納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています
甲子園のヒーローも昭和40年代に入ると実力派からアイドルに変わっていく。昭和44年の夏、太田幸司(三沢高)が火付け役となったアイドル選手が翌45年のセンバツにも現れた。島本講平(箕島高)の出現以降、アイドル選手が次々と誕生して甲子園のファン気質が変化していく中、圧倒的な力を持った選手が出現する。昭和48年の江川卓(作新学院)である。1回戦の北陽高戦は19奪三振、2回戦の小倉高戦は7回で10奪三振、準々決勝の今治西高戦は毎回の20奪三振。この3試合で失点はおろか三塁に走者を進められたのは一度だけで、準決勝の広島商に1対2で敗戦するまで江川は前年夏から通算139イニング無失点をマークした。
江川攻略に燃える広島商は昭和初期まで行ない、以降は封印していた " 真剣刃渡り " の伝統を42年ぶりに復活させ精神修養を積んで江川に立ち向かった。打者はバットを一握り短く持ってファールで粘り江川の投球疲れを待った。1対1で迎えた8回裏、二死一・二塁の場面でダブルスチールという奇襲攻撃を敢行し小倉捕手の三塁悪送球を誘い決勝点を得て見事に怪物・江川を攻略した。「ただ速い球を投げればいいという物ではない事が分かった。状況判断など野球の技術以外の大切さを学んだ」と後の江川は述懐した。甲子園を去る江川が残した4試合、計34イニングで60奪三振は今も大会記録である。
昭和49年には甲子園に爽やかな風が吹いた。部員が僅か11人の池田高の登場である。昭和46年の夏の大会に初めて甲子園に来ていたがセンバツはこの年が初出場で池田高の名前はまだ高校野球ファンの間でも浸透していなかったが、" 池田イレブン "、" さわやかイレブン " は瞬く間に全国のファンに知られるようになる。開会式直後の函館有斗高戦はエース・山本投手の好投で勝利しチームは波に乗った。2回戦で防府高を破り準々決勝戦では倉敷工高を延長12回に及ぶ接戦を制し、続く準決勝戦は山本投手が和歌山工高を4安打完封して決勝に駒を進めた。決勝戦の相手は古豪・報徳学園に決まった。
その決勝戦前日、池田高・蔦監督は対戦相手の報徳学園・福島監督の訪問を受けた。福島監督が持参したブランデーを呑みながら野球談議に花を咲かせているうちに意気投合し、やがて2人は近所のスナックに出掛けて歌を唄い合った。一夜明けた決勝戦は中盤まで両者譲らず無得点のまま経過し迎えた6回裏に報徳学園が1点を先取。8回表に池田高が同点に追いついたが、その裏の攻撃で報徳学園が2点を取って池田高は力尽き試合は決まった。優勝は逃した池田高だったが、そのキビキビしたプレーぶりで甲子園を沸かせた池田高の名前は多くの高校野球ファンの中に植え付けられた。
今年も甲子園にセンバツがやって来る。その歴史を紐解くと数々の名勝負を演じたヒーロー達が息づいている。センバツ史に燦然と輝くのは王投手(早実)の " 血染めの白球物語 " である。昭和32年大会、高知商との決勝戦。早実打線は高知商のエース・小松投手(現巨人スコアラー)を攻めて5回まで5対0とし楽勝ムードであった。試合が中盤を過ぎた頃、捕手の田村は王が投げた球に血が付いている事に気づいた。タイムを取りマウンドの王のもとへ駆けつけて王を質すと左手中指のマメが潰れていた。「田村、誰にも言うな」と王は答えた。チームメイトが知れば動揺するし、ましてや相手チームに知られれば勢いづかせてしまう。
ズキズキと激痛が王を襲う。田村は捕球する度に球に土を付けて血を消して返球した。6回頃から球威が落ち、8回には満塁のピンチを迎え連打を許し3失点。2点差まで詰め寄られた。迎えた最終回、王は一打同点の場面を何とか抑えて紫紺の優勝旗が初めて箱根の山を越える快挙を成し遂げた。昭和30年代は実力派が次々と名乗りを上げた。怪童・尾崎投手(浪商)の登場は昭和36年。今で言う所の " 150km " の豪速球で周囲を驚かせた。当時の高校生では外野に飛ばす事さえ難しいと言われた程。1回戦の日大二高戦が17奪三振、2回戦の明星高戦は14奪三振と寄せつけなかった。3回戦は法政二高戦。投打の中心である柴田(現巨人コーチ)に屈して甲子園を去った。
2年後の昭和38年には池永投手(下関商)が現れた。伸びのある速球を武器に甲子園を沸かせた。尾崎や池永はまさに超高校級で2人はプロ入り後に20勝投手になるなど活躍したが、尾崎は右肩の怪我の為に打者を捻じ伏せる豪速球を投げられた期間は短かった。また池永は黒い霧事件で永久追放処分を受け球界を去るなど共に長く華やかな野球人生を送る事は出来なかった。日本中がオリンピック一色となる昭和39年には尾崎投手(徳島海南)が快投を見せた。真っ向から投げ下ろす速球で5試合で許した失点は僅か「3」のみ。2回戦から準決勝戦まで3試合連続完封の快投だった。この尾崎も高校卒業後にプロ入りするが芽が出ず球界を去った。後のジャンボ尾崎こと尾崎将司である。
団十郎の名跡が復活する。今年の4月に十二代目・市川團十郎が誕生する。ご承知の通り歌舞伎の世界は世襲制である。プロ野球界には兄弟選手は多いが親子となると野村克也と野村(当時は伊東)克明くらい。今まさに親子鷹が誕生しようとしている。立教大学の長嶋一茂が2年生にして早くも四番の座に就く予定だとか。昔に比べてレベルが下がったという酷評もある東京六大学リーグで昨年、晴れて神宮デビューを果たした一茂くん。73打数11安打・打率.151 と成績は今一つながら注目度はピカイチ。父親でありミスタープロ野球・長嶋茂雄のイメージをダブらされて本人は迷惑そうだが周囲の喧騒は2年生になる今年になっても変わらない。
変わらないどころか今度は一茂くんが付ける背番号を巡ってヒートアップしている。立教大野球部では上級生から順番に好きな番号を選ぶのが伝統だそうだ。漏れ伝わったところによると上級生諸君は一茂くんに「3」を付けてもらおうと敢えて「3」を選ばなかったそうだ。そしていよいよ一茂くんが選ぶ番が来た。ところが一茂くんは周囲の期待をよそに「5」を選んだ。「サードといえば『5』でしょ」と本人はアッケラカンと言い切った。リーグ戦では「33」を付けてベンチ入りしていたが、昨秋の新人戦で「3」を付けてグラウンドに立った時の周囲の喜びようはなかった。「5」は確かに「33」からは大出世の一桁だが、一茂くんにミスターのイメージを投影したかった周囲が落胆したのも事実。
2年生になり「神宮に " 四番・サード・長嶋 " が帰って来る」と周囲が大騒ぎし、その実力は二の次・三の次にしてやたら背番号にまつわる話題が目立つようになって一茂くんの御機嫌も斜めらしい。仲の良い同級生によれば昨年末から背番号は「5」に決めていたらしく、新人戦で「3」を付けた時も本人としては納得していなかったようだ。それがミスターの七光りからの脱却、いわゆる一つの父離れの意思表示らしい。これまでは話題先行の一茂くんだが今年からは堂々の四番昇格。「去年、四番に置かれた時は『なんで俺が』と思ったけど今年は周りを見渡しても『俺がやらねば』と覚悟を決めた」と自信もチラリ。
そんな一茂くんにアイドル選手としては先輩格の市川武史くん(国立高⇒東大4年)の言葉を紹介しよう。「僕が立教と対戦した時にやっぱり怖いのは長嶋君です。身体つきも1年生とは思えないガッシリしているしバットスイングも立教打線の中では一番速い。まだまだバットの芯で捉える確率は低いですけど当たれば物凄い飛距離ですからね。実力で六大学リーグを代表する打者に成長してくれると思っています」と。市川くんの言う通りにリーグを代表する打者になれたなら、背番号ばかりを執拗に狙うカメラマンなどきっといなくなるに違いない。父離れは自分のバットで成し遂げる事が出来ますよ、一茂くん。ちなみに父・茂雄氏が立教大在学当時は背番号制はなく背中は無地のままだった。
昭和26年に巨人入りしたウォーリー与那嶺を第1号に、戦後来日した外人選手は総計276人。そのうち投手は52人と打者が圧倒的に多い。パ・リーグの本塁打王は昭和51年から5年連続で外人選手が独占した事が証明するように、こと打者に関しては各球団ともに外人は不可欠な存在となっている。与那嶺選手の成功に触発されて各球団の目は一斉に米国に向けられたが、当初はハワイあるいは西海岸球団の日系選手を物色していた。昭和28年に毎日入りした元大リーガーのレオ・カイリーもその一人である。ただしカイリーはわざわざ来日したのではなく駐留軍兵士として勤務する傍らアルバイトとして夏休みの間だけプレーしていた。そんな片手間状態でも日本の選手は太刀打ち出来なかった。
カイリーは1951年(昭和26年)にレッドソックスで7勝7敗の実績を残した元大リーガーだけに毎日のユニフォームを着た8月8日から30日迄の3週間に6試合に登板して6連勝。また打者としても19打数10安打・打率.526 と打ちまくった。カイリーの活躍を目の当たりにした西鉄が同じく兵役中のフィル・ペインを獲得した。ペインも1951年にブレーブスでプレーし2勝(0敗)した元大リーガー。9試合に登板して勝ち星こそ打線の援護がなく4勝(3敗)と今一つだったが防御率は 1.73 と日本の打者を寄せつけなかった。しかし、こうしたアルバイト選手は問題化し当時の福井コミッショナーは昭和29年2月に全球団に対して米軍に兵役中の選手の採用を自粛するよう通達した為に元大リーガーの来日は昭和36年に南海入りしたピーターソンまで待つ事となる。
昭和37年には中日がラリー・ドビーとドン・ニューカムの2人を獲得した。ドビーは通算1533試合出場・打率.283 ・253本塁打、ニューカムは通算149勝90敗とバリバリの元大リーガーだったが、いかんせんドビーは引退して2年、ニューカムは1年と2人ともブランクがあった為に往年の雄姿は望めなかった。ニューカムに至ってはシーズン終盤に余興として1試合だけ登板した以外は外野手として出場していた。ちなみに2人とも1年で退団した。翌38年には南海に大リーグ歴1530試合というジョニー・ローガンが入団した。ローガンは前年も81試合に出場しており 、" 元 " ではなく限りなく現役に近かったので、とんでもない記録を残すのでは、と期待されたが96試合出場で打率.189 しか打てず僅か1年で帰国した。
もう大リーガーの肩書きだけでは通用しなくなる程に日本のプロ野球も進化しつつあった。それを如実に証明したのが昭和48年のシーズン途中にヤクルト入りしたジョー・ペピトーン。大リーグ通算219本塁打を放ち来日する直前までアトランタ・ブレーブスでプレーし、34試合で3本塁打していた正真正銘の現役大リーガーだった。狭い球場が多い日本でどれくらい打つのか話題となったが故障して帰国したまま再来日せず僅か14試合の出場にとどまり、打率.163 ・1本塁打に終わり加えて素行不良も要因となってその年限りでクビになった。最近では昭和58年に阪急入りしたバンプ・ウイルス。通算586盗塁のモーリー・ウイルスを父に持ち、息子のバンプも831試合出場・打率.266 ・196盗塁を記録していた。
来日前年もシカゴ・カブスで128試合出場・打率.272 だったが阪急では2年間で打率.259 ・22盗塁と期待を裏切った。一方でバンプと同時に入団したブーマーは大リーグ歴は47試合出場・打率.228 、長打は二塁打と三塁打だけと非力だったが阪急入団2年目に打率.355 ・37本塁打・130打点で三冠王に輝いた。この点を昨秋に来日したボルチモア・オリオールズのラルフ・ロー打撃コーチは「アメリカにいた頃のブーマーをよく知っている。日本では体重を前に突っ込む打法は嫌われているが大リーグの投手を打つにはそうしないと難しい。ブーマーは日本式の体重を後ろに残す打法だったのでアメリカでは通用しなかった。日米どちらの打法が良いかという話ではなくブーマーは日本向きだったという事さ」と語る。
ブーマーのような例はいくらでもある。昭和54・55年とパ・リーグで本塁打王になったマニエル(ヤクルト⇒近鉄)の大リーグ歴は通算242試合出場・打率.198 ・4本塁打。そのマニエルが日本では6年間で189本塁打と猛打をふるった。日本での出場数トップはバルボン(阪急)の1353試合、2位は与那嶺の1219試合。それに次ぐのは現役のマルカーノ(阪急⇒ヤクルト)で1218試合。そのマルカーノの大リーグ歴はゼロである。レオン(ロッテ⇒大洋)も大リーグ歴はない。来日した前年(1977年)は1Aリーグでは14試合で打率.220 、2Aリーグでは107試合で打率.286・6本塁打と目立つ存在ではなかったが兄であるレロン・リー(ロッテ)の伝手を頼ってロッテ入りするや打率.316・19本塁打と活躍した。
いわば無印良品が数多い外人選手だが名門巨人は、こと打者に関しては大リーグのスター選手に固執している。昭和50年に獲得したジョンソンは巨人退団後の大リーグ復帰後も含めて通算1435試合、同55年のホワイトは1881試合、56年のトマソンは901試合、58年のスミスは1987試合、昨年のクロマティは1038試合といずれも押しも押されぬ大リーガーだった。大枚叩いて獲得した巨人の歴代の外人打者で打率3割をマークしたのは大洋から移籍したシピンだけ。昭和50年のジョンソン以降、打者8人の通算成績は4670打数1168安打・258本塁打・打率.250 で本塁打、打率とも12球団で最下位と惨憺たる状況である。ちなみに同期間で打率トップは打者5人で6944打数2109安打・打率.304 だったロッテである。
たかがオープン戦、されどオープン戦。所詮は給料に関係ないゲームと言われればそれ迄だがルーキーそして今季一軍入りをかける新戦力たちにとっては1球たりとも疎かに出来ないのがオープン戦。寧ろ本番より辛く厳しい戦いかも。オープン戦で拾った新戦力候補生たちの泣き笑いである(記録は3月11日現在)。
3月11日付けの各スポーツ紙の見出しの多くが「巨人・西本5回をパーフェクト」だった。これを見た 竹田光訓 (大洋)は舌をペロリと出して「あぁ良かった。お蔭で目立たなくて済みます。西本さんアリガトウ」と言った。しかしスポーツ紙の扱いが大きかろうが小さかろうが竹田がロッテ打線にKOされた事実は変わらない。竹田が現実逃避したがるのには理由がある。打たれた相手が横田(駒大)、小川(青学大)で自分と同じく大学からプロ入りした新人だったからだ。小川は投手であるので真剣勝負と言うには程遠く犠飛で失点したのは御愛嬌と言えるが、横田の場合は違う。大学時代は格下だと思っていた相手に強烈な2ラン本塁打を浴びた。「誰に打たれても悔しさは同じ」と話す竹田の表情は明らかに狼狽していた。
初回こそ無難に抑えたが2回にあっさり捕まった。「得意のフォークボールを投げる前に打たれている。これじゃ苦しいね」とは本誌でもお馴染みの小林繁氏。落合に至っては「速球もフォークも大した事ない。とても使えんよ」と手厳しい。試合が行われた長崎は大洋漁業の関連会社が集中しており大洋にとっては準フライチャンズとも言える大切な地域。一塁側スタンドには地元後援会のメンバー約350人が陣取った。中には竹田見たさに出漁を1日遅らせたファンもいたという。しかし竹田は期待に応えられず3回で6安打・3失点。「何が何だか分からないうちに失点してしまった。どうしてあんなに簡単に打たれちゃうのかなぁ…」と早くもプロの壁にぶち当たっている。
竹田とは逆に西本のお蔭で目立ってしまったのが 広沢克己 (ヤクルト)だ。オープン戦初戦こそ安打を放ったものの、その後は竜頭蛇尾。名誉挽回とばかり挑んだ巨人戦だったが西本にいいように遊ばれて二ゴロと三振に終わった。計15球のうち7球がシュート。「僕の時だけ突然シュートが多くなった。あんなに内・外と揺さぶられたら、よほど上手く狙い球を絞らないと打てませんよ(広沢)」と完全に脱帽。最後の打席では橋本の荒れ球が左肩を直撃し痛~いプロの洗礼を受けた。この試合まで通算10打数1安打・5三振と打てない悩みのせいかユマキャンプ入りした時の体重103 kg が今は90kg そこそこ。評論家の森昌彦氏は「広沢は打てなくてもフル出場させるべき」と長い目で見る必要性を説いてはいるが、このまま不振が続くようだと土橋監督の尻もムズムズしてきそうだ。
前評判が高かった今年の新人はおしなべて成績がふるわない。新人王の本命と言われていた 佐々木修 (近鉄)も登板の度にKOの憂き目にあっている。デビューした3月7日のヤクルト戦では2回もたずに4失点。10日の日ハム戦でも2回1失点。「球は走っていると思うけど打たれちゃう。考えが甘かった(佐々木)」と。もっとも近鉄自体が7連敗中と東映が持つ昭和40年のオープン戦連敗記録に並んでしまった体たらくでは新人の事ばかりを責めるのは気の毒だ。また前述の 小川博 (ロッテ)も抑えたり打たれたりを繰り返して掴み所がない。10日の大洋戦は4回5奪三振までは良かったが7四死球と荒れ気味で「4回で100球…大学時代なら1試合の球数」と頭を掻いた。
今年のオープン戦前半は同一チーム内からコンビやトリオなど複数の新戦力が現れている特徴がある。3月7日の近鉄戦の先発マウンドに立ったのは3年目の 阿井英二郎 (ヤクルト)。紅白戦15イニング・2失点と成長し土橋監督がオープン戦の開幕投手に指名した期待の若手である。初回、先頭打者の大石に安打を許したが以降は得意のスライダーを駆使して3回を無失点に抑えた。「点は取られませんでしたが70点の出来。僕の力はこんなもんじゃない(阿井)」と投手にはうってつけの気の強さを持つ。尾花、高野、梶間に続く第4の投手に名乗りを上げた。この阿井の力投に触発された同期入団の 荒木大輔 (ヤクルト)の初登板は10日の巨人戦。ベストメンバーを揃えた巨人打線を相手に5回を4安打・1失点と好投した。
昨年までは典型的なアイドル選手で、肉体的にも精神的にも甘さが抜けきっていなかった荒木の顔は一段と大人びて見えた。昨季の巨人戦は5試合に登板して防御率 5.40 と打ち込まれた。「走者を出しても慌てない投球を心がけた(荒木)」というように昨季までのマウンド上でおどおどした態度からうってかわった落ち着いた投球ぶりで敵将の王監督を切歯扼腕させた。今年やらなければ忘れられてしまうという危機感が荒木を逞しく変身させたようだ。この荒木の好投の引き立て役にされて苦虫を噛み潰した感じの王監督だが、その巨人にも強力トリオが派手に出現した。
胸膜炎の治療の為に昨年は任意引退まで追い込まれた 岡崎郁 (巨人)がその筆頭。3月8日、地元・大分での対日ハム戦、3対3の同点で迎えた9回裏に佐藤誠投手がカウント2-3から投じた6球目のシンカーをすくい上げると打球は右翼席に飛び込むサヨナラ本塁打を放った。チームメートから「出来レース」と冷やかされてホームイン。「泳いだけど上手く芯に当たったのでいけると思った。もう6年目だし今年がラストチャンスだと思ってプレーしている(岡崎)」と一軍入りを大きくアピールした。翌9日には4年目の 仁村薫 と3年目の 石井雅博 が揃って本塁打を放った。二軍のキャプテン格の岡崎が導火線となってヤングジャイアンツに火を点けた格好だ。
一方、パ・リーグでもV奪回を目指すレオ軍団に若獅子たちが出現した。ポスト田淵の一番手の 秋山幸二 と2年目の 渡辺久信 だ。秋季キャンプ以降、尋常ではない打ち込み量で周囲を驚かせた秋山はオープン戦12打数6安打・2本塁打と順調に成長している。また渡辺は防御率こそ見劣りするが3月2日の南海戦、10日の広島戦に勝利しローテーション争いをしている台湾の英雄・郭泰源に一歩リードした。西武にも新旧交代の波が押し寄せている。今年のヤング台頭は集団でやって来るのが特徴のようだ。まるで一昨年の巨人の " 50番トリオ " の再来である。その槙原・駒田・吉村は今や巨人の看板選手である。今年は各球団に「〇〇コンビ or トリオ」が誕生するかもしれない。