Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 655 十大ニュース ➎

2020年09月30日 | 1976 年 



❾ また一番売れる金の卵に逃げられたプロ野球のメンツ
今年も多くの金の卵たちがプロをソデにした。高校球界人気 No,1 の原辰徳(東海大相模)をはじめ武藤一邦(秋田商)、津末英明(東海大相模)、黒田真二(崇徳)ら甲子園でお馴染みの面々。大学では森繁和(駒大)がロッテ入りを拒否して社会人へ進んだ。何故こうもプロ野球は嫌われるのか。これら拒否組の理由は大きく分けて二つある。一つはプロへ行くのは大学を卒業してからでも遅くないと考える進学希望。二つ目はプロよりも将来の保証のある社会人を選んだ方が得だという考え方である。今年に限っては原選手の親子関係による進路があったが、これも進学希望派に入れてよいだろう。

進学希望者が増えた理由は好きな球団に行けないのなら大学へ進学する方がまし、というドラフト制度に対する不満がある。原親子の場合は記者会見までしてプロ拒否を表明した。「巨人が希望球団です。でも巨人以外だったら進学すると言えば他球団に申し訳ないし、ただ進学すると言っても信用してもらえないので記者会見をして退路を断った(原選手)」という心境だったそうだ。黒田投手の場合も同じだ。巨人・阪神・広島以外ならプロ入りしないと表明したのは、進路は自分に決めさせて欲しいという選手側の心の叫びだ。ドラフト制度はそもそもは契約金の高騰を防ぐ目的の為に考えられたもので、戦力の均衡化は後付けだ。つまり球団経営者側の論理で選手側の意思が反映された制度ではない。

最初から選手の意思は黙殺され球団側にとってのみ有利な制度なのだ。そこで2年前から選手の自由を制限する代償として契約金の上限が撤廃された。今年のドラフト会議でヤクルトが1位指名した酒井投手が粘りに粘って手取り3千万円(税込み3千8百万円)を手にして騒がれたが、もしもドラフト制度がなく自由獲得状態だったら低く見積もっても7~8千万円で争奪戦になっていただろう。自由に好きな球団も選べず契約金も3千万円止まりとなったら、現代っ子が「大学で4年間野球をやってからプロへ行くか、社会人で堅実な人生を送るかを決めても遅くない」と考えるのは至極まっとうな話だ。

山口投手(阪急)のように大学へ進学し社会人野球で2年間プレーしてから " 最後の勝負の舞台 " としてプロ入りするのが最も利口な生き方ではないのか。甲子園を踏み台に早慶戦、都市対抗、そして日本シリーズの舞台でプレーすることが野球人として最高のエリートコースと言える。もし社会人野球で挫折しても会社員として一生が保証されるのであれば高校からプロへ行くのではなく大学へ進学するのが賢明なのではと思うのも当然か。こうした選手を若者らしくない、と大人が批判するのは間違っている。何故ならそうした考えこそ今の大人が作った現代社会の典型的な若者像であるからだ。



❿ 泡と消えた張本の暴力事件
殴ったのか、殴られたのか。いわゆる " 広島事件 " は開幕間もない頃に起こった。一般紙の社会面に大きく報じられたこの事件は書類送検まで発展したが不起訴処分でピリオドが打たれたものの、何やらスッキリしないまま終幕を迎えた。4月16日にそれは起きた。巨人は甲子園での阪神戦で連敗を喫し、開幕して5勝4敗で広島入りした。試合は佐伯と新浦の先発で始まり巨人が先制したがすぐに広島に逆転を許した。8回裏に広島が追加点し2点差としたが9回表に巨人が1点を入れて1点差。尚も二塁に走者を置き代打の山本功が中前にポテンヒット。二塁走者の土井が猛然と本塁に突入するも山本浩からの好返球で本塁憤死、ゲームセットで広島が勝利した。

しかし三塁側ベンチから長嶋監督が飛び出し柏木主審に詰め寄り猛抗議。すると興奮したファンがグラウンドへ乱入し、巨人ベンチ前のウェイティングサークルに置いてあった素振り用の鉄棒を手にすると抗議している長嶋監督に向かって突進した。それを見た巨人のベンチ入り選手全員が飛び出しファンは取り押さえられた。すぐにそのファンは係員によってグラウンドから出されて混乱は収束した。結局、長嶋監督の抗議は認められず広島の勝利が確定し一件落着した筈だった。だが本当の混乱は試合後に起きた。巨人の選手らを乗せ広島市内の宿泊先へ向かうバスが球場通用口の脇で大勢のファンに取り囲まれていた。

長嶋監督らコーチ陣は既にバスに乗車していたが、多くの選手が球場内の通路で待機していた。痺れを切らした数名の選手がバスを取り囲むファンをかき分けてバスに乗り込もうとしたその時だった。ファンの1人の " 決死隊 " が張本に掴みかかった。張本と周りにいた選手がそのファンを取り押さえたが、その際に「バットで頭を殴られた(被害届を出した谷村仁臣さん)」為か頭部を切って出血した。これがきっかけとなりガードマンの制止を振り切って約1000人のファンが乱入して大混乱に陥った。棍棒でバスの車体を叩くファンをバスの窓から身を乗り出して応戦する選手。長嶋監督が「手を出しちゃいかん!」と叫んだがその声は飛び交う罵声で掻き消された。

谷村仁臣さん(39歳・食品販売業)は張本を名指しで刑事告訴し、広島県警広島西署が傷害事件として捜査を始めた。翌19日、広島3連戦を終えた張本が広島西署に出頭して任意の取り調べを受けたがバットで殴った事は全面的に否定した。だが広島県警・畑谷刑事部長は送検するつもりであると語った。被害者・目撃者・張本・末次・槌田らから事情聴取を行ない5月18日に書類送検の手続きを取り約1ヶ月に渡る捜査が終了した。ところが8月23日に証拠不十分で不起訴となった。これが事件(法的には事件ではない)の全貌だが、怪我をしたファン・張本個人に対する中傷・球場警備の不備の露呈など誰も得をせず幕を下ろした。


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# 654 十大ニュース ➍

2020年09月23日 | 1976 年 



❼ アッと驚くセ・パ首位打者戦線の怪
ノーマークと言ったら失礼かもしれないが、張本(巨人)を最終戦で抜き去った谷沢(中日)。片やパ・リーグでは全くのダークホースだった吉岡(太平洋クラブ)と両リーグ共に首位打者は大穴が制した。「もし張本さんが僕と同じくらい残り試合があってギリギリまで競っていたら、たぶんタイトルは獲れなかったでしょうね」と谷沢は笑うのだが、それはペナントレースが終了してかなり時間が経過した後になって気楽に笑っているが当時のプレッシャーは相当のものだった筈だ。10月19日の広島との今季最終戦で4打数3安打の固め打ちをして首位打者のタイトルを奪取した。

試合後、昨季の首位打者・山本浩(広島)は「立派なもんだ。とにかくおめでとう。大変なプレッシャーの中でタイトルを掴むとは完全に脱帽です」と褒めた。3本目の安打を打たれた高橋里投手は「僕が絶対の自信を持って投げたフォークボールを完璧に打たれた。谷沢さんが一枚上手だった」と完敗を認めた。広島の選手達がケチの付けようがないくらい、この日の谷沢の当たりは完璧だった。だから敵味方を問わず「よくやった!」という爽やかなムードが漂った。タイトル狙いで四球合戦が当たり前の昨今では久々に清々しい試合だった。

パ・リーグのバットマンレースを制した吉岡選手はもうじきプロ10年目を迎える27歳。そろそろ中堅クラスの選手だが無名と言って差し支えない。「普通の場合だとまぁコイツはひょっとしたら…なんて予感があるもの。去年の白選手は移籍直後で精神力が充実してる上に前期で既に3割を優に越える成績だったので首位打者のタイトルを獲得しても不思議じゃなかった。ところが吉岡の場合は前期は一軍と二軍を行ったり来たりで活躍を期待する方がどうかしている。それが後期も終わり近くなると、あれよあれよで首位打者になるなんて思いもしなかったよ」と鬼頭監督は自分で起用しておいて呆れ返っているのだから外部の人間が驚くのも無理はない。

青木渉外担当重役がロッテのスカウト部長だった時に吉岡をロッテに入団させたのだが、選手を見る目に定評がある青木も「上手くいって2割6~7分のバッター。でも足が速いので取り敢えず獲った」程度だった。一昨年のオフにベテランの菊川選手との交換トレードを申し込んだ時も、ロッテ側があっさりOKしたので「ひょっとしたらプロの力量が無いと見限られた選手なのか」と思ったくらいだった。そんな吉岡が今年レギュラーとして試合に出られた要因は開幕から続いたの基選手の不振だった。吉岡も打てなかったが基よりはマシと判断した鬼頭監督が仕方なく二軍から昇格させて二塁手として起用し続けるとヒットを量産するようになった。

活躍のきっかけは基の不振だったが後期になって復調した基を押しのけてレギュラーを死守したのだからその充実ぶりが群を抜いていたのも事実。しかし愉快なのはまだ門田選手(南海)らとの首位打者争いがたけなわだった頃、吉岡は「これで万が一、タイトルを獲れなかったとしても僕の給料からしたらよくやった、大健闘だと球団は褒めてくれるでしょうね」と言ったことがあった。それもそのはず、今季から一軍選手の最低年俸が240万円となったが、吉岡の稼ぎはその最低年俸に毛が生えた程度の260万円。プロ生活9年目とはいえ昨年までの実績は一軍では殆どない。それを考えると今季の大活躍はお見事だった。



❽ ドローチャーに振られるやライターに買われたライオンズ
ペナントレースは別として大きな話題を提供してくれたのは太平洋クラブ、否、現クラウンライターライオンズだろう。何しろ開幕前には世界的超一流監督のレオ・ドローチャー氏を監督に迎えるとアドバルーンを揚げて世間をアッと言わせた。結局は逃げられた挙句にシーズンが終わるや否やクラウンに身売りの憂き目に遭った。恐らくドローチャー監督が実現していたら今季十大ニュースのトップの座に輝いていたであろう。何しろドローチャーといえば大リーグでも屈指の名監督でカージナルス、ドジャース、ジャイアンツなどで辣腕を揮う一方で喧嘩っ早い " 魅せる " 監督でもあり日本でも大人気を得たであろう。

それが土壇場まで「きっと来る」と球団はPRに努めたが最後は病気で来日できず、マスコミは『ドローチャーがドロンした』と揶揄した。ドローチャー氏の為に球場内の監督部屋や住まいとなるホテルの最高級部屋を更にデラックスに改装するなど用意万端だっただけに、さすがの強気一辺倒の中村オーナーもガックリ。あのドローチャーが来るなら、と年間予約席を購入したファンは「ペテンにかけられた」と怒り、中村オーナーは平謝り。何しろこの決定が開幕直前の3月15日だったので球団内はてんやわんや状態となった。そもそもキャンプ・オープン戦は監督不在でアメリカから練習内容を記した手紙が送られて来たのみで日本のプロ野球史上前代未聞だった。

後を託された鬼頭ヘッドコーチが監督に就任し懸命に指揮を執ったが、チームの士気は上がらず大方の予想通り最下位に沈んだ。あれほど熱狂的だった平和台のファンもシラケた感じで盛り上がりも何もあったもんじゃない。吉岡の首位打者くらいしか話題はなく、このまま年を越すかと思われたが来季から球団名が変わるというビッグニュースが待っていた。すわ、身売りか!? とファンは大騒ぎとなったが実は業務提携先のスポンサーが太平洋クラブからクラウンライターへ変更によるもので本拠地も移動せず博多のファンも一安心。とにかく今年のライオンズはグラウンドの外で世間を騒がせた1年だった。


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# 653 十大ニュース ➌

2020年09月16日 | 1976 年 



❺ 江戸っ子・荒さんのあんまりアッサリしすぎたクビ
ヤクルトの荒川監督更迭はペナントレース序盤最大のニュースだった。突然の休養命令に荒川監督は「闘志は健在だぜ。だけど休めと言われたら仕方ねぇじゃねいか!」と江戸っ子らしく啖呵を切った。その時が訪れるまで荒川監督は何の疑念も抱いていなかった。5月13日の早朝に代々木の荒川監督宅に佐藤球団社長から「ホテルニューオータニで昼食でもどうか?」と電話があった。この申し出に荒川監督は「ハハ~ン、目下5連敗中の実情を聞きたいんだな」と軽い気持ちで快諾した。昼食後のコーヒーを飲みながら佐藤社長は実に言いにくそうに切り出した。「ねぇ監督、しばらく休んだらどうですか?」と。「休む?何故?」と荒川監督が問うと「いや、何となく疲れているようで見ているのが辛いんだよ」これが事実上の解雇宣告だった。

前日の5月12日まで確かにヤクルトは5連敗をしていた。しかし5連敗を喫する前は開幕からまだ1ヶ月足らずで通算10勝10敗4分けと監督が休養に追い込まれるような成績ではなかった。「荒川監督は休養する。今後は広岡ヘッドコーチが采配を振るい代行する」と佐藤社長はロッカーに集めた全選手を前にして発表した。お互いに顔を見合わせる選手たち。余りにも早い監督休養に戸惑いを隠せない。同じ頃、五体健全でピンピンしていた荒川『前』監督は記者たちを前に「オラァ、二度とユニフォームは着ないぜ。5連敗がなんだ!これから10連勝してやろうと思った矢先にこの仕打ちだよ。情けねぇわ」と。情けないのは自分か、それともフロント陣か?

監督休養の荒療治は確かにカンフル剤になるが長続きはせず一時的だ。広岡ヤクルトの初戦は代打・山下選手のサヨナラ打で連敗街道から脱出できたが、シーズンが終わってみたら荒川ヤクルト(3位・4位)を下回る5位だった。時が経つにつれ早すぎた休養劇に仕組まれた筋書きが鮮明になってくる。荒川更迭の決定を下したのは勿論オーナーであろう。ただその前後に系列スポーツ紙が連日に渡り荒川批判を展開した事に他紙のヤクルト担当記者たちはキナ臭さを感じていた。系列紙は5連敗を含む15敗を検証し、投手起用がもう少し上手ければ半分近くが勝てた試合だったと報じ、監督の打者を見る目は一流だが投手に関しては素人同然と切って捨てた。

「傷が大きくならないうちに…」と松園オーナーが決断した。広岡監督代行は6月に正式に監督に就任した。佐藤社長は「契約期間は3年」と発表した。佐藤社長が三顧の礼を尽くして招聘した広岡ヘッドコーチ。実は佐藤社長は最初から監督就任を広岡ヘッドに打診したが「コーチなら引き受けるが監督は断る(広岡)」と言われた為、監督のお鉢が回ってきたのが当時打撃コーチだった荒川前監督だったのだ。実際、荒川監督就任会見の席で佐藤社長は「私は今でも監督には広岡君になってもらいたいが、本人が頑なに断るので…」と言い放った。最初から荒川監督は一種のピエロだった。こうした点と点を結びつけると初めから江戸っ子監督の儚い運命は決まっていたようだ。



❻ 知恵の三原と大沢親分が組んだチビッ子大作戦
観客動員は実に70%増の88万人でパ・リーグ No,1の動員を果たした日ハムのアイデアは殊勲賞もの。日ハムフロント陣はこの結果に自信をつけ、来季は更なる強い方針で臨む。球団事務所の壁には来季の目標が飾られている。❶ 少年ファイターズ会員3万人、❷ 観客動員 120万人、❸ シニアファイターズ会員 1000人、この3大目標達成に向けて既にスタートは切られている。会員募集のダイレクトメールの郵送料金だけで100万円を超えたが、入会申し込みが殺到して担当者はテンテコ舞いで嬉しい悲鳴。刺繍マーク付きの帽子にデニム地のベスト、ファンブックなどの盛り沢山のプレゼントに加えて内野席無料招待券も手にできる。

「純真な子供の心を金で釣っている」「営業的にはマイナスではないか」「観客動員といってもタダ券をばら撒いているだけでは」などの声があるのも事実だが全て的外れである。「チビッ子ファンに的を絞るのは将来を考えての事。現在の野球ファンは圧倒的に巨人ファンです。その好みを一朝一夕に変えるのは難しい。でもまだ好きな球団が定まっていない子供達に良いイメージを持ってもらえれば変えられるかもしれない」と三原球団社長は言う。今季の無料入場者数は全体の15%だった。営業的に採算が取れるのが100万人だからその割合をベースに目標を120万人としたのだ。

「金を使っていると言われるが、使っているのは金ではなく頭です。大リーグではどの球団もプロモート(販売促進)に総経費の1割は計上している。ウチの場合もその程度で金をばら撒いているわけではない」と球団職員は言う。実際に収入が50%アップしているのだから球団の判断は間違っていない。球団では更なる企画を考えている。❶ 球場結婚式:総額は100万円以上かかるがスポンサーを付けて球団の負担は10万円ほど、❷ 開幕戦の始球式で使用する球をキャンプ地の鳴門から少年ファンの手で聖火方式で東京までリレー、❸ 暑い夏場は球場でおしぼりサービス、などなど検討中。

従来の勝てばファンは勝手に尾いて来る的な安易な発想から脱するには若い世代の柔軟な考えが必要になる。「だから今井部長を取締役に抜擢して、より斬新な思考を期待している」と三原社長は言う。こんなフロント陣の努力と同時に大沢監督以下の現場組の努力も大変なもの。「とにかくこちらの無理な注文にも快く協力してもらっている。そうした現場の協力なしでは成功しなかった」と今井取締役は大沢監督に感謝する。様々な催しもだが、サインを求められると快く応じてチビッ子ファンは大喜び。アイデアはこうして生かされ、ようやく日本のプロ野球界にも新しい球団経営方針が育ってきた。


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# 652 十大ニュース ➋

2020年09月09日 | 1976 年 



❸ プレーオフなし。阪急が強すぎたパ・リーグの悩み
「今年は2シーズン制への挑戦の年だった。ある意味では日本一よりも前後期制覇の方が意義があったかもしれない」と上田監督は言う。元々阪急は昭和48年から続いている2シーズン制が大嫌いなのである。それでいて昭和50年はプレーオフで近鉄を破り、今季はプレーオフなしで共に日本シリーズに駒を進め日本一になった。それでも上田監督は2シーズン制を嫌うのは「安定した力で1年間を根をつめて試合が出来ない。急場しのぎの陣容整備や鍛錬の仕方では選手寿命を縮めてしまう(上田)」からなのだ。今季は前期優勝を決めたが後期のスタートで躓いた。「そりゃ仕方ないよ。私がいくらハッパをかけても緊張感が切れてしまった選手の動きは鈍い(上田)」

2シーズン制を否定するのは上田監督だけではない。「2シーズン制は短期勝負。ウチには不向き(ロッテ・金田監督)」「2シーズン制は気苦労ばかりで残ったのは空虚な疲労だけ(南海・野村監督)」など現場はこの制度に反対するが来季も続く。「連盟の事務局で机に向かっている人には分からないのだろうね…」と上田監督は嘆く。2シーズン制で1年間のヤマ場を多くして観客動員を増やそうというのがパ・リーグとしての最大の狙い。2シーズン制以前の1試合平均の観客数は6千人前後だったが、2シーズン制を実施した昭和48年以降は9千人前後に増えたのは事実である。

ただし前後期それぞれ違った球団が優勝してこそ2シーズン制の面白みが増すわけだが「これからしばらくは阪急の天下が続きそう」と金田監督が言うように現在の阪急のチーム力は頭一つ抜けている。近鉄は昭和50年に後期優勝したがプレーオフで阪急に敗れた。「阪急はプレーオフの短期決戦の戦い方も熟知している。日本シリーズに進むのは至難の業」と近鉄・西本監督。過去11年に渡り阪急を率いて阪急を強くした張本人が言うのだから信憑性は高い。

前期を制するカギはスタートダッシュである。開幕から勢い良く飛び出してしまえば他球団は後期に備えて無理はしない。それだけに各球団のエースたちは中3日、もしくは連投といった無理を強いられるケースもしばしば。阪急・山口、ロッテ・村田、南海・佐藤らは連日ベンチ入りし登板に備える日々が続く。こうした無理が選手寿命を縮めてしまう事を監督ら首脳陣は分かっている。分かってはいるがやらなければペナントレースに勝ち残れない。この現状をリーグ関係者はどうするのか。放置したまま選手が壊れれていくのを手をこまねいて見ているだけなのか・・



❹ 一番地味な男がやらかした派手すぎた天国と地獄
末次利夫。1シーズンでこれほど明と暗の両極端の主役を演じた男もそうはいない。先ずは天国・・6月18日の阪神戦、初めて対戦する江本投手に巨人打線は0対2に抑えられ9回裏を迎えた。このまま負ければ阪神に1.5ゲーム差に迫られ首位の座も危ぶまれた。先頭の淡口は左飛、柴田は四球で出塁したが高田が三ゴロに倒れて二死一塁。続く張本は左二塁打して二死二三塁となった所で吉田監督は江本に代えて山本和を投入した。山本は王を歩かせて二死満塁となった。打席には末次が入った。この日の末次は遊直・二ゴロ・三振と抑えられていたが「江本は初めての対戦で手こずった。投手が交代してもう好球必打しかないと何度も自分に言い聞かせた(末次)」と。

ボールカウント0-2からの3球目は満塁押し出しを嫌う山本が投じたハーフスピードの直球が来た。だが「外角寄りだったので長打になりにくい(末次)」と判断し見送った。この冷静さが快打を生んだ。カウント2-2からの5球目は末次の狙い通り内角に来た。一閃されたバットに弾かれた打球は左翼スタンド中段に飛び込んだ。逆転満塁サヨナラ本塁打。長嶋監督がナインの先頭を切ってベンチから飛び出しホームベースで待ち構える。場内は歓声と紙テープが乱れ飛んだ。「本当に興奮しました。どうやって四つのベースを回ったのか憶えてない。何が何だか分からない…」と普段はポーカーフェイスの末次も体を震わせ声も上ずっていた。

興奮のクライマックスは試合後の風呂場だった。王や張本らが「万歳、バンザイ!」と言いながら末次にお湯をかけ、裸の大人達が子供のようにハシャギ回った。だがその末次を地獄が待ち構えていた。9月7日、甲子園球場での阪神戦。巨人は8対6と2点リードで7回裏を迎えた。二死満塁の場面で打席には池辺選手が入った。池辺の打球は詰まり力なく右翼方向へのポップフライ。バックする二塁手・ジョンソン選手、センターの柴田選手と前進する末次の3人が落下地点に走り寄って来た。セオリー通り打球方向正面の末次が捕球態勢に入り打球はグローブに収まった…ように見えた次の瞬間、ポロリと白球がこぼれ落ちた。

満塁の走者が次々と生還し巨人は逆転負けした。" 世紀の落球 " と周囲は大騒ぎし、末次は奈落の底へと突き落とされた。宿舎に帰っても末次は部屋から一歩も外へ出ず朝を迎えた。翌朝になると宿舎や球団事務所に末次への激励の電話や電報が殺到した。『コンニチノキョジンガアルノハ、アナタノオカゲ。クヨクヨセズニガンバレ』というご婦人からの電報は沈んだ末次の気持ちを勇気づけた。「皆さんの優しい気持ちが一番嬉しかった。このお礼は必ずします(末次)」と気持ちを切り替えた。末次にとっては幸せポロポロと、涙々ポロポロの1年だった。


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# 651 十大ニュース ➊

2020年09月02日 | 1976 年 



今年も色んなことがありました。歓喜に叫んだり、腹を立てたり、眉をしかめたり、また苦笑いさせられたり・・時には考え込んだり。恒例の十大ニュースを編集部がちょっとひねってピックアップしてみました。

❶ 長嶋巨人、大逆転しながら日本一成らず
それは今年に限らずプロ野球の歴史の中でも奇跡的で壮絶な戦いだった。阪急が日本一に王手をかけた日本シリーズの第6戦。巨人が日本シリーズ史上初の7点差をひっくり返した逆転劇の幕は、すでに照明塔の影が伸び始めていた5回裏から上がった。得点は0対7と阪急に大量得点を許し敗色濃厚で阪急の2年連続日本一は時間の問題と誰もが思った。5回裏、先頭の淡口が四球、続く柴田が二塁打で無死二・三塁。しかしマウンドの山口は大量点をバックに慌てない。張本の内野ゴロと王の中前ポテンヒットで2点を失い5点差になったが「どうと言うことなかった」と上田監督の言葉通り試合は淡々と進むと思われた。

続く6回裏、高田が粘って四球で出塁すると山口に悪い癖が出始めた。続く吉田も四球。ここで淡口が3ラン本塁打を放ち2点差に詰め寄ると山口に代わってエースの山田がマウンドに送られたが球場内の雰囲気が徐々に変わり始めた。8回裏、淡口が安打で出塁すると、今シリーズ第4戦で4連敗を阻止する2ラン本塁打を放った柴田が再び起死回生の2ラン本塁打を放ち同点となると球場内は興奮のるつぼに。試合は同点のまま延長戦へ突入し10回裏、今シリーズ不振にあえいでいた張本が一塁線を破る二塁打を放つと王は敬遠。ここで打席は投手の小林だったが二塁内野安打で満塁とし、一打サヨナラの場面を迎えた。

打席には第5戦でようやくヒットが出た不振の高田。カウント1-1後の3球目を打つと打球はライト前に糸を引くようなクリーンヒットでサヨナラ勝ちした。これで3連敗から3連勝で対戦成績をタイに持ち込んだ。「これで勢いは完全に巨人。明日も勝って日本一だ!」と多くのファンは信じて疑わなかった。ところが第7戦はベテランの足立投手の巧みな投球を打ち崩せず、逆転日本一は成らなかった。今年の巨人はいつもこうだった。シーズン序盤は打線が奮起し連戦連勝。夏休み中にマジックが点灯するのか、とファンを喜ばせたが後半戦は一転して投手陣が踏ん張れず連敗を喫っしてファンをハラハラさせた。

リーグ優勝もすんなり決めるものと思っていたらモタモタしている間に阪神が息を吹き返して肉薄し、リーグ最終戦の広島戦でやっと決めるなど長嶋流ハラハラドキドキ野球の1年だった。その集大成とも言えるのが日本シリーズだったのだ。勢いに乗って勝つと思わせて負ける。まさに天国と地獄。「あの大逆転の第6戦をスタンドで見ていたんです。でも0対7になって阪急の胴上げは見たくないから試合途中で帰っちゃいました。ところが家に帰ってテレビを見たらサヨナラ勝ちでしょ、嬉しいやら悔しいやら。期待して第7戦をテレビ観戦したら今度は手も足も出ずに完敗。まったくねぇ…」とファンは残念がる。



❷ 王のホームラン700号 ~ 714号騒動の周辺
「見送ればボールになるシュートでした。あまりにアッサリ出たので…」10月11日の対阪神23回戦で山本和からベーブルースの記録を破る715号本塁打を放った王は冷静だった。しかしこの日までの周囲の大騒ぎといったら・・記念すべき一発が右翼ポールに直撃したのを確認した王は両手を広げ30㌢ほど飛び上がった。それが精一杯の喜びの表現だった。国松一塁コーチを経て王の元へ戻ったホームランボールは " 715号・王貞治、S51年10月11日 " と書かれ野球博物館へ寄贈された。しかし寧ろこの記念すべき715号より、その前の700号騒動の方が遥かに凄まじかった。

700号を巡る狂騒曲は7月3日、ナゴヤ球場での中日戦で鈴木孝から逆転の32号、すなわち699号アーチをかけた時から始まった。それは王がかつてないプレッシャーとの戦いでもあった。 " あと1本 " にマスコミをはじめ日本中が騒ぎ出した。試合のたびに右翼観覧席にジッと座り続ける記者やバックスクリーン後方にはバズーカ砲のような超望遠レンズを付けたカメラがズラリと並んだ。だが翌4日の試合は敬遠作戦にあって5打席4四球。名古屋から札幌へ舞台が移った対広島3連戦でも王のバットから快音は聞かれなかった。「700号は通過点。いつかは出ますよ」と言う王もやはり人の子。日ごとに口数は減り報道陣の前にあまり姿を見せなくなった。

打てない焦りから打撃フォームを崩した。悩み考え苦しみ、自律神経をやられ背中と腹の筋肉が硬直した王が突然嘔吐したのもこの北海道遠征だった。北海道から帰京し迎えた対阪神3連戦は全て雨で中止となり、700号狂騒曲は鹿児島と熊本に舞台を移した。しかしこの九州遠征でも一発は出ず、オールスター戦を挟んで後半戦に持ち越された。王が悩んだのは自分のバットが湿るのと同時にチームの調子が下り坂となり、オールスター戦を前に阪神に首位の座を奪われてしまった事だ。「いくらホームランを打とうがチームが勝たなくてはしょうがない。記録よりも勝って優勝したい(王)」と苦悩の日々は続いた。

オールスター戦が終わり一息ついた王は多摩川で約1時間・180球の特打ちをして気分転換をした。それが功を奏したのか翌日の川崎球場での大洋戦の5打席目に待望の700号を鵜沢投手から放った。数々の記録を打ち立てた王が苦しんで3週間もかかってようやく樹立した大記録だった。午前3時過ぎ、テレビ局の取材から解放された王は自宅に帰って来ると「長い間ありがとう。今後も忙しくなるけど宜しく頼む」と恭子夫人と2人だけで祝杯をあげた。700号の大騒ぎは一段落ついたが、次はベーブルースの714号更新が待っていた。記録更新への道は途中に腰痛という予想外のアクシデントに襲われてペースが乱された。

713号、タイ記録の714号が出た10月10日の後楽園球場の一塁側ベンチ後方のボックスシートにいる筈の母親・富美さんの姿はなかった。実は朝一番の新幹線で京都の伏見稲荷へ願掛けに行っていたのだ。数ある神様の中で " 戦いの神 " といわれる熊鷹神社に息子の大記録成就を祈ってきた。富美さんがトンボ返りで東京に戻り自宅のテレビのスイッチを入れると間もなく714号が飛び出した。更に翌日、ジッと両手を胸の前で合わせて祈りながら見つめる両親の前で、あの715号が右翼ポールを直撃したのだ。今回の大騒動は恐らく来季に訪れるであろうハンクアーロンの持つ755号の記録を破る狂騒曲のプレリュードに過ぎない。


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