) … 1月22日、多摩川グラウンドで練習する岡本を見た藤田監督はじめ首脳陣は異口同音に「これは使える」と唸った。素人目にも右腕が遅れて出て球持ちが良く、鈴木孝政(中日)の若い頃にソックリで強さとしなやかさを併せ持つ。「理想に近いフォームで典型的な速球投手」と藤田監督も興奮を隠せない。「社会人経由ですからね、1年目から一軍で働かないと」と本人も意欲的だ。この「社会人経由」の言葉には岡本の複雑な思いが込められている。

伊藤菊関西担当スカウトは和歌山・串本高のヒョロヒョロと背だけ伸びた痩せっぽちの投手に非凡なものを嗅ぎつけた。「彼を初めて見た時は1週間前に打球を指に当てたせいで練習を休んでいた。休み明け初の投球練習で投げた球のスピードとキレに目を奪われた。御世辞抜きで即戦力だと思ったよ(伊藤スカウト)」と早速スカウト会議で獲得を決め、岡本も巨人のドラフト指名を心待ちにしていた。しかし運命の悪戯か、巨人は江川事件の余波でこの年(昭和53年)のドラフト会議をボイコット。岡本は南海に3位指名されたが入団を拒否し、失意のまま社会人野球へ進んだ。

社会人に進んだ後の評価は浮き沈みが激しいものとなった。ドラフト指名解禁後に南海から再び指名されたが、その順位は5位で本人が納得出来る評価ではなかった。さらに昨年夏には利き腕手首に腱鞘炎を発症し、それを契機に撤退する球団も現れ「もう岡本は以前のようには投げられない」との声が会社内から出た。その岡本を巨人は敢然と指名した。まるで5年前の詫びをするかのように。懸念された腱鞘炎も完治し「昔から堀内投手のような帽子を飛ばして投げる姿に憧れていました。巨人に入団出来て本当に嬉しく、指名を見送る球団も多い中で指名してくれた恩返しをしたい」と活躍を誓う。強固な先発陣が揃っている為、先ずは中継ぎでの登板となりそうだが間違いなく新人の中では一番にデビューする筈だ。

【 3勝2敗2S 防御率 3.55 】


榎田健一郎 (阪急) … 「この新人は大した奴だ」野球に関する事に感心した訳ではない。1月10日に父親と共に合宿所「集勇館」にやって来た榎田は玄関に脱ぎ散らかしてあった10足ほどの靴を全部揃え終えると「PL学園から来ました榎田です。どうか宜しくお願いします」と一礼し入寮した。勿論、躾がなされているから野球が上手いとは言えないが、人として周囲に好印象を与えた事だけは間違いない。その榎田のプロ第1球は1月16日、西宮球場の室内ブルペン。甲子園の金の卵を見ようと阪急では珍しく100人近い報道陣が集まった。

河村コーチのミットを目がけてポンポンと糸を引くような直球を投げ込んだ。柔らかでどこか牛島(中日)を思い起こさせる投球スタイルだ。河村コーチの後ろに陣取る上田監督や梶本投手コーチの頬が緩むのに大した時間はかからず「こりゃ掘り出し物だ。オールスター前には一軍でバリバリ投げられるだろう」と最大級の賛辞まで飛び出した。「投げたくてウズウズしていたので気持ち良く投げられました。緊張?監督さんたちが見ているのは分かりましたが特には」と平然と答える榎田に上田監督は改めて「ピッチングも度胸も一級品」と惚れ直したようだ。

プロ入りの動機は夏の地区予選で春日丘高に敗れ甲子園出場を逃した事だった。「敗北者で終わった事が許せなかった。プロで勝利者になる」とそれまでのノンプロ志望を一転してプロ入りを決意した。好きな言葉は「一番」と迷わず答えるあたりに負けん気の強い性格が伺われる。有言実行が榎田の身上だ。「僕、PL学園に入って甲子園に出る」中学生の時だった。母・千枝子さんの愛読書の裏表紙に「甲子園出場」と記し、約束を果たした。その本は読まなくなった今でも母親の宝物として大切にされている。次の約束は富士山の頂上とも言えるプロ野球界のトップへ登りつめる事だ。
 【 0勝0敗0S 防御率 13.97 】


堀場秀孝西田真二 (広島) …頼もしいと言うか図太いと言うかとにかくその態度、風格はもう何年もプロの飯を喰っているかのようだ。沖縄での合同自主トレでベールを脱いだ堀場と西田の新人コンビが話題を振り撒いている。先ず堀場は巨体を揺すってのランニングで毎度毎度のドン尻。慶応ボーイから一流ホテルマンの洗練された経歴とはかけ離れた姿についたアダ名は「長野のおとっつぁん」 トレパンの前にタオルをぶら下げ、アンダーシャツがズボンから飛び出していてもお構いなしには周囲も呆れている。トレーニングコーチらに「みっともないからシャツを入れろ」と注意されても「シャツを入れても速くは走れませんから」と聞く耳持たず。

また口の方も達者で「タツ(達川)が競争相手じゃ物足りないスねぇ」「新人王?試合に出してもらえれば後から付いてきますよ」「課題はバッティングですけど広島市民球場は狭いですから本塁打数もソコソコ行くでしょう」「心配は怪我だけです」…何の事はない、正捕手の座は自分が貰ったと言わんばかりなのだ。こうした自信はどこから来ているのか?既に27歳で妻帯者であると言う精神的バックボーンもあるが、一番大きいのが年齢の近い山倉(巨人)・中尾(中日)らの活躍である。自分はアマチュア時代の実績では彼らに引けを取っておらず「彼らに出来て自分に出来ない筈はない」という思いで安定したサラリーマン生活を捨ててまでしたプロ入りだけに失敗は許されない。
 【 59安打 6本塁打 打率 .245 】

一方の西田の強心臓ぶりも負けていない。「今まで緊張した事なんてありません。甲子園でも神宮でもお客さんが満員であるほど体が熱く燃えてきました」 並み居る先輩たちの前で沖縄入り翌日には「バットを振るのは秋のリーグ戦以来」と言いながらも的確なミートで左右に打ち分ける非凡な打撃センスを披露し、見守る阿南二軍監督も「こりゃ一級品だ」と思わず感嘆した。PL学園時代にはエース兼四番打者として夏の甲子園大会で全国制覇。法大進学後は打力を活かして外野手にコンバート、1年生からベンチ入りを果たし2年生の春には早くもベストナインに選ばれた(通算5回選出)。

西田の打撃センスの高さを高校~大学と身近で見てきた木戸捕手(法大→阪神1位指名)によれば「アイツ、大学時代は打席で遊んでいたんですよ。『安打なんていつでも打てる』って言って色々と試し打ちをしていたんです、プロ入りを想定してね」と明かす。合宿所の西田の自室からテレビの野球中継で映される投手のピッチングに合わせて「ヨシッ、今のタイミングはバッチリだ」と発せられる声を木戸は何度も耳にしたという。ドラフト1位の西田とドラフト外の堀場。昨年の津田が球団史上初の新人王に輝いたが「こりゃ2年連続で新人王はウチが貰った」との声が球団関係者の間で広まっている。
 【 402安打 44本塁打 打率.285 】
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